ヨハネ・パウロ 2 世列福   Q&A 第 3 回

教皇から聖人をつくったのか

ジョン・L・アレン ジュニア 2011/4/27 NCR National Catholic Reporter

ここに、ローマ・ファイル the only-in-Rome files からの真実の物語がある。                       わたしは、月曜日の夜、レストランで友人と座っていました。そこに、女主人がやってきて、しゃべりかけてきました。彼女は、悪天候(ずっと雨がふったりやんだりしていた)のことを話しましたが、話は、信仰あるカトリック信者である自分は、少し陰気な方がキリストの苦しみと死を思い起こす聖金曜日と聖土曜日にふさわしいと思うということになっていきました。わたしがヨハネ・パウロ2世の列福を取材している記者であると分かると、彼女は生き生きとして、故教皇が、ローマ人である彼女にとって、どれほど意味があったかについて話し始めました。

 

今週の主なイベントのことを説明すると、彼女は、一点だけよく分からないと言い、こう尋ねました。「正確にはいつ、聖人にしてくれるのですか。」

 

わたしは、今回は、列聖ではなく、列福であるから、厳密には聖人にはならないと答えました。女主人はぼう然として、その場を離れ、 Epoca というイタリアの雑誌を持ってきました。その雑誌の今週の表紙には大見出しがあり、「教皇、聖人に」と書かれていました。(わたしも、記録用に、その号を持っています)「でも、教皇様が聖人になることは間違いがないことです。だれもがそう言ってます。」と彼女は主張しました。

 

何人かの列聖の専門家が、何年にもわたって、全面的な一時猶予とまでいかなくても、教皇を聖人に指名するという考え全体について注意するよう促してきた少なくとも四つある理由のうちの一つを、彼女の反応が説明してくれています。

 

    それが、列福と列聖の区別を曖昧にしてしまう。
    教皇というものは、役割上の模範として奉仕するのであり、従って、列聖する必要はないであるから、それは不必要である。
    それが職務上の権利となってしまうことで、列聖そのものが安っぽくなる危険がある。
    また教皇そのものだけでなく、その政策をも列聖するという手段で、政略的であるかの思われる危険も冒す。
 

通常であれば、議論は次のように展開します。まず最初に、列福とか列聖というのは、誰かを聖人に「する」ことではありません。神学的には、その人は既に天国にいると信じているのですから、形式的な宣言は、聖人自身のためと言うよりは、残りの私たちのためなのです。それは、役割上の聖性の模範として、その人を高め、その人たちを、教会全体が利用できるとりなし役とします。

 

しかし、教皇の場合、選出されることで、既に、その人たちは役割上の模範となっているのです。今日、教皇は、地球規模のメディアセレブ(名士)であり、生きている間に、教会に多大な影響力を行使しています。ヨハネ・パウロ2世は、確かにこの点を立証する者でした。彼は、若い信徒、司祭、司教の全「ヨハネ・パウロ2世世代」に霊感を与え、彼らはその強固な宣教精神に励まされたのですから、列福など必要ではなかったのです。

 

ですから、あまり名の知られていない人物よりも教皇を列福し、列聖することは、比較して、緊急性はより低いとも言えるでしょう。名の知られていない人たちを高めれば、その他の信者たちに、さらに衝撃的にその人たちの模範を託せたかも知れません。

 

次に、列福は、伝統的に、正式な列聖の以前の中間的段階と理解され、候補者が暮らした場所で、その人物を崇拝することを認めてきました。簡単に言うと、列福は地元教会のためで、一方、列聖は普遍教会のためなのです。

 

しかし、教皇の場合には、その区別が崩れてしまいます。なぜなら、教皇は、ローマの司教であり、地元教会もローマだからです。列福式というのは、一般的に、教皇の主催で、ローマで開催されます。しかも、このような状況にあっては、それを単なる「一地方の」行事と見なすことは、非常に難しいことです。その上、教皇は、有名人で、その列福は、広くメディアの興味を引きます。日曜日のヨハネ・パウロの列福を、ポーランドとローマだけの話なのだと、誰が本当に信じるでしょうか。

 

わたしがローマで会った女主人のように、ほとんどの人々が、日曜日のイベントは、ヨハネ・パウロが、今や聖人になったことを意味すると理解してしまうでしょう。そして、実際に列聖が行われると、その人々は、多分驚き、どうして、最初からまたやり直そうとしているのかといぶかることでしょう。

 

最後に、教皇の列聖のこととなると、それをしても、しなくても非難されるというジレンマに陥ります。あなたは、教皇を皆、聖人であると宣言しますか、それとも選抜したり、選択したりしますか。

 

早い段階では、教会は、前者を選択していたようです。伝統的に、教会から認められた最初の35人の教皇は、皆、聖人と見なされています。4世紀の教皇リベリウスになった初めて、聖人ではない教皇が出てきます。彼は任地には住みませんでした(ところで、リベリウスは、東方キリスト教では、聖人と見なされていて、8月27日がその祝日です。)。教皇の列聖が、ようやく、初めから決められた結論ではないということになったのは、6世紀になってからのことでした。

 

それによって、やっかいなことが生じます。それは、列聖が、あたかも、あらかじめ決められたものであるかのようになり、間違いなく、列聖が本来持っていた価値を下げることになるのです。事実上、列聖は、標準的な教皇の地位によって生じる利益全般の一部、特典となってしまいます。

 

やがて、解決策として、選抜と選択が行われるようになります。バチカンの公式リストに載っている265人の教皇のうち、合計78人が列聖されています。最近の500年間では、聖ピオ5世( 1566-1572 )と聖ピオ10世( 1903-1914 )のわずか2人だけしか列聖されていません。他に10人の教皇が、現在「福者」に選定されていて、列聖を待っています。そのリストには、第2バチカン公会議( 1962-65 )を招集した教皇ヨハネ23世が含まれています。

 

選抜と選択によって生じる問題は、政治的な物の見方です。たとえば、どうして反近代主義者のピオ10世が列聖されて、司牧的で、平和を実現する人であったベネディクト10世が列聖されないのでしょう。 (そこには、もっともな理由もあります。たとえば、事実、ピオ10世は、生きている間もそして列聖の当時も、彼が加えた神学的な意見相違に対する弾圧よりも、「ご聖体の教皇」として知られていました。聖体拝領を頻繁にできるように促進し、また聖体拝領の幅を広げ、子供もできるようにしました。しかし、政治的目標が働いたと見ている人は大勢います。

 

今日、リベラルなカトリック信者の中には、ヨハネ・パウロが、第2バチカン公会議の改革の実施を先導したパウロ6世に先立って、さらにヨハネ23世の列聖に先立って列福されることに不平を言っている人たちもいます。その一方で、保守派の中には、ヨハネ・パウロが、どうしてピオ12世を飛び越えたのかといぶかる人もあります。その人たちは、ピオ12世は、第二次世界大戦当時、教皇であったが、ホロコーストに十分抵抗しなかったという問責を免除されるに値すると信じています。

 

バチカンの官僚と他の評論家たちは、教皇の列福と列聖は、その教皇が採った政策の裁可と同一ではないのだと顔が青ざめるまで主張するかも知れません。しかし、多くの人々は、それを受け入れないことでしょう。今週、教会の内外を問わず、幅広い意見の大波が押し寄せ、ヨハネ・パウロ2世が聖人であると宣言するまでのこの「あわただしさ」は、この教皇の政治的遺産を確実な物にしたいという欲望と関係があるのだという結論を引き出すことでしょう。

 

このように理由から、教皇は、だれも列福したり、列聖したりしないか、あるいは少なくともその死後長い期間、ことによると1世紀かそれ以上の期間をおいてからの列福、列聖の方がいいのだと信じる第三者もあるのです。長く待てば、その教皇が生きている間にかき立てた政治的情熱の炎は消えないかも知れないのです。

 

教皇を聖人であると宣言する場合は言いやすい。

 

最初に、公平性に関わる問題があります。一人の教皇が、まことに英雄の徳ある生涯を生き、その名の下に奇跡が起こったとすれば、他の教皇と同じように聖人と認められる権利がないはずはありません。

 

次に、教皇職は、大変な職務です。21世紀の教皇は、生ける聖人、良心の声、グローバルな政治的巨人、メディアの聖像、エキュメニカルな関係と諸宗教間の関係におけるリーダーであることを期待され、さらに、複雑な多国籍組織の CEO となることも期待されています。その上、教皇職は、基本的に、死刑の刑期に等しいものです。理論的には、教皇は辞職できますが、伝統的には、教皇たちは、選出された瞬間から死ぬまで、職務の重荷を背負い込まなければなりません。さすが、ベネディクト16世が、2005年の自分の教皇選出を、ギロチンになぞらえただけのことはあります。その意味では、聖人の称号を贈るというのは、教皇職に伴う特別な責務をたたえるために教会ができるいくつかのやり方の一つであるということになります。

 

三番目に、教皇が持つ名士の地位は、教皇を列聖するもう一つの理由と見なすこともできます。広範囲の興味を引くことない多くの列聖の事例とは違い、教皇の列福とか列聖は重大事件で、そのことが、列福や列聖を、聖人となることや聖なる生活を生きる可能性についての「教えのとき」とするのです。カトリック教会が、間違った理由でよく注目の的となってしまう時代にあって、有益なメッセージを伝えることのできる、そのようなチャンスは貴重です。

 

この論争に関して、人が何を考えようとも、バチカンは、教皇に後光を授けるのを近いうちにやめようという気持ちはないようです。5月1日が過ぎると、ヨハネ・パウロ2世の列聖へのカウントダウンが始まります。その間にも、20世紀の彼の先任者のうちの4人の列聖問題はまだ進行中です。その4人とは、尊者ピオ12世、福者ヨハネ23世、神のしもべパウロ6世とヨハネ・パウロ1世のことです。

 

 

 

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Beatification Q&A #3:

Why make saints out of popes?

by John L Allen Jr on Apr. 27, 2011

Rome –Here's a true story, drawn from the only-in-Rome files.

 

I was sitting at a restaurant with a friend Monday night when the hostess came by to chat. She mentioned the bad weather (it's been raining off and on), but went on to say that as a believing Catholic, she finds a bit of gloom appropriate for Good Friday and Holy Saturday, a reminder of Christ's suffering and death. When she learned I'm a journalist covering the beatification of John Paul II, she became animated in talking about how much the late pope had meant to her as a Roman.

 

As I described some of the major events this week, she said she's not quite clear on one point: “When exactly,” she asked, “are they making him a saint?”

 

I replied that technically they're not, because this is a beatification rather than a canonization. The hostess was stunned, then stepped away to pick up a copy of an Italian magazine called Epoca , the banner cover of which this week reads: “The Pope Saint.” (For the record, I have a piece in that issue.) “But the y must be making him a saint,” she insisted. “Everybody says so!”

 

Her reaction illustrates one of at least four reasons why some experts on sainthood over the years have suggested caution, if not an outright moratorium, on the whole idea of naming popes as saints. Those reasons are:

 

    It blurs the distinction between beatification and canonization
    It's unnecessary, since popes don't need to be canonized to serve as role models
    It risks cheapening sainthood by becoming an entitlement of office
    It also runs the risk of seeming political – a means of canonizing not just the pope, but his policies
 

The argument usually unfolds like this. First of all, beatification and canonization do not “make” someone a saint. Theologically, the belief is that the person is already in Heaven. A formal declaration isn't so much for the saint herself or himself, but for the rest of us. It lifts the person up as a role model of holiness, and makes them available to the whole church as an intercessor.

 

With popes, however, their election already made them a role model. Popes today are global media celebrities, and they exercise vast influence on the church during their lifetime. John Paul II was certainly proof of the point: It didn't take a beatification for him to inspire an entire “John Paul II generation” of young laity, priests and bishops, animated by his robust missionary spirit.

 

Hence, there's arguably less urgency about beatifying and canonizing popes than for lesser known figures, whose elevation might have more impact in commending their example to the rest of us.

 

Second, beatification has traditionally been understood as an intermediate step before formal sainthood, allowing veneration of a candidate in the place where she or he lived. Put simply, beatification is for the local church, while canonization is for the universal church.

 

With popes, however, that distinction breaks down. Because they were the bishop of Rome, the local church is Rome itself. The beatification ceremony is generally held in Rome, presided over by the pope, and under those circumstances it's awfully tough to see it as a merely “local” event. Moreover, popes are well known figures whose beatifications attract wide media interest. Does anyone seriously believe that John Paul's beatification on Sunday will be a story only in Poland and in Rome?

 

Most people, like my hostess in Rome, will understand Sunday's event to mean that John Paul II is now a saint. When the canonization does eventually happen, they'll probably be surprised, wondering why we're doing it all over again.

 

Finally, when it comes to sainthood for popes, there's a damned-if-you-do, damned-if-you-don't dilemma. Do you declare them all saints, or do you pick and choose?

 

Early on, it seemed the church had opted for the former. The first 35 popes traditionally recognized by the church are all considered saints; it's not until Pope Liberius in the fourth century that we find the first non-saint pontiff, and he's an outlier. (Liberius, by the way, is considered a saint in Eastern Christianity, with the feast day of August 27.) It's not until the sixth century that canonization of popes is no longer a foregone conclusion.

 

The difficulty with that, of course, is that sainthood comes to seem almost pro-forma, arguably reducing the value of any given canonization – virtually making it seem a perk, part of a standard papal benefits package.

 

Eventually, the solution was picking and choosing. All told, 78 of the 265 popes on the Vatican's official list have been canonized, with only two in the last 500 years: St. Pius V, 1566-1572, and St. Pius X, 1903-1914.   An additional ten popes are currently designated as “Blessed,” awaiting canonization, a list that includes Pope John XXIII, who called the Second Vatican Council (1962-65).

 

The problem with picking and choosing is the perception of politics. Why, for instance, was the anti-modernist Pius X canonized but not the pastoral, peace-making Benedict XV?   (There may well be good reasons, including the fact that Pius X during his own lifetime and at the time of his canonization was better known as the “Pope of the Eucharist,” having promoted frequent reception of the sacrament and expanded it to children, than for his crackdown on theological dissent. Inevitably, however, many people see a political agenda at work).

 

Today, some Catholic liberals grumble that John Paul is being beatified ahead of Paul VI, who guided the implementation of Vatican II reforms, and before the canonization of John XXIII.              Some conservatives, meanwhile, wonder why John Paul II has leapfrogged ahead of Pius XII, the pope during the Second World War, whom they believe deserves to be acquitted from charges that he didn't do enough to resist the Holocaust.

 

Vatican officials and other commentators can insist until they're blue in the face that beatification and canonization of a pope is not the same thing as ratification of all their policies, but many people still won't buy it. This week, a broad swath of opinion inside and outside the church will draw the conclusion that the “rush” to declare John Paul II a saint is related to a desire to nail down his political legacy.

 

For those reasons, some observers believe it would be better either not to beatify and canonize popes at all, or at least to wait for a long time after their deaths – perhaps a century or more, so that the political passions they stirred during their lifetimes can dissipate.

 

The case for declaring popes as saints is easier to state.

 

First, there's a matter of justice. If a pope truly lived a life of heroic virtue, and if miracles have occurred in his name, why shouldn't he have the same right to be recognized as anyone else?

 

Second, the papacy is a bone-crushing job. A pope in the 21st century is expected to be a living saint, a voice of conscience, a global political titan, a media icon, a leader in ecumenical and inter-religious relations, and the CEO of a complex multinational organization. Moreover, the papacy is basically a death sentence. Technically a pope could resign, but traditionally they carry the burden of office from the moment of election until they die; not for nothing did Benedict XVI compare his election in 2005 to the guillotine. In that sense, bestowing sainthood is one of the few ways the church has of honoring the extraordinary commitment the papacy involves.

 

Third, the celebrity status of a pope could be seen as another argument for canonizing them. Unlike many sainthood causes which don't attract widespread interest, a pope's beatification or canonization is a big deal, which makes it a “teaching moment” about sainthood and the possibility of living a holy life. In an era in which the Catholic church often finds itself in the spotlight for all the wrong reasons, such opportunities to project a positive message are valuable.

 

Whatever one thinks about this debate, it doesn't seem the Vatican is inclined to stop bestowing halos on pontiffs anytime soon. After May 1, the countdown will begin for John Paul II's canonization. In the meantime, sainthood causes are still open for four of his 20th century predecessors: Venerable Pius XII, Blessed John XXIII, and the Servants of God Paul VI and John Paul I.

 

 

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