キリストを待ち望む人たち
待降節第 1 主日聖書黙想 20 09/11/29 トマス・ロシカ師
世界が分裂状態となり、難問が山積している今、わたしは the Velvet Revolution の勇者たちを、感謝を以って想い起こします。 20 年前彼らは、共産主義統治の終焉に手を貸しました。わたしは、前チェコ大統領 Vaclav Havel が投獄されていたときに語った 希望の言葉を大切にしています。
訳注: ビロード革命( the Velvet Revolution ) は、ベルリンの壁が崩壊した 1989 年、チェコスロバキアの学生や教師、大学教授、一般市民ら 1 万 5000 人のデモ行進が発端。警官隊との衝突を機に参加者が数十万人規模に膨らみ、さらに10日間デモが続いた。反体制派の「市民フォーラム」は共産政権側と交渉し、同年 12 月に共産制権が崩壊した。
「市民フォーラム」の中心人物、 ヴァーツラフ・ハヴェル( Václav Havel, 1936 年 10 月 5 日 - ) は、
チェコの劇作家。 1968 年、プラハの春と呼ばれる改革運動がワルシャワ条約機構軍によって潰された後の「正常化」時代に、反体制運動の指導者として活躍。 1977 年に、ヘルシンキ宣言に謳われた人権擁護を求める「憲章 77 」を起草。以後、幾度となく逮捕・投獄される。 1989 年、反体制勢力を結集した「市民フォーラム」を結成しビロード革命の中心となる。革命後の 12 月に連邦最後の大統領に選出され、連邦解体後の 1993 年 1 月に新たに成立したチェコの初代大統領に就任、 1998 年に再選され、 2003 年 2 月の任期満了で退任した。 ( CNN ,および Wikipedia 抜粋 )
「我々が希望を託している状況がますます悪化するとき、希望はますます深まります。希望は、楽観主義とは明らかに別のものです。希望は、何かがよくなるだろうという信念ではなく、ものごとがどのようになろうとも、それには意味があるのだという確信です。」 この言葉は、共産主義体制が遂に終焉を迎えるのを目の当たりにしたときに、多くの人々の想像力をかき立てました。
「要するに、最も深くて大切な希望のかたち、我々が埋没することなく、良い仕事をするようにと促す唯一の希望のかたち、そして人間の精神とその努力の並はずれた次元に至る真の源泉は、言うなれば、「いずことも知れぬところ」からもたらされるものと考えます。」
わたしはまた、時々「カトリック教会のカテキズム」 の 「徳」( 第 3 編第 1 部第 7 項 )のページを開いて、「希望」の項目 ( Nos. 1817-1821 ) を読みます。 わたしは、この「希望」の項目の言葉からいつも希望と心の平安を見出し、とりわけ項目 1818 の中に書かれていることに心を打たれます。
希望 1818 「希望の徳は、すべての人の心に神がともしてくださった幸福へのあこがれにこたえるものです。人間の行動を活気づけるさまざまな希望を吸収し、それを天の国を目指すように浄化し、失望から守り、見捨てられた状態の中で支え、永遠の至福の期待で心を晴れ晴れとさせてくれます。希望の躍動は、自己愛(「利己主義」)から守り、愛の幸せへと導きます。」
日々イエスに従う
このような考え方は、終末の時を語るルカ福音書の朗読で今年の待降節を迎えたわたしたちにとって、深い意味があります! 今日の朗読(ルカ 21:25-28; 34-36 ) の中に、わたしたちは、マルコ 13 章でイエスが語った終末論的説教を見、聞き、感じることができます。ルカとその共同体は、 A.D. 70 のローマによるエルサレムの破壊(ルカ 21 : 20 − 24 )を目撃したことを思い起こし、このエルサレム崩壊の予告が実現したように、イエスによる終末の贖いの宣言 ( 21:27-28 ) も実現するとの確信を抱くことが出来ました。
福音史家ルカは、マルコ福音書の終末の記述にある重要な変更を与えています。
ルカは、彼の時代末期の、終末は近いという信仰を保持しています。しかしルカは、彼の福音書を通して日々イエスに従う大切さに焦点を当て、また、マルコ 13 章に記された終末のしるしのいくつかについて、改めて説明を加えることによって、初期のキリスト教共同体の Parousia (キリストの再来)は遅れて来るという考えを受け入れています。ルカは、弟子たちの迫害 ( 21:12-19 ) とエルサレムの崩壊 ( 21:20-24 ) を扱う中で、すでに実現している終末のしるしを指摘しています。
キリスト教の中心的メッセージは、世の終わりについて詳しい細部を伝えることではありません。事実、イエスの説教には、神がその目的を完成なさること、そして神はそれをイエスを通して成就なさるということ以外、将来を特定する言葉はありません。わたしは、キリストの再来について学生に尋ねられた時、いつも、それはイエスの最初の到来ほどの驚きにはならないだろうと言います。それは神の御手の中にあります。
神はその王国を成就する。それが一番重要なことです。
聖性における潔白さ
第 2 朗読の、聖パウロのテサロニケの信徒への手紙一 ( 3:12-4:2 ) の中で、パウロは、イエスの死と復活から約 20 年を経たこの地の改宗者たちの新たな信仰を強めようとしています。パウロにとって、キリスト者のメッセージの核になる部分は Parousia 、イエスの再来にありました。
その出来事なしには、救いのドラマは完成しませんでした。パウロは、「再来」は直ぐにもやって来るけれど、やはり準備は必要であると信じていました。
パウロは、二つのことを求めました。( 1 )相互の愛、および全てのものへの愛を育てること、そして( 2 )キリスト者の目標に到達することです。その目標とは、相互の愛の交流の中に表わされる聖性でした。その聖性が達成されるのは、毎日の、日常的な善行、親切、博愛そして希望を通してです。
目覚ましの声
待降節はわたしたちの前に立って、わたしたちを昏睡状態から呼び覚まします。ことしの待降節は、わたしたち一人ひとりにどんな働きをするのでしょうか? わたしたちは、肉を受けた者の中で最も偉大の方の到来のために、こころと生活のあり方を静かに準備するよう招かれています。生活の中でわたしたちは、何を、誰を待っているのでしょうか? 今年、わたしたちはどんな良いもの、どんな恵みを頂きたいと祈りますか? 物質的には何を求めますか?
わたしたちが求める人間、地位、物質がどのようなものかを知ることは、自分が何者であるかについての深い洞察を与えてくれます。
待降節は、決して悔い改めの時でも、絶望の時でもなく、希望にあふれた喜びの時、辛抱強く待ち望む時です。神は、わたしたちが民としても個人としても忍耐強くないことをご存知です。しかし、忍耐こそ、わたしたちが待降節の期間に祈り求めるべき祝福された徳です。
遠い昔、エルサレムの聖キュリロスは、主イエス・キリストに起きることは、殆どすべて「二度起きる」と書きました。
「彼(イエス)は二度誕生された : 一度は全ての時代以前に神から生まれ、もう一度は全ての時代の終わりに処女から生まれた。
彼は二度到来された : 一度は、ひそかに、厚布の上に落ちた雫のように。また別の時には―それは将来のことであるが―その反対に、顕在的に到来される。」
「第一の到来では、彼は、リネンに包まれてかいば桶に寝かされ、第二の到来では、光が彼を覆うであろう。第一の到来では、彼は十字架を耐え忍びその恥辱をかえりみず、第二の到来では、彼は天使の軍勢に囲まれて、栄光のうちに来られる。」
「それゆえ、わたしたちは彼の最初の到来に留まることなく、第二の到来を待ち望もうではないか。
わたしたちは第一の到来を、『主の御名において来る者に、祝福あれ』という言葉で歓迎した。第二の到来でも同じ仕方で彼を歓迎する。なぜなら、わたしたちは主と主の天使に会うために出向き、そして、彼の前に平伏し、『主の御名において来る者に、祝福あれ』と叫ぶであろう。」
キリスト者として、わたしたちはキリストの到来を宣言します。 ― 第一の到来ばかりではなく、第二の到来をも宣言し、再来は最初の時よりもはるかに栄光に満ちたものになるでしょう。第一の到来は、耐え忍ぶ苦しみのしるしの下で起きましたが、第二の時には逆に、神の王国の冠を戴くキリストを見ることでしょう。
待降節は、歴史の見方が二つあることを教えます。一つは社会学的な見方、もう一つは宗教的な見方です。
最初の見方―クロノス ― は、本質的な贖いを欠いた伝説的な歴史という見方。
第二の見方―カイロス―は、神により、キリスト・イエスにおいて贖われ、摂理と秘跡を約束された歴史という見方です。
主イエス・キリストを待ち望み、喜ばしい期待に満ちた、この最も祝福された季節の初めに当たり、どうか、希望について黙想してください。先ず、新年に列福されることになっている ジョン・ヘンリー・ニューマン 枢機卿の、親しみやすく素朴な説教の一部を記します。 (英文に「ニューマン枢機卿」の注あり)
「彼らはキリストを待ち望む。その敏感で、熱心な、気遣う心をもって。
目覚め、生き生きと、目ざとく、熱心に、キリストの栄光を讃える。
全てのできごとのうちにキリストを探し求め、
驚くことなく、
興奮せず、感情に押し流されず、
もしも、イエスがただちに来られると知るならば。」
「だから、それは待ち望むこと。現在のものごとから離れること。
そして、目に見えないものの内に生きること。
キリストの思いの内に生きること。 彼は、ひとたび来られ、
再び来られる。 その第二の到来を望むために・・・
第一の到来の記憶、わたしたちの愛と感謝に満ちたその記憶によって。」
終わりに、「クリストファーズ」の創始者、故 Fr. James Keller, M.M., の、希望に関する心動かされる黙想を紹介します。 (英文に「クリストファーズ」の注あり)
「希望は、最悪なことを繰り返しあげつらわず、人々の善を探し求める。
希望は、絶望が閉ざす扉を開く。
希望は、出来ないことに不平を言う代わりに、出来ることを見出す。
希望は、神への深い信頼と、人間性の基となる善良さから、その力を引き出す。
希望は、 “ 闇を呪う ” 代わりに “ ろうそくに灯をともす ” 。
希望は、障害の大小に拘わらず、それを機会と見做す。
希望は、幻想を喜ばず、冷笑主義に譲歩しない。
希望は、大きな目標を定め、度重なる困難や後退にも挫けない。
希望は、容易に投げだせる場合でも、励ましを与え、
希望は、 “ 長い旅路も最初の一歩から ” として、控え目の成果に満足する。
希望は、他者のより大きな善に奉仕する対価として、誤解を甘受する。
希望は、神により最終の勝利を保証されている故に、善き敗者である。」
Those Who Watch for Christ
Biblical Reflection for 1st Sunday of Advent C By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, NOV. 24, 2009 (Zenit.org).- Every now and then when the world seems to be falling apart and problems appear to be insurmountable, I recall with gratitude the heroes of the Velvet Revolution who helped to bring down the reign of Communism 20 years ago. I cherish the words of hope of former Czech President Vaclav Havel, during his days of imprisonment.
Those words captivated the imagination of many people as we witnessed the Communist regime finally come to an end: "The more unpropitious the situation in which we demonstrate hope, the deeper that hope is. Hope is definitely not the same thing as optimism. It is not the conviction that something will turn out well, but the certainty that something makes sense, regardless of how it turns out.
"In short, I think that the deepest and most important form of hope, the only one that can keep us above water and urge us to good works, and the only true source of the breathtaking dimension of the human spirit and its efforts is something we get, as it were, from 'elsewhere'."
I also turn frequently to the Catechism of the Catholic Church's section on the theological virtues and read the paragraphs on hope (Nos. 1817-1821). I always find hope and peace of mind and heart from those paragraphs on hope. I have been particularly struck by the thoughts found in the Catechism (No. 1818):
"The virtue of hope responds to the aspiration to happiness which God has placed in the heart of every man; it takes up the hopes that inspire men's activities and purifies them so as to order them to the Kingdom of heaven; it keeps man from discouragement; it sustains him during times of abandonment; it opens up his heart in expectation of eternal beatitude. Buoyed up by hope, he is preserved from selfishness and led to the happiness that flows from charity."
Day-to-day following of Jesus
Such thoughts are important for us as we enter the season of Advent with a bang this year -- with a section from Luke's chapter on the end times! In today's Gospel story (21:25-28; 34-36), we can see, hear and feel Jesus' eschatological discourse in Mark 13. The actual destruction of Jerusalem by Rome in A.D. 70 upon which Luke and his community look back (Luke 21:20-24) provides the assurance that, just as Jesus' prediction of Jerusalem's destruction was fulfilled, so too will be his announcement of their final redemption (21:27-28).
The Evangelist Luke has made some significant alterations to Mark's description of the end times.
Luke maintains the belief in the early expectation of the end of the age but, by focusing attention throughout the gospel on the importance of the day-to-day following of Jesus and by reinterpreting the meaning of some of the signs of the end from Mark 13, he has come to terms with what seemed to the early Christian community to be a delay of the Parousia (Second Coming). In dealing with the persecution of the disciples (21:12-19) and the destruction of Jerusalem (21:20-24) Luke is pointing to eschatological signs that have already been fulfilled.
The central message of Christianity does not consist in knowing the exact details of the end of the world. As a matter of fact, there are very few specifics about the future in Jesus' preaching other than that God is going to accomplish his purpose and he's going to accomplish it through Jesus. When my students would ask me about the Second Coming, I always tell them that I suspect it's going to be as big a surprise as the first coming was. It is in God's hands.
God will bring about his Kingdom and that is what is most important.
Blameless in holiness
In the second reading from St. Paul's first letter to the Thessalonians (3:12-4:2), we encounter Paul trying to strengthen his Thessalonian converts in their new faith about 20 years after the death and resurrection of Jesus. For Paul, an essential part of the Christian message was the Parousia, or the Second Coming.
Without that event, the drama of salvation was incomplete. Paul believed the Parousia was imminent, but preparation was required.
Paul asked two things: (1) an increase in mutual and universal love and (2) the attainment of the Christian goal. The goal was holiness expressed in loving concern for one another. Holiness would be achieved through daily, ordinary acts of goodness, kindness, charity and hope.
Wake-up call
Advent confronts us and wakes us from our stupor. What is the work of Advent for each of us this year? We are invited to quietly prepare our hearts and our lives for the coming of the ever-greater one in the flesh. For what or for whom are we waiting in life? What virtues or gifts are we praying to receive this year? What material things do we seek?
The people, qualities, things we await give us great insights into who we are.
Advent, far from being a penitential time or a time of despair, is a time of rejoicing in hope and a time of patient waiting. God knows how impatient we are as a people and as individuals. Nevertheless, patience is a blessed virtue for which we should pray during Advent.
Long ago St. Cyril of Jerusalem wrote that almost everything about our Lord Jesus Christ is twofold. "He has two births: one from God before the ages, the other from the Virgin at the end of all ages. He has two comings: the one is hidden and resembles the falling of the dew upon a fleece; the other -- the future one -- on the contrary will be manifest.
注 : Cyril of Jerusalem (Greek Κύριλλος Α΄ Ἱεροσολύμων ) was a distinguished theologian of the early Church (ca. 313[1] – 386). He is venerated as a saint by the Roman Catholic Church, the Eastern Orthodox Church, and the Anglican Communion. In 1883, Cyril was declared a Doctor of the Church by Pope Leo XIII. http://en.wikipedia.org/wiki/Cyril_of_Jerusalem
"At his first coming, he was wrapped in linens and laid in a manger; at the second, light shall be his robe. In the first coming he endured the cross -- heedless of its shame; in his second coming he will be in glory surrounded by an army of angels.
"Let us therefore not stop at his first coming but look forward to the second. We hailed him at his first coming with the words, 'Blessed is he who comes in the name of the Lord!' And we shall hail him in the same way at his second coming. For we shall go out to meet the Lord and his angels, and, prostrating ourselves before him, we shall cry, 'Blessed is he who comes in the name of the Lord.'"
As Christians, we proclaim the coming of Christ -- not just a first coming but another as well that will be far more glorious than the first. The first took place under the sign of patient suffering; the second, on the contrary, will see Christ wearing the crown of God's Kingdom.
Advent teaches us that there are two ways of looking at history: one is sociological and the other is religious. The first, chronos, is essentially unredeemed and cyclic. The second, xairos, is redeemed by God in Christ Jesus and becomes the possibility of providence and sacrament.
注 : Venerable John Henry Newman, CO (21 February 1801 – 11 August 1890)[1] was a Roman Catholic priest and cardinal, a convert from Anglicanism in October 1845. In his early life, he was a major figure in the Oxford Movement to bring the Church of England back to its Catholic roots.[1] Eventually his studies in history persuaded him to become a Roman Catholic. Both before and after becoming a Roman Catholic, he wrote influential books, including Via Media, Essay on the Development of Christian Doctrine (1845), Apologia Pro Vita Sua (1865-66) and the Grammar of Assent (1870).[1]His body was buried in the small cemetery at Rednal near Birmingham, next to the Oratory country house. The grave was opened on 2 October 2008 with the intention of moving any remains to a tomb inside Birmingham Oratory, during Newman's consideration for sainthood; however, no remains were found because of the coffin having been wooden and the burial having taken place in a damp site. Canonisation would make Cardinal Newman the first English person who has lived since the 17th century to be declared a saint.[2][3] In 1991 Cardinal Newman was proclaimed "Venerable" by the Congregation for the Causes of Saints. http://en.wikipedia.org/wiki/John_Henry_Newman
"They watch for Christ who are sensitive, eager, apprehensive in mind,
Who are awake, alive, quick-sighted, zealous in honoring him,
Who look for him in all that happens,
And who would not be surprised,
Who would not be over-agitated or overwhelmed,
If they found that he was coming at once.
Let me leave you with some reflections on hope as we enter this most blessed season of patient longing and joyful expectation of the Lord Jesus. First, a wonderful section of the Parochial and Plain Sermons of Venerable John Henry Cardinal Newman, whose beatification we will finally celebrate in the New Year:
"This then is to watch: to be detached from what is present,
And to live in what is unseen;
To live in the thought of Christ as he came once,
And as he will come again; to desire his second coming,
From our affectionate and grateful remembrance of his first."
Finally, this moving reflection on hope by the late Fr. James Keller, M.M., Founder of The Christophers:
注 : The Christophers are a Christian inspirational group that was founded in 1945 by Father James Keller. The name of the group is derived from the Greek word "christopher", which means "Christ-bearer". Although the founders were Maryknoll priests, and the Roman Catholic orientation is overt, The Christophers preach a doctrine of religious tolerance[1] and intend their publications to be generally relevant to those of all faiths. http://en.wikipedia.org/wiki/The_Christophers
"Hope looks for the good in people instead of harping on the worst.
Hope opens doors where despair closes them.
"Hope discovers what can be done instead of grumbling about what cannot.
Hope draws its power from a deep trust in God and the basic goodness of human nature.
"Hope 'lights a candle' instead of 'cursing the darkness.'
Hope regards problems, small or large, as opportunities.
"Hope cherishes no illusions, nor does it yield to cynicism.
Hope sets big goals and is not frustrated by repeated difficulties or setbacks.
"Hope pushes ahead when it would be easy to quit.
Hope puts up with modest gains, realizing that 'the longest journey starts with one step.'
"Hope accepts misunderstandings as the price for serving the greater good of others.
Hope is a good loser because it has the divine assurance of final victory."
◇◇◇
朗読:
エレミヤ 33:14-16 : 見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。
1 テサロニケ 3:12-4:2 : (皆さん) どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。
ルカ 21:25-28, 34-36 :(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。