娘シオンよ、喜び叫べ!
待降節第 3 主日聖書黙想 20 09/12/13 トマス・ロシカ師
待降節は、悔い改めのときではなく、反対に喜びのときです。クリスマスは、救い主が実際に来られ、神のみ国が近づいていることを宣言します。この待降節の日々、私たちは、人となられた神の御子の到来に備えて、心と生活を整えるよう招かれています。
ガウデテ(喜び)の日曜日として知られる待降節第 3 の日曜日にあたり、今日の聖書朗読から、二つの重要なテーマに焦点を当ててみようと思います。それはすなわち、「娘シオン」という表現と、「喜べ」(ゼファニア 3:14 )が何を意味するのか、という二つのテーマです。
*「喜びの日曜」は、入祭文 “Gaudete in Domino semper” :「主にあっていつも喜べ。重ねて言う。
喜べ。主は近づいておられる。」(フィリピ 4: 4 ‐ 5 )により、こう呼ばれる。
今日の第1朗読、預言者ゼファニア( 3:14-18a-20 )の豊かな文章は、 「 シオンの娘 」 について語りま
す。この表現は、 「 エルサレムの都 」 の擬人化です。エルサレムの聖なる都につけられた名前の意味を考えてみましょう。そして如何に、何故に教会は、マリアに、主の母という称号を与えたのか、その理由を考えてみましょう。
「 シオンの娘 」 は、 「 エルサレムの都 」 の擬人化です。シオンは、(ダビデに征服される前のエルサレムの住人)エブス人の要塞の名前で、それは後に 「 ダビデの都 」 となりました「シオンの娘 」 について語る旧約聖書の多くの文章は、 「 シオンの娘 」 とエルサレムとを区別していません。
旧約聖書の中では、 「 イスラエルの処女 」の称号 は、 「 シオンの娘 」 と同じ意味で用いられています。主の花嫁のイメージはホセア 1 〜 3 章に現われます。それは、イスラエルの民の神への忠実さを反映しています。
エレミア書 3:3-4 は、売春と花嫁の不貞を語ります。旧約聖書において処女性とは、神との契約への忠実さなのです。 2 コリント 11:2 でパウロは、教会を純潔な処女として語ります。ここでの処女性とは、信仰の純粋さのことです。
*エレミヤ 3:3-4 :お前には遊女の額があり/少しも恥じようとしない。「あなたは、わが父、わたしの若い日の夫」と/お前がわたしに呼びかけるのは/今が初めてだろうか。
*2コリント 11:2 :わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。
旧約聖書全体を通じて、神がその民すべてを集めるのは、シオン、すなわちエルサレムです。
イザヤ 35:10 では、イスラエルの諸部族はシオンに集まる、と語り、エゼキエル 22:17-22 の預言者は、神がエルサレムの都の城壁の “ 真ん中で ” その民を清める様を語ります。
*イザヤ 35:10 :主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。
*エゼキエル 22:17-22 :主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの家はわたしにとって金滓のようになった。彼らは炉の中で、みな銀、銅、錫、鉄、鉛などであった。ところが、彼らは金滓となってしまった。それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちがみな金滓となったので、わたしはお前たちをエルサレムの真ん中に集める。銀、銅、鉄、鉛、錫が炉の中に集められ、火を吹きつけて溶かされるように、わたしも怒りと憤りをもってお前たちを集め、火を吹きつけて溶かす。わたしがお前たちを集め、わたしの怒りの火を吹きつけると、お前たちはその中で溶ける。 22:22 銀が炉の中で溶けるように、お前たちもその中で溶ける。そのとき、お前たちは主なるわたしが、憤りをお前たちの上に注いだことを知るようになる。」
このエルサレムの町の真ん中を表すのに用いられているヘブライ語は、 "beqervah," で、この単語は、人の心の奥底にある、深く、また個人的なものを意味する動詞の原形 "qerev" を基に形成されています。この言葉はまた、母の子宮、腸、乳房、人間の内部を意味し、知恵、霊、悪意、主の掟が宿る人の魂の秘められた内奥を意味します。ですから、エルサレムという都は、救いの歴史の中で 明確に母の役割を 持っているのです。
キリスト教の伝統の中で
第二バチカン公会議は、教会憲章 "Lumen Gentium" (No. 52) において、 マリアを「シオンの娘 」 と公式に呼びました。教会が主の母にこの称号を贈ったのには、豊かな聖書上の裏づけがあります。マリアは、救い主と、新しい神の民との双方の母として、終末論の中での女性の役割を果たすという、旧約聖書の預言の証しとなりました。
「シオンの娘」という呼び名は、世の救いであるシオンという聖書上の偉大な象徴を想起させます。 マリアは、救い主と、新しい神の民との双方の母として、終末論の中での女性の役割を果たすという、旧約聖書の預言の証しとなりました。すなわち、特定の個人と民全体とが、イスラエルの文化的構造によって、緊密に結びつきます。
預言者たちにとって、シオンの娘は、契約を守るとき主の配偶者となりました。シオンの娘としてのマリアの役割については・・・さらに言えば、神の民の生活におけるマリアの全ての「役割」については・・・キリストと聖霊から切り離して理解することはできません。そして、それは、キリストが十字架上の死によって、全人類に授けたものです。
「教会憲章」には、すべての神学とマリア信心は、キリストの神秘と教会の神秘に属するものであるとあります。シオンの娘マリアは、花嫁であり、処女であり、母である教会の原型です。それは、生物学的に処女であるばかりでなく、霊的にも処女であることで、聖書への忠実、他者への率直、信仰における純粋を意味します。
ヨハネ 2:1-12 の、カナの婚宴におけるマリアの僕たちへの言葉は、新しい神の民の一人になるようにと全ての人々に向けられた招きです。マリアは、新しい「シオンの娘」です。なぜならマリアは、主イエスに完全に従うようにと僕たちを招いているからです。この新しいシオンの娘は、カナで全ての人々にそのことを表明しました。
カナにおいても、カルワリオにおいても、(ヨハネ福音書によると)マリアは、自分の母性と、息子との肉親の繋がりだけでなく、「女性」としての、また「神の民の母」としての、非常に象徴的な役割を果たしています。カルワリオにおけるマリアは、ヨハネ福音のどの個所よりも一層「シオンの母」的になっています。マリアの霊的な母性は、十字架の下で目覚めたのです。
「シオンの母」として、マリアが受け入れ、象徴しているのは、イスラエルだけではありません。教会、すなわち新約の神の民も受け入れ、象徴しているのです。
マリアは十字架の下で、新しい救い主の民の母、キリストにおいて一つになるすべての人々の母となりました。
イエスをその胎内に育てたマリアは 、今、神の聖なる民の集いの席に着いています。マリアは、新しいエルサレムです。マリアの胎内に神殿があり、すべての民族がその神殿に集め戻されます。
神殿とは、マリアの御子のことです。イエスの母は、散らされた神の子どもの母なのです。
マリアは教会の母です。マリアはシオンの長女として、神の国へと旅するすべての神の民を導きます。
私が思い出すのは、 2008 年 10 月に開催された「教会の生活と使命における神のみ言葉」に関する司教会議で、 ケベック市の Marc Ouellet 枢機卿が行った、感銘深い開会演説の中の言葉です。
「マリアという女性は、契約の言葉と自分の使命に「はい」と答えることで、神が人間に示された召命を完全に達成しました。その聖なる母性と、自身の霊の内なる母性によって、マリアは、最初の教会がそうであったように、時を超えて、教会の模範となっているのです。」
主において喜べ
今日の第2朗読で、聖パウロは、主において常に喜びなさいと命じています。(フィリピ 4 : 4 ‐ 7 、 2:18 、 3:1 : 4.4) 喜び・・・聖パウロが私たちを招き、そして待降節の 中心をなっている 喜び・・・。
しかし、私たちは自らに問わねばなりません。迫害されているキリスト者は、何を喜ぶべきだったのでしょうか。
その答えは、主とその人々との関係の中に隠されています。その関係は、迫害されるときにより強く、より緊密になり得るのです。その状況は喜びをもたらしません。(しかし)実のところ、状況がどのようであっても喜びはあるのです。むしろ、喜びは主のうちにあるのです。
真の喜びは、神との深くて変わらぬ関係から生じます。その関係は、信じる者をあらゆる試練と迫害を通して支えます。主において喜ぶことは、崇敬の一方法であり、崇敬は、しばしば祈りの形をとります。いつも喜んでいることは、常に神への祈りと賛美につながります。
パウロは、祈りを語った後に感謝について語ります。それは、 「 祈り 」 という言葉が、神への願いのひとつの形、なんらかの方法での自分や他の人へのとりなしを意味するからでしょう。
喜びの反対
喜びと幸せの反対は、悲しみではなく、無感覚です。それはシニシズム(冷笑)、霊的貧しさ、心と精神の狭さを通して示されます。
それがどのような感じのものか多くの人が知っています。それは消費文化が作り出す無感覚と、満たされない心の状態です。それは、およそ意味のない選択によってわたしたちの感覚に刺激を与え、わたしたちを攻め立てる一方で、心の奥底にある目的を満たすことなく、飢え渇きのままに残すのです。
次に来るのが、嫉妬、羨望・・・そして、自分が訳もなく、悪い選択をしたために何も得られなかったという、あの焦りの感情がやってきます。そして、他の人が、神に根ざして多くのことをなし得たのを見て嫉妬し、羨ましくなるのです。これは決して新しい現象ではありません。
そのような無感覚と不満から逃れたいという願望は、昔、荒れ野で生活を始めた人々(男女)の動機の一つでした。彼らは、権力、資産、快楽の追求が行動の規範となる世界を拒否しました。
彼らは、いのちと喜びの源泉に身を置くために荒れ野に入り、絶え間ない祈りを通して真の自分を見出しました。自分の文化が幸福と定義するものに対して、空しさを感じ、別の道を選んだのです。
教皇ヨハネ・パウロU世の言葉で結びましょう。キリスト者の喜びについて語る使徒的勧告 "Gaudete in Domino:" ( 主にあって喜べ ) の中の言葉です。
「(マリアは、)神がすばらしい業を成し遂げられることを、他の誰よりもよくご存知です。神の御名は聖なるものです。神はご自分の憐れみを示します。神は貧しい者を立ち上がらせ、ご自分の約束を誠実に守ります。
マリアは、ふつうの生活から目立って外れることなく、かすかな神のしるしについてよく考え、心に納め、思い巡らしていました」 (ルカ 2:19; 51 )
「マリアは、苦しみから逃れず、罪のない僕の犠牲による卓越した道に寄り添い、悲しみの母として十字架の下に立ちます。しかし、彼女はまた、復活の喜びに無限に開かれていて、身体も魂も、天の栄光のうちに引き上げられます。」
「初めに贖われた御方、無原罪の懐胎、聖霊の比類のない住処(すみか)、人類の贖い主の真の住処として、マリアは神の愛する娘であり、同時に、キリストにおいて全ての人の母です。彼女は、地上と天上の、二つの教会の完全な模範です。」
待降節にあたり、洗礼者ヨハネの生き方が、わたしたちの中の荒れ野を花園に変え、空しさを、カトリックの豊かな意義と経験で満たすのに必要な力と勇気を与えられますように。
パウロの大胆さと、 「 シオンの処女 」マリア の模範が、わたしたちに、まもなく来られる主においてどのように喜ぶかを教えてくださいますように。
Shout for Joy, O Daughter Zion!
Biblical Reflection for Third Sunday of Advent C By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, DEC. 8, 2009 (Zenit.org).- Advent, far from being a penitential time, is a time of rejoicing. Christians proclaim that the Messiah has indeed come and that God's reign is at hand. During these days we are invited to quietly prepare our hearts and our lives for the coming of the Son of God in the flesh.
On this third Sunday of Advent -- known as Gaudete Sunday, the Sunday of rejoicing – I would like to focus on two important themes found in today's scripture readings: the biblical expression "Daughter of Zion" and what it means to "rejoice."
The rich text of today's first reading from the Prophet Zephaniah [3:14-18a-20] speaks of the Daughter of Zion, the personification of the city of Jerusalem. Let us reflect on the significance of this title of the holy city of Jerusalem and see how and why the Church appropriated the title for Mary, Mother of the Lord.
Daughter of Zion is the personification of the city of Jerusalem. Zion was the name of the Jebusite citadel that later became the City of David. In the many texts of the Old Testament that speak of the Daughter of Zion, there is no real distinction to be made between a daughter of Zion and the city of Jerusalem itself.
In the Old Testament, the title Virgin of Israel is the same as the Daughter of Zion. The image of the bride of the Lord is found in Hosea, Chapters 1-3: It reflects the infidelity of the people to their God.
Jeremiah 3:3-4 speaks of prostitution and the infidelity of the bride. Virginity in the Old Testament is fidelity to the Covenant. In 2 Corinthians 11:2, Paul speaks of the Church as a pure virgin. Here, virginity is the purity of faith.
Throughout the Old Testament, it is in Zion-Jerusalem that God shall gather together all of his people.
In Isaiah 35:10, the tribes of Israel shall gather in Zion. In Ezekiel 22:17-22, the prophet describes God's purification of his people that shall take place "within" the walls of the city, in the midst of Jerusalem.
The Hebrew word used to describe this inner section of the city is "beqervah," a word formed from the root "qerev" meaning something deep, intimate, situated deep within a person. It also means the maternal womb, the intestines, the breast, the insides of a person, the most secret area of one's soul where wisdom, spirit, malice and the Law of the Lord dwell. Therefore, the city of Jerusalem has a definite maternal function in the history of salvation.
In the Christian Tradition
The Second Vatican Council formally called Mary "Daughter of Zion" in the dogmatic constitution on the Church "Lumen Gentium" (No. 52). The Church's appropriation of this title for the Mother of the Lord has a rich Scriptural foundation. Mary illustrates the prophecies of the Old Testament that ascribed value to the eschatological role of woman as mother both of the Messiah and of the new people of God.
The title Daughter of Zion evokes the great biblical symbolism of the Messianic Zion. Mary illustrates the prophecies of the Hebrew Scriptures which ascribed value to the eschatological role of woman as mother both of the Messiah and of the new people of God: the individual person and the whole people being very closely united, in line with the cultural structures of Israel.
For the prophets, the Daughter of Zion was the spouse of the Lord when she observed the covenant. Mary's role as Daughter of Zion, or for that matter any of her ROLES in the life of God's people, can never be understood independently of Christ and of the Spirit, which he bestows upon all humanity in dying on the cross.
"Lumen Gentium" says that all theology and Marian piety belong to the mystery of Christ and to the mystery of the Church. Mary, Daughter of Zion, is the archetype of the Church as Bride, Virgin and Mother. It is not only biological virginity, but also spiritual virginity, which means fidelity to the Scriptures, openness toward others, and purity in faith.
Mary's words to the servants at the wedding banquet in Cana (John 2:1-12) are an invitation to all peoples to become part of the new people of God. Mary is the new "Daughter of Zion" because she has invited the servants to perfectly obey Jesus the Lord. At Cana this new Daughter of Zion has given voice to all people.
Both at Cana and at Calvary (in John's Gospel), Mary represents not only her maternity and physical relationship with her son, but also her highly symbolic role of Woman and Mother of God's people. At Calvary, more than any other place in the fourth Gospel, Mary is "Mother Zion": her spiritual maternity begins at the foot of the cross.
As "Mother Zion," she not only welcomes and represents Israel, but the Church, the People of God of the New Covenant.
At the foot of the cross, Mary is the mother of the new messianic people, of all of those who are one in Christ.
She who bore Jesus in her womb now takes her place in the assembly of God's holy people. She is the new Jerusalem: In her own womb was the Temple, and all peoples shall be gathered back to the Temple, which is her Son. The Mother of Jesus is indeed the Mother of all of God's scattered children. She is Mother of the Church. Mary is the first Daughter of Zion, leading all of God's people on the journey toward the Kingdom.
I cannot help but recall the words of Cardinal Marc Ouellet of Quebec City, in his profound, opening address to the Synod of Bishops on "The Word of God in the Life and Mission of the Church" in October 2008:
"A woman, Mary, perfectly accomplishes the divine vocation of humanity by her 'yes' to the Word of Covenant and her mission. Through her divine motherhood and her spiritual motherhood, Mary appears as the permanent model and form for the Church, like the first Church."
Rejoice in the Lord
In today's second reading, St. Paul tells us to rejoice in the Lord always [Philippians 4:4-7; see also Philippians 2:18; 3:1;4.4). The rejoicing to which St. Paul invites us, and which forms the heart of the Advent season. But we must ask ourselves, what did persecuted Christians have to rejoice about?
The answer is their relationship with the Lord, which can even become stronger and more intimate in times of persecution. Their joy is not in their circumstance; indeed it is often in spite of their circumstance. Rather it is in the Lord.
Sheer joy arises out of a deep and abiding relationship with God that carries the believer through all sorts of trials and tribulations. Rejoicing in the Lord is a sort of adoration, and adoration often takes the form of prayer. Rejoicing constantly leads to praying and praising repeatedly.
Since Paul refers to giving thanks after he mentions prayer, it is probable that the term "praying" refers to petitioning God in some form, perhaps interceding for self and others in some manner.
The opposite of rejoicing
The opposite of rejoicing and happiness is not sorrow, but deadness that often manifests itself through cynicism, meanness of spirit and smallness of mind and heart.
Many of us know what that feels like: the deadness and dissatisfaction induced by a consumer culture that stimulates our senses and bombards us with largely meaningless choices, while leaving us starved for some deeper purpose.
Then there is jealousy, envy, and that gnawing feeling that we have accomplished so little because we have been so poorly motivated and made some bad choices. And when we realize that others have been able to do much because they have been rooted in God, we become jealous and envious. These are not new phenomena!
The desire to escape such deadness and dissatisfaction was one of the motives of the early desert fathers and mothers. They rejected a world whose agenda was defined by the pursuit of power, property, and pleasure.
They went into the desert to tap into the source of life and joy, and discover their own true selves through constant prayer. Having found the emptiness of what their culture defined as happiness, they sought another way.
Let me conclude with the words of Pope Paul VI in his wonderful apostolic exhortation on Christian joy, "Gaudete in Domino:"
"[Mary] has grasped, better than all other creatures, that God accomplishes wonderful things: His name is holy, He shows His mercy, He raises up the humble, He is faithful to His promises.
Not that the apparent course of her life in any way departs from the ordinary, but she meditates on the least signs of God, pondering them in her heart (Luke 2:19; 51).
"Not that she is in any way spared sufferings: she stands, the mother of sorrows, at the foot of the cross, associated in an eminent way with the sacrifice of the innocent Servant. But she is also open in an unlimited degree to the joy of the resurrection; and she is also taken up, body and soul, into the glory of heaven.
"The first of the redeemed, immaculate from the moment of her conception, the incomparable dwelling-place of the Spirit, the pure abode of the Redeemer of mankind, she is at the same time the beloved Daughter of God and, in Christ, the Mother of all. She is the perfect model of the Church both on earth and in glory."
This Advent, may the example of John the Baptist give us the strength and courage necessary to transform our deserts into gardens, and our emptiness into rich Catholic meaning and experience. May the boldness of St. Paul and the example of Mary, Virgin Daughter of Zion, teach us how to rejoice in the Lord, whose coming is very near.
朗読
ゼファニア 3:14-18a: 娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな/力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
フィリピ4:4-7: (皆さん)主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
ルカ 3:10-18:3:10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
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