「学び合いの会-海外ニュース」 347号(160324)

 

† 主の平和

 

教皇と教皇庁聖職者のための私的な四旬節黙想会が

今月上旬行われ、今年はアウグスチノ会のロンキ神父

が指導に当たりました。幾つかのメディアが内容を伝え

ていますが、その中から、最終日の黙想を中心に比較

的詳しく報じているCNS(カトリック・ニュースサービス)

の記事を仲間の翻訳でご紹介します。

 

添付記事

1. 「挑戦的な質問は信仰の証し」

                               教皇の黙想会で指導司祭語る (CNS) 

以上

 

「挑戦的な質問は信仰の証し」教皇の黙想会で指導司祭語る

シンディー・ウドゥン 2016/3/11 CNS

 

バチカン発(CNS): 教皇とバチカンの高位聖職者たちは、「福音書における問いかけ」というテーマで四旬節の静修(黙想会)を行ったが、黙想を指導したアウグスチノ会 (聖母マリアの下僕会)のエルメス・ロンキ神父は、最終日の講話で、信者が挑戦的な(やっかいな)質問をしてきたとき、司祭は苛立ちを覚えがちだが、それはその人が信仰を真剣に考えている証しに違いないと語った。

 

「神の民の間で問いかけが高まり、古い答えの繰り返しでは誰もが満足しないという状況は、私に希望を与えます。」ロンキ神父は黙想の参加者にこう語った。それは3月11日、教皇と教皇庁スタッフがバチカンに戻る前の、最終日に行われた講話でのことであった。

 

「人々が皆、一人の司祭の言葉を黙って受け入れたとして、それが果たして素晴らしい信仰の時だと言えるでしょうか。」とロンキ神父は問う。「わたしはその反対だと思います。そして、たとえそれによってわたしたちの負担が増えるとしても、それもまた『アレルヤ!』―神への賛美―であり『結論』だと思います。」

 

四旬節の黙想会は、ローマ南東20マイルのアリッチャにあるパウロ会が運営するセンターで、3月6日から11日にかけて行われた。黙想の最終回にロンキ神父が焦点を当てたのは、受胎告知を受けたマリアの、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」という問いかけである。この黙想会は(教皇たちのための)私的なものだったが、バチカン放送とバチカンの半公式新聞であるオッセルヴァトーレ・ロマーノがロンキ神父の講話を報じた。

 

「戸惑いを覚え、問いかけるのは、人がその尊厳のすべてをもって主のみ前に立つときのひとつの態度です。」とアウグスチノ会士は語った。マリアのように「人は神秘を受け入れると同時に、自分の知性も働かせるのです。」

 

「石のように固い信仰の方が、質問の多い信仰より優れていると言った人は一人も居ません。」とロンキ神父は言う。質問する人は、自分が神を必要とし、神との対話を必要としていることを知って、それを示しているのだという。

 

最終日の前日、3月10日の黙想でロンキ神父は、復活したイエスが空の墓の外でマグダラのマリアに掛けた言葉「婦人よ、何故泣いているのか。」に焦点を当てた。

 

「あの時、復活された方が園で最初に語られた言葉には、類い稀な優しさがあります。『あなたの涙について話して下さい。わたしには、それがなによりも大切なことです。』」

 

「『神のデータ保存場所――記憶』は人間の罪のリストで一杯になってなどいません。それは、人々涙と苦しみで一杯なのです。」

 

苦しむ人々の前で立ち止まり、その声に耳を傾け、その人に触れることが、涙に対するイエスの応えであり、それはまた、イエスに従う人々の応えでなければならない、とロンキ神父は言う。しかし、残念ながら「何世紀にもわたる道徳主義の時代を経て、慈しみの業は不本意な義務へと変えられてしまいました。それがあたかも救いの代価であるかのように。」

 

ロンキ神父のこの涙にまつわる講話は、姦通の現場で捕らえられた女に対するイエスの質問をとり上げた、3月9日の夕方の黙想の続きであった。イエスが群衆に、罪のない者がまず石を投げるように言うと、群衆は去り、イエスは女に「だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と尋ねた。

 

「人を非難したり裁いたりすることが好きな人たちは、他人の欠点に酔いしれ、過ちを犯した人々に石を投げつけることで、自分は真理を守っていると考えるのです。しかし、争いはこのようにして始まるのです。国と国との間で、共同体の中で、そして教会もまたその例外ではありません。」とロンキ神父は語る。

 

福音が語るように、「姦通の女を責める裁きは、ブーメランのように戻って来て、裁く側の偽善を責めるのです。だれも最初の石を投げることはできません。なぜなら、それは自分自身に石を投げることになるからです。」

 

福音の物語は女性の罪を軽視しているのではなく、イエスの関心が、彼女の生き方を変える手助けに向けられている点を描いているのだ、と神父は言う。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と、イエスは女に告げる。

 

(以上)

Challenging questions can be sign of faith, preacher tells pope

By Cindy Wooden  Catholic News Service 3.11.2016

 

VATICAN CITY (CNS) -- At the end of a Lenten retreat focused on questions in the Gospels, Servite Father Ermes Ronchi told Pope Francis and senior members of the Roman Curia that it is tempting to bristle when the faithful ask challenging questions, but he is certain it is a sign of how seriously they take the faith.

 

"It gives me hope to see how, among the people of God, questions continue to grow and no one is content with the same old answers," Father Ronchi told the retreatants March 11 during his last talk before the pope and Curia members returned to the Vatican.

 

"When everyone silently accepted the word of a priest was it a time of greater faith," he asked. "I think the opposite is true and even if this means more work for us, it is also an 'alleluia,' a 'finally.'"

 

Mary's question -- "How can this be?" -- in response to the Annunciation was Father Ronchi's focus for the final meditation at the March 6-11 retreat at a center run by the Pauline Fathers in Ariccia, 20 miles southeast of Rome. While the retreat was private, Vatican Radio and L'Osservatore Romano, the Vatican newspaper, provided coverage of Father Ronchi's talks.

 

"Being perplexed, asking questions is a way of standing before the Lord with all of one's human dignity," the Servite said. Like Mary, "I accept the mystery, but at the same time I use my intelligence."

 

"No one ever said that a rock-solid faith is better than a faith interwoven with questions," Father Ronchi said; questioners know and show that they need God and need dialogue with him.

 

In a reflection March 10, Father Ronchi looked at the risen Jesus' words to Mary Magdalene outside the empty tomb, "Woman, why are you weeping?"

 

"The first words of the Risen One in the garden on Easter," he said, "have an extraordinary tenderness: 'Tell me about your tears; they are more important to me than anything.'"

 

The preacher insisted that "God's archive, his memory," is not full of lists of people's sins, but of their tears and suffering.

 

Stopping, listening and touching those in pain was Jesus' response to tears and must be the response of his followers, Father Ronchi said. But, unfortunately, "centuries of moralism have turned the works of mercy into reluctant obligations, as if they were the price of salvation."

 

His talk about tears followed an evening meditation March 9 on Jesus' question to the woman caught in adultery. After Jesus told the crowd that whoever was without sin should cast the first stone, the crowd left and Jesus asked the woman, "Has no one condemned you?"

 

Father Ronchi said, "Those who love to accuse, who get drunk off the defects of others, think they are safeguarding the truth by stoning those who err. But it is how wars are started" between countries or within communities, including churches.

 

In the Gospel story, he said, "the judgment against the woman caught in adultery boomerangs against the hypocrisy of the judges: No one can throw the first stone because they would be hurling it at themselves."

 

The Gospel story does not minimize the woman's sin, he said, but illustrates Jesus' focus on helping her turn her life around; "Go, and from now on do not sin any more," Jesus tells her.

 

 

http://www.catholicnews.com/services/englishnews/2016/challenging-questions-can-be-sign-of-faith-preacher-tells-pope.cfm