砂漠を通る聖なる広い道
待降節第 3 主日 ( A 年) 聖書黙想 2010/12/12 トマス・ロシカ師
2005 年 4 月 24 日、ベネディクト 16 世は、ローマの司教としてのペトロの座への着座式で感動的な説教を行い、その中で次のように語りました。「司牧者は、キリストの聖なる熱意から霊感を受けなければなりません。キリストにとって、(今日)これほど多くの人々が砂漠で生きているということは、無関心でいられる問題ではありません。」
教皇は続けてこう語りました。「そして、非常に多くの種類の砂漠があります。貧しさの砂漠があり、飢えと渇きの砂漠があり、自暴自棄の、孤独の、壊れた愛の砂漠があります。神を見失った闇の砂漠、魂の空虚さ、そこではもはや人間の尊厳や人間生活の目標が顧みられなくなっています。」
「私たちの世界では、外なる砂漠が広がり続けています。なぜなら、内なる砂漠が あまりにも広大になりすぎたからです。そのために、 地上の宝は、わたしたち皆が生きるために神の楽園を築く助けにならないばかりか、逆に 搾取と破壊の力に奉仕する結果になっているのです。(中略)」
「教会は全体として、またその司牧者たちは皆、キリストのように、人々が砂漠から出ていのちの場へ、神の子との交わりへ、そして有り余るほど豊かないのちを与えて下さる方のもとへと導くことを目指さなければなりません。」
待降節第 3 主日の聖書朗読のうち、特に第1朗読のイザヤの預言(イザヤ書 35 : 1-10 )を理解するには、ベネディクト 16 世の言葉を黙想することから始めるのが一番です。教皇着座式の説教と、心に響くイザヤ書の朗読のどちらにもある地理(的感覚)と砂漠というテーマは、わたしたちの生活の中にある砂漠について黙想するようにと招いています。わたしたちは、自分の中にある砂漠の真中でどうやって生きているのでしょうか。わたしたちは、他者の喜び、光となって、共同体に花を咲かせる代わりに、いつも、孤独、荒廃、空虚の砂漠に身を任せてしまいます。わたしたちはなぜ、自分自身の砂漠を、いのちあふれる場所に変えようとしないのでしょうか。わたしたちは、道に迷い、孤独で、不毛で、無一物であることを悟るために砂漠に入って行かなければならないのかも知れません。そこにたどりついて初めて、神に出会う準備が出来るのです。
救いの地理学
聖書には、救いの地理学が出てくる場所がたくさんあります。この地理学が、 35 章の、イザヤによる主の到来の生き生きとした描写の背景になっています。イザヤ書 34 章で、国々の裁きが語られますが、それは前の章の、主がエドムの地を裁いた時の惨禍と荒廃の寒々とした描写との間で、くっきりとした対照をなしています。イスラエルの民は、戦いに敗れ、故郷を追われ、希望を失っていました。
訳注:イザヤ 33 章は「救いを求める祈り」を、 34 章は「エドムの審判」、 35 章は「栄光の回復」を述べる。
イザヤ 34 章(エドムの審判)「 34:1 もろもろの国よ、近づいて聞け/もろもろの民よ、耳を傾けよ。聞け、大地とそこに満ちるすべてのもの/世界とそこに生ずるすべてのものよ。 34:2 主はすべての国に向かって憤りを発し/怒りは、その全軍に及ぶ。主は絶滅することを定め/彼らを屠るために渡された。 34:3 刺し貫かれた人々は投げ捨てられ/死骸は悪臭を放ち/山々はその血によって溶ける。 34:4 天の全軍は衰え/天は巻物のように巻き上げられる。ぶどうの葉がしおれ/いちじくの葉がしおれるように/その全軍は力を失う。 34:5 天において、わが剣は血に浸されている。見よ、剣はエドムの上に下る/絶滅に定められた民を裁くために。 34:6 まことに、主の剣は血にまみれ/脂肪を滴らす。小羊と雄山羊の血にまみれ/雄羊の腎臓の脂肪を滴らす。主がボツラでいけにえを屠り/エドムの地で大いなる殺戮をなさるからだ。 34:7 野牛は彼らと共に倒れ/子牛は雄羊と共に倒れ/彼らの土地は血に浸され/その土地は脂肪を滴らす。 34:8 まことに、主は報復の日を定められる/シオンにかかわる争いを正すための年を。 34:9 エドムの涸れ谷は変わってピッチとなり/その土は硫黄となる。その土地はピッチとなって燃え上がる。 34:10 夜も昼も消えることなく/とこしえに、煙を立ち昇らせ/代々にわたって廃虚となり/永遠にそこを通る人はない。 34:11 ふくろうと山あらしがその土地を奪い/みみずくと烏がそこに住む。主はその上に混乱を測り縄として張り/空虚を錘として下げられる。 34:12 その土地の貴族たちには/もはや、王国と名付くべきものはなく/高官たちもすべて無に帰する。 34:13 その城郭は茨が覆い/その砦にはいらくさとあざみが生え/山犬が住み/駝鳥の宿るところとなる。 34:14 荒野の獣はジャッカルに出会い/山羊の魔神はその友を呼び/夜の魔女は、そこに休息を求め/休む所を見つける。 34:15 ふくろうは、そこに巣を作って卵を産み/卵をかえして、雛を翼の陰に集める。そこに鳶も、雌も雄も共に集まる。 34:16 主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ/主の霊が集めたものだからである。 34:17 主は彼らの分をくじによって定め/御手の測り縄によって土地を分け/とこしえに彼らの所有とされる。代々にわたって、彼らはそこに住む。」
イザヤ書 35 章の 2-10 節は、バビロン捕囚の終焉を告げ、救出、解放、救いの感動的なビジョンを描き出しています。預言者イザヤは、エジプトからの脱出の喜ばしい記憶を思い起こします。やがて来る第二の「脱出」は、見えない人、死んだ人、歩けない人、口の利けない人に与えられる「癒し」に象徴されます。イスラエルの希望の歌い手(イザヤ)は、砂漠の不毛と、人々の歓喜のパラドックスを描写しました。それは他の詩人のだれもが表現し得なかった待降節のパラドックスです。イザヤは、南のネゲブ砂漠のでこぼことした地表を見渡し、そこに神の新しい創造のビジョンを見出します。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ / 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ / 野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ / 大いに喜んで、声をあげよ。」( 35:1 )
新しい出エジプト
すべての人は、神によって解放され救われ、砂漠を通ってそれぞれの故郷に帰る……それが新しい出エジプトです。救いは地理に従って、幹線道路、谷、山、砂漠、平野など、この世の光景の中に忽然と現れます! 道、砂漠、水、そして喜びは、単なる偶然ではありません。イザヤの預言によれば、そこには一本の清らかな大路が敷かれ、その道は聖なる道と呼ばれ、贖い主がそこを歩まれます。荒れ地に川が流れ、聖なる道となり、イザヤが救いの地理学によって描く地図は、わたしたちを主のおられる山へと導きます。
主に贖われた人々は帰って来る。 / とこしえの喜びを先頭に立てて / 喜びの歌を歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え / 嘆きと悲しみは逃げ去る。( 35:10 )
比喩としての砂漠
砂漠という言葉は、人間の罪深さの結果である疎外感や絶望感を表現するための比喩(たとえ)として使われてきました。わたしたちも、自分の罪深さから来る感情を説明するのに、「わたしは、砂漠そのものの体験を生き抜いているところだ。」とか、「わたしは、神からも人からもひどく遠ざけられている気がする。」といった表現をよく用います。もしも、わたしたちが独りよがりで、自己満足しているとしたら、主の到来を望んだり、主に出会う準備を始めたりすることは決してないでしょう。砂漠の道は、イエスの心の奥深くにありました。イエスに従おうとする者にとっても、それは同じでなければなりません。わたしたちが神に心を開き、自分の中の砂漠を花で満たして頂くなら、砂漠のただ中にあっても神がなさろうとしていることを聞くことができるのです。
神は、或る一定の時代にだけご自分を現して下さった訳ではないのです。創造の特別な場所にもご出現なさいました。多くのキリスト者はそのような場所として、羊飼いとオリーブの木、高い城壁、そしてダビデ王の時代の要害堅固な都市や町、イエスの時代のベトレヘムといったイメージを思い浮かべます。聖地は、歴史の外に存在する場所です。そこに住む人と場所は、聖書の時間のフレームの中に凍結されているか、あるいは、終わりのない政治的紛争の中に封じ込められています。カトリック信者であるわたしたちには、凍結した聖書の時間のフレームを暖めて溶かし、そこを、キリスト者にとって身近で魅力ある場所にするという、二重の責務があります。
聖地を訪れると、わたしたちが救いの歴史の中にいるばかりでなく、救いの地理学の中にも身を置いていることを思い起こします。わたしたち自身のいのちの物語と、聖書の物語とを結びつけて考えると、わたしたちが描く曲がりくねったラインを、神がどのようにして真っ直ぐにできるのかが見えてきます。ベストセラーの聖地案内( Holy Land Guides )も、その証言者になることはできません。それは単に説明するだけです。石や大理石ではない、生きた人間だけが、「歴史の中のあの輝ける瞬間に御言葉は人となり、わたしたちの間に幕屋を建てた。」と、最も正しく雄弁に証言することができるのです。そしてわたしたちは、現代にあってもその栄光を仰ぎ見続けているのです。
聖地が、他の国々で既にそうなっているように、博物館や考古学的見せ物になってしまったら、心に感じられる歴史の繋がりは断ち切られてしまいます。現地の教会や、キリスト者の共同体の存在がなければ、聖地を証しするものはどんどん失われ、なくなってしまうかもしれません。
御言葉と聖地
ベネディクト 16 世 の使徒的勧告「神のことば」( Verbum Domini ) を引続き読むことを勧めます。今回は、教皇が「御言葉と聖地」について雄弁に語る部分を読みます。
教皇は、第 89 項で次のように述べています。「ナザレのマリアの胎で人となられた神の御言葉を思い起こすとき、今や、わたしたちの心は、救いの神秘が達成された地、そこから神の御言葉が地の果てにまで広がった地に向かいます。聖霊の力によって御言葉は、あの時、あの場所で、ローマ帝国の辺境の地、あの細長い土地で人となりました。わたしたちは、キリストのペルソナの普遍性と唯一性を味わえば味わうほどに、イエスが生まれ、暮らし、そのいのちをわたしたちに与えた土地を、感謝の目で眺めます。
「わたしたちの贖い主が歩いた敷石は、未だその御方の記憶を宿し、今も善い知らせを『呼びかけ』ています。そのため司教会議の出席者たちは、聖地を「第五の福音」と呼ぶ素晴らしい表現があることを思い起こしました。多くの困難にもかかわらず、そこにキリスト者の共同体があることは、大変重要なことです! 司教会議は、イエスの土地に住まい、復活された御方への信仰を証しするそれらのキリスト者たちとの深い絆を表明しました。そこに暮らすキリスト者は、『普遍教会の信仰の指針』となるばかりでなく、『社会生活を調和、知恵、均衡に導くパン種』の役割も果たすように召されています。わたしたちの社会は、伝統的に多元的で、民族も宗教も多様であったし、また現在でも同様です。」
「聖地はいまも、キリスト者の巡礼の目的地、祈りと悔い改めの場であり、それは、古代において、聖ヒエロニモのような教父たちによって証しされています。わたしたちが、地上のエルサレムに目と心を向ければ向けるほど、すべての巡礼の真の目的地である天なるエルサレムへのわたしたちのあこがれは、救いをもたらしたただ一つの名、イエスの御名が皆に知られるようにという切なる願望と共に燃え上がっていくことでしょう。(使徒言行録 4:12 参照)」
喜びの日曜日
砂漠の中のイスラエルの道は、わたしたちすべてのための道です。わたしたちは、待降節第 3 主日、 "Gaudete Sunday" すなわち喜びの日を祝うに当たって、イスラエルの流浪の民や洗礼者ヨハネの弟子たちと共に、救いを切望し、新しいいのちの誕生を待ち望みます。今週は、わたしたちに纏わりついている悪しきものを脱ぎ捨て、わたしたちの夢に新しいいのちを吹き込み、再スタートすることのできる、霊的な空間を生活の中に作り出しましょう。わたしたちが神に心を開き、自分の中の砂漠を花で満たして頂くなら、砂漠のただ中にあっても神がなさろうとしていることを聞くことができるのです。
神がイスラエルの南の砂漠になさることは、わたしたちにもして下さいます。すなわち、不毛の地にいのちをもたらし、いのちも希望も無いと思われる場所に、広い道、聖なる道をつけて下さいます。
わたしたちは聖なる広い道を歩いているでしょうか? わたしたちはその道を前に進んでいるでしょうか? わたしたちは旅路を楽しんでいるでしょうか? わたしたちは人々を、共に歩こうと招いているでしょうか。
訳注: Gaudete Sunday (喜びの日曜日):この日の入祭文「主にあっていつも喜べ / 重ねて言う、喜
べ」から採られた呼び名。
主イエス、来てください!
わたしたちは今、以前に増してあなたを必要としています。
わたしたちの荒れ野に花を咲かせてください。
あなたの生ける水で渇きをいやしてください。
聖なる広い道をあなたに従って歩む力を与えてください。
わたしたちの心と精神を喜びで満たしてください!
◇◇◇
聖書朗読:
イザヤ 35:1-6a, 10 : 35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。 35:2 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。 35:3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。 35:4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」 35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。 35:10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。
ヤコブ 5: 7-10 : 5:7 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。 5:8 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。 5:9 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。 5:10 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。
マタイ 11:2-11 : 11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
11:7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 11:8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。 11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。 11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
The Highway of Holiness Passes Through the Desert
Biblical Reflection for 3rd Sunday of Advent, Year A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, DEC. 7, 2010 ( Zenit.org ) .-
In his moving homily for the Inauguration of his Petrine Ministry as Bishop of Rome on April 24, 2005, Benedict XVI spoke these words: "The pastor must be inspired by Christ's holy zeal: for him it is not a matter of indifference that so many people are living in the desert. "
He continued: "And there are so many kinds of desert. There is the desert of poverty, the desert of hunger and thirst, the desert of abandonment, of loneliness, of destroyed love. There is the desert of God's darkness, the emptiness of souls no longer aware of their dignity or the goal of human life.
"The external deserts in the world are growing, because the internal deserts have become so vast. Therefore the earth's treasures no longer serve to build God's garden for all to live in, but they have been made to serve the powers of exploitation and destruction. [...]
"The Church as a whole and all her Pastors, like Christ, must set out to lead people out of the desert, toward the place of life, towards friendship with the Son of God, toward the One who gives us life, and life in abundance."
There is no better starting point to understand the Scripture readings for the third Sunday of Advent, especially today's first reading from the prophet Isaiah ( 35:1-10 ) , than by reflecting on Benedict XVI's words. The themes of geography and desert in both the Pope's inaugural homily and Isaiah's stirring reading invite us to reflect on the deserts of our own lives. How do we live in the midst of our own deserts? How often have we become deserts of loneliness, desolation and emptiness, rather than flourishing gardens of community, joy and light for others? How have we resisted transforming our own deserts into places of abundant life? We may have to go into that wilderness where we realize we are lost, and alone, unfruitful and without resources - and only when we reach that point are we ready to meet God.
Geography of salvation
We encounter the geography of salvation at many places in the Bible. This geography forms the background for Isaiah's portrayal of the coming of the Lord in Chapter 35. Whereas judgment of the nations is described in Isaiah Chapter 34 stands in stark contrast to the bleak picture of devastation and desolation in the preceding chapter as the Lord judges the land of Edom. Defeated in battle and driven from their homeland, the people of Israel were without hope.
Isaiah 35:1-10 announces the end of the Babylonian captivity, presenting a stirring vision of deliverance, freedom, and salvation. The prophet recalls the joyous memories of the exodus from Egypt. A second exodus is in store, symbolized by the healing granted to the blind, the dead, the lame, and the mute. Israel's singer of hope captured the paradox of barrenness and rejoicing -- the paradox of Advent -- as no other poet has. Scanning the southern Negev desert's gnarled surface he saw a vision of God's new creation: "The wilderness and the dry land shall be glad, the desert shall rejoice and blossom; like the crocus it shall blossom abundantly and rejoice with joy and singing" ( 35:1 ) .
New exodus
Delivered and saved by God, all peoples shall return to their own land by way of the desert, in a new exodus. Salvation bursts onto the world scene through geography: highways, valleys, mountains, deserts, and plains! The road, the desert, water, and joy are more than mere coincidence. Isaiah prophesies that there shall be one pure road and it will be called the way of holiness upon which the redeemed shall walk. From desert to streams to the highway of holiness, Isaiah's atlas of the geography of salvation leads us into the mountain of the presence of the Lord: The ransomed of the Lord will return and enter Zion with singing; everlasting joy will crown their heads. Gladness and joy will overtake them, and sorrow and sighing will flee away ( 35:10 ) .
Desert as metaphor
The desert has become a metaphor to describe the sense of alienation and despair that are the effects of human sinfulness. How many times have we used the expression: "I'm living through a real desert experience" or "I feel so alienated from God and from other people" to describe what we are feeling because of our sinfulness. If we are complacent and self-satisfied, we'll never begin to long for the coming of the Lord, or make ready to meet him. The ways of the desert were deep within the heart of Jesus, and it must be the same for all who would follow him. In the midst of the desert we hear what God will do if we open our hearts to him and allow God to make our own deserts bloom.
God has revealed himself to us not only in specific periods of time, but also in very particular places in creation. For many Christians, these very places conjure up images of shepherds and olive trees, high walls and enclosed, ancient cities and towns as they existed in the age of King David or Bethlehem at the time of Jesus. The Holy Land is a land without history, its people and places frozen in a biblical time frame, or locked in an unending political battle. As Catholics, we have a double obligation to thaw out the frozen biblical time frame and make it accessible and inviting for Christians.
A visit to the Holy Land reminds us that we are caught up not only in the History of Salvation but also in the Geography of Salvation. Both the story of our own lives, coupled with the biblical stories, show us how God can write straight with our crooked lines. The best-selling Holy Land Guides do not bear witness. They merely indicate. Only people, not stones and marbles can bear the most authentic and eloquent witness that at one shining moment in history, the Word became flesh and pitched his tent among us. And we continue in our day to behold his glory.
Were the Holy Places turned into museums or archaeological curiosities as they have been in other countries, tangible historical links would be severed. Without the presence of local churches and communities of Christians, the witness of Holy Land would be terribly diminished and even non-existent.
The word and the Holy Land
I encourage you to continue reading Pope Benedict XVI's Apostolic Exhortation "Verbum Domini" in the section that speaks eloquently about the "The word of God and the Holy Land." http://www.zenit.org/article-30942?l=english
The Pope writes in paragraph 89:"As we call to mind the Word of God who became flesh in the womb of Mary of Nazareth, our heart now turns to the land where the mystery of our salvation was accomplished, and from which the word of God spread to the ends of the earth. By the power of the Holy Spirit, the Word became flesh in a specific time and place, in a strip of land on the edges of the Roman Empire. The more we appreciate the universality and the uniqueness of Christ's person, the more we look with gratitude to that land where Jesus was born, where he lived and where he gave his life for us.
"The stones on which our Redeemer walked are still charged with his memory and continue to 'cry out' the Good News. For this reason, the Synod Fathers recalled the felicitous phrase that speaks of the Holy Land as 'the Fifth Gospel.' How important it is that in those places there be Christian communities, notwithstanding any number of hardships! The Synod of Bishops expressed profound closeness to all those Christians who dwell in the land of Jesus and bear witness to their faith in the Risen One. Christians there are called to serve not only as 'a beacon of faith for the universal Church, but also as a leaven of harmony, wisdom, and equilibrium in the life of a society which traditionally has been, and continues to be, pluralistic, multi-ethnic and multi-religious.'
"The Holy Land today remains a goal of pilgrimage for the Christian people, a place of prayer and penance, as was testified to in antiquity by authors like Saint Jerome. The more we turn our eyes and our hearts to the earthly Jerusalem, the more will our yearning be kindled for the heavenly Jerusalem, the true goal of every pilgrimage, along with our eager desire that the name of Jesus, the one name which brings salvation, may be acknowledged by all ( cf. Acts 4:12 ) ."
Sunday of rejoicing
The way of Israel in the desert is the way for all of us. As we celebrate the third Sunday of Advent, "Gaudete Sunday" or the day of rejoicing, we join with the exiles of Israel and the disciples of John the Baptist as we yearn for salvation, and long for new life to blossom. This week let us carve out some spiritual space in our lives where we can strip away the false things that cling to us and breathe new life into our dreams and begin again. In the midst of the desert we hear what God will do if we open our hearts to him and allow him to make our own deserts bloom. What God does to the southern desert of Israel, God will do for us: transform our barrenness into life, and trace a highway and a holy way in places we believed to be lifeless and hopeless.
Are we on the Highway of Holiness? Are we making progress on it? Are we enjoying the travel? Are we inviting others to join us on the way?
Come, Lord Jesus!
We need you now more than ever.
Make our deserts bloom.
Quench our thirst with your living water.
Give us strength to follow you on the Highway of Holiness.