洗礼者ヨハネ、待降節の逆説(的存在)
待降節第 2 主日聖書黙想 20 09/12/6 トマス・ロシカ師
ダンテ・アリギエーリ ( Dante Alighieri 、 1265 - 1321 ) が、「キリストの穏やかさの代書人」と呼ぶこの福音史家(ルカ)は、 今日の福音の中で、 救いの普遍性という彼のテーマを提示しています。ルカはこのテーマを、福音書の前の部分でもシメオンの言葉のうちに告げています。 ( ルカ 2 : 30-32 )
ルカはここに、旧約聖書における預言者の召命のかたちで、洗礼者ヨハネを登場させ(ルカ 3 : 2 )、
またマルコ 1 : 3 にあるイザヤ書からの引用(イザヤ 40 : 3 )と、これに続く 2 節(ルカ 3 : 5 − 6 )を付け加えました。
さて、今日読まれる預言者の叫び声の物語でルカが示す、歴史的な細部のいくつかについて考えてみましょう。
ティベリウス・カエサルは、西暦 14 年にアウグストスを継いで皇帝となり、西暦 37 年までその地位にありました。その統治の 15 年目の年は、西暦 27 年と 29 年の間と考えられます。一方、ポンティオ・ピラトは、西暦 26 年から 36 年までユダヤの総督でした。
ユダヤの歴史家ヨセフス( Josephus )は、ポンティオ・ピラトを、強欲で無慈悲な総督として記述しています。ピラトは土地のユダヤ人とその宗教的慣習には無関心でした。(ルカ 13 : 1 ) また、ここに登場するヘロデは、 4 B.C. から A.D. 39 年までガリラヤとペレアを治めたヘロデ大王の子息、ヘロデ・アンティパスのことです。
ルカは、洗礼者ヨハネの叫びを、その時代の民間のリーダーの言葉として紹介すると同時に、パレスチナの宗教的指導者であるアンナスとカイアファの大祭司職にも言及しています。
アンナスは、西暦 6 年から 15 年まで大祭司でした。しかし、ローマによって職をおろされ、その後、一族のいろいろな人が後を継ぎましたが、結局は、娘婿のカイアファがその後継者となりました。カイアファは、西暦 18 年から 36 年まで大祭司でした。およそこのような歴史的背景の中で、神の言葉が、ユダヤの荒れ野のヨハネに降ったのです。
新約聖書の記者のうちで、洗礼者ヨハネの説教を神からの呼びかけに関連づけているのはルカだけです。福音史家ルカは洗礼者ヨハネを、同様の呼びかけで使命に目覚めた(昔の)預言者たちと同じであると見做しているのです。その後ルカは、イエスの洗礼の記述の前にヨハネの収監の記述を配することで、イエスの役割と洗礼者ヨハネの役割を区別しています。(ルカ 3:19-21-22 )
ルカは、 自らが救いの歴史の節目節目を理解するために、 表現方法を工夫しています。洗礼者ヨハネによって、約束の時、イスラエルの時代は終わりを告げます。そして、イエスが洗礼を受け、イエスの上に聖霊が下った時から、成就の時、イエスの時代が始まります。
第二の著作、使徒言行録の中で、ルカは、救いの歴史における第三の時、教会の時代を紹介します。ルカ 7:26 の中で、洗礼者ヨハネは「預言者以上の者」として記述されることになります。
彼、ヨハネは、イエスの先駈け(ルカ 7 : 27 )であり 、預言と契約が実現する時代を開く変革者でもあります。
民衆の期待を記述 ( ルカ 3:15 ) する際、ルカは、ヨハネの説教の時を、イエスの幼時の物語の中での敬虔なイスラエル人たち(註:シメオンと女預言者アンナ)の様子を記述したのと同じ方法で、特徴づけています。 ( Luke 2:25-26, 37-38 )
ルカ 3:7-18 には、洗礼者ヨハネの説教が記されています。彼は群衆に、来るべき神の怒りについての認識を改めるよう促します。 ( ルカ 3:7, 9 ) 彼はまた群衆に、社会的行動を変革するための基準を示します。 ( ルカ 3:10-14 ) そして彼は群衆に、彼よりも力ある方の到来を告げるのです。 ( ルカ 3:15-18 )
真正性
イスラエルの真の預言者は、あらゆる形の二重性に対する戦いにおいて、わたしたちの助けとなります。洗礼者ヨハネは、真正を保つための優れた守護聖人です。わたしたちの言葉、考え、行動は、実に一貫性に欠けています! まさにこの待降節の逆説が洗礼者ヨハネの内に示されています:
それは、この悪の時代の暗闇の中に明確に示されている、来るべき神の勝利です。
洗礼者ヨハネは、荒れ野で神の解放の言葉を聞き、体験し、その中で生きました。だから、それを他人にあのように効果的に説教できたのです。彼の生活とメッセージが一致していたからです。
彼の言葉には曖昧さがありませんでした。洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫んで、荒れ野の静寂を破ります。
単に、「悔い改めよ」、生き方を変えよ、ではなく、悔い改めて天国の到来に準備をせよ、というのです。その到来は、わたしたちの安定を根本から揺るがし、平和に保とうとする全ての物事をひっくり返します。待降節の喜びと課題とは、イエス・キリストのうちにわたしたちの神が到来する、ということであり、神への心のうずきと待望が満たされる時なのです。
しかし、到来する神は、わたしたちの心をかき乱します。
洗礼者のメッセージの内容は、政治的な公正さといった類のものではありませんでした。彼は要点を突いて、言うべきことを述べました。彼は、分かち合うために最初に彼の下に来た人々に語りました。収税吏には、正しくあるように、と。 兵士には、平和をもたらすように、と。
洗礼者ヨハネは、同時代の人々に向け、また、わたしたちの時代に向けて、「メシアは、偽り、絶望、暗闇、そして死の権力からわたしたちを救い、わたしたちを、平和と和解の道に引き戻し、わたしたちが神に立ち返る道を見つけるために来られる。」と教えました。
洗礼者ヨハネの生涯と宣教活動は、わたしたちが召命を全うし、光の中で生きるのに必要な事を全て行うために、どれほど救い主を必要としているかを想起させます。わたしたちは、道、真理、いのちである御方が、わたしたちの間に居られるというのに、一向に気付きません。
これこそが「待降節とは何か」を物語るものです。それは、神へ立ち戻る道を見出すことです。
内なる荒れ野の変容
待降節の神秘は、「変容」にあり、単に告げ知らせるだけものではありません。待降節は、待つことと急ぐこと、苦しむことと喜ぶこと、判決と解放、黙示的苦悩と終末論的希望・・・の、逆説的な組合せの中にあります。不幸なことに、わたしたちは刹那的な満足感を求める文化の中にいるため、希望が完全に満たされることはありません。真に待降節にふさわしい希望とは、(今は)満たされない希望を、確かに信じて生きることにあるのです。
神は、荒れ野に高速道路を造る技術者であり、そこを花園に変える庭師でもありますが、今は、昔からの希望にあふれた救いの約束への新しい展望を描き出す画家です。神への希望は静止していません。なぜなら、イザヤが指摘するように、わたしたちは休みなく新たな活動を続ける神に希望を置くからです。神への希望は、生活のカオスと混乱の中で、しっかりと堅く保たれているでしょうか?
神の御言葉によって、わたしたちはどのように生きるのでしょうか?
神の沈黙の中で、わたしたちはどのように生きるのでしょうか?
待降節が教えてくれるのは、自分の心が十分な時間だけ静寂を保てるなら、全て期待通りではないにしても、わたしたちの生活の荒れ野に高速道路を引き、そこを、不思議と生命と美のオアシスに変容させてくださる神を見出すだろう、ということです。
旧約聖書全般を通して、神は、水をもたらす方、あるいは水を止める方として語られます。それは、水が貴重で、管理されるべき必需品であることを分かり易く示すイメージです。
第一世界(先進国)に住む多くの人々は、旱魃がどのようなものか知りません。水道から供給される水は、わたしたちの存在の拠りどころである神のイメージを妨げます。それと同様に電気は、人間が暗闇を制御しているという錯覚をもたらします。
それらは皆、待降節に心を寄せるわたしたちの日々の経験を妨げるものです。それらの日々に、わたしたちは、神への依存に立ち帰り、神を渇望する心を取り戻し、待ち望む夜の彼方に神の到来を見たいと願っているのです。
待降節のメッセージは、全てが粉々になることではなく、また、「神は天に居られ、すべて、世は事もなし」 ということでもありません。むしろ、待降節のメッセージとは、道徳の不動の指針となっていた星が揺らぎ、地獄の全てが地上を席捲するとき、洗礼者ヨハネの慰めのメッセージが再び響き渡るということです。
「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(ルカ 3:4-6 )
イエスの誕生を以ってさえも、エルサレムとイスラエルはなお、その贖いを待ち望んでいることを、わたしたちは学びます。世界は今も、飢餓、戦争、抑圧、暴力、迫害、苦難からの自由を待ち望んでいます。わたしたちは皆、わが身の贖いを待ち望んでいます。待降節は、わたしたちが待ち望む道のりを見つめるよう促します。神を待ち望む道のり、そして希望を託す道のりです。
待降節の希望の源泉は何処に? 誰にあるのでしょうか?
洗礼者ヨハネの生涯は、来るべき御方イエス・キリストをさし示す指のイメージに要約できます。
もし、わたしたちが、今日の世界で道を整えるヨハネの役割を担うならば、わたしたちの生活もまた、生きた証しとしての「さし示す指」となり、「イエスは見つけることが出来、すぐ近くにおられる」ことを、身をもって示す存在となることでしょう。
イエスは、わたしたちの望み、希望、待望の実現です。イエスだけが、わたしたちの命の荒れ野を活き活きとした美しい花園に変え、世界に豊かさをもたらす場所へと変容させることができます。
来てください、主イエス! わたしたちはかつてない程に、今、あなたを必要としています!
John the Baptist, the Paradox of Advent
Biblical Reflection for Second Sunday of Advent C By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, DEC. 1, 2009 ( Zenit.org ) .-
In today's Gospel text, the evangelist who Dante Alighieri called the "scriba manuetidinis Christi" ( scribe of the gentleness of Christ ) , presents his theme of the universality of salvation, which he announced earlier in the words of Simeon ( Luke 2:30-32 ) .
He does this by casting the call of John the Baptist in the form of an Old Testament prophetic call ( Luke 3:2 ) , and by using the quotation from Isaiah found in Mark 1:3 ( Isaiah 40:3 ) , and adding the next two verses in Luke 3:5-6.
Let us consider several historical details offered by Luke in today's prophetic call story.
Tiberius Caesar succeeded Augustus as emperor in A.D. 14 and reigned until A.D. 37. The 15th year of his reign would have fallen between A.D. 27 and 29. Pontius Pilate was prefect of Judea from A.D. 26 until 36.
The Jewish historian Josephus describes him as a greedy and ruthless prefect who had little regard for the local Jewish population and their religious practices ( Luke 13:1 ) . The Herod who is mentioned is Herod Antipas, the son of Herod the Great who ruled over Galilee and Perea from 4 B.C. to A.D. 39.
Luke not only situates the call of John the Baptist in terms of the civil rulers of that period, but he also mentions the high priesthood of Annas and Caiaphas, the religious leadership of Palestine.
Annas had been high priest from A.D. 6-15. After being deposed by the Romans in A.D. 15, he was succeeded by various members of his family and eventually by his son-in-law, Caiaphas, who was high priest from A.D. 18-36. Against the backdrop of this sweeping history, the word of God came to John in the Judean desert.
Luke is alone among the New Testament writers in associating the preaching of John with a call from God. The evangelist thereby identifies John with the prophets whose ministries began with similar calls. Later on, Luke separates the ministry of John the Baptist from that of Jesus by reporting the imprisonment of John before the baptism of Jesus ( Luke 3:21-22 ) .
Luke uses this literary device to serve his understanding of the periods of salvation history. With John the Baptist, the time of promise, the period of Israel, comes to an end; with the baptism of Jesus and the descent of the Spirit upon him, the time of fulfillment, the period of Jesus, begins.
In his second volume, the Acts of the Apostles, Luke will introduce the third epoch in salvation history, the period of the Church. In Luke 7:26, John will be described as "more than a prophet"; he is also the precursor of Jesus ( Luke 7:27 ) , a transitional figure inaugurating the period of the fulfillment of prophecy and promise.
In describing the expectation of the people ( Luke 3:15 ) , Luke is characterizing the time of John's preaching in the same way as he had earlier described the situation of other devout Israelites in the
infancy narrative ( Luke 2:25-26, 37-38 ) .
In Luke 3:7-18, Luke presents the preaching of John the Baptist who urges the crowds to reform in view of the coming wrath ( Luke 3:7, 9 ) , and who offers the crowds certain standards for reforming social conduct ( Luke 3:10-14 ) , and who announces to the crowds the coming of one mightier than he ( Luke 3:15-18 ) .
Authenticity
The true prophets of Israel help us in our struggle against all forms of duplicity. John the Baptist is the patron saint par excellence of authenticity. How often our words, thoughts and actions are incoherent! Combined in John the Baptist is the very paradox of Advent: the coming triumph of God manifest precisely in the darkness of the present evil age.
John the Baptist heard, experienced and lived God's liberating word in the desert and was thus able to preach it to others so effectively because his life and message were one. He certainly didn't mince words. John the Baptist shatters the silence of the wilderness with his cry: "Repent, for the kingdom of heaven has come near."
Not just "repent," change the way we live, but repent and prepare for the coming of the kingdom of heaven, which will upset all our securities and overturn anything we try to leave in place. The joy and the challenge of Advent is that in Jesus Christ our God is coming, and our aching and longing for God will be met. But this God who comes is disturbing.
There was nothing politically correct about the Baptist's message. He got right to the point and said what needed to be said. He told the first people who came to him to share. He told the tax collectors to be just. He told the soldiers to make peace.
The Baptist taught the people of his day and our day that the Messiah comes to save us from the powers of duplicity, despair, darkness and death, and to put us back on the path of peace and reconciliation so that we might find our way back to God.
John the Baptist's life and mission remind us how badly we need a Savior to save us, in order that we might be all that we are called to be and do all that we have to do to live in the Light. So often we fail to recognize the one among us who is our Way, our Truth and our Life. This is what Advent is all about: finding our way back to God.
Transformation of our deserts :
Advent is a mystery that transforms and not simply informs. Advent remains with its paradoxical combination of waiting and hastening, suffering and joy, judgment and deliverance, apocalyptic woe and eschatological hope. Unfortunately for our culture of instant gratification, hope requires incompleteness. To hope, in the true Advent fashion, is to live with the certainty of unfulfilled desire.
The God who was a highway engineer making new ways through the wilderness, a gardener turning deserts into flower gardens, is now the artist painting a new perspective of the age-old messianic promise of hope. Hope in God cannot stand still, because -- as Isaiah reminds us, we hope in a God who is constantly doing a new thing. Does our hope in God hold fast in the face of chaos and confusion in our life? How do we live with the Word of God? How can we live with the silence of God?
Advent teaches us that if we are quiet in our hearts long enough, we will discover the God still carves out highways and turns the desert places of our lives into oases of wonder, life, beauty, even though nothing will be as we expected. Any transformation of the wilderness depends on water.
Throughout the Old Testament, God is spoken of as the one who gives or withholds water -- an image easily understood by people for whom water is a precious and controlled commodity. Few of us in the First World have an idea of drought. Our water piped into our homes deprives us of an image of God as the one on whom our very existence depends; similarly, electricity deludes us in to thinking we have the darkness under control.
Together they rob us of daily experiences that could give vibrancy to the Advent invitation to revisit our dependence on God, to revisit our desire for God and to discover through the night of waiting that God does indeed come.
The message of Advent is not that everything is falling to pieces. Nor is it that God is in heaven and all is therefore well with the world. Rather the message of Advent is that when every fixed star on the moral compass is wavering, when all hell is breaking loose on earth, we hear once again the Baptist's consoling message:
"Prepare the way of the Lord, make his paths straight. Every valley shall be filled, and every mountain and hill shall be made low, and the crooked shall be made straight, and the rough ways made smooth; and all flesh shall see the salvation of God."
Yet even with the birth of Jesus, we learn that Jerusalem and Israel still awaited their redemption. The world still awaits its freedom from hunger, war, oppression, violence, persecution and suffering. We all await our redemption. Advent challenges us to look at the ways that we wait, the ways that we long for God, and the ways that we hope. What and who is the source of our Advent hope?
John the Baptist's life can be summed up in the image of a finger pointing to the one who was coming: Jesus Christ. If we are to take on John's role of preparing the way in today's world, our lives also will become the pointing fingers of living witnesses who demonstrate that Jesus can be found and that he is near.
Jesus is the fulfillment of our longing, our hoping and waiting. Jesus alone can transform the deserts of our lives into living gardens of beauty and nourishment for the world.
Come, Lord Jesus! We need you now more than ever!
朗読
バルク 5:1-9 :(略)
1 フィリピ 1:4-6, 8-11 :(皆さん、わたしは、)あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
ルカ 3:1-6 :皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。こで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」