赦しと救いを体験する
待降節第 2 主日 ( A 年) 聖書黙想 2010/12/5 トマス・ロシカ師
今日の聖書朗読では、待降節の 3 人の良き案内人(イザヤ、洗礼者ヨハネ、マリア)のうち 2 人が、世の救い主を喜んで迎える準備をするにはどんな態度がふさわしいのかを示してくれています。
最初に登場するのはイザヤです。イザヤは、慰めの預言者であり、希望を歌う者です。イザヤの預言 ( 11:1-10 ) からの田園詩風の朗読は、エッサイの根から育った若枝と、その株から萌え出た若芽について語ります( 1 節)。これは、バビロン捕囚の後にはダビデ王家という切り株しか残らないという事実を語っているのです。その切り株から、新しい芽、救世主である王が萌えいでます。この 2-3 節では、聖霊の賜物に対する伝統的な呼び方の原点を見ることができます。
楽園を田園詩的な調和のうちに描いたイメージ( 6-9 節)は、救い主の世の普遍的な正義と平和をドラマチックに象徴しています。待降節の期間を通して、イザヤは、バビロンに捕囚されているイスラエルの民に真実で誤りのない福音を宣言します。そして人々に、祈りを怠らないように、また、救い主の到来の「しるし」を認めるように促します。
天の国は近づいた
次に登場するのは、救い主の先駆けである洗礼者ヨハネ(マタイ 3:1-12 )です。ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ声」と紹介され、「罪の赦しのための悔い改めの洗礼」を宣べ伝えます。ルカと違い、マタイは、この洗礼者の素性について何も言っていませんし、彼をイエスの親戚にもしていません。
マタイは、マルコ福音書に書かれたイエスの宣教の順序に従い、洗礼者ヨハネの(イエスを迎える)準備の説教で始めています。この洗礼者は、心と行いを変えること、すなわち、神に逆らう生活を、神に従うものに変えるよう求めます。それは、すでに世に示されている救い主を認めるための唯一の条件です。天の国は近づいた…の「天国」(正確には、複数形の ”heavens” )は、当時の敬虔なユダヤ人たちが畏敬の念で避けていた「神」という呼び名の代わりに使われています。
「天の国」という表現は、マタイの福音にしか出てきません。それは、その民を、神が実質的に統治していることを意味します。その支配が満ちるとき、人が、神の御言葉に従順であるばかりでなく、神が、肉の悪に打ち勝ち、究極的には死にも打ち勝つのです。ユダヤの黙示文学に見られる待望論の中で、罪人が裁かれ滅びる審判によって天の国に導かれるという期待が、洗礼者ヨハネによって伝えられたのです。これは、後のキリスト教理解の中で修正されました。そこでは、天の国は段階的に築かれ、イエスの再臨( parousia )で最高潮に達するものとされています。
ヨハネの衣
マタイは、洗礼者ヨハネを最初のキリスト教の説教者として登場させています。エリヤの再現のような衣(列王記下 1:8 )を身にまとったヨハネは、神が人類と新しい関わりを持とうとしていると厳かに宣言します。当時、神の王国の最終的な顕現に備えてイスラエルに心の準備をさせるために、エリヤが天の国から戻って来るという期待が拡がっており、マタイによれば、この期待が、洗礼者ヨハネの宣教において成就したのです。
訳注: 列王下 1:8 「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。
清めの儀式は、紀元前 150 年から西暦 250 年頃まで、パレスチナの様々な集団の間で行われていました。ヨハネの洗礼は、死海沿岸のクムラン教団のエッセネ派の清めの洗礼と関係があったのかも知れません。ヨハネの洗礼は、回心して新しい考え方と生き方を取り入れることを要求する悔い改めの洗礼です。
ファリサイ派、サドカイ派、そしてわたしたち
今日の福音の朗読箇所に出てくるファリサイ派とサドカイ派というありそうもないとり合わせは、こういった改心への願望があった証拠です。ファリサイ派は、文字や口伝による律法の厳守がその特徴で、法律の専門家、つまり律法学者のほとんどは、このグループに属していました。
サドカイ派は、エルサレムを中心とする祭司の貴族階級の集団でした。彼らは、旧約聖書の最初の五書しか聖書として認めず、律法の文言にのみ従い、口伝による律法の伝統を拒絶し、死者の復活のようなモーセ五書に無い教えには反対していました。
マタイは、この二つのグループを、イエスの敵として関連付けます。このあとのヨハネの恐ろしい言葉は、ルカ 3:7 にあるように「群衆」に向けたものというよりは、むしろこのグループに向けられています。「差し迫った神の怒り」とは、悔い改めない罪人に破滅をもたらす裁きのことです。
地上の日々の終わり、すなわち死の瞬間に、わたしたちは、イエスの御言葉を受け入れたか、イエスの生涯に倣ったかによって評価されます。神は、わたしたち一人一人を、イエスの足跡に従い、イエスがしたように、自らの存在を愛の賜物にするよう呼んでいます。洗礼者ヨハネは、洗礼を受けに来た群衆の中に居たファリサイ派とサドカイ派にしんらつな言葉を投げかけたときに、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言っています。愛の実りとはその実のことなのです。
マタイ 3:11 には、聖霊による洗礼について書かれています。ヨハネの水による洗礼には、浸礼(全身を水に浸す洗礼の形式)が伴い、悔い改める人たちは神の霊の清めの力に浸かり、また、悔い改めない人たちは神の裁きの破壊の力に浸かることになります。しかし、聖霊と火は同義語であるとして、「洗礼」の効果は清めか破壊のどちらかなのだと考える人もいます。善と悪との区別は、農夫が麦と殻を分ける手順に例えられます。(マタイ 3:12 ) もみ殻を吹きわける団扇は、フォークのような形をしたシャベルです。これで、脱穀した麦は空中に投げあげられます。すると、穀粒は地面に落ちます。そして、軽いもみ殻は、風にとばされ、集められて、焼き払われます。
使命
ヨハネに与えられた全使命は、救い主の到来の準備です。ヨハネは、弟子たちが自分のもとに来て、イエスの洗礼の意味について心配し、尋ねたときに、確信を持ってこう答えました。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」 ( ヨハネ 3:27 ) ヨハネは、「わたしは花婿の介添え人、すなわち、主人が栄えると衰えねばならない者に過ぎない。」と言っています。洗礼者ヨハネは、自分の人間性に限界があることを明らかにします。時が来て、ヨハネは自身の弟子たちをイエスのもとへと導き、彼らに、メシア、真の光、世の罪を取り除く神の子羊を指し示したのです。イエスご自身のヨハネに対する証言で、ヨハネは、イスラエルの英雄のうちでもっとも偉大な者となります。(マタイ 11:7-19 ;ルカ 7:24-35 )
訳注:「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない ( ヨハネ 3:29-30 )
訳注:マタイ 11:11 「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」
ヨハネは、自分がイエスにとって、奴隷にも及ばない存在と考えていました。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」 ( マタイ 3:11 )
ヨハネは同時代の人々に赦しと救いを体験させていましたが、自分自身は、唯一の救い主メシアではないということをよくよく知っていました。わたしたちは他の人に、神を、赦しを、救いを、体験させることができるでしょうか?
群衆がヨハネのもとに来て尋ねます。「では、わたしたちはどうすればいいのですか。」洗礼者ヨハネは、遠回しに言ったりしません。正確に核心をついて言うべきことを言います。ヨハネは、自分が今居る世界がいかに不確かなものであろうとも、そこを去ってはいけないと忠告します。そうしないで、二着の上着を持つ者はその一着を上着のない人に分け与えるよう命じました。同様に、たくさんの食べ物を持つ者たちは、飢えている人々に分け与えるようにと命じました。
徴税人は、規定以上のものは取り立ててはいけない。兵士は、だれからも暴力や偽りの告発によって金品を奪ってはならない。自分の給料に満足しなさい…。 では差し迫ったメシアの到来に備えて、人々はどうするべきなのでしょうか。寛大で、公平で、正直で、感謝の心で、憐み深くしなければいけないのです。 ( ルカ 3:10-14 ) .
訳注:ルカ 3:10-14 「そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。」
永久のメッセージ
イスラエルの預言者とは、神の御言葉の伝達者、解説者となるように、神からの呼びかけを受け取った者のことです。預言者に示された御言葉が、その口を否応なしに開かせます。預言者は、また共同体の良心であり、民族の良心でもあります。エゼキエルは、預言者は見張り人のようだと言っています。見張り人は外にいて、共同体に起こるかも知れないことを警戒し、警告を発し、あらゆる人の注意を喚起しようと試みます。「物事が間違った方向に進んでいる。」、あるいは、「わたしたちは危険に直面している。わたしたちは変わらなければならない。自分を護る準備が出来ていなければいけない。」などと警告します。預言者とは、多分、他の人たちより先を見て、起こっていることの裏にある意味が分かる人なのでしょう。
預言者はしばしば、神の怒り、神の憐れみ、神の悲しみ、神の失望、神の嫌悪、民に対する神の感受性、そして神の真剣さを共有します。預言者は、これを抽象的に共有するのではなく、その時代の具体的な出来事についての神の感情を共有するのです。洗礼者ヨハネはこのようなタイプの預言者でした。ヨハネは遠回しに言ったりしません。正確に核心をついて、言うべきことを言います。わたしたちは、自分の言葉、考え、行動が一貫せず、あいまいな態度をとることがよくあります! わたしたちは、この時代と教会が抱える争点や重大な疑問点を避けてしまうことがとよくあります! イスラエルの真の預言者は、わたしたち自身の暮らしの中にあるすべての形の二重性に、いかに立ち向かったら良いかの模範となるものです。
洗礼者ヨハネは、何世紀にもわたり、あらゆる世代に語りかけています。偉大な預言者の「声」が、わたしたちに主の道を整えるよう求めています。主は、現代の外面と内面の荒れ野にやって来られます。その荒れ野は、いのちの水であるキリストを渇き求めているのです。
ヨハネを思い起こすわたしたちが、真の回心に導かれますように。そして、わたしたちの思いと暮らしが福音と調和したものになるために、必要な選びができますように。
「神の御言葉」( "Verbum Domini" )
この待降節にあたり、みなさんの暮らしの中で主の道を整えるすばらしい方法を提案させてください。それは、最近バチカンから出版されたベネディクト 16 世の使徒的勧告「神のことば」( "Verbum Domini" )を読むことです。この大切な文書は、 2008 年 10 月に開催された「教会の生活と宣教における神のことば」に関する大変重要な司教会議の結実です。これから数ヶ月間、わたしは、この使徒的勧告の特定の箇所を、一週間毎に読むことを提案します。
訳注:使徒的勧告「神のことば」( "Verbum Domini" )は 2010/11/11 に発表されたばかり。
今週は、「御言葉のキリスト論」( "Christology of the word" )の# 11 を取り上げましょう。
「すべての現実を、神の御言葉による三位一体の作品として一瞥すると、ヘブライ人への手紙の筆者の声明を理解することができます。『神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。多くの多様な方法の中に、神は往時我々の父祖に預言者によって語りました。しかし、今日の末日には、神はこの御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。』(ヘブライ 1:1- 2 )」
「神がご自分の言葉を伝える歴史として、旧約聖書のすべてを、どのようにわたしたちに示されたかを見るのはとても素晴らしいことです。事実、神は、「アブラハムとの契約によって」、 ( cf. 創世記 15:18 ) また、モーセを通し、イスラエルの種族によって、 ( cf. 出エジプト 24:8 ) ご自分のために一つの民を獲得されました。そして彼らに対して、神は、ご自分が唯一の、生ける真の神であることを、言葉と行いによって啓示されました。」
「イスラエルの民が、神の人類に対する方法(接し方)を体験によって学ぶようになるであろうこと、それは神のご計画でした。そして、預言者を通して語る神の声を聴くことにより、神の方法を一層深く、はっきりと理解するようになり、それらを諸国民の間にさらに広く知らせるようになるであろうこと、それも神のご計画でした。 ( cf. 詩編 22:28-29; 95:1-3; イザヤ 2:1-4; エレミヤ 3:17 ) ." 」
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聖書朗読:
イザヤ 11:1-10 : 平和の王 11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち 11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。 11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。 11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 11:5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。 11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。 11:7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。 11:9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。 11:10 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
ローマ 15:4-9 : (自分ではなく隣人を喜ばせる) 15:4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。 15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、 15:6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
(福音はユダヤ人と異邦人のためにある) 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。 15:8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、 15:9 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。
マタイ 3:1-12 : (洗礼者ヨハネ、教えを宣べる) 3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」 3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。 3:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
Experiencing Forgiveness and Salvation
Biblical Reflection for 2nd Sunday of Advent, Year A, Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, NOV. 30, 2010 ( Zenit.org ) .-
In today's Scripture readings, two of the three outstanding Advent guides ( Isaiah, John the Baptist and Mary ) show us the proper attitude to assume as we prepare to welcome the Savior of the world.
First there is Isaiah, the prophet of consolation and singer of hope. The idyllic reading from the prophet Isaiah ( 11:1-10 ) speaks of a shoot that will sprout from the stump of Jesse, and from his roots a bud shall blossom ( v 1 ) . This is a reference to the fact that after the Babylonian Exile only a stump of the Davidic dynasty would remain; from it would arise the new shoot, the messianic King. In verses 2-3 we have the source of the traditional names of the gifts of the Holy Spirit.
An image of the idyllic harmony of paradise ( vv 6-9 ) is a dramatic symbol of the universal peace and justice of messianic times. Throughout this season of Advent, Isaiah proclaims a true and proper Gospel for the people of Israel, enslaved in Babylon, and urges them to remain vigilant in prayer, to recognize "the signs" of the coming of the Messiah.
Kingdom at hand
Then there is John the Baptist ( Matthew 3:1-12 ) , the precursor of the Messiah, who is presented as a "voice crying in the wilderness," preaching "a baptism of repentance for the forgiveness of sins." Unlike Luke, Matthew says nothing of the baptist's origins and does not make him a relative of Jesus.
Matthew takes up the order of Jesus' ministry found in the Gospel of Mark, beginning with the preparatory preaching of John the Baptist. The baptist calls for a change of heart and conduct, a turning of one's life from rebellion to obedience toward God. It is the only condition for recognizing the Messiah already present in the world. The kingdom of heaven is at hand: "heaven" ( literally, "the heavens" ) is a substitute for the name "God" that was avoided by devout Jews of the time out of reverence.
The expression "the kingdom of heaven" occurs only in the Gospel of Matthew. It means the effective rule of God over his people. In its fullness it includes not only human obedience to God's word, but the triumph of God over physical evils, ultimately over death. In the expectation found in Jewish apocalyptic, the kingdom was to be ushered in by a judgment in which sinners would be condemned and perish, an expectation shared by the Baptist.
This was later modified in Christian understanding where the kingdom was seen as being established in stages, culminating with the parousia ( second coming ) of Jesus.
John's wardrobe
Matthew presents John the Baptist as the first Christian preacher. Wearing the clothes of a latter-day Elijah ( 2 Kings 1:8 ) , John solemnly proclaims that God is undertaking a new involvement with humankind. The expectation of the return of Elijah from heaven to prepare Israel for the final manifestation of God's kingdom was widespread, and according to Matthew this expectation was fulfilled in the Baptist's ministry ( Matthew 11:14; 17:11-13 ) .
Ritual washing was practiced by various groups in Palestine between 150 B.C. and A.D. 250. John's baptism may have been related to the purificatory washings of the Essenes at Qumran along the shores of the Dead Sea. John's is a baptism of repentance requiring the convert to adopt a new way of thinking and acting.
Pharisees, Sadducees and us
The unlikely combination of Pharisees and Sadducees in today's Gospel passage is evidence of this desire to reform ( Matthew 3:7 ) . The Pharisees were marked by devotion to the law, written and oral, and the scribes, experts in the law, belonged predominantly to this group. The Sadducees were the priestly aristocratic party, centered in Jerusalem. They accepted as scripture only the first five books of the Old Testament, followed only the letter of the law, rejected the oral legal traditions, and were opposed to teachings not found in the Pentateuch, such as the resurrection of the dead.
Matthew links both of these groups together as enemies of Jesus. The threatening words that follow are addressed to them rather than to "the crowds" as in Luke 3:7. The "coming wrath" is the judgment that will bring about the destruction of unrepentant sinners.
At the end of our days on earth, at the moment of death, we will be evaluated on our acceptance of Jesus' words and imitation of his life. God calls each of us to follow in Jesus' footsteps, making our existence, as he did, a gift of love. And the fruit of love is that fruit which "befits repentance," to which John the Baptist refers while he addresses cutting words to the Pharisees and Sadducees among the crowds who had come for baptism.
In Matthew 3:11 we hear of the baptism with the Holy Spirit.
The water baptism of John will be followed by an "immersion" of the repentant in the cleansing power of the Spirit of God, and of the unrepentant in the destroying power of God's judgment. However, some see the Holy Spirit and fire as synonymous, and the effect of this "baptism" as either purification or destruction. The discrimination between the good and the bad ( Matthew 3:12 ) is compared to the procedure by which a farmer separates wheat and chaff. The winnowing fan was a forklike shovel with which the threshed wheat was thrown into the air. The kernels fell to the ground; the light chaff, blown off by the wind, was gathered and burned up.
The mission
John's whole mission was a preparation for the Messiah's coming. When his own disciples came to him and were troubled about the meaning of Jesus' baptizing in the Jordan, he answered them confidently: "No one can receive anything except what is given them from heaven." John says that he is only the friend of the bridegroom, the one who must decrease while his master increases ( John 3:25-30 ) . The baptizer defined his humanity in terms of its limitations. When the time had come, John led his own disciples to Jesus and indicated to them the Messiah, the True Light, the Lamb of God who takes away the sins of the world. Jesus' own testimony to John makes the Baptizer the greatest of all Israelite heroes ( Matthew 11:7-19; Luke 7:24-35 ) .
John considered himself to be less than a slave to Jesus: "I baptize you with water for repentance, but one who is more powerful than I is coming after me; I am not worthy to carry his sandals. He will baptize you with the Holy Spirit and fire" ( Matthew 3:11 ) .
John gave the people of his time an experience of forgiveness and salvation, knowing full well that he himself was not the Messiah, the one who could save. Do we allow others to have experiences of God, of forgiveness and of salvation?
The crowds came to John and asked him, "What then shall we do?" The baptist didn't mince words. He got right to the point and said what needed to be said. He advised no one to leave the world they are in, however ambiguous it may be. Rather he told those with two coats to share one with those who had none. Likewise those with an abundance of food were to share with the hungry. Tax collectors were told to collect no more than was appointed to them. Soldiers were to rob no one by violence or by false accusation. They were to be content with their wages. What were people to do to prepare for the imminent coming of the Messiah? To be generous, just, honest, grateful and compassionate ( Luke 3:10-14 ) .
A perennial message
The Israelite prophet is one who has received a divine call to be a messenger and interpreter of the Word of God. The word that came to the prophet compelled him to speak. The prophet is also the conscience of a community and the conscience of a nation. Ezekiel tells us a prophet is like the watchman, the person who is out there watching for what might happen to the community, issuing a warning, trying to alert everyone: "Things are going the wrong way" or "We're in danger. We have to change. We have to be ready to protect ourselves." The prophet is the one who sees farther, perhaps, than others, and the one who sees implications in what is going on.
At times prophets shared God's anger, God's compassion, God's sorrow, God's disappointment, God's revulsion, God's sensitivity for people, and God's seriousness. They did not share these things in the abstract; rather, they shared God's feelings about the concrete events of their time. This is the type of prophet that John the Baptist was. He didn't mince words. He got right to the point and said what needed to be said. How often our words, thoughts and actions are incoherent and ambiguous! How often do the skirt the issues and great questions of our time and of our Church! The true prophets of Israel model for how to counter all forms of duplicity in our own lives.
John the Baptist continues to speak down the centuries to every generation. The "voice" of the great prophet asks us to prepare the way of the Lord, who comes in the external and internal wildernesses of today, thirsting for the living water that is Christ.
May the memory of John guide us to true conversion of heart, so that we may make the necessary choices to harmonize our mentalities and lives with the Gospel.
"Verbum Domini"
May I suggest to you a wonderful way to prepare a way for the Lord in your own lives this Advent? Read Benedict XVI's apostolic exhortation "Verbum Domini" ( The Word of the Lord Abides Forever ) that was recently published by the Vatican. This important document is the culmination of the very important Synod of Bishops on the Word of God in the Life and Mission of the Church that took place in October 2008. For the next months, I will be suggesting particular sections of the apostolic exhortation to read during the week.
This week, I suggest section #11 on the "Christology of the word": "From this glimpse at all reality as the handiwork of the Blessed Trinity through the divine Word, we can understand the statement made by the author of the Letter to the Hebrews: 'in many and various ways God spoke of old to our fathers by the prophets; but in these last days he has spoken to us by a Son, whom he appointed the heir of all things, through whom also he created the world' ( 1:1-2 ) .
"It is very beautiful to see how the entire Old Testament already appears to us as a history in which God communicates his word: indeed, "by his covenant with Abraham ( cf. Genesis 15:18 ) and, through Moses, with the race of Israel ( cf. Exodus 24:8 ) , he gained a people for himself, and to them he revealed himself in words and deeds as the one, living and true God.
"It was his plan that Israel might learn by experience God's ways with humanity and, by listening to the voice of God speaking to them through the prophets, might gradually understand his ways more fully and more clearly, and make them more widely known among the nations ( cf. Psalm 22:28-29; 95:1-3; Isaiah 2:1-4; Jeremiah 3:17 ) ."