「学び合いの会-海外ニュース」 338号 

 

† 主の平和

 

昨日お届けした337号の記事に対して、学び合いの仲間から

早速感想が寄せられました。このように記事に反応していた

だくことが、学び合いの本来のあり方と思います。

感想を頂いたM.S.氏に感謝するとともに、お許しを得て原文の

まま添付します。

 

添付記事

1. 「カタコンベの誓い」を読んで M.S. 

 

――仲間からの感想――

 

翻訳グループの皆様 

 

第337号「カタコンベの誓い」文書と、カトリック・ニュースサービスの「カタコンベに戻れ」の二つを読みました。

 

公会議以降の教会の動向で、われわれ日本の一般信徒が知ることが出来なかった、教会内部の重要な歴史的出来事の一面が理解できると感じました。

公会議の直後に、これほどの内容の文章が作成されていたとは、驚きと同時に、不信を超えて教会への信頼を新たにさせられました。

 

特に目を引いたのは無論「カタコンベの誓い」の内容そのものですが、さらにこの誓約文書に関連したCNSの記事「カタコンベに戻れ」の下記の箇所に注目しました。

 

  1.誓約文書から50年周年を記念する取り組みによって、新しい研究や関心が生まれた、と彼(ベタツツィ 

司教)は言う。「そして神は、わたしたちにフランシスコのような教皇を与える恵みを下さった。教皇フランシスコは誓約文書にサインこそしていないが、既に、文書に記された生き方を実行してきた。以前から素朴な教会、貧しい教会、貧しい人と共にいる教会を経験してきた。」

 

2.メルセス宣教修道女会のシスター・Filo 弘田は、集まった修道会の総長たちを代表して次のように語った。「誓約文書は、キリストの弟子として司教に課された付託を、とても具体的に述べている。それは、彼らの日々の生活、ライフスタイル、教会のあり方、そして神の民と共に歩む生き方に強い影響を及ぼすものだ。」

「誓約文書はわたしたち修道者にも向けられている。」と彼女は言う。なぜなら修道者は、貧しく、従順で、汚れのないキリストに倣うことを荘厳に誓った者たちだから。

 

さらに公会議以降の歴史を刻む背景とも言える下記の箇所です:

 

  1. カタコンベで誓約文書に署名した司教たちは、他の第2バチカン公会議出席者にも呼びかけて

短期間に500人の署名を集め、福者パウロ6世に託した。

 

2. 「(しかし)連帯は得られなかった」し、フォローアップも無かったとベタッツィ司教は言う。

「時の経過と共に少しずつ忘れられてしまった。」

 

3.司教は、1968年にヨーロッパ社会を覆った激動の中で、(教会内には)その影響を恐れ、内に閉じこもろうとする反応があったと言う。そしてそれが誓約文書の拡がりを阻む原因のひとつになったと言う。

「1968年は皆を恐れさせ、すべてを閉じ込めてしまった。」と彼は言う。「まるで、行水の水を捨てようとして、中の赤ん坊まで捨ててしまったようなものだ。」

 

「1968年のヨーロッパの激動」の意味は メキシコに始まり世界中を覆った学生運動として日本人には記憶されている一連の社会運動のことだろうと思います。多分、この騒動がラッツィンガーの「解放の神学」の弾圧の原点に影響を与えたのだろうと思います。

 

社会の深層に流れるものを理解しようとせず、アメリカの1950年代のマッカシー赤刈りと同類の反応を起こしたのだろうと思われます。

 

神学ダイジェスト1985年掲載の、ラッツィンガーの「解放の神学批判」で、解放の神学者はマルクス主義を福音の上位におき、福音をマルクス思想で解釈していると言った主旨の批判をしています。「カタコンベの誓い」がムーブメントになることを恐れた教会権力者の弾圧の動きを察知して、署名した司教や司祭達がその後沈黙してしまい、この貴重な歴史的文章が埋もれざるを得なくなったのではないかと勝手に想像しています。この辺のところは勝手な推察です。

 

「カタコンベの誓い」の内容こそ、福音に生きるすべての司教達が指針とすべきでしょうね。

もし彼らがこの2000年を通じてこのような生き方に努めたなら、教会の姿は全く違ったのではないかと思われます。ひいては信徒全般も福音の理解が変わっただろうと。

 

福音の本質とも言える「僕と貧しい教会の誓い(Pact of the Servant and Poor Church)」は修道者によって守られてきたのでしょうね。

 

   「われわれは、新自由主義的資本主義、金力と武力による新植民地主義、効率優先の消費経済を認め 

ない。それが人類の大多数を貧しさと飢えに追い込む故に。」 ホアン・ソブリノ

“We continue to reject neo-liberal capitalism, the neo-imperialism of money and arms, and the ee-market economy of consumerism, which sinks the great majority of humankind into poverty and hunger.” Jon Sobrino, SJ 

http://ncronline.org/news/peace-justice/urgent-need-return-being-church-poor

 

教会は勿論、信徒も、もっと「経済のあるべき姿」に関心をもたなければthe Church as "poor and powerless"の意味を釈くことが出来ないのではないかと思います。

 

十分に理解出来るほど丁寧には読んではいませんが、頂いた文章を一通り読んでこんな印象を抱きました。

 

取り急ぎ、

M.S.