不可能が可能になる体験
待降節第4主日福音黙想 トマス・ロシカ師
ルカ福音書のイエスの幼い頃の物語には、新約聖書の中でも、心にふれる、よく知られた場面がいくつか出てきます。
ルカ 1:5-24 に描かれる、洗礼者ヨハネの最初の宣言は、 イエスのそれに先んじているばかりでなく、 ヨハネの誕生自体も、イエスの誕生に先立っています。(ルカ 1:26-38 ) マリアへのイエスの誕生の 告知( ルカ 1:39-45 )は、ザカリアに対するヨハネの誕生の告知と対応しています。
二つの物語の中では、天使ガブリエルが現れて、親は幻に戸惑い(ルカ 1:11-12, 26-29 ) 、その後、天使から、「恐れるな」と告げられます (ルカ 1:13, 30 ) 。 告知がされると (ルカ 1:13, 30 ) 、親は、それに異議を述べます。 (ルカ 1:18, 34 ) そして、告知を確認するためのしるしが与えられます。(ルカ 1:20, 36 ) イエスの誕生の告知にだけ特別に焦点が当てられているのは、ダビデの子 (ルカ 1:20, 36 ) そして神の子 (ルカ 1:32, 35 )というイエスの身分です。
マリアのエリザベト訪問という非常に個人的な場面でも ( 1:39-45 ) 、先駆けとなる者と主とは隠され、互いに見えないようにされています。しかしヨハネは、二人の婦人が抱擁しあう前に母の胎内で喜び踊ります。 ヨハネは既に、マリアの胎内に居る、主であり救い主である存在を覚っていました。
二人の誕生は、二つの美しい賛歌で喜び歌われます。それは、洗礼者ヨハネの父ザカリアが、自分の息子の誕生の時に歌う Benedictus ( 1:68-79 )と、エルサレムの神殿の「正しく、信仰厚い」人であったシメオンが、幼子イエスを腕に抱いて祈った Nunc Dimittis" です。 ( 2:22-35 )
訳注: ザカリアの歌: 1:67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。 / 1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 / 1:69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。 / 1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。 / 1:71 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。 / 1:72 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。 / 1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、 / 1:74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、 / 1:75 生涯、主の御前に清く正しく。 / 1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 / 1:77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。 / 1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 / 1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」
今日の待降節の福音に登場する二人の身籠った女性、マリアとエリザベトは、神からのしるしを互いの中に認めました。天使ガブリエルはマリアに、その処女懐胎には及ぶべくはないものの、よく似た出来事を示しました。 「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。 不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」 (ルカ 1:36 )
一方エリザベスは、マリアが来たとき、胎内の子の動きで何か特別なことが起ころうとしていることに気づきます。 「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」( 1: 43 ) 二人の女性は、自分のうちで不可能が可能になることを体験しました。
神への信頼
マリアのエリザベトの訪問は、聖なる訪れとなりました。「神の箱」は、 ガド人オベド・エドムの家にしたように、恐怖ではなく、祝福をもたらしました。 ( 2 サムエル 6:9-11 )
サラは、自分の年齢で年老いたアブラハムの子を宿し生むなどという考えを笑いました。(創世記 18:12 ) エリザベスの夫のザカリアは、このことで神の力を疑ったために口がきけなくなりました ( ルカ 1:8-20 ) 。 この二人とは違い、エリザベトは神に感謝し、神の摂理を信頼しました。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」 ( ルカ 1:25 ) マリアの方は、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」という、 エリザベトの言葉にふさわしい方でした。
訳注:創世記 18 : 12 ;「彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。」 アブラハムに嗤ったのではない。」
マリアは、主の母の故に、またその信仰の故に讃えられますが、マグニフィカトの賛歌の中では、反対に僕のように振舞います。マグニフィカトは、出産を控えた二人の婦人だけでなく、「力ある方が、偉大なことをなさった」人たちすべてにおいて神の恵みの偉大さを祝います。(ルカ 1:49 )
今日の、マリアのエリザベトの訪問の場面には、考えるべき二つの側面があります。第一は、マリアとエリザベトの個人的な都合の要素がすっかり抜け落ちていることです。二人とも、自分たちの妊娠と新しい生活がもたらすすべてに心を奪われていましたが、それも無理からぬことでした。二人とも、自分の日常生活を、新しく、根本的に変えなければなりませんから、しばらくは自分のことに目を向ける権利がありました。マリアは、彼女を助け、また自分も助けてもらうために、親戚の女性のところへ出かかけました。
聖書に出てくるこの二人の偉大な女性は、互いに慰め合い、自分の物語を分かち合い、体験しなければならなかった新しい生活の中での賜物を、互いに与え合いました。エリザベトは、長い間の不妊の後に、突然の妊娠という新しい生活を体験しなければならず、またマリアは、天からの御使いとの出会いの後に、「不自然な」結婚と妊娠という新しい生活を体験しなければならなかったのです。
二番目に考えなければならない点は、マリアの素早い応答と行動です。ルカによれば、マリアは「急いで」ナザレを出発し、起伏の多いユダの国へと、長く危険な旅をしたと伝えています。マリアは、自分が何を望んでいるかをはっきりと知り、誰にも何ものにも自分を止めさせませんでした。
ミラノの聖アンブローズは、ルカ福音の聖書解釈で、マリアの行動の素速さを、難しいラテン語のフレーズを用いて説明しています。 "nescit tarda molimina Spiritus Sancti gratia," その意味は、「聖霊の恵みは、遅すぎる努力を受け入れない。」、すなわち「時宜を失した骨折りは、聖霊の恵みとは相容れない」ということです。マリアの、前へ、外へ、と向かう自由な選択は、彼女の心の奥の決心を反映し、その決心が迅速な行動へとつながるのです。
引き延ばし
自分がしようと夢見たこと、すべきであったが、しなかったこと…、そんなことが、どれほどわたしたちの生活にはあるでしょうか。書かねばならなかった手紙、実現すべきだった夢、告げるべきだった感謝、言い表わせなかった愛情、口にするべきであった言葉、などなど。
後回しや引き延ばしは自分の上に重くのしかかり、疲れと、落胆を招きます。
それらは、わたしたちを蝕みます。
聖アンブローズ の、マリアの「急ぎ」についての言葉は本当にその通りです。 すなわち、聖霊が、処女であるナザレの娘を完全に服従させ、彼女に行動をとらせたのです。
訪問の物語は、大切な教訓を与えます: わたしたちの内にキリストが成長するとき、わたしたちは、いままで思いもしなかった人のところへ、場所へ、状況へと導かれます。私たちは、自分自身のものではない慰めと希望の言葉を口にするでしょう。
他人を慰める行為の中で、わたしたち自身が慰められます。そこでわたしたちは平和を得、癒されます。なぜなら、わたしたちは自分の生活や抱える問題が大したことでなくても、キリストがそこにご自身を示されることを知っているからです。
今日の福音朗読の中の女性たちが教えるのは、わたしたちは、小さな、個人的な範囲を超えて働くことができ、教会における大切な司牧と奉仕にも携わることができるということです。司牧と奉仕は、単に「他の人々のためになにかをする」ということだけではありません。本当に教会に尽くす人は、仕えると同時に仕えられ、教えられ、世話をされ、慰められ、愛されることを受け入れます。
そのような瞬間こそが、わたしたちを解放し、旅の途上でマグニフィカトを歌えるようにし、神がわたしたちと神の民になさる偉大なことの数々を祝うのです。
カルカタのマザー・テレサ ( 1910-1997 ) の言葉を考えてみましょう。
「お告げと訪れの神秘の中で、マリアは、わたしたちが歩むべき生き方のモデルです。」
「全てに先立って、マリアはイエスを彼女の存在の中に迎えました。彼女は自分が受取ったものを分かち合いました。ご聖体を拝領するたびに、御言葉であるイエスはわたしたちのいのちの中に受肉されます。その受肉は神の賜物です。神は一体となり、同時に美しく、やさしく、ユニークです。」
「こうして、最初のご聖体はこのようでした: ご自分の中の御子をマリアは差し出し、イエスはマリアの中に最初の祭壇を設けました。
マリアは、『これはわたしのからだ』を、全き確信を以って証明できる唯一の方です。その最初の瞬間から、彼女のご自身のからだ、力、その全存在を、キリストの身体の形成のために差し出したのです。」
神の選び:
だいぶ以前のことですが、ある老齢のイタリアの修道女が教えてくださった詩があります。
彼女は、クリスマスの直前にイタリア・ウンブリア地方の小さな街で黙想会を行い、わたしはそこで説教をしました。このことを結びとしたいと思います。
この詩の題名は "Bellezza" ( “ 美 ” )といい、特別の使命のためにマリアを召された神の選びについて語ります。
笑わないで、兄弟よ、姉妹たちよ、
肩をすくめないで…
わたしたちの神は魅力的で、どんな時でもなさることに不可能は無い。
神は、一人の女性目を留め、彼女を愛し、
そして、顔を見る前にすら愛してくださる神は、
彼女の心の奥にある美しさを捜し求める。
神は、名も無い小さな家族の女性に、
宮殿から遠く離れて住む家族の女性に目を留められた。
台所で働く人々、
卑しく、忘れ去られた多くの人々、
声を上げることなく、貧しさに慣れた人々の家族。
神は彼女に目を留め、その美しさに気付かれた、
愛されている人のように、彼女は神に結ばれた…
生涯を通し、死に至るまで。
今から後、いつの世の人も 彼女を幸いな者と言うだろう。
神は、一人の女性に目を留められた。彼女の名はマリア。
自らを与える女性として、彼女は信じ、
あの夜、洞窟の中で、痛みに叫び声を上げ、
その胎から、神はお生まれになった。
神は、救いと平和を手にしてお生まれになった、永遠の宝のように。
彼女は、自分を捧げて悔いることのない女性、
自分を包む全ての闇にもかかわらず、
自分を満たす全ての疑いにもかかわらず。
今から後、彼女の名は讃えられるだろう、神に受け入れられた女性として…
神に自分を捧げた女性として…、マリア、彼女はわたしたちの一人。
そして、神は、彼女に星の冠を授け、太陽の衣を纏わせ、
その足下に月を置かれた。
彼女の名はマリア、
もし、あなたが彼女の主に目を留めるなら、この地上を満たしている女や男の中に、そのような美を見出すだろう。
Experiencing the Possibility of the Impossible
Biblical Reflection for 4th Sunday of Advent C By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, DEC. 15, 2009 ( Zenit.org ) .- The Infancy Narrative of Luke's Gospel contains some of the most touching, well-known biblical scenes in the New Testament.
Not only does the annunciation of the Baptist's beginnings precede that of Jesus ( 1:5-24 ) , but the birth of John the Baptist precedes Jesus' birth ( 1:26-38 ) . The announcement to Mary of the birth of Jesus ( Luke 1:39-45 ) is parallel to the announcement to Zechariah of the birth of John.
In both stories the angel Gabriel appears to the parent who is troubled by the vision ( Luke 1:11-12, 26-29 ) , and then told by the angel not to fear ( Luke 1:13, 30 ) . After the announcement is made ( Luke 1:14-17, 31-33 ) the parent objects ( Luke 1:18, 34 ) and a sign is given to confirm the announcement ( Luke 1:20, 36 ) . The particular focus of the announcement of the birth of Jesus is on his identity as Son of David ( Luke 1:32-33 ) and Son of God ( Luke 1:32, 35 ) .
In the very personal scene of Mary's visitation to Elizabeth ( 1:39-45 ) , the Precursor and the Lord are both hidden from each other. Yet even before the two women embrace, John leaped for joy in his mother's womb, having recognized the presence of the Lord and Messiah in the womb of Mary.
Both births are hailed by two beautiful canticles: the Benedictus sung by Zechariah, father of the Baptist, at his son's birth ( 1:68-79 ) , and the "Nunc Dimittis" prayed by Simeon, the "righteous and devout" man in the Jerusalem temple, as he takes the infant Jesus in his arms ( 2:22-35 ) .
The two pregnant women of today's Advent gospel, Mary and Elizabeth, recognized in each other signs from God. The angel Gabriel offered Mary a lesser parallel to her own virginal conception: "Know that Elizabeth your kinswoman has conceived a son in her old age; she who was thought to be barren is now in her sixth month, for nothing is impossible with God" ( Luke 1:36 ) .
Elizabeth in her turn senses in the movement of the child in her womb on Mary's arrival that something extraordinary was happening. "Who am I that the mother of my Lord should come to me?" Each of the women experienced in herself the possibility of the impossible.
Trust in God
The visitation of Mary to Elizabeth turned out to be a divine visitation, the Ark of God bringing not terror but blessing as it did to the house of Obededom the Gittite ( 1 Samuel 6:9-11 ) .
Unlike Sarah, who had laughed at the notion that she could conceive and bear a child in her old age to Abraham ( Genesis 18:12 ) , and unlike Zechariah, her husband, who had been struck dumb for questioning God's power in this matter ( Luke 1:8-20 ) , Elizabeth gives thanks to God and trusted in his providence: "So has the Lord done for me at that time when he has seen fit to take away my disgrace before others" ( Luke 1:25 ) . Mary, for her part, deserved to be acclaimed by Elizabeth as "she who trusted that the Lord's words to her would be fulfilled."
Although Mary is praised for being the mother of the Lord and because of her belief, she reacts as the servant in a psalm of praise, the Magnificat. The Magnificat celebrates the wonders of God's graciousness in the lives not only of these two Advent women but of all for whom "the Mighty One has done great things" ( Luke 1:49 ) .
There are two aspects of today's Visitation scene to consider. The first is that any element of personal agenda of Mary and Elizabeth is put aside. Both had good reason to be very preoccupied with their pregnancies and all that new life brings. Both women had a right to focus on themselves for a while as they made new and radical adjustments to their daily lives. Mary reaches out to her kinswoman to help her and also to be helped by her.
These two great biblical women consoled each another, shared their stories, and gave each other the gift of themselves in the midst of the new life that they must have experienced: Elizabeth after her long years of barrenness and now sudden pregnancy, and Mary, after her meeting with the heavenly messenger, and her "irregular" marriage situation and pregnancy.
The second point to consider is Mary's quick response and movement. Luke tells us that she undertook "in haste" the long and perilous trek from Nazareth to a village in the hill country of Judea. She knew clearly what she wanted and did not allow anyone or anything to stop her.
In his commentary on Luke's Gospel, St. Ambrose of Milan describes this haste with a difficult Latin phrase, "nescit tarda molimina Spiritus Sancti gratia,"
which could mean: "the grace of the Holy Spirit does not know delayed efforts," or "delayed efforts are foreign to the grace of the Holy Spirit." Mary's free choice to move forward and outward reflects a decision taken deep within her heart followed by immediate action.
Procrastination
How many things exist in our lives that we dreamed of doing, should have done, and never did -- letters that should have been written, dreams that should have been realized, gratitude that was not expressed, affection never shown, words that should have been spoken, etc.? Postponements and delays weigh heavily upon us, wear us down and discourage us.
They gnaw away at us. How true St. Ambrose described Mary's haste: The Spirit completely possessed the Virgin Daughter of Nazareth and compelled her to act.
The story of the Visitation teaches us an important lesson: When Christ is growing inside of us, we will be led to people, places and situations that we never dreamed of. We will bear words of consolation and hope that are not our own.
In the very act of consoling others, we will be consoled. We will be at peace, recollected, because we know that however insignificant our life and issues seem to be, from them Christ is forming himself.
The women of today's Gospel show us that it is possible to move beyond our own little, personal agendas and engage in authentic ministry and service in the Church. Ministry and service are not simply doing things for others. Authentic Christian ministers and servants allow themselves to serve and be served, taught, cared for, consoled and loved. Such moments liberate us and enable us to sing Magnificat along the journey, and celebrate the great things that God does for us and His people.
Consider these words of Blessed Mother Teresa of Calcutta ( 1910-1997 ) : "In the mystery of the Annunciation and the Visitation, Mary is the very model of the life we should lead.
First of all, she welcomed Jesus in her existence; then, she shared what she had received. Every time we receive Holy Communion, Jesus the Word becomes flesh in our life -- gift of God who is at one and the same time beautiful, kind, unique.
"Thus, the first Eucharist was such: Mary's offering of her Son in her, in whom he had set up the first altar.
Mary, the only one who could affirm with absolute confidence, 'this is my body,' from that first moment offered her own body, her strength, all her being, to form the Body of Christ."
God's choice
Let me conclude with these thoughts given to me years ago by an elderly Italian religious sister who made a retreat I preached in a small Umbrian town in Italy just prior to Christmas.
The poem is entitled "Bellezza" meaning "Beauty," and speaks about God's choice of Mary for a special mission.
Don't smile, brothers and sisters,
And don't shrug your shoulders:
Our God is fascinating and what he does always surpasses the impossible.
God looked upon a woman and loved her,
And he who loves even before looking at the face
Seeks the beauty that lies in the heart.
God looked upon a woman who was from the race
Of the little ones without name,
Those that live far away from palaces.
Those who work in kitchens,
Those who come from the numbers of the humble and the forgotten,
Those that never open their mouths and who are accustomed to poverty.
God looked upon her and found her to be beautiful,
And this woman was joined to him as if she were his beloved --
For life and for death.
From now on all generations will call her blessed.
God looked upon a woman. Her name was Mary.
As a woman who gives herself, she believed,
And during the night, in a grotto, she cried out with pain,
And from her womb God himself was born,
Brining with him salvation and peace, like treasures for all eternity.
As a woman who surrenders herself and never regrets it,
She believed against all the obscurity that enveloped her,
Against all the doubts that filled her.
From now on her name will be sung, because God took her
And she gave herself to him, she, Mary, one of us.
And God crowned her with stars and robed her with the sun,
And under her feet God placed the moon.
Her name is Mary,
and if you looked upon her Lord, it is because on Our earth filled with women and men, you found such beauty.
朗読:
ミカ 5:1~4:(主は言われる)エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。5:4 彼こそ、まさしく平和である。
ヘブライ 10:5~10:(皆さん)キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。
ルカ 1:39~45:そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
*第二朗読ヘブライ 10:7の詩篇の引用箇所:詩篇 40:5-7:いかに幸いなことか、主に信頼をおく人/ラハブを信ずる者にくみせず/欺きの教えに従わない人は。わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます。あなたは生贄も、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。