待降節 : 眠り (催眠) から覚めるとき

待降節第 1 主日 ( A 年 ) 聖書黙想  2010/11/28   トマス・ロシカ師

 

待降節は、典礼暦に従って、世の終わりのイエスの到来を祝うものです。世の終わりにはイエスがおいでになり、王として統治されます。

 

この時期は、主として究極の勝利の中での「神の到来」を祝います。待降節第1主日 A の三つの聖書朗読によって、わたしたちは、はるか遠い未来のことのように見えるキリストの再臨(最期の到来)が、今の時点に影響を及ぼしているのだという時間の感覚を身につけるよう強く求められます。

 

意外な救いの未来像

今日の第一朗読のイザヤの預言 2:1-5 は、背筋が寒くなるような内容です。イザヤが描いているのは、美しくも意外な未来像、すなわち、エルサレムや聖地のみならず、人類すべての救い、正義、平和なのです。「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。/国々はこぞって大河のようにそこに向かい/多くの民が来て言う。/『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。/主はわたしたちに道を示される。/わたしたちはその道を歩もう』と。/主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。」 2:2-3

 

救い主の王国では、預言者たちは主の家を権威の座、明快で確実な教義の源泉と見なしています。その掟は、すべての民が喜んで受け入れ、霊的な裁きによって保たれ、普遍的平和に貢献します。この一節は、ミカ書 4:1-3 にそのままの意味で出てきます。ことによると、ミカ書を書いたのは、確かではありませんがイザヤかもしれません。

訳注:ミカ 4:1-3 「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」
 

イザヤ書の朗読は、待降節の始まりに実にふさわしいものです。何故なら、わたしたちはこれからの数週間、本当に巡礼の旅に出るからです。わたしたちは、主に至る長い長い旅をします。その旅の目的は、わたしたちが神を讃え、神がベトレヘムの幼子のうちに何処まで深い愛を示そうとしておられるのかを覚るためです。

 

催眠状態のわたしたち

第二朗読の聖パウロのローマの教会への手紙 13:11-14 で、この異邦人への使徒は、「キリスト者は、キリストの再臨と共に夜明けを迎える新しい日の民となることを強く求める。」と言っています。

11 12 節で、パウロは、ローマのキリスト者たちを、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。」と励ましています。

 

「眠り」 sleep に対するギリシャ語は hypnos です。( 11 節) この文に出てくる「眠り(催眠術にかかる)」( be hypnotized )という概念全体がパウロの創作だと言うことはできませんが、それでも、わたしたちは、悪の呪縛の下で暮らす日常生活にすっかり慣れてしまっていることは事実です。それはあたかも、自分自身では識別することも追い払うことも出来ない外側からの力によって催眠術をかけられているようなものです。

この待降節の間に、自分にこう問いかけてみましょう。「わたしたちが、気づかずに経験している催眠状態とは何だろうか?」 「肉」の罪( 14 節後半)とは、性的な罪ばかりでなく、キリストにおいて始まったいのちをもたらす聖霊の働きに反するものはすべて罪なのです。闇の行いを脱ぎ捨て、主の到来を信じて待ち望むにふさわしい振る舞いに集中するべきです。

 

ノアの時代

今日のマタイの福音朗読によれば、ノアと同時代の人々は洪水に備えていませんでした。彼らは食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。彼らは、時の終わりを知るときまで、そのことを夢想だにしませんでした。ノアの時代の人々は、日々の事柄に捉われすぎていたために、洪水への警戒を怠ったのです。警戒の必要を思い出させるために、ここで三つのたとえ話が語られます。キリストの再臨は「思いがけない時に来る」のですから。

 

「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」 24:40-41 という節では、多分二人のうちの前者は神の国に連れて行かれ、後者は、残されて破滅に向かうことになるのでしょう。

同じ状況にある人たちが、正反対に扱われることになります。この文脈で、二人の扱いの差は、人の子の到来に対する準備の有無に基づいています。警戒と準備というテーマは、大胆にも、人の子を家に押し入る泥棒になぞらえて展開されます。

 

時の重要性

時は、キリスト者にとって待降節の祝いの中心にあるものです。この季節はわたしたちに、信仰の神秘はイエスの再臨で初めて完成するのだということを思い起こさせます。わたしたちはいま、復活、昇天、聖霊降臨の「時」と、キリストの再臨の「時」の間に生きています。わたしたちは、時の問題をどう扱えばいいのでしょうか? キリストは、そのような時が来ると警告を与えています。わたしたちは、ノアが箱舟に入って扉を閉めるその日まで人々が言っていたように、「何も知りません。」とは言えません。

 

わたしたちは、準備し、目を覚ましていることが必要です。ちょうど、警報機が住人を目覚めさせるように、待降節は、生活の中で眠ってしまいそうなキリスト者を目覚めさせます。わたしたちが、もはや難しい問いを発しなくなり、もはや聖書から神の答えを求めなくなったなら、その時こそ目覚めるべき時です! 待降節は、わたしたちに責任を自覚させ、それを達成するよう求めます。待降節は、わたしたちに関係性に気を配り、困窮者に手を差し伸べ、いのちの賜物を愛おしみ、祈りの時間をとるようにと強く求めます。こうしてキリストの再臨は、今この場で、わたしたちの一つ一つの呼吸や鼓動に目的とエネルギーを与える出来事になるのです。

 

キリストの到来

待降節が神を変化させることはありません。待降節は、神が、預言者たちや油注がれたものたちの約束を果たされるだろうというわたしたちの願いと期待を深めてくれます。わたしたちは、救いの約束を今この場で見て感じたいという欲張った要求に神が応じてくれるよう祈ります。キリスト者であるわたしたちは、キリストの到来を宣言します。最初の到来だけでなく、最初の時よりもはるかに栄光に満ち溢れたもう一度の到来をも宣言します。

最初の到来は、苦しみを堪え忍ぶというしるしのもとに訪れました。しかし、二回目の到来では、それとは逆に、神の国の冠をつけたキリストを見ることになります。しかしながら、その一方では、イエスとイエスを信じるすべての者たちにとって、十字架の苦しみが必要です。

 

懐胎の時期

今年の待降節前夜に当たる 11 27 日土曜日の夕べ、ベネディクト 16 世は、聖ペトロ大聖堂で、待降節第一主日の前晩の祈り(第一晩課)に合わせ、「生まれようとする人間のいのちのための前晩の祈り」を行います。教皇は、「わたしたちがクリスマスの準備をするこの時期は、存在するように呼ばれているあらゆる人類に神の保護を求め、両親から受けたいのちという賜物を神に感謝するのにふさわしい時です。」と言っています。

 

「生まれようとする( Nascent )」は、日常、そう頻繁に使われる言葉ではありません。それは、やがて生まれる人間のいのちを指していることは明らかですが、そこには、他に、「将来有望な」 promising 、「育ちつつある」 growing 、「希望に満ちた」 hopeful といった意味が含まれています。待降節に入ると、わたしたちの考えは自然にキリストの到来への希望と期待に集中します。キリストは、最初は「やがて生まれる子供」として、小さく、傷つきやすく、母親の保護と世話を必要とする状態でわたしたちのもとにやってきました。

 

ベネディクト 16 世は、世界中にこの前晩の祈りを呼びかけています。そして、クリスマスに祝うキリストにおける新しいいのちへの希望と約束に心を集中するようにとわたしたちを招きます。またそれだけでなく、世界中で毎年およそ 5000 万もの中絶が行われているという悲しい現実を認めるようにとわたしたちを招いています。生命がいとも簡単に捨てられています。現代の多くの人たちは、この現実の前で、本当に催眠術をかけられているのです。その生命がわたしたちの邪魔をするとか、わたしたちを困らせるとか、生活を変えなければならないとかの口実で、わたしたちは、胎内の生命を亡きものにする理由と手段を正当化します。わたしたちが自覚しないままに経験する、人間のいのちに相反する催眠状態とは何なのでしょうか。

 

待降節は、年間の他のどの時にも優って示唆に富んだ季節です。わたしたちは、神の投影(似姿)である「いのち」の意味についての信仰と希望を新たにする必要があります。この「生まれようとするいのち」のための祈りは待降節の初めに行われます。このタイミングで行われることで、わたしたち各々の、そしてすべての人間のいのちという神からのすばらしい賜物を思い出させてくれることは、幸いな巡り合わせです。

 

吟味する

メシアを切望し、待ち望むこの聖なる季節の始まりにあたって、自分の人間としての生き方を再吟味し、ノアの時代に日々のことがらに捉われて洪水に備えようとしなかった人々のようにならないようにしましょう。待降節は、わたしたちが特別な吟味をしなければならないことを思い起こさせます。何か新しいことが起ころうとしているのです。

 

この待降節の日々に祈りましょう。いのちの父である神よ、どうか、いのちに反する罪を犯したすべての人々を憐れんでください。母の子宮にわたしたちを生みつけてくださったアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイエスの神よ、すべての子供たちを、受胎のその瞬間から、存在を害するものより守ってください。

 

神の子、マリアの子であるナザレのイエスよ。あなたは、シオンの娘の胎のうちに人となられ、すべての人間のいのちを尊いものにしてくださいました。どうか、わたしたちの心を照らし、あらゆる人間のいのちの尊厳を、その最初の瞬間から理解することができるようにしてください。

 

苦しむ人々、病気の人々、打ち砕かれた人々、そして嘆き悲しむ人々を愛したナザレのイエスよ。

どうか、障がいを持って生まれて来る子供たちの両親を強め、その世話に頼る幼子を大切に育てられるようにしてください。

 

日々、罪人を赦してくださる主よ。どうか、罪のない人間のいのちに反する行いをしたすべての人々を、悔い改めと赦しに導き、溢れる恵みで彼らを癒してください。

 

イスラエルの神よ、救い主キリストを待ち望むわたしたちの心を強め、愛のうちに成長する力を与えて下さい。そして、キリストが到来する夜明けには、キリストを目の当たりにして喜びに溢れ、その真理の光を進んで迎え入れることができますように。

 

第二の到来を持ち望む

この季節に、エルサレムの聖キュリロスの言葉を忘れないようにしましょう。

「キリストは、最初の到来の時は亜麻布にくるまれて飼い葉桶に寝かされました。第二の到来の時には光の衣を身にまとうことでしょう。最初の到来の時は、恥辱を受け入れて十字架の苦しみに耐えました。第二の到来の時は、天使の軍団に囲まれて栄光のうちにあることでしょう。ですから、最初の到来で留まることなく、第二の到来を待ち望みましょう。」

 

「わたしたちは、キリストの最初の到来の時には、『ほむべきかな、主の名によりて来る者』という言葉で歓び迎えました。そして、第二の到来の時も同じように迎えることでしょう。わたしたちは、主とその天使たちを迎えるために出かけて行き、主の前でひれ伏して叫ぶことでしょう。『ほむべきかな、主の名によりて来たる者』と。」

 

 

 


聖書朗読:

 

イザヤ2 :1-5 : 終末の平和 2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。 2:2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。 2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。 2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

 

ローマ 13:11-14a : 救いは近づいている 13:11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 13:12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。

 

マタイ 24:37-44 : 目を覚ましていなさい(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

  24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 24:38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 24:39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 24:40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 24:41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 

 


Advent: A Time to Wake From Our Hypnotic Sleep

Biblical Reflection for 1st Sunday of Advent, Year A, by Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, NOV. 23, 2010 Zenit.org .- The Advent season in its liturgical observance is devoted to the coming of God at the end of history when Jesus shall reign as king.

 

The time is chiefly a celebration of "the coming of God" in ultimate triumph. Our three Scripture readings for the first Sunday of Advent Year A challenge us to adopt a timetable in which the seemingly distant parousia final coming impinges on the present moment.

 

An unexpected vision of salvation

The first reading from the prophet Isaiah 2:1-5 sends chills up and down our spines today. The prophet describes a beautiful and rather unexpected vision of universal salvation, justice and peace, not only for Jerusalem and the Holy Land, but for all of humanity: "In days to come, the mountain of the LORD's house shall be established as the highest mountain and raised above the hills. All nations shall stream toward it; many peoples shall come and say: "Come, let us climb the LORD's mountain, to the house of the God of Jacob, that he may instruct us in his ways, and we may walk in his paths. For from Zion shall go forth instruction, and the word of the LORD from Jerusalem" vv 2-3 .

 

In the messianic kingdom the prophets generally see the Lord's house as the seat of authority and the source of clear and certain doctrine; also, its rule willingly accepted by all peoples, maintained by spiritual sanctions, and tending to universal peace. This passage is found substantially unchanged in Micah 4:1-3; it probably, although not certainly, has Isaiah as its author.

 

Our hypnotic condition

In the second reading from St. Paul's letter to the Romans 13:11-14 , the Apostle to the Gentiles says that Christians claim to be people of the new day that will dawn with the return of Christ.

In verses 11-12, Paul exhorts the Christians in Rome that this is the hour to awake from their sleep ... for our salvation is nearer now than when we first believed; the night is advanced, the day is at hand. Let us then throw off the works of darkness and put on the armor of light.

 

The Isaiah reading is very fitting to begin the Advent season, for we are truly on pilgrimage during the next few weeks -- making our long and tedious journey up to the Lord, in order that we may pay him homage and recognize in the Child of Bethlehem just to what degree God would go to show us his love.

 

The Greek word for sleep is "hypnos," 11 and while we cannot attribute the full notion of being "hypnotized" to Paul himself in this text, it is nonetheless true that we can become so accustomed to the normalcy of evil that we live under its spell, as if hypnotized by a power outside ourselves that we cannot discern or dislodge ourselves.

It is good for us during Advent to ask: "What are the hypnotic conditions that we experience without our consciousness of them?" The sins of the "flesh" v. 14 are not only sexual sins, but anything that opposes the life-giving work of the Spirit begun in Christ. Instead of planning for nighttime behavior they should be concentrating on conduct that is consonant with avowed interest in the Lord's return.

 

Days of Noah

In today's Gospel reading from Matthew 24:37-44 , Noah's contemporaries were unprepared for the flood. They ate and drank and married. They didn't dream of an event that would mark the end of time as they knew it. The people of Noah's time were so caught up in everyday affairs that they failed to take precautions against the flood. Three parables are told to remind us of the necessity of vigilance -- because the Second Coming has no "estimated time of arrival."

 

In the verses: "Two men will be out in the field; one will be taken, and one will be left. Two women will be grinding at the mill; one will be taken, and one will be left" 40-41 , the former probably means taken into the kingdom; the latter, left for destruction.

People in the same situation will be dealt with in opposite ways. In this context, the discrimination between them will be based on their readiness for the coming of the Son of Man. The theme of vigilance and readiness is continued with the bold comparison of the Son of Man to a thief who comes to break into a house 42-44 .

 

Centrality of time

Time is central to the Christian celebration of Advent. This season reminds us that the mystery of faith is not complete until Jesus' Second Coming. We are living in this in-between time of Resurrection-Ascension Pentecost and the time of the Parousia. How do we deal with the issue of time? Christ has given us warning of such an event coming. We can't say, "We had no idea," as the people said up to the day that Noah went into the ark and closed the door.

 

We need to be ready and we need to be awake. Just like a security alarm wakes up a homeowner, Advent wakes up Christians who are in danger of sleeping through their lives. If we are no longer asking the hard questions and if we are no longer getting our answers from God through his Scriptures, then it is time to wake up! Advent asks us to be aware of responsibilities and see to their fulfillment!

Advent challenges us to attend to relationships, reach out to the needy, cherish the gift of human life, and make time for prayer! The Second Coming thus becomes an event that gives purpose and energy to our every breath and pulse here and now.

 

Coming of Christ

Advent does not change God. Advent deepens our longing and anticipation that God will do what prophets and the anointed have promised. We pray that God will yield to our greedy need to see and feel the promise of salvation here and now. As Christians, we proclaim the coming of Christ -- not just a first coming but another as well that will be far more glorious than the first.

The first took place under the sign of patient suffering; the second, on the contrary, will see Christ wearing the crown of God's kingdom. In the meantime, however, there is the painful necessity of the cross for Jesus and all believers in him.

 

The pregnant season

On Saturday evening, Nov. 27, eve of Advent this year, Benedict XVI will celebrate in St. Peter's Basilica a "Vigil for All Nascent Human Life" coinciding with first vespers of the First Sunday of Advent. The Holy Father has said: "The period in which we prepare for Christmas is an appropriate time to invoke divine protection on every human being called into existence, and to thank God for the gift of life we received from our parents."

 

"Nascent" is a word not frequently used in our daily vocabulary. While it clearly refers to unborn human life, its other meanings include "promising," "growing," and "hopeful." As we enter into Advent, our thoughts naturally focus on the hope and expectation of the coming of Christ. Christ came to us first as an unborn child, tiny, vulnerable and in need of protection and care of his mother.

 

By calling for this worldwide prayer vigil, Benedict XVI invites us to focus both on the hope and promise of new life in Christ that we celebrate at Christmas but also to acknowledge the sad fact that worldwide there are an estimated 50 million abortions performed each year. Lives are simply thrown away. Many people in our time have truly become "hypnotized" to this reality. We have justified our reasons and means for destroying life in the womb because it disturbs and upsets us, forcing us to change our way of living. What are the hypnotic conditions against human life that we experience without our consciousness of them?

 

More than any other time of year, Advent is a pregnant season. We need a renewal of faith and hope about the meaning of life as the reflection of God. The timing of this prayer service for "nascent life" at the beginning of the Advent season is a happy coincidence that reminds us of the great gift from God that each and every human life represents.

 

Taking stock

As we begin this holy season of longing and waiting for the Messiah, let us take stock of human life and not become like the people of Noah's time who were so caught up in everyday affairs that they failed to take precautions against the flood. Advent reminds us that it is no longer business as usual. Something new is about to happen.

 

Let us pray during these days of Advent: May God, the Father of Life have mercy on all who have sinned against life. May the God of Abraham, Isaac, Jacob and Jesus, who knit us in our mother's womb, preserve all infants from physical harm from the moment of conception.

 

May Jesus, Son of God and son of Mary, who ennobled all human life when he became flesh in the womb of the Daughter of Zion, enlighten our minds to see the dignity of every human life from its earliest moments.

 

May Jesus of Nazareth who loved the afflicted, the sick, the broken and those who mourn, strengthen parents of unborn children with disabilities to cherish the infant entrusted to their care.

 

May the Lord who forgives sinners each day, draw all who have acted against innocent human life to repentance and forgiveness, and heal them through an outpouring of grace.

 

May the God of Israel increase our longing for Christ our Savior and give us the strength to grow in love, that the dawn of his coming may find us rejoicing in his presence and welcoming the light of his truth.

 

Looking forward to the second coming

Let us not forget the words of St. Cyril of Jerusalem this season:

"At his first coming, he was wrapped in linens and laid in a manger; at the second, light shall be his robe. In the first coming he endured the Cross, heedless of its shame; in his second coming he will be in glory surrounded by an army of angels. Let us therefore not stop at his first coming but look forward to the second.

 

"We hailed him at his first coming with the words, 'Blessed is he who comes in the name of the Lord!' and shall hail him in the same way at his second coming. For we shall go out to meet the Lord and his angels, and, prostrating ourselves before him, we shall cry,

'Blessed is he who comes in the name of the Lord.'"

 

 

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