「学び合いの会-海外ニュース」 364号(160815)

 

† 主の平和

 

一つ目の記事は、自由な批判精神を求めて集まった

アメリカの司祭協議会の近況。

 

二つ目は、昨日正午のお告げの祈りで教皇が人々に

語った言葉。

 

教皇は、宣教者の事なかれ主義に警告を発していますが

末尾では、わたしたちの信仰のマンネリズムも、同様に

憂慮しているようです。

 

添付記事

1. 第2バチカン公会議の司祭たちはいずこに?(NCR)

2.  教皇フランシスコ

       「教会に官僚や有能な役人はいらない」(バチカン放送)

 

1.第2バチカン公会議の司祭たちはいずこに?

ジャニーン・グラミック 2016/8/3 NCR Today

 

 

わたしがいつも不思議に思っていたのは、第2バチカン公会議の直後に出会った司祭たちに、一体何が起こったのだろうかということだった。彼らは、わたしの大学院時代に、自分の進むべき道として神が示された同性愛者の司牧に関して、理解と援助を惜しまなかった人たちだった。今ではその司祭たちも、わたしと同様に社会保障の受給資格を充分に満たす年齢に達しているに違いない。

 

6月の終わりに、わたしはシカゴでそのうちの何十人かに出合い、彼らの多くがどこにいたのかを知った。司祭たちの多くは、今では引退しているか、あるいは彼らの一人が言うように「引退ではなく、再利用されているだけ」とのことだ。彼らは今も、福音を広め、正義の問題に取り組むことに関心を持っている。

 

わたしが彼らに再会したのは、全米カトリック司祭協議会(AUSCP:the Association of U.S. Catholic Priests)の年次会議であった。この協議会は、5年前にピッツバーグで27人の司祭により正式に組織されたものだ。このグループが生まれたのは、2011年にバチカンが英語圏の国々に押しつけたローマ典礼の変更に対して、アメリカの何千という司祭が不満の声を挙げたのがきっかけだった。

 

司祭たちの中には、未だにこの変更に不満な人たちが居る。年次会議の作業部会ではこんな不平が聞かれた。「この変更には、不適切な英語や神学が使われており、司牧上の配慮に欠けている。」 多くの司祭たちは、バチカンによる変更を採用しなかったことを認めている。

彼らはその代わりに、1998年版のミサ典書を使っている。ある司祭は即座に、この1998年版がwww.misguidedmissal.com.で見ることが出来ると言った。(しかし、ブレイズ・キュピック・シカゴ大司教がこの会議で聖体祭儀を司式したとき、祭壇に置かれていたのは1998年版ではなかった。)

 

第2バチカン公会議の精神を守り続けるために創立された組織の司祭たちに、わたしはすぐに親しみを覚えた。AUSCPの首席報道官であるパウル・ラインガングは、それをこう表現する。「我々は、第2バチカン公会議を『懐かしい出来事』ではなく『直ちに実現すべき課題』と捉えているのです。」

 

わたしは、このように教会組織の現行政策や慣例に同意できないときに、自分の考えを自由に発言する精神が好きであった。例えば、AUSCPは既婚男性の司祭叙階と女性の助祭叙階については支持を表明しているが、女性の司祭叙階は支持していない。ただわたしは、この集会に出席した多くの司祭が、司祭叙階から女性を閉め出すべきではないと考えていることを知っているので、この組織がこの問題を避けて通ったのには失望した。

 

彼らの一人、ピッツバーグの教区司祭で創立メンバーの一人であるバーニー・サーヴィル神父はこう語る。「どの司祭も、教区と良い関係にあるので、異なる意見を表明するのには限界があります。」

 

別の創立メンバーで、トレドから来たフランク・エッカート神父はこうコメントした。「わたしたちは、変更の余地のある問題について発言しているのです。しかし、これは教義や信仰に反するものではありません。わたしたちは、反対グループとの対話を信じているだけです。」

 

このグループの国際的な調整役であるクリーブランド教区のダン・デイヴィス神父も同じ考えだ。「意見の相違は教会に必ずあるものです。決して不健全なことではないけれど、面倒なことは確かです。」彼は、発題者の一人で、秋にはヴィラノヴァ大学で教鞭を執るイタリア人神学者のマッシモ・ファジョーリ博士が、「(教会刷新に)抵抗する人たちも第2バチカン公会議の教会の一部である」という教皇フランシスコの主張を確認した点を指摘した。

 

AUSCPは、まさに意見の相違の価値を認めていることを示すかのように、公に同性婚を支持している教会内の抵抗者トーマス・ガンブルトン司教に賞を贈った。                                                                                                                  

 

しかし、参加者を回って話を聞いた中で最も多かったのは、意見の相違でも敵対でもなかった。多く聞こえてきたのは、彼らを一堂に集めた組織に対する感謝であった。ボルティモア大司教区のジム・キーゼル神父は、わたしが繰り返し指摘してきた感情を表現してこう語った。「わたしにとっての今週のハイライトは、兄弟である司祭たちに会い、教会についての夢やビジョンを分かち合えたことです。」

 

わたしは、ここにいる教区司祭たち(修道会司祭はごく僅かしか居なかった)が、相互の繋がりを強く求める気持ちを思い、また、彼らがその使命を続けて行く上での、共同体の大切さにも思いを馳せた。そして、男女修道会に確立されている、重要な心の問題を話し合うシステムが、当たり前のように修道者同士の絆を深めていることを考えた。どうすれば、教区司祭たちは、故郷に戻ってからうまくやって行けるのだろうか。どうすれば、組織としての教会は、「教区が生み出す司祭」という共同体の希望に応えることができるのだろうか。

 

共同体の重要性は、女子修道会総長協議会の前会長で聖ヨゼフ修道会のシスターキャロル・ジンのプレゼンテーションではっきりと示された。彼女は、教皇フランシスコの二番目の回勅「ラウダート・シ(ともに暮らす家を大切に)」について話した。

 

シスター・ジンは、人類、地球、そしてすべての創造物へのわたしたちの配慮は、分裂でなく連帯を軸にして展開すると説明した。ともに暮らす家へのわたしたちの配慮は、個人主義にではなく、共同体を基本にしている。批判の対象が、環境や生物種の破壊であろうが、貧困層を生み出す身体的、性的、経済的暴力であろうが、地球規模の温暖化や消費主義であろうが、不足し、不衛生な水の問題であろうが、他の民族、他の宗教、性的マイノリティーに対する敵意であろうが、そしてまた、正義を必要とする数多くの罪であろうが ― わたしたちは、これらすべての悪の原因が真の関係性の欠落にあるという事実を把握する必要がある。ラウダート・シがわたしたちに求めているのは、宇宙は繋がっており、どんな小さな断片も孤立してはいないというメッセージを受け取ることである。わたしたちが繋がっていることを知って初めて、ともに暮らす家の中のすべての存在を大切にする意欲が生まれるのだ。

 

シスター・ジンのプレゼンテーションは好評だった。教皇フランシスコの提言に関する他の発言や論及も同様であった。会議の間、司祭たちから「わたしの希望は、教皇フランシスコに、そして教皇が全教会のために行っていることにある。」というコメントが繰り返された。

 

では、わたしが第2バチカン公会議の直後に出会った司祭たちに何が起こったのだろうか。わたしが彼らを知ったのは1970年代であった。40年後に再開した司祭たちは、第2バチカン公会議が掲げた教会のビジョンを心に抱き、正義と平和への変わらぬ希望と夢を持つ共同体を切望していた。彼らは、そのビジョンを教皇フランシスコに見出し、全米カトリック司祭協議会(the Association of U.S. Catholic Priests)と呼ばれるグループによってその共同体を実現したように思われる。

 

 [ロレット会のシスター・ジャニーン・グラミックは、NCRの長い友人である。]

訳注:このロレット会(the Sisters of Loretto)は、マザーテレサの居たロレット修道会(the Sisters of Loreto)とは関係がない。

 

Where are the priests of Vatican II?

Jeannine Gramick  |  Aug. 3, 2016 NCR Today

 

I've often wondered what happened to those priests I met right after the Second Vatican Council, the priests who were eager to understand and support me in the gay ministry God put in my path when I attended graduate school. By now, they must be, like me, well eligible for Social Security.

 

At the end of June, I found out where many of them had been when I bumped into dozens and dozens of them in Chicago. Most of them were retired now or, as one said to me, "Not retired, just recycled." They were still concerned about spreading the Gospel and fostering justice issues.

 

I met them at the annual conference of the Association of U.S. Catholic Priests (AUSCP), which was formally organized five years ago in Pittsburgh by 27 priests. The group owed its existence to the dissatisfaction that thousands of U.S. priests voiced about the changes in the Roman missal that the Vatican forced on countries in the English-speaking world in 2011.

 

There is still dissatisfaction with these changes among the priests. From one working group at the conference, I heard complaints such as, "The changes use bad English, bad theology, and are not pastorally sensitive." A number of priests acknowledged they had not adopted the Vatican changes. Instead they use the 1998 edition of the missal, which, one priest promptly said, can be found at www.misguidedmissal.com. (However, when Chicago Archbishop Blaise Cupich presided at the conference Eucharistic celebration, it was not the 1998 edition that was on the altar!)

 

I felt right at home with these priests whose organization was founded to keep the vision of Vatican II alive. As Paul Leingang, the AUSCP communications director, put it, "We make Vatican II not a matter of nostalgia, but a matter of urgency."

 

I liked this spirit of freedom in speaking their mind when they disagreed with the institutional church's present policies or customs. For example, the AUSCP has taken a position favoring a married male clergy and the ordination of women as deacons, but not the ordination of women as priests. I felt disappointed that the organization skirted this issue because I know that a number of priests at the meeting believe that women should not be barred from priestly ordination. I asked members of their leadership team about this.

 

One of them, Fr. Bernie Survil, a diocesan priest from Pittsburgh and one of the first founding members, told me, "There are limits to dissent because all the priests are in good standing" with their dioceses.

 

Another founding member, Fr. Frank Eckart from Toledo, commented, "We push those issues that are not set in stone, but that are not contrary to dogma or faith, although we believe in dialogue with dissenting groups."

 

The group's international liaison, Fr. Dan Divis from the Cleveland diocese, agreed. "Dissent is part of the church; it's not unhealthy, but messy," he said, pointing out that one of the plenary speakers, Dr. Massimo Faggioli, an Italian theologian who will teach at Villanova University in the fall, affirmed that "even the resisters are part of the Vatican II Church" advocated by Pope Francis.

 

As if to show that the AUSCP recognizes the value of dissent, the group presented an award to Bishop Thomas Gumbleton, a church resister who has publicly supported same-sex marriage.

 

But it was not dissent or resistance that I most heard from the participants as I mingled among them; it was an appreciation for the organization that brought them together. Fr. Jim Kiesel from the Baltimore archdiocese expressed the sentiment I noted time and time again: "The highlight of this week for me is seeing my brother priests, sharing dreams and visions with them about the church."

 

I thought of these diocesan priests (although a few were members of religious communities), their hunger for relationships, and the importance of a community of faith to sustain ministry. I thought of the bonds that women and men religious often take for granted, with a built-in system for discussing significant matters of the mind and heart. How do these priests cope when they are back home? How does the institutional church provide for the community needs of diocesan ordained ministers?

 

The significance of community rang clear in a presentation by St. Joseph Sr. Carol Zinn, past president of the Leadership Conference of Women Religious, who spoke on Pope Francis' second encyclical, "Laudato Si', On Care For Our Common Home."

 

Zinn explained that our care for humankind, the earth, and all of creation centers around connection, not separation. Our care for our common home is based on community, not individualism. Whether the critique is about exploitation of our environment or various species; the abuse of people made poor by physical, sexual, or economic violence; global warming or consumerism; insufficient or unsafe water; hostility toward ethnic, religious, or sexual minorities; or the numerous other sins that cry out for justice — we need to grasp the fact that the cause of all these evils is the lack of genuine relationships. Laudato Si' calls us to get the message that the universe is connected; it is not isolated bits of matter. Only when we see our relatedness will we be motivated to care about all the beings in our common home.

 

Zinn's presentation was very well received, as were other statements or references to remarks by Pope Francis. Repeatedly during the conference, the priests made comments such as, "My hope is in Pope Francis and what he is doing for the entire church."

 

So what happened to those priests I met right after Vatican II? As I had known them in the 1970s, I had found them 40 years later -- concerned about a Vatican II vision of church and yearning for a community with the same hopes and dreams for justice and peace. They seemed to have found this vision in Pope Francis and to have realized community in a group called the Association of U.S. Catholic Priests.

 

[Loretto Sr. Jeannine Gramick is a longtime friend of NCR.]

https://www.ncronline.org/blogs/ncr-today/where-are-priests-vatican-ii