イエスのうちに、未来はすでに始まっている!
主の昇天 聖書黙想 2010/5/16 トマス・ロシカ師
ルカ福音書でエルサレムが運命の都(救いの業が完成した場所)であったように、使徒言行録の始まりでもエルサレムは中心の位置を占めます。そこは、キリストの弟子たちの「地の果てに至る」宣教の出発点であり、初期の共同体にあっては、弟子たちの本拠地で、教えの中心地でした。(使徒言行録 15:2,6 )
今日の第一朗読の最初の節(使徒言行録 1:1-2 )は、使徒言行録とルカ福音書の関係を述べ、弟子たちが復活したイエスから指図を与えられていたことを示します( 3-5 節)。弟子たちはいろいろなことを知りたいと思いました。そこでこう尋ねました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか?」 弟子たちは、「父の約束されたもの」が、ダビデ王の治世下で享受したような政治的支配の時代をもたらすものと考えていました。しかし、イエスの答えから、約束とはそのようなものではないことが明らかになりました。 また、約束とは、終わりの時を垣間見せてくれることでもありません。終わりの時について「父が(御自分の権威をもって)お定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」…のですから。
約束とは、政治的、民族的支配を取り戻したり、神のような洞察力を持たせて人々の暮らしをもっと楽にすることでもありません。弟子たちの上に「聖霊」が降ったときに、彼らは炎の洗礼も受けたのです。弟子たちは、キリストの任務を引き受ける力を得たのでしょう。そして、教え、育み、仕え、キリストのために、否定され、苦しみ、死んだのです。
イエスは、話し終わると、友たちの目前で天に上げられました。この荘厳な場面を想像してみてください! 自分の主であり師であるイエスが去っていくのを見た弟子たちは、何を感じたでしょうか? 「ガリラヤの人たち、」と呼びかけた天使の言葉は、痛みを覚えるほどに直截すぎて、誤解の余地はほとんどありません。「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがた見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
弟子たちは、最後の指示を与えられます。「未来を見つめてばかりいてはいけません。イエスが戻ってくるのが何時なのかなどと必要以上に案じてはいけません。」 わたしたちは、天を見上げ、過去を嘆き、神の御手と御心に深く埋める以外に何もできないことを嘆いて空しく立ち尽くしていてはなりません! 主は栄光を受け、その後に従う弟子たちも主の栄光を分かち合うでしょう。
さあ、出かけましょう。そして、天国のひとかけらをこの世に運びましょう。それが、わたしたちの主の復活と昇天の意味するところです。人間の願いを神が見捨てたという意味ではなく、福音の理想に神が力を与えて下さるという意味なのです。
エルサレムから始まる
ルカ福音書で展開される復活物語の舞台は、エルサレムとその周辺です。ルカは、イエスの時代についての福音物語を昇天の記事で終わらせています(ルカ 24 : 50-53 )。福音書は、(使徒言行録 1 章 9 節において)エルサレムの神殿(の昇天物語)で始まったように、(ルカ 24 章 53 節において、同じく昇天で)終わります。そしてルカはまた、当時の教会の物語を、昇天の様子を詳しく語ることで始めます。福音記者ルカは、復活について記した章の中で、イエスの昇天を復活の夜の出来事として詳しく書き記しています。それによって復活と昇天を密接に結びつけているのです。
以前、復活祭の黙想で指摘したように( 4/3 配信、復活徹夜祭の黙想 )、ルカ福音書の 24 章は、四つの主な部分に分けることができます。 a ) 墓での婦人たちの物語。これは、ペトロが墓を調べに行くところで終わります。 b ) エマオへの道の弟子たちの物語。これは、主が、既にペトロにも現れていたと知るときに最高潮に達します。( 13-15 節) c ) 食事の時の弟子たちへのご出現。これは、イエスによる弟子たちへの権限の委託がクライマックスです。( 50-52 節)。そして、 d ) イエスの御国への昇天。( 50-52 節)
イエスの復活、永遠の命の輝き、イエスの昇天、それに聖霊降臨―すなわち過越の神秘は、たぶん一つの出来事として理解されるべきことでしょう。ルカは、(復活の) 40 日後のイエスの昇天を目に見えるものとして書き、また五旬祭の聖霊降臨を書くことによって、そのことを(一つの出来事として)歴史化しました。ルカにとっては、パウロへの特別なご出現を除いて、昇天が最後のイエスのご出現ということになります。救いの歴史に関してのルカの解釈によれば、昇天は、「イエスの時代」の終わりを示し、(ルカ 24:50-53 ) 同時に、「教会の時代」の始まりを告げるものです。
ユダヤ教典との一致
ルカ福音書の最後の場面は、ユダヤ教典に書かれていることは、当然実現されなければならないと強調しています。そこには、神のご計画は必ず成就すると啓示されているからです。キリストの生涯、死、そして復活は、完全にユダヤ教典と合致しています。このことを最も明快に表しているのは、復活したイエスが弟子たちに語りかけた言葉です。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことなのである。」(ルカ 24:44 ) この宣言はイエスの過越の神秘に不可欠な(いくつかの)基本点を示しています。それは、福音書の多くの個所でくり返し確認されています。「メシア(人の子)は苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」(ルカ 24:46 参照) 「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ 26:54 ) 「・・と書かれていることは、わたしの身に実現する。」(ルカ 26:54 )
あらゆる場所での現存
昇天に際して、イエスは、新たな姿で神の国へ去ってしまったと結論付ける人もいるかも知れません。しかし、実際はその正反対です。神において、イエスは新しい特別な姿で、「ここに」おられます。 歴史の場面から物理的(肉体的)に切り離されて初めてイエスと全世界との永遠に変わらない霊的な結びつきが完成するのです。
「昇天」によって、イエスは、わたしたちが暮らす地上の現実に参加します。イエスの足跡は、足元の石に刻まれていて、観光客が眺めるというものではありません。そうではなく、イエスに従う人々の心の目に見えるものです。イエスは、一つの場所に存在する能力を放棄して、あらゆる場所に現存できる能力を獲得したのです。イエスは、地上から消えたとき、そこを神の現存で満たしたのです。わたしたちの夢の全てを完全に実現する存在として、神は、今もここに現存しています。
わたしたちは、イエスに近づくほど、天の国に近づいていくことを知っています。そしてイエスが、どんな時にもわたしたちと共に現存するのをやめたことはないと確信しています。イエスは、わたしたちを通して、イエスの教会として更に力強く現存することを望んでいます。
意味深い教訓
主の昇天は、所有することと所有されることについての深い教訓を与えてくれます。イエスは、昇天を通して、時間と歴史の中のイエスに執着することは、全く無意味であることを示します。そしてイエスも、周囲の人間に執着せず、その人たちが福音宣教を続けるために自由に出かけるのを妨げたりしません。それどころか、イエスの全生涯と死と復活とは、あらゆる人、あらゆるものを、わたしたちに貸し与えられた賜物として受け入れるよう教えています。
人との関係に強く執着したり、地上の富を蓄えたりすることは良いことではありません。今日、わたしたちに与えられたすべてのものを、深い感謝の念で畏敬できるように、そして、それらを持つ手のひらを開いて置くように心掛けましょう。祈りの時は、両の手のひらを開き、自分の生活の大切な宝物や人間関係のすべてを神に明け渡しましょう。他の人々や自分の持ち物に対する感情を意識しましょう。いただいた全ての賜物と人間関係のために神に感謝する時間を持ちましょう。そして、一番大切なことは、ふだん軽視しがちな人々に対して、愛と感謝を表す具体的な方法を見つけることです。その人々の中には、イエスも含まれています。
復活した主が、哀れにも打ちひしがれた人々の手に自らを委ねたように、主は、わたしたちにも同じようにして下さいます。主の昇天が持つ豊かな意味合いによって、自らに自信を持てないわたしたちをもキリストは受け入れてくださるということを思い起こさせてくれます。キリストは、わたしたちの人間性の陰にある暗い部分を受け入れてくださいます。キリストは、虚偽、裏切り、どん欲、権力に傾くわたしたちを受け入れてくださいます。わたしたちを受け入れた後は、わたしたちを招いて主の民となる永遠の任務を与えます。そしてわたしたちを、キリストに奉仕し、キリストを愛するべく派遣します。こんなわたしであるにも関わらず、そしてまた、こんなわたしであるが故に。
昇天に際して、イエスは、新たな姿で神の国へ去ってしまったと結論付ける人もいるかも知れません。しかし、実際はその正反対です。神において、イエスは新しい特別な姿で「ここに」おられます。歴史の場面から物理的(肉体的)に切り離されて初めて、イエスと全世界との永遠に変わらない霊的な結びつきが完成するのです。
あの日、イエスは、いつでもすべての人々と共にいられるようにと、この世を去りました。イエスは、友と作った絆を解消しなければなりませんでした。それは、すべての人の求めに応えられるようになるためです。イエスにおいて、未来は既に始まっています。
「あなたがたが愛している御方は、以前いらした所にはもう居ません。今や、あなたがたが居るところ、どこにでも居られます。」(聖ヨハネ・クリゾストモ)
聖書朗読
使徒言行録: 01-02 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
03 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 :04 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 :05 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
:06 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 :07 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 :08 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 :09 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 :10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
ヘブライ人への手紙 : 9:24 キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださった[のです。] :25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 :26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 :27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
10:19 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 :20 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。
:21 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 :22 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 :23 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。
ルカによる福音 : 24:46 [そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「(聖書には) 次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 :47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 :48 あなたがたはこれらのことの証人となる。 :49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
Jesus, the Future Has Already Begun!
Biblical Reflection for Solemnity of the Ascension C, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, MAY 11, 2010 ( Zenit.org ) .- Just as Jerusalem was the city of destiny in the Gospel of Luke ( the place where salvation was accomplished ) , so here at the beginning of the Acts of the Apostles, Jerusalem occupies a central position. It is the starting point for the mission of the Christian disciples to "the ends of the earth," the place where the apostles were situated and the doctrinal focal point in the early days of the community ( Acts 15:2, 6 ) .
The first verses of today's first reading ( Acts 1:1-2 ) connect the book of Acts with the Gospel of Luke, and show that the apostles were instructed by the risen Jesus ( vv 3-5 ) . The disciples were anxious for answers. They asked, "Lord, is this the time when you will restore the kingdom to Israel?" They thought "the promise of the Father" would bring about an age of political sovereignty such as the nation had enjoyed under the reign of King David. But Jesus' answer made clear that this is not what the promise is all about. Neither would the promise give them a glimpse of the end times, for "it is not for you to know the times or periods that the Father has set" for the end of time.
The promise was not going to make their lives easier by restoring political or national dominance or by granting divine insight. When they received the Spirit they too would be baptized in fire. They would be empowered to take on the role of Christ: to teach and to nourish and to serve, to be ignored, to suffer and to die for him.
After speaking, Jesus was lifted up into the heavens before his friends. Just imagine this awesome scene! How does it feel to them to watch their Lord and Master leave? The angels' words to the "men of Galilee" are painfully blunt and leave little room for misinterpretation: "Why do you stand here looking up at the skies? This Jesus who has been taken from you will return, just as you saw him go up to the heavens."
The disciples are given a last bit of instruction: "Don't keep trying to stare into the future. Don't be overly concerned about which hour he will come back." We must not stand idly staring up into the heavens and moaning about the past, about which we can do nothing, except to bury it deeply in God's hands and heart! The Lord will be glorified, and it follows that his disciples will also share in his glory. Let's get going and carry a piece of heaven into the world. This is the meaning of the Resurrection and the Ascension of our Lord, not one of divine abandonment of the human cause, but divine empowerment of the Gospel dream!
Beginning From Jerusalem
The resurrection appearances in Luke's Gospel take place in and around Jerusalem. Luke brings his Gospel story about the time of Jesus to a close ( vv 50-53 ) with the report of the ascension. The Gospel ends as it began ( 1:9 ) , in the Jerusalem temple ( v 53 ) . Luke will also begin the story of the time of the church with a recounting of the ascension. In Luke's Resurrection chapter, the evangelist recounts the ascension of Jesus on Easter Sunday night, thereby closely associating it with the resurrection.
As I have pointed out in previous Easter reflections, Chapter 24 of Luke's Gospel can be divided into four major sections: a ) the story of the women at the tomb, which ends with Peter's visit to the tomb to check it ( vv 1-12 ) ; b ) the story of the disciples on the road to Emmaus, which culminates in their learning that the Lord had also appeared to Peter ( vv 13-35 ) ; c ) the appearance of the Lord to his disciples at a meal, which culminates with their commissioning by Jesus ( vv 36-49 ) ; and d ) Jesus' ascension into heaven ( vv 50-52 ) .
What should probably be understood as one event ( resurrection, glorification, ascension, sending of the Spirit -- the paschal mystery ) has been historicized by Luke when he writes of a visible ascension of Jesus after 40 days and the descent of the Spirit at Pentecost. For Luke, the ascension marks the end of the appearances of Jesus except for the extraordinary appearance to Paul. With regard to Luke's understanding of salvation history, the ascension also marks the end of the time of Jesus ( Luke 24:50-53 ) and signals the beginning of the time of the Church.
Conformity to the Jewish Scriptures
The final scene of Luke's Gospel emphasizes that what is written in the Jewish Scriptures must of necessity be fulfilled because it reveals the plan of God which cannot fail to be accomplished. The life, death and resurrection of Christ are fully in accord with the Scriptures. The clearest expression of this is found in the words addressed by the risen Christ to his disciples: "These are my words that I spoke to you while I was still with you -- that everything written about me in the Law of Moses, the Prophets, and the Psalms must be fulfilled" ( 24:44 ) . This statement shows the basis of the necessity for the paschal mystery of Jesus, affirmed in numerous passages in the Gospels: "The Son of Man must undergo great suffering ... and after three days rise again"; "But how then would the Scriptures be fulfilled which say it must happen this way?" ( Matthew 26:54 ) ; "This Scripture must be fulfilled in me" ( Luke 22:37 ) .
Present in a thousand places
On the day of his Ascension, one might conclude that Jesus removed himself into a new form of divine exclusion. The case is exactly the opposite. In God, Jesus is "here" in a new and very specific way. Only in his physical separation from the historical scene can his spiritual union with the entire world for all time be complete.
In his "ascension" Jesus made a commitment to the earth that we live in. His footprints are not etched for tourists to view in the stone beneath us. But they are visible in the hearts of those who follow him. As he gave up the ability to be present in one place, he gained the capability of being present in a thousand places. When Jesus vanished, he filled the earth with the presence of God. God's presence is still here and is available for us as the ultimate fulfillment of all our dreams.
We know that we move toward heaven to the extent that we approach Jesus. We are assured that he hasn't ever stopped being present with us throughout all time. And through us he wants to become even more present, especially as his Church.
Profound lesson
The Ascension of Our Lord teaches us a profound lesson about possessing and being possessed. Through his ascension, Jesus shows that clinging to him in time and history serves no purpose. Nor does he cling to the human beings around him, unwilling to let them go free in order to continue their Gospel mission. Rather, his whole life, death and resurrection teach us to accept everyone and everything as a gift, on loan to us.
It is not good to cling tightly to relationships or to hoard earthly treasures. Today let us learn to revere all that we have with deep gratitude, and hold everything in open hands. During our times of prayer, let us open our hands and surrender all the important treasures and relationships of our lives to God. Let us be aware of our feelings toward others, and toward the things we have. Let us spend time expressing our gratitude to God for each gift and relationship. And most important of all, let us find some concrete ways to express our love and gratitude to people we often take for granted, including Jesus.
Just as the Risen Lord entrusted himself into the hands of such pathetic, broken people, he does the same to us. The full significance of the Ascension reminds us that Christ accepts our lack of self-confidence in ourselves. He accepts the shadowy and dark areas of our humanity. He accepts our capacity for deceit, betrayal, greed and power. And having accepted us, he calls us, gives us the eternal commission to be his people, and sends us to serve him and love him, in spite of ourselves and because of ourselves.
On the day of his Ascension, one might conclude that Jesus removed himself into a new form of divine exclusion. The case is exactly the opposite. In God, Jesus is "here" in a new and very specific way. Only in his physical separation from the historical scene can his spiritual union with the entire world for all time be complete.
Jesus left the world one day in order to be available to all people throughout all time. He had to dissolve bonds he had made with his friends, in order to be available for everybody. In Jesus, the future has already begun!
"He whom you love is no longer where he was before. He is now wherever you are" ( St. John Chrysostom ) .