「学び合いの会-海外ニュース」 336号 

 

† 主の平和

教皇フランシスコの、真にエキュメニカルな思いを伝える記事。

添付記事

1. 「カトリックの聖体拝領へ、ルター派も個人的に識別を」

                                            教皇フランシスコが示唆   (NCR)

 

「カトリックの聖体拝領へ、ルター派も個人的に識別を」教皇フランシスコが示唆

ジョシュア・マッケルウィー 2015/11/16 NCR     

 

ローマ発:教皇フランシスコは、カトリック信者と結婚したルター派の信者が、カトリック教会で聖体拝領をするかどうかを、自ら識別することができるという注目すべき示唆を行った。教皇は、「許可を与えるまでの権限はないが、そのような人たちが自分の置かれている状況について、神の語りかけを聴くよう促すことはわたしの役割です。」と述べた。

日曜日の午後、ローマの福音派ルター教会(Evangelical Lutheran church)を訪れた教皇は、心に響くエキュメニカルな呼びかけに加えて、キリスト教宗派間の「多様性の中の和解」(reconciled diversity)を願い、双方が行った歴史的迫害に対して、互いに許しを求め合わなければならないと述べた。

 

ルター派信者の聖体拝領に関する教皇の発言は、広く注目を集めることだろう。現在のカトリックの教えでは、他のキリスト教宗派の信者がカトリック教会で聖体拝領することは、通常禁じられているからである。

 

教皇フランシスコは、日曜日のルター派教会訪問の際、ルター派の一女性の質問に応じてこの問題について語った。その女性はカトリック信者の男性と結婚しており、現在カトリック教会がルター派の人たちの聖体拝領を禁じていることが、この夫婦に悲しみを与えていると言ったのだ。

 

「わたしたちは長年一緒に暮らして、喜びも痛みも分け合ってきました。」とその女性は言った。「ですから、教義で分けられて主の食卓に一緒に参加できないことで、わたしたちは深く傷ついているのです。最終的にこの宗教的交わりに至るために、わたしたちに何ができるでしょうか?」

 

教皇は、キリスト教信仰の本質と、イエスのみ言葉について、広範に思いを巡らせながら答えた。イエスが最後の晩餐で弟子に語ったと記されている言葉は「これをわたしの記念として行いなさい」である。

 

「わたしは自分に問いかけます。主の食卓を分かち合うのは旅路の終りにすることでしょうか? それとも、旅の途上で共に歩むための糧(viaticum)にするものなのでしょうか?」

教皇は、旅行者の食糧や必要品を意味するラテン語を用いて語った。

 

「(主の食卓を)分かち合うということは、ある意味で、確かにわたしたちの間に違いはないということであり、わたしたちが同じ教義を持っているということでもあります。…わたしはその言葉(教義:doctrine)にアンダーラインを引きます。難しい言葉です。…でも、わたしは自分に問いかけます。わたしたちは同じ洗礼を受けているのではないだろうか?」

 

「そして、もし同じ洗礼を受けているなら、わたしたちは共に歩むべきです。あなた方は、実に深遠なる旅路の証し人です。それは夫婦の旅路、すなわち真の家族の旅路であり、人間愛の旅路、信仰を共にする旅路でもあるからです。わたしたちは同じ洗礼を受けているのです。」

 

それから教皇は、故人となった英国国教会の司教との間の友情について語った。彼は、日曜日ごとに自身の信仰共同体で礼拝を司式し、さらにカトリック信者の妻と二人の子どもと共にカトリックのミサにも与かった。教皇は、これが「主の食卓を分かち合うやり方」の一例であると述べた。

 

そして、教皇はルター派の女性に語りかけた。「一つの問いかけをお示しすることで、あなたの質問にお答えしましょう。『主の食卓がわたしの人生の旅路の友であるために、わたしは、夫と共に何ができるだろうか?』」

 

「これは、すべての人が応答を求められる問題です。」と教皇は述べた。「しかし、友人の牧師はこう言いました。『わたしたちは主がそこに現存しておられることを信じています。主は現存します。あなたも主の現存を信じています。何が違うのですか?』」

 

「説明することも解釈することも出来るでしょう。」と教皇は言う。「人生は、説明や解釈よりも大きなものです。いつも洗礼を思い起こして下さい。」

 

「『主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ』(エフェソ4:5)とパウロは告げています。」と教皇は続けた。「そこから導き出される結論をしっかりと掴んで下さい。」

 

「わたしは敢えてそうする許可を与えることはしません。それはわたしの権限ではないからです。」と教皇は述べた。「洗礼は一つ、主は一人、信仰は一つです。主と語り合って前に進んで下さい。わたしはそれ以上のことを敢えて言いません。」

 

日曜日にルター派の教会を訪問して長時間を過ごした教皇は、子ども1人と女性2人からの質問に答え、教会共同体と共に祈り、説教をした。

 

教皇は、説教の黙想の対象として、イエスが最後の審判で用いる基準に触れた、マタイ福音書の部分を取り上げた。(訳注:マタイ25:31-46?)

 

「その日、主があなたたちに尋ねるのはどちらの質問でしょうか。『ミサに行きましたか?教会の教えをよく勉強しましたか?』」と教皇は問いかけた。「いいえ違うのです。質問は貧しい人々についてです。なぜなら、貧しさが福音の中心だからです。」

 

「『あなたは、あなたの生涯をあなた自身のために使いましたか?それとも、仕えるために使いましたか?』」教皇は質問の一例を示した。「『(あなたの人生を)壁に閉じこもって、自分を守るために使いましたか?それとも、愛をもって他者を受け入れるために使いましたか?』」

 

それから教皇は、ちょっと大げさに、カトリック信者とルター派の人たちが同じ共同体に属すると考えるためにはどうしたらいいかと問いかけた。

 

「わたしたちにとって忌まわしい時代がありました。」と教皇フランシスコは語った。「お互いに迫害し合ったこともありました! 同じ洗礼を受けているのに! 生きたまま火あぶりにされた人もいました。」

 

「わたしたちはお互いに、この、恥辱に満ちた分裂について許しを求め合わなければなりません。」と教皇は述べた。

 

「最後に主にまみえるとき…わたしは、主が一致の僕となって、わたしたちが共に歩む手助けをしてくださるよう願いたいと思います。」と教皇は言った。「今日、わたしたちは共に祈りました。これからも共に祈り、貧しい人々のため、困窮している人々のために共に働きましょう。それらの人々を、共に、真の兄弟愛で愛しながら。」

 

それから、教皇フランシスコは、異なる考えを持つルター派の人の言い方を真似てこう言った。『しかし、神父様、わたしたちは違っています。わたしたちの教義本とあなたがたの教義本には別のことが書かれています。』

 

その答えとして教皇は次のように述べた。「ある時、あなた方の偉大な師は、多様性の中に和解が生まれる時が来ると仰いました。わたしたちは今日、この恵みを願い求めましょう。  

ヤーウェの僕である主において和解した多様性の恵みを、仕えられるためではなく仕えるためにわたしたちの間に来られた神の恵みを願いましょう。」

 

これより先、教皇は、幼い子どもの質問に答えていた。その子は、教皇になって一番好きなことは何かと尋ねた。

 

「わたしが心から好きなのは司祭であること、司牧者であることです。」と教皇は応じた。「わたしは事務所でする仕事が好きではありません。そういった仕事は好きではありません。儀礼的なことも好きではありません。…でも、しなければなりません。」

 

「子どもたちと話すこと…それが好きです。」と教皇は続けた。「あなたは子どもですから、もしかしたらわたしのことを分かってくれるかも知れません。子どもは現実的です。現実に即さない質問はしません。」

 

「だから司祭であることが好きなのです。そして…わたしが一番好きなのは子どもたちと居ること、子どもたちと話すこと、そしていろいろなことを知ることです。」と教皇は語った。「あなた方はたくさん学びます。わたしは、司祭のスタイルのまま教皇でいることが好きです。」

 

「わたしは刑務所に行くのが大好きです。でも、わたしを刑務所に入れないで下さいね。」教皇フランシスコは冗談を言い、どうして刑務所を訪問するのが好きかを話した。

 

「何故、受刑者たちと話すのでしょうか?」と教皇は問いかけた。「あなたは多分、わたしが言おうとしていることを分かってくれるでしょう…わたしは刑務所に行くたびに自分に問いかけます。『どうしてわたしでなくてこの人たちなのだろう。』そして、わたしはそこに、イエス・キリストの救い、わたしへの神の愛を感じるのです。」

 

「なぜなら、わたしを救ってくれたのはそのお方だからです。」と教皇は言った。「わたしは受刑者に劣らず罪人です。それなのに主は、わたしをその手に受け入れて下さいました。わたしはそれを感じるのです。」

 

「教皇であることは司教であること、司祭であること、司牧者であることです。」と教皇フランシスコは語った。「もし、ある教皇が司教のように振る舞わず、ある教皇が司祭のように振る舞わず、また、ある教皇が司牧者のように振る舞わないならば、あるいはその教皇は、とても知的な人、重要な人として、社会に大きな影響力を持つかも知れません。でもわたしはこう思うのです。いいですか!その教皇の心の中は、きっと幸福ではないと思います。」

 

(以上)

Francis suggests Lutherans might discern taking Catholic communion individually

Joshua J. McElwee  |  Nov. 16, 2015

 

 

ROME Pope Francis has strikingly suggested that Lutherans married to Catholics can personally discern whether to take Communion in the Catholic church, saying it is not his role to give permission to such persons but to encourage them to listen to what God is telling them about their situations.

In a moving ecumenical visit to Rome’s Evangelical Lutheran church Sunday afternoon, the pontiff also called for “reconciled diversity” between the Christian denominations and said both must ask forgiveness of each other for historic persecutions.

 

The pope’s words about the issue of communion for Lutherans will likely attract wide attention, as Catholic teaching currently prohibits members of other Christian denominations from taking communion in the church in normal circumstances.

 

Francis spoke about the issue during Sunday’s visit in response to a question from a Lutheran woman who said she is married to a Catholic man and that the current prohibition on Lutherans receiving communion in the Catholic church causes them sadness.

 

“We have lived together for many years, sharing joys and pains,” the woman said. “And therefore it hurts us very much being divided in the faith and not being able to participate together at the Lord’s Supper. What can we do to reach, finally, communion on this point?”

 

The pontiff responded with a wide-ranging reflection on the nature of Christian faith and on Jesus’ words as recorded at the last Supper, when he is said to have told his disciples: “Do this in memory of me.”

 

“I ask myself: Is sharing the Lord’s Supper the end of a path or is it the viaticum for walking together?” said the pontiff, using a Latin term for food or provisions along the journey.

 

“It is true that in a certain sense sharing is to say that there are not differences among us, that we have the same doctrine -- I underline the word, a word difficult to understand -- but I ask myself: Don’t we have the same Baptism?” he continued.

 

“And if we have the same baptism, we must walk together,” he said. “You are a witness of an even profound path because it is a conjugal path, a path truly of family, of human love, and of shared faith. We have the same Baptism.”

 

The pontiff then spoke of a friendship he had with a deceased Episcopal bishop, who every Sunday worshipped with his own faith community and also attended Catholic Mass with his wife and two children, who were Catholic. The pope said that was an example “of a way of participation in the Lord’s Supper.”

 

“I respond to you only with a question,” Francis then told the Lutheran woman. “’What can I do with my husband, so that the Lord’s Supper accompanies me in the paths of my life?’”

 

“It is a problem to which everyone must respond,” said the pontiff. “But a pastor friend told me: ‘We believe that the Lord is present there. He is present. You believe that the Lord is present. And what is the difference?’”

 

“There are explanations, interpretations,” said the pope. “Life is bigger than explanations and interpretations. Always make reference to Baptism.”

 

“‘One faith, one baptism, one Lord,’ Paul tells us,” Francis continued. “From there, grab hold of the consequences.”

 

“I will not ever dare to give permission to do this because it is not my competence,” he said. “One Baptism, one Lord, one faith. Speak with the Lord and go forward. I do not dare to say more.”

 

Francis was speaking Sunday in a lengthy visit to the Lutheran church, which saw him answer questions from one child and two women, pray with the church community, and offer a homily.

 

The pontiff focused his reflection in the homily on a portion of Matthew’s Gospel focused on the criteria Jesus will use in his final judgment.  

 

“Which will be the questions that the Lord will ask us that day: ‘Did you go to Mass? Did you make a good catechesis?’” asked the pope. “No, the questions are on the poor, because poverty is at the center of the Gospel.”

 

“‘You, your life, have you used it for yourself or to serve?’” Francis gave an example of one of the questions. “‘To defend yourself from others with walls or to welcome them with love?’”

 

The pontiff then asked rhetorically how Catholics and Lutherans would be judged as communities.

 

“There were ugly times amongst us,” said Francis. “Think of the persecutions -- amongst us! With the same baptism! Think of those burned alive.”

 

“We must ask each other forgiveness for this, for the scandal of division,” he said.

 

“I would like, at the end, when I see the Lord … I would like to ask him that he may be the servant of unity, to help us to walk together,” said the pope. “Today, we prayed together. Let us pray together, work together for the poor, for those in need; loving them together, with true love of brothers.”

 

Francis then imitated a Lutheran who might think differently, saying, ‘But, father, we are different because our dogmatic books say one thing and yours say another.’

 

“A great one of yours said one time that there is the hour of reconciled diversity,” the pontiff responded. “Let us ask today for this grace, the grace of reconciled diversity in the Lord, the servant of Yahweh, of that God who came among us to serve and not to be served.”

 

Earlier in the visit, Francis responded to a question from a young child who asked what he likes most about being pope.

 

“The thing that I like, sincerely, is to be a priest, to be a pastor,” responded the pontiff. “I don’t like office work. I don’t like that work. I don’t like doing protocol … but I must do it.”

 

“Dialogue with children -- this I like,” he continued. “You are a kid and maybe you might understand me. You [kids] are concrete; you don’t make questions that live in the air.”

 

“That’s why I like being a priest and … what I like most is to be with children, to speak with them, and to learn so much,” he said. “You learn so much. I like to be the pope with the style of a priest.”

 

“I love so much to go to prison, but not to put me in jail!” Francis later joked, speaking of how he likes to visit prisoners.

 

“Why speak with prisoners?” he asked. “Maybe you will understand that which I will say to you -- every time I go to a prison I ask myself: ‘Why them and not me?’ And there I feel the salvation of Jesus Christ, the love of Jesus Christ for me.”

 

“Because it is he who has saved me,” said the pope. “I am not less of a sinner than them, but the Lord has taken me in hand. And this, I feel it.”

 

“Being pope is being bishop, being priest, being pastor,” said Francis. “If a pope doesn’t act like a bishop, if a pope doesn’t act like a priest, doesn’t act like a pastor, he will be a very intelligent person, very important, will have much influence in society, but I think -- I think! -- that in his heart he is not happy.”

 

 

[Joshua J. McElwee is NCR Vatican correspondent. His email address is jmcelwee@ncronline.org. Follow him on Twitter: @joshjmac.]

 

http://ncronline.org/news/vatican/francis-suggests-lutherans-can-discern-taking-catholic-communion-individually