「学び合いの会-海外ニュース」 346号(160317)

 

† 主の平和

 

1970年代から「信徒がミサの説教を行っていた」という、

アメリカのある司教区のお話です。

そのことの是非の議論は措くとして、ローマに対する「司教の

裁治権」の幅についても、考えさせられる内容です。

 

添付記事

1. 「信徒による説教」の復活を:米ロチェスター教区(NCR) 

 

以上

 

 

「信徒による説教」の復活を:米ロチェスター教区

ピーター・フュアハード 2016年3月10日、NCR Today コラム:野戦病院(The Field Hospital)

 

 

ロチェスター教区では、数十年もの間、信徒による説教の言葉(その多くは女性)が説教壇から響いていた。しかし、その声は、ここ2年間沈黙を余儀なくされてきた。かつて説教を行った信徒によれば、それは教会にとっての損失だと言う。

 

1970年代以降、この北部ニューヨークの教区(注:オンタリオ湖南岸の都市。人口約20万)は、ジョセフ・ロイド・ホーガン司教と後任のマシュー・クラーク司教の時代、信徒による説教が許されていた。それが変更されたのは、2年前、クラーク司教が引退しサルバトール・R・マタノ司教が就任した直後であった。

 

教区の報道担当者ドウグ・マンデラーノによれば、教会法の禁止規定により、この教区の信徒による説教はもはや認められないという。

 

マタノ司教は、バーモント州バーリントンからこの教区に来て間もなくの2014年に書いた手紙で、次のように述べている。「ミサでの説教は『聖職の延長部分』であり、『教区司教は、説教の権利を聖職者(叙階された司祭、あるいは助祭)に留保するという規範から決して免除されることはない』と教会法に明記されている。」

 

マタノ司教の主張は、以前教区で説教を行っていた信徒の多くにとって受け入れ難いものだ。その中のおよそ40人が、「God's Word, Many Voices(神のみ言葉、多くの声)」というウェブサイトに、今も自分たちの説教を掲載している。( http://williampickett.com/sensus/ )

 

この教区には、かつて150人前後の信徒の説教者がいて、彼らはそのメンバーであった。そして、教区内にある125の小教区の日曜日のミサで、定期的に御言葉を語り伝えていた。

 

そのうちの一人グロリア・ウルテリノは1986年に説教を始めた。彼女は当時、NCRのインタビューで「アメリカ合衆国の司教たちは、信徒の説教者のために規範を確立し、第2バチカン公会議がその可能性を開いた。」と語っていた。

 

ウルテリノは月に1回説教し、他の信徒の説教者と同じく、かつて神学校だった教区立のセントバーナード神学・聖職者大学(St. Bernard's School of Theology and Ministry)で養成を受けた。

 

ウルテリノによれば、信徒の説教が大切なのは、それがカトリック信者にとって女性の視点を祭壇から聞く唯一の手段だからである。

 

「多角的な声を聞くことが大切なのです。」と彼女は言う。「小教区の人々は、希望を与えてくれる言葉を求めています。様々な声があれば、一層そのチャンスは広がるのです。」

 

 

やはりこの教区で信徒の説教者をしていた慈善修道女会のシスター・バーバラ・ムーアは、超宗派のプロテスタント系神学校であるコルゲート・ロチェスター・クローザー神学校で、説教についての講座を担当している。

 

ムーアは、信徒による説教の先駆者であり、遡ること1972年に説教壇に招かれた。

 

信徒の説教の禁止は「わたしたちの教区にとっての損失です。」ムーアはNCRに語った。

 

「わたしたちは、人生の体験や自分が学んだこと、聖なる御言葉への自分の見方を提示します。わたしたちは皆、それぞれ独自のレンズを通して説教するのです。」と彼女は語る。

そして、聖書の中の女性に関する物語に光を当てたり、ついでのように語られている女性の挿話を詳しく調べたりすることで、女性の視点に命が与えられるのだと言う。

 

一例としてムーアは、使徒ペトロのしゅうとめの病気に関する短い物語(ルカ4:38、マタイ8:14)を挙げた。しゅうとめはイエスによって癒されたあと、使徒たちをもてなし始めたと記されている。ムーアはこの物語を、病気や困難にも関わらず他人に奉仕し続ける他の女性たちに結びつけた。

 

説教から女性の声が欠落していることは「わたしたちの教会の盲点です。」とムーアは言う。

 

ニューヨーク州の教区司祭で、ハムリンの聖エリザベス・アン・セトン教会のウィリアム・スピリー神父は、かつて信徒の説教者たちと共に働いた経験があり、将来も一緒に働きたいと考えている。

 

「聖霊は様々な形でわたしたちに話しかけます。」神父は、特に説教壇から語られる女性の言葉は、異なった視点を提示してくれるという考えに共感する。多くの小教区が一人の司祭によって指導されている時代に、説教の任務を分け合うことは「わたしばかりでなく、信者にとっても良い機会です。」信者たちは、日曜のミサの聖書朗読に関して、異なった見方が聞けることを感謝するだろう。

 

スピリー神父が自分の見解を司教に説明したとき、司教は聞いてくれたものの、教会法が障害であると信じているように思われた。同神父は、ロチェスター教区が再び、信徒による説教の先駆者であった頃に戻るよう望んでいると述べた。

 

その一方で、ロチェスター教区の信徒の説教者は、自分たちの説教の内容を文書化し、ウェブサイトを通して仲間内で共有している。そして、教区のマンデラーノ報道官によれば、信徒たちはミサだけでなく、教区の集会でも彼らの霊的洞察を分かち合うよう招かれるだろうと言う。

 

 [筆者のピーター・フュアハードはニューヨーク州セント・ジョーンズ大学(カトリック系)でコミュニケーションと

ジャーナリズムの教授を務める傍ら、NCRの「野戦病院(Field Hospital)」欄のコラムニストでもある。]

Lay preachers in Rochester diocese want to be at the pulpit again

Peter Feuerherd  |  Mar. 10, 2016  NCR Today The Field Hospital*

 

The sounds of lay preachers -- often women -- echoed from pulpits in the Diocese of Rochester over decades. But those sounds have been silenced for the past two years, and former lay preachers say the church is losing out.

Ever since the 1970s, the upstate New York diocese had permitted lay preachers under Bishops Joseph Lloyd Hogan and his successor, Matthew Clark. That changed two years ago, soon after Clark's retirement and the installation of Bishop Salvatore R. Matano.

 

Lay preaching is no longer allowed in the diocese, according to diocesan spokesman Doug Mandelaro, because church law prohibits it.

 

Bishop Matano, in a letter sent in 2014, soon after coming to the diocese from Burlington, Vt., wrote that preaching at Mass "is an extension of Holy Orders," and that canon law affirms that "the diocesan Bishop may never dispense from the norm which reserves the homily to the sacred minister,'' the ordained priest or deacon.

 

That argument does not sit well with many of the former lay preachers in the diocese. Around 40 of them have collected their stories on a website called God's Word, Many Voices.

 

They are among the 150 or so lay preachers who once regularly proclaimed the Word at Sunday Mass around the diocese's 125 parishes.

 

One of them is Gloria Ulterino, who started preaching in 1986. She told NCR that, at the time, the U.S. bishops had established norms for lay preachers and that Vatican II opened up the possibility.

 

Ulterino preached once a month and was trained, like other lay preachers, at the diocesan-run St. Bernard's School of Theology and Ministry, a facility that used to be a seminary.

 

Lay preachers are important, said Ulterino, because it is the only way available for Catholics to hear a women's perspective from the altar.

 

"It's important to have multiple voices," she said. "People in parishes are looking for a word of hope. There's a better chance of that with a variety of voices."

 

Mercy Sr. Barbara Moore, another former lay preacher in the diocese, teaches preaching at the Colgate Rochester Crozer Divinity School, an interdenominational Protestant seminary.

 

Moore was a preaching pioneer, getting an invitation to the pulpit back in 1972.

 

The ban on lay preaching, Moore told NCR, "is a loss to our diocese."

 

"We bring our life experiences, our education, our views to God's holy words. Everybody preaches through a particular lens," she said. A woman's perspective comes alive, she said, in illuminating stories from the Bible about women or exploring the stories of women who are mentioned only in passing.

 

For example, Moore cited the brief story of Peter the Apostle's sick mother-in-law (Luke 4:38, Matthew 8:14), who was healed by Jesus. After she is healed it is said she began waiting on the apostles. Moore connects that story to other women who, despite illness and struggles, continue to serve others.

 

The lack of women's voices preaching, said Moore, "is a blind spot for our church."

 

Fr. William Spilly, a priest of the diocese and pastor of St. Elizabeth Ann Seton Church in Hamlin, N.Y., worked with lay preachers in the past and would like to do so in the future.

 

"The Spirit speaks to us in a variety of ways," he said, echoing the idea that a woman's voice in particular from the pulpit offers a different perspective. And, in a time when parishes are frequently led by a single priest, splitting homily duties "is a break not only for me but for the people" who might appreciate hearing a different take on the Sunday Mass readings.

 

Spilly has explained his view to the bishop, who he said listened but believes that canon law remains an obstacle. The priest said he would like to see a change back to the days when Rochester was a lay preaching pioneer.

 

Meanwhile, the lay preachers of Rochester will share the texts of their homilies, quietly, in written form, through their website. And, according to diocesan spokesman Mandelaro, lay people will be invited to share their spiritual insights at diocesan gatherings, just not at Mass.

 

[Peter Feuerherd is a professor of communications and journalism at St. John's University in New York and contributor to NCR's Field Hospital blog.]

 

  ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

*Editor's note: "The Field Hospital" blog series covers life in U.S. and Canadian Catholic parishes. The title comes from Pope Francis' words: "I see the church as a field hospital after battle. It is useless to ask a seriously injured person if he has high cholesterol and about the level of his blood sugars! You have to heal his wounds. Then we can talk about everything else. …"

 

http://ncronline.org/blogs/ncr-today/lay-preachers-rochester-diocese-want-be-pulpit-again