マリアのうちに、人間性と神性が宿る。

聖母の被昇天  聖書黙想 2010/8/15  トマス・ロシカ師

 

聖母マリアの被昇天祭が、日曜日にあたることは、そうあることではありません。今日は、この大切な祝日の歴史的、司牧的意義について、また、それがわたしたちの生活にどう関連するかについて、黙想したいと思います。主の御母マリアの被昇天は、わたしたちの慰めとなる希望のしるしです。天使たちの喜びの歌声の中で天に上げられるマリアを見上げるとき、人間の生活は、永遠の幸福への展望に大きく開かれます。わたしたち自身の死は終わりではなく、死を知らない命への入り口です。

 

無原罪の御宿り

カトリック信者にとって、マリアの被昇天への信仰は、マリアの無原罪の御宿りへの信仰と理解に発するものです。マリアが、神からの無償の賜物によって罪から護られているのなら、わたしたちが味わうような罪の結果や死の体験に縛られることはないと、わたしたちは信じます。聖母マリアは、その従順と忠実の故に、地上のいのちの終わりに、身体も魂も天の国の栄光へと上げられたと、わたしたちは信じます。

 

歴史

初代教会の数世紀の間は、教父たちが、マリアの身体的な被昇天についての話をすることはありませんでした。エイレナイオス、ヒエロニムス、アウグスティヌス、アンブロシウス、その他の教父たちも、これに関しては何も言っていません。西暦 337 年には、教父エピファネスが、マリアの最期のことは誰も知らないと述べています。

 

早くも 5 世紀には、マリアの被昇天の祝日がシリアで祝われていました。 5 世紀と 6 世紀については、聖書外典の記述によって、教会は「神の母の遺体が墓にある」という事実を受け入れたがらなかったことが分かります。 6 世紀には、被昇天の祝日がエルサレムで、ことによるとアレキサンドリアでも祝われていました。

 

被昇天について書かれた文献のうち、「信頼できる」最初のものは、 6 世紀から 8 世紀に生きた人たちによって書かれました。クレタの聖アンドリュー、聖ヨハネ・ダマシーン、エルサレムの聖モデスタスらの説教に被昇天の話が出てきます。西方では、トゥールの聖グレゴリオが最初に被昇天に触れています。聖グレゴリオは 6 世紀の人で、聖ダマシーンは 8 世紀の人です。

 

9 世紀に入ると、スペインで被昇天の祝日が祝われました。 10 世から 12 世紀にかけての西方教会では、この祝日を祝うことを巡る論争はありませんでした。 12 世紀には、ローマとフランスでこの祝日が祝われました。

13 世紀から現在までは、普遍教会に、マリアの被昇天への確かで明白な信仰があります。 1950 年、教皇ピオ 12 世は、使徒憲章「恵みあふれる神」( "Munificentissimus Deus" )で、不謬性をもって次のように教えました。 「マリアは、地上の生活の終わりに、霊魂においてばかりでなく肉体においても天の栄光に上げられた」   

註: 1950 11 1 日に公布された使徒憲章 “Munificentissimus Deus” 恵みあふれる神)は、聖母被昇天を信ずべき教義であると宣言する「教皇座宣言」( ex cathedra )と呼ばれるもので、第 1 バチカン公会議が確認した教皇の不可謬権に基づく教義宣言。(糸永真一司教のカトリック時評より抜粋  http://mr826.net/psi/blog/100210

被昇天?あるいは就寝?

カトリックの被昇天の祝日は 8 15 日に祝われますが、東方正教会と東方カトリック教会は、同じ日かその近くの日に、 生神女就寝祭 the Dormition of the Theotokos (神の母の就寝)を祝います。東方正教会のキリスト者たちは、マリアは自然死で亡くなり、その魂は死によってキリストに受け入れられ、その身体は死後 3 日目に復活し、すべての人の復活の先取りとして肉体的に天に上げられたと信じています。マリアの墓は、 3 日目に空になっているのを発見されました。(エルサレムにある正教会の聖母マリアの墓は、誰もが訪れることができ、万国民の教会とゲッセマネの園の近くにあります。)

 

御国のしるし

「身に太陽をまとった女」の「偉大なしるし」を告げるために、今日の第一朗読の黙示録( 11:19a, 12:1 -6a,10 ) はこう語ります。「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。」( 12:2 ) 復活したキリストが、その栄光に輝く身体に贖いの死の傷を永遠に負って、天に昇って行ったように、キリストの母も、「痛み」と「産みの苦しみ」( 12:2 )を永遠の世界に伴って行くのです。マリアは、「新しいイブ」として、幾世代にもわたり、「真理に基づいて正しく清い、神にかたどって造られた」新しい人を産み続けるのだ、とも言えるでしょう。(エフェソの信徒への手紙 4:24 ) これは、教会の終末論的なイメージであり、そのイメージは、聖母マリアのうちにあって生きたものになります。

註:「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソの信徒への手紙 4:24 )

 

キリストの復活がなければ

今日の祝日の第 2 朗読(コリントの信徒への手紙 1 15:20-27a )で、聖パウロは、コリントの信徒たちの間で起きた問題を扱っています。コリント教会の中で「死者の復活などない」と言う人がいたのです。( 12 節) 人は、死後、どのようにして、どんな体で存在できるのか、彼らに想像がつかなかった( 35 節)から起きた問題であることは明らかです。

パウロは、身体の完全な復活と、その将来の姿を確言します。 パウロの応答は三つのステップを経て行きます。第 1 ステップ:イエスの復活に関する基本的な「ケリグマ」(宣べ伝えるべき最も大切なもの)を想起させる。( 15:1-11 ) 第 2 ステップ:復活の否定に含まれる論理的な矛盾を指摘する。( 12-34 )第 3 ステップ:復活した体の、あるべき特性を、神学的に理解させようと試みる。( 35-58

 

復活の否定( 15:12 )には、論理的矛盾が含まれています。基本的な矛盾は、二度にわたって( 15:13, 16 )指摘されています。それは、もしも(体の)復活などないとしたら、キリストも復活しなかったはずだということです。そうだとしたら、コリントの信徒たちへの影響は重大です。彼らが固く信じているはずの罪の赦しも、救いも、全てが幻想ということになります。キリストが復活しなければ、彼らの信仰は、救いになりません。

 

アダムの罪によってこの世にもたらされた死に対する、キリストの決定的な勝利は、マリアのうちに光り輝きます。マリアは、地上の生活の終わりに天に上げられました。キリストこそ、「新しい」アダムであり、御父への愛による従順のうちに、カルワリオの丘で生け贄としてご自分を捧げ、死に打ち勝った方です。こうしてキリストは、罪と悪の奴隷状態からわたしたちを救い出してくださいました。マリアの勝利の日に、教会は、御父がその唯一の御子の真の母としてマリアを選び、罪の贖いによる救いの計画に深く関わらせたことについて黙想します。

 

不妊の子宮と空の墓からのいのち

今日の祝日の福音(ルカ 1:39-56 )は、二人の女性の特別な物語へと招きます。この二人は、母となる準備の中で信仰と希望と幸福を分かち合います。それはエリザベトとマリアの間の祝いの時です。

エリザベトは歳をとっていて、それまで子どもが出来ませんでした。マリアはまだ若く、婚約中の処女でした。これは、神にはいのちを与え養う力があることを示す物語です。わたしたちの神は、不妊の子宮からも、空の墓からもいのちを湧き出させるのです。ユダの町の山里に向かうマリアの旅路は、神の国が近づいていることを告げるしるしでもあります。

 

マリアはわたしたち一人ひとりの模範であり、その被昇天は、あなたにもわたしにも希望の存在を思い起こさせてくれます。地上の旅の終わりにナザレの処女に起きたことは、マリアのように忠実で従順であるならばわたしたち一人ひとりにも起きることです。

 

天に上げられたマリアは、神への道、すなわち天の国への道、いのちへの道を示してくれます。マリアは、キリストのうちに洗礼を受けた彼女の子どもたちと、すべての善意の人々に、この道を示してくれます。マリアは特に、小さい者や貧しい人たち、神の憐れみに信頼する人たちのためにこの道を開きます。この世の后は、人々と国々に、神の愛の力を明らかにします。神は、思い上がる者を打ち散らし、権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されるのです。

 

マリアの三枚続きの絵

マリアの生涯には、重要な「時」が三回ありました。わたしたちは、その時が人間の生涯のすべてを表わしていると考え、三回の祝日を祝っています。教皇ピオ 9 世が、 1854 年の大勅書 "Ineffabilis Dus" で無原罪の御宿りの教義を宣言したとき、教皇は、明らかにルカ福音書の受胎告知の物語を根拠にしていました。天使ガブリエルの挨拶、「おめでとう、恵まれた方」は、マリアが常に罪から解放されていることを認めたものと解釈されています。神は、始めからマリアのいのちの中で働いていました。神の恵みは罪よりも大きく、罪と死に優っています。無原罪の御宿りによって、マリアは特別な使命に呼ばれたのです

註:無原罪の聖母に対する崇敬は古くに遡るが、福者教皇ピオ 9 世は、 1854 12 8 日、これを正式に信仰個条として宣言。以来、この日は、カトリック教会の重要な祝日とされてきた。

 

マリアの生涯の第二の「時」は、受肉です。イエスの処女からの誕生を通して、神が、わたしたちのいのちの中でも力強く働いていることを思い起こします。その働き対するわたしたちの 応答 は、それを認め、感謝し、謙虚に、率直に、迎え入れるものでなければなりません。マリアは、受肉を通して、御言葉が人となる賜物を受けました。

 

教会は、 1950 年にピオ 12 世によって公布された被昇天の教義によって、豊かさに満ちた神の国へのマリアの最後の旅を祝います。マリアの生涯の始まりがそうであったように、その終わりにも、神は、マリアのうちに人類に与えたすべての約束を果たしました。わたしたちもマリアと 同じように 天に上げられるのです。マリアのうちに人間性と神性が 宿っていることを 感じます。実際、神はわたしたちの存在の内でくつろぎ、わたしたちも神の内でくつろぎます。被昇天を通して、マリアは、三位一体の神性の中の特別に名誉ある場所を与えられるよう選ばれたのです。

 

 

マリアは、わたしたちに寄り添う

マリアの被昇天についての黙想を、 2006 8 16 日に、カステル・ガンドルフォでの一般謁見でベネディクト 16 世が話された感動的な言葉で結びたいと思います。

註: カステル・ガンドルフォ:  ローマ教皇の避暑用の山荘ガンドルフォ城がある、ローマ南東約 25 キロの小さな町。

 

教皇は次のように述べました。

「天の国の栄光のうちにあるマリアを黙想することによって、地球がわたしたちの最終的な故郷ではないことが分かります。そして、もしわたしたちが、永遠の善に目を凝らして生きるなら、いつの日かこの同じ栄光に共に与り、地球はより美しくなることでしょう。従って、わたしたちは、幾多の日常の困難の中にあっても、心の平静と平安を失ってはなりません。苦しみと暴力の悲しい影が、彼方から迫って来るように思えても、天に上げられた聖母マリアの光り輝くしるしは、もっともっと明るく輝いています。」

 

「確信しましょう。マリアは天国から、優しい心配りでわたしたちの歩みに寄り添い、闇の時、苦悩の時に暗い影を払いのけ、その優しい母の手でわたしたちを安心させてくれます。これを心の支えとして、神が導くところ何処にでも、キリスト者としての献身の道を、確信を持って歩み続けましょう。マリアの導きのもとで、わたしたちの生涯を少しずつ進んで行きましょう。」

 

 

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聖書朗読

 

ヨハネの黙示 11:19   そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見えた。]

:01   また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。:02   女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。:03   また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。 :04   竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。

:05   女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。:06   女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。

10   わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。」

 

コリントの教会への手紙1 15:20   [皆さん、] キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。:21   死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。

:22   つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。:23   ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、:24   次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。:25   キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。:26   最後の敵として、死が滅ぼされます。

:27   「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。

 

ルカによる福音 1:39   そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。:40   そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 :41   マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、:42   声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。:43   わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。:44   あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

:46   そこで、マリアは言った。

:47   「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

:48   身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、

:49   力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

:50   その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。

:51   主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、

:52   権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、

:53   飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。

:54   その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、

:55   わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

:56   マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 

 

 

 

 

 


In Mary, Humanity and Divinity Are at Home

Biblical Reflection for the Assumption of the Virgin Mary, By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, JULY 30, 2010 Zenit.org .- It is not often that the Solemnity of the Assumption of the Blessed Virgin Mary falls on a Sunday. I would like to offer a few reflections on the historical and pastoral significance of this important feast, and its relevance for our own life. The Assumption of Mary, Mother of the Lord, into heaven is a consoling sign of our hope. In looking to her, carried up amid the rejoicing of angels, human life is opened to the perspective of eternal happiness. Our own death is not the end but rather the entrance into life that knows no death.

 

Immaculate Conception

For Catholic Christians, the belief in the Assumption of Mary flows from our belief in and understanding of Mary's Immaculate Conception. We believe that if Mary was preserved from sin by the free gift of God, she would not be bound to experience the consequences of sin and death in the same way that we do. We believe that because of the obedience and fidelity of the Blessed Virgin Mary, at the end of her earthly life, she was assumed both body and soul into heavenly glory.

 

History

For several centuries in the early Church, there is no mention by the church fathers of the bodily Assumption of Mary. Irenaeus, Jerome, Augustine, Ambrose and the others Church Fathers said nothing about it. Writing in 377 A.D., church father Epiphanius states that no one knows Mary's end.

 

As early as the 5th century, the feast of the Assumption of Mary was celebrated in Syria. In the 5th and 6th centuries, the Apocryphal Books were testimony of the unwillingness of the Church to accept the fact that the body of the Mother of God should lie in a grave. In the 6th century, the feast of the Assumption was celebrated in Jerusalem and perhaps even in Alexandria.

 

The first "genuine" written references to the Assumption come from authors who lived in the sixth to the eighth centuries. It is mentioned in the sermons of St. Andrew of Crete, St. John Damascene, St. Modestus of Jerusalem and others. In the West, St. Gregory of Tours mentions it first. St. Gregory lived in the sixth century, while St John Damascene belongs to the eighth century.

 

In the 9th century, the feast of the Assumption was celebrated in Spain. From the 10th to the 12th centuries, there was no dispute over the celebration of the feast in the Western Church. In the 12th century, the feast of was celebrated in the city of Rome and in France.

 

From the 13th century to the present, there is certain and undisputed faith in the Assumption of Mary in the universal Church. In 1950, Pope Pius XII taught infallibly "Munificentissimus Deus" : "Mary, having completed the course of her earthly life, was assumed body and soul to heavenly glory."

 

Assumption or Dormition?

The Catholic feast of the Assumption is celebrated on Aug. 15, and Eastern Orthodox and Eastern Catholics celebrate the Dormition of the Theotokos the falling asleep of the Mother of God on or around the same date. Eastern Orthodox Christians believe that Mary died a natural death, that her soul was received by Christ upon death, and that her body was resurrected on the third day after her death and that she was taken up into heaven bodily in anticipation of the general resurrection. Her tomb was found empty on the third day. One can visit the Orthodox tomb of the Virgin Mary in Jerusalem. It is located near the Church of All Nations and the Garden of Gethsemane.

 

 

Sign of the Kingdom

In presenting the "great sign" of the "woman clothed with the sun," the first reading from the Book of Revelation 11:19a; 12:1-6a, 10 says that she "was with child and ... cried out in her pangs of birth, in anguish for delivery" 12:2 . Just as the risen Christ who has ascended into heaven forever bears the wounds of his redemptive death within his glorious body, so his Mother brings to eternity "the pangs" and "anguish for delivery" 12:2 . We could say that Mary, as the new Eve, continues from generation to generation to give birth to the new man, "created after the likeness of God in true righteousness and holiness" Ephesians 4:24 . This is the Church's eschatological image, which is present and active in the Virgin Mary.

 

Unless Christ is risen

In the second reading for today's feast 1 Corinthians 15:20-27 , St. Paul addresses a problem among the Corinthians: their denial of the resurrection of the dead 12 apparently because of their inability to imagine how any kind of bodily existence could be possible after death 35 .

Paul affirms both the essential corporeity of the resurrection and its future orientation. His response moves through three steps: a recall of the basic "kerygma" about Jesus' resurrection 15:1-11 , an assertion of the logical inconsistencies involved in denial of the resurrection 12-34 , and an attempt to perceive theologically what the properties of the resurrected body must be 35-58 .

 

Denial of the resurrection 15:12 involves logical inconsistencies. The basic one, stated twice 15:13, 16 , is that if there is no such thing as bodily resurrection, then it has not taken place even in Christ's case. The consequences for the Corinthians are grave: both forgiveness of sins and salvation are an illusion, despite their strong convictions about both. Unless Christ is risen, their faith does not save.

 

Christ's definitive victory over death, which came into the world because of Adam's sin, shines out in Mary, assumed into Heaven at the end of her earthly life. It was Christ, the "new" Adam, who conquered death, offering himself as a sacrifice on Calvary in loving obedience to the Father. In this way he redeemed us from the slavery of sin and evil. In Mary's triumph, the Church contemplates her whom the Father chose as the true Mother of his Only-begotten Son, closely associating her with the saving plan of Redemption.

 

Life from barren wombs and empty tombs

The Gospel for today's feast Luke 1:39-56 invites us into the extraordinary story of two women sharing their faith, hope, and happiness as they prepare for motherhood. It is an occasion for celebration between Elizabeth, who is old and barren, and Mary, a young betrothed virgin -- a story of God's ability to both give and sustain life. Our God causes life to surge forth from barren wombs and empty tombs. Mary's trip to the hill country of Judah is also a manifestation of the coming kingdom.

 

Mary is a model for each of us, and her Assumption into heaven reminds us that there is hope for you and me. What happens to the Virgin daughter of Nazareth at the end of her earthly pilgrimage will happen to each of us if we are faithful and obedient as she was.

 

Taken up into heaven, Mary shows us the way to God, the way to heaven, the way to life. She shows it to her children baptized in Christ and to all people of good will. She opens this way especially to the little ones and to the poor, those who are open to divine mercy. The Queen of the world reveals to individuals and to nations the power of the love of God whose plan upsets that of the proud, pulls down the mighty from their thrones and exalts the humble, fills the hungry with good things and sends the rich empty away Luke 1:51-53 .

 

Marian triptych

We celebrate three great moments of Mary's life knowing that they represent all of our lives. When Pope Pius IX proclaimed the dogma of the Immaculate Conception in 1854 with the Bull "Ineffabilis," he referred explicitly to the biblical story of the Annunciation in Luke's Gospel. The angel Gabriel's salutation, "Hail, full of grace," is understood as recognizing that Mary must always have been free from sin. God was present and moving in Mary's life from the earliest moments. God's grace is greater than sin; it overpowers sin and death. Through her Immaculate Conception, Mary was called for a special mission.

 

The second moment of Mary's life is the Incarnation. Through the virginal birth of Jesus we are reminded that God moves powerfully in our lives too. Our response to that movement must be one of recognition, gratitude, humility, openness and welcome. Through the Incarnation, Mary was gifted with the Word made Flesh.

 

The Church celebrates Mary's final journey into the fullness of God's Kingdom with the dogma of the Assumption promulgated by Pius XII in 1950. As with her beginnings, so too, with the end of her life, God fulfilled in her all of the promises that he has given to us. We, too, shall be raised up into heaven as she was. In Mary we have an image of humanity and divinity at home. God is indeed comfortable in our presence and we in God's. Through her Assumption, Mary was chosen to have a special place of honor in the Godhead.

 

Mary follows our footsteps

Let me conclude these reflections on Mary's Assumption with the moving words of Benedict XVI, spoken at his weekly General Audience at Castel Gandolfo on Aug. 16, 2006.

 

He said: "By contemplating Mary in heavenly glory, we understand that the earth is not the definitive homeland for us either, and that if we live with our gaze fixed on eternal goods we will one day share in this same glory and the earth will become more beautiful. Consequently, we must not lose our serenity and peace even amid the thousands of daily difficulties. The luminous sign of Our Lady taken up into Heaven shines out even more brightly when sad shadows of suffering and violence seem to loom on the horizon.

 

"We may be sure of it: from on high, Mary follows our footsteps with gentle concern, dispels the gloom in moments of darkness and distress, reassures us with her motherly hand. Supported by awareness of this, let us continue confidently on our path of Christian commitment wherever Providence may lead us. Let us forge ahead in our lives under Mary's guidance."

 

 

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