「学び合いの会-海外ニュース」 322号
† 主の平和
6月18日に発表された環境問題に関する回勅「ラウダート・シ」は、
極めて今日的なテーマを扱っているために、教会の外でも大きな
関心を集めています。
アメリカの著名な書評誌がこの回勅について長文の論評を掲載し、
学び合いの仲間が翻訳して下さいましたので、素訳のままお届け
します。
なおこの回勅はカトリック新聞に要約して紹介されましたが、全文
の和訳がホアン・マシア神父のホームページに掲載されています。
http://www.juanmasia.com/
添付記事
1. 教皇と、地球という惑星
回勅 ラウダート・シ:人類共通の住み家を守るために
教皇と、地球という惑星
ビル・マッキベン 2015/8/13 The New York review of Books
訳注: ニューヨーク・ブックレビュー誌(The New York Review of Books)
文芸、教養、経済、科学、時事問題など多様な著作物を取り上げて論評する
月2回発行の雑誌。「英語による最も知的な書評誌」として信頼されている。
教皇フランシスコの回勅 「ラウダート・シ:人類共通の住み家を守るために」
この無秩序に広がり、多文化が混在し、制御困難な惑星に関して、すべての人の耳に届くように話をした人はだれもいない。しかし、教皇フランシスコは誰よりもすべての人に近づいて来たのだ。彼は、世界最大の宗教団体を率い、その信徒数は12億に及ぶが、その意思の表示のし方には才能があり、それ故に、カトリックの範囲外でさえ(また、ことによると範囲外でことさらに)、膨大な数の人々の尊敬と好意を獲得してきた。そのローマの聖座から、教皇は、先進国世界に語りかける。先進国世界の大半は、自らが代表を務めるキリスト教世界の流れをくむ地域であるが、その一方で、自身のアルゼンチンのルーツから、発展途上国世界に話しかけ、また直接体験して獲得した知識で、貧しい人々に話しかける。貧しい人々の存在は、わたしたちの惑星、地球上の大半のところで避けられない宿命となっている。
このように、このこれまで直面したことのない真に地球規模の問題を、これほどまでに有効に考察できた人はなかったことだろう。その問題とは、化石燃料の消費による急速な地球温暖化である。科学者たちは、気候の伝えるメッセージを明らかにするという優れた仕事をして来て、比較的迅速に、この問題に関する実行可能な合意に達している。しかし、国の政治的指導者たちは、化石燃料業界に恩義を感じていて、よく言って、「気後れしている」のだ。たとえば、バラク・オバマは、2012年の選挙戦の間、この問題に触れることは滅多になかった。教皇フランシスコが、まず、気候変動に関する回勅を出すことを考えていると発表してから、多くの人々が、教皇の言葉を心待ちにしていた。
そして、このように限られた根拠に立っても、「ラウダート・シ」は期待を裏切るものではない。実に、広域のニュース報道が焦点を当てていたことすべてを網羅しているのである。すなわち、気候変動が、人間の過ちであると主張し、われわれの経済を、石炭、石油、ガソリンから、再生可能なエネルギーへと急速に変更するように要求し、環境危機で最初に犠牲になるのは貧しい人たちであると、われわれに思い出させている。(これはまた、アメリカ人が、気候変動否定論者の政治家たちを難しい立場に置くのに協力することにもなった。この気候変動否定論者の政治家は、アメリカ以外の世界では、かなり希少種である。たとえば、ジェブ・ブッシュは、気候に関しては、教皇は干渉すべきではなく、その問題は政治家に任せるべきだと言うなどということをしてしまった。「宗教は、わたしたちを、民族としてよりよくすることに従事すべきである」と、ジェブは、のちのちかえって自分を悩ますことになるかも知れない言葉で言ったのである。)
教皇は、気候問題の論争に、自身の先任者たち言葉を基盤としてその論点を築いていっ
た。最初の数ページで、教皇は、ヨハネ23世、パウロ6世、ヨハネ・パウロ2世、そして
ベネディクト16世の言葉を引用している。しかし、明らかに、この先任の教皇たちの提
起している環境保護の問題はあまり重要視されていない。教皇は、東方正教会の指導者
で、ときに「緑の総主教」と呼ばれることもあるヴァルソロメオス1世総主教の草分け
的な働きも取り上げている。ダライ・ラマからイギリス聖公会の大主教デズモンド・ツ
ツまで、その他のこの問題に関して雄弁に語ってきた人たちも取り上げている。さらに
教皇フランシスコの言葉は、この池に岩のように落ちる。小石ではなく、岩のように。
その言葉は、12月にパリで行われる気候変動枠組み条約第21回締約国会議、COP21での
ある種の合意に向けての現在の気運を揺るぎないものとする強い後押しとなる。実際、
教皇は、善意の人々は皆、教皇がして来たようにし、この問題に、それが必要とする優先度を与える必要があると言っている。有名人はその力を使って政治日程を組む。そして教皇のタイミングは申し分のないほどに正確である。それらの基盤の上に、「ラウダート・シ」は、最近、もっとも影響力のある文書の一つして立つのである
実際に文書全体を読み、それが、これまで考えていたよりもはるかに重要なことであると悟ることはすばらしい。事実、それは、メディアのレポートによって、人が信じるようになったであろうものとは全く異なっている。それは、気候問題の論争にむけての狭く一点に集中した理論ではなく、それはまさしく、わたしたちが、この惑星に暮らしているやり方への全面的で、抜本的で、非常に説得力のある批判にほかならないのだということが分かる。確かに、これは環境保護の面の批判であるが、倫理的、社会的、経済的、そして霊的な現状についての適切な解説でもある。その範囲と論調から、即座に、わたしは、シューマッハーの「スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学」(1973年)とアメリカの偉大な作家、ウェンデル・ベリーを思い出した。これらの作家に関してもそうであるが、ラウダート・シを進歩的、保守的のどちらかに分類することは無駄である。そこにはどちらの部分もあるのだが、われわれの政治的レッテル貼りの許容より、はるかに深いところまで至るのだ。それは辛辣でありながらも優しい。そして、そのページを開いた貧しくない読者たちはことごとく不安になるに違いない。
わたしたちが直面している環境保護の問題は、その成り立ちは科学技術の発達によるものではないと教皇フランシスコは言う。そうではなく、「わたしたちの周りの世界に被害が及ぶほどに、人間の生活と活動のあるやり方が失敗したのです。」教皇はラダイト、テクノロジー嫌いなどではない(「だれが、航空機や超高層ビルのすばらしさを否定することができようか。」)が、「技術的枠組み」に屈してしまったのだと主張する。「技術的枠組み」によって、力が増すことはすべて、「『進歩』が増すことそのもの」を意味するのだとわたしたちは信じ込むことになった。それは、あたかも、現実や善良さや真実は、技術的、経済的力といったものから流れ出てくるかのようである。この枠組みは、「論理的で合理的な手順を用いて、外界の物体に着実に近づき、それを支配する主体という概念をたたえている。教皇はこう述べる。人は皆、男性も女性も初めから自然に干渉してきたが、長い間、それは、物事それ自体が提供する可能性と調和を保ち、それに敬意を払うことを意味していた。それは、自然自身が許すものを受け取るということであった。それはあたかも自然そのものから受け取るかのようであった。
しかし、今のわたしたちの世界では、「人間と物質は、もはや互いに親しみを込めた手を差し伸べることはなくなってしまった。両者は対立関係になってしまった。」科学技術が、わたしたちに提供してきた偉大な力で、無限の、すなわち無条件の成長という考えを受け入れることは容易になり、そして後になって、経済学者、資本家、そして科学技術の専門家にとって、その考えはたいそう魅力的であるということが判明したのである。しかし、この考えは、地球の財産は無限に供給されるという嘘に基づいていて、これは、すべての制約を超えて、この惑星から搾り取れるだけ搾り取ることに繋がっていくのだ。
教皇が言うには、環境の荒廃は、この「人間の社会的生活のあらゆる面に影響を及ぼす
還元主義(極度の単純化)」の一つのあらわれに過ぎない。そして、「異なる文化の枠
組みを促進するという考えは、今日ではあり得ないことだが、差し迫った公害の問題へ
の取り急ぎの不公平な応え」から抜けだし、科学技術が解放されて、貧しい人々、他の
創造物、そして、はかない繁栄のまっただ中でも犠牲になっている人間の中の残りの人
々に奉仕できるようになった世界を想像することに、教皇は確実に挑戦しようと決心し
ているのだ。現在の環境保護危機は、「現代の倫理的、文化的、そして霊的危機の一つ
の小さなしるし」である。
教皇はこのように身構え、様々な現代の論争の調停を図る。たとえば、オートメーションと仕事との関係である。教皇はこう指摘する。「経済の方向性は、労働者を一時解雇し、機械と交換することで生産コストを下げるという、ある種の技術的発達によるプロセスの方を好んできた。」これは不幸なことである。それは、「仕事は不可欠なものであり、この地球上の生活の意味の一部をなし、成長への道である」からだ。教皇が引き合いに出す例は、その論証の巧みさをはっきりと示している。作物の遺伝子組み換えは、ある意味、「農業を自動化する、あるいは合理化する」一つの方法である。遺伝子組み換え生物が、わたしたちの身体に有害であるかも知れないという「決定的な証拠」などない。しかし、「このような作物の導入に続いて、生産性のある豊かな土地が、ごくわずかな数の所有者の手中に集まってしまう」という広範な証拠はある。新しい科学技術を使える余裕のある人だけが、この土地所有者になれるのだ。
世界の半分が未だ自作農業者として働いているとするならば、これは、農場から人口過密の大都市の片隅にあるあばら屋への人の移動を加速することになる。その代わりに、「生産の多様性の方を好む経済を促進する」必要があるのだ。多様性の中には、「小規模の食物生産システム」がある。それは、果樹園とか菜園といった小さな農業区画で行われるものであり、また狩猟、荒れ地農業、あるいは地域漁業といったものである。(そして、これを、飢餓に対するロマンチックな処方箋だと考える人がいるといけないので、国連食糧農業機関は、ここ数年間に、実際には、小さな農場の方が、1エーカーあたりより多くのカロリーを生み出すということを示す研究を次から次へと発表した。投資された金額あたりのカロリーではない。もし金持ちになりたいなら、拡大が必要であろう。しかし、もし世界に食糧を供給したいと望むなら、賢い自作農業が効果的であろう。)
それは、単に小さいもの対大きいものという構図ではないのだ。教皇は、「消費者主義目線」が奨励する「諸文化を同じレベルにする効果」よりも多様な文化を優先することを強く主張している。「諸文化を同じレベルにする効果」は、「全人類の遺産である計り知れない多様性」を損なうのである。最初に世界を普遍化(訳註:個別的・特殊なものを捨て、共通なものをとり出すことによって概念や法則などを引き出すこと)しようと目指した機構の長の口から出たいささか注目に値する言葉によると 一つの文化の消滅は、植物や動物の一つの種の消滅と同じぐらい、あるいはそれ以上に重大なことになり得る。有力な生活スタイルの押しつけは、生態系の変換とまさしく同じほどに害を及ぼす可能性がある。
この関連で、さらにいっそう印象的なのは、教皇が、「土着のコミュニティーとその文化的伝統」をしっかりと護っていることである。「土着の人々は、単なる大勢の中の少数民族ではなく、主要な対話の相手であるべきなのだ。特に、その人たちの土地に影響が及ぶ計画が提案されているときにはそうであるべきだ。」なぜなら、その人たちにとって、土地は、「自分たちの尊厳と価値を維持するためには、互いに交わり合う必要のある神聖な空間であるからである。」さて、その姿勢に比較して、石油会社は、今、カナダのタールサンドを採掘するために先住民の土地を破壊しているのだ。
訳註:オイルサンド[1] (Oil sand、油砂(ゆさ)[2])あるいはタールサンド(Tar sands)とは、極めて粘性の高い鉱物油分を含む砂岩のこと。原油を含んだ砂岩が地表に露出、もしくは地表付近で地下水などと反応し、揮発成分を失ったものと考えられている。色は黒ずみ、石油臭を放つことが特徴。油分が石炭を乾留した時に出るコールタールに似ていることから、初めタールサンドと呼ばれたが、実際の成分は石油精製から得られるアスファルトに近い。
しかし教皇は、今の現実を前提として、醜さを越える美しさを強く求めるときに、同じほどに過激になる。教皇が、「わたしたちを包み込み、わたしたちを一つにする都市の中で、わたしたちの帰属意識や定着感や『安らぎ感』を高める視覚的地標や都会風な景色といった共有の地域」の開発からの保護を要求するとき、教皇は、フレデリック・ロー・オルムステッドを単に称賛するだけに留まらない。たとえば、トルコにおける、イスタンブールのゲジ公園を取り壊し、そこにショッピングモールや瀟洒なアパートを建てる計画に端を発した未だ一触即発の状態にある暴動に教皇は加わろうとしているのだ。
訳註:エルドアンは最後の任期を迎えるにあたり、憲法改正など様々な国家的プロジェクトに着手していた[2]。特にイスタンブルは、2020年夏季オリンピックの招致を目指していたこともあり大規模な再開発計画を推進。同市内の人気の観光スポットでもあるタクスィム広場の付近でも、交通渋滞の緩和などを目的とした改築工事が2012年11月より開始された。特に広場の近くにあるタクスィム・ゲジ公園(英語版)はイスタンブルに残る最後の緑地とされてきたが、これを取り壊し、跡地にショッピングモールなどが入る、オスマン帝国時代の兵舎を模した建物の建設計画が開始された[2][4][11]。しかし、この計画には緑地が失われることに対する批判や、計画そのものが地元住民を追い出すものであるとして反対の声が上がった[11]。当初は木の伐採に反対するたった4人による抗議活動でしかなかったが、徐々に抗議活動が広まり[2]、やがて警察は強引な手法を用いてこれを鎮めようとした。このことがエルドアンに対する抗議へと発展していった[12][13]。
教皇はまた、マイカーより「公共交通機関を優先する」ことを強く主張する。これは、ブラジル、クリチバ市の先見の明のある市長であったジャイム・ラーナーが、一世代前に、世界で最も優れた輸送システムに着手したときに用いたぴったりのフレーズである。バス高速輸送システム(バス・ラピッド・トランジット BRT)というこの人の構想は、今や世界中に広がっている。そして、バス専用レーンや似たようなものを強く求めることによって、乗用車がもっとも不便に感じることになるところで、BRTはまさにもっともよく働くことになるのである。これにより、富んだ人々と同じように貧しい人たちも容易にあちこち移動できるようなるのだ。あらゆるBRTレーンは、先任の教皇たちが冷笑し、しつこく追求したラテン・アメリカの解放の神学者たちがかつて、「貧しい人々の優先的選択」と呼んだものの具体的な示威活動である。
わたしたちは、個人の向上よりも共通善を選ばなければならないと主張するときほど、教皇が厳格になるときはない。それは、もちろんのこと、わたしたちが現在暮らしている世界が、ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーのその真逆へのこだわりで始まっているからである。(「社会などというものなどない。あるのは個々人(男性女性)と家族である」と印象深く述べたのはサッチャーであった。これで決まったのだ。)特に、教皇が強く主張するのは、「世代間の連帯は選択自由なものではなく、むしろ正義の根本的な問題である。それは、わたしたちが受け取ってきた世界は、わたしたちにつらなる人たちのものでもあるのだからである」ということなのだ。
わたしたちの現在の活動に課せられていると現実に信じている制限について考えてみなさい。そして、もしわたしたちが、「未来の貧しい人々だけでなく、現在の貧しい人々のことも」心にとめるなら、それはどういうことなのかも考えてみなさい。「現在の貧しい人々のこの地上でのそのいのちは短く、待ち続けることは出来ないのだ。」わたしたちは、本当に現在していることの大部分を止めざるを得ないのだ。片隅に暮らす貧しい人々をしっかりと心にとめ、どんどん続く未来の世代の利益をよく考えれば、さて、シェル石油が(オバマ大統領の許可を得て)この夏行った北極圏で最近溶け出している水の中への石油の掘削の拡大を支持する記事をだれか書きたいと思うだろうか。ここで再び、たった一つの適切な言葉は「抜本的な」である。
しかし先ほどもいったように、わたしたちは、この種の進歩的でも保守的でもない改革主義を以前にも知っている。シューマッハーとかベリーのような批判派から始まり、そしてニューヨークタイムズのコラムニスト、デイヴィッド・ブルックスによるところの、その他、「1970年代スタイルの科学技術文明をめぐる破滅論」を「広める人たち」も居た。実際に、わたしたちの文明最大のトレンドを様変わりさせる、あるいは批判さえもしようした本格的な試みは、今やどれも冷笑を買っている。それは、たびたび、理論上右派からばかりか左派からも冷笑されている。たとえば、ブルックスは、n+1の編集者のマーク・グリーフとユニットを組み、その最近の著書The Age of the Crisis of Man (2015)(人間の危機の時代)で、教皇が取り組んでいることを几帳面に行う人々に軽蔑の言葉を浴びせている。
あなたが問いかけようとして、「今、わたしたちは、基本的に自分が誰であるかを問い、決めなければならない。」と言ってしまうとしたら、すぐにお辞めなさい。あなたは、そのときには分析を誤った質問をし始めているのだから。むしろ、実際の問題に答えなさい。そして、目的を達成するのに必要なすぐにできる行動を探しなさい。
これは、ある人にとっては、個人主義対共通善について話しているのではなく、炭素クレジットに対する新しい枠組みについて話していることになるかも知れない。ブルックスとグリーフは、わたしたちに「現実の世界」が話している声を聞けと言っているのだ。
訳註:炭素クレジット(Carbon Credit)とは、先進国の間で取引可能な温室効果ガスの削減量証明のこと。自国の排出削減だけでの削減しきれないCO2等の温室効果ガスについては、排出枠を余らせている国からその分を買い取ることができる。この排出量はクレジットとして取引可能となっている。
一方、少なくともブッダ以来、一連の霊的指導者たちは、わたしたちが誰であり、またどう生きるかに対し、理路整然として分かりやすく、実によく似た批判を与えてきた。そのような批判家の中でもっとも偉大なのはことによるとイエスである。しかし、その流れは、フランシスコの偉大な名をいただいた人にまで続いていく。そして、ソロー、ガンディー、その他多くの人々へと続く。もちろん、その大部分の人たちに、わたしたちは献身的に支持を表明してきたし、依然とほとんど変わらず生き続けてきた。
わたしたちには、変わるべき時が近づいている。たとえば、1970年の末の世論調査では、アメリカ人の30%が「開発推進派」で、31%が「開発反対派」で、39%が「全くどちらでもない」であった。そして、カーター大統領は、シューマッハーのためにホワイトハウスの歓迎会を催した。しかし、レーガンの選挙は、そのテンションを通常のやり方で消散させてしまった。そして、わたしたちがしてきた進歩は、以前もこれ以後も、科学技術の進歩であって、倫理的進歩ではなかった。人々は、発展によって貧しさから救いだされてきたのであって、連帯によってではなかった。問題は、今の現実は何か変わっているかどうかということ、
あるいは教皇の言葉が、石だらけのところに蒔かれた種となるかどうかということなのである。
今回違いがあるとしたら、それは実際、わたしたが危機の瀬戸際まで達してしまってい
るように思えることだ。シューマッハーと1970年代の先見の明を持った人たちは、発展
の限界は、もうちょっと先にあると想像して、わたしたちに強い警告を発した。それに
、わたしたちは耳を傾けなかった。
水を考えてみよう。教皇は水のことを長々と話している。ことによると、わたしたちは、「安全に飲める水を手に入れる権利は、基本的で普遍的な権利であり、それは、水が、人間の生存に欠かせないものだからである」ということを知るために、教皇の言葉を必要とすべきではないかも知れない。わたしたちは皆、水を無駄にしてはいけないと知っている。それでも無駄にしている。それは、そうすることが、富んで力のある人々には都合がよいからなのだ。たとえば、保険会社は、近年、水の供給量が減っているにもかかわらず、カリフォルニア中に膨大な数のアーモンドグローブを植えた。そして、農業耕作者たちは、中西部の帯水層の貯水量を引き下げてしまった。
教皇の回勅が出たのと同じ週に、大がかりな新しい研究で、この帯水層の貯水量は、20億人に食料を供給している地域で、今や使いすぎの状態にあることが明らかになった。このデータは、衛星による地球の重力場の計測によるもので、それは、この惑星自体がそのような規模の影響を受けるほどに、この惑星の水の減少はあまりにも大きいということを意味している。アメリカ西部だけでも、干ばつはあまりにも深刻で、昨年同じ衛星によって、63兆ガロン、重さにして240億トンの地下水が蒸発したことが明らかになった。その損失の重さは、シエラ・ネヴァダ山脈が多少高くなるほどのものである。新しいデータによれば、カリフォルニアの採掘業者たちは、あまりにも深くまで掘り下げないと地下水を見いだすことができず、彼らが水を採る水脈は20,000年前の地層にあるということも明らかになっている。
あるいは、生態系の多様性を考えてみよう。これについて、教皇は、「生態系を大切にするなら、先見性が求められる。それは、素速く、たやすく手に入る利益を探し求めている人には、生態系の保護に本当に関心のある人はいないからである」と適切に指摘している。しかし、回勅が出たのと同じ週に、高名な定期刊行物に載った新たな研究で、今や絶滅は、通常の背景率の114倍起こっていて、そしてこの惑星の「第6回目の大量絶滅は既に進行中である」ことが分かってしまうと、この警鐘はやや声高に聞こえる。そのような実験に基づいたデータを考慮すると、教皇が、「海の不思議の世界を、色や生命を奪われた水中の共同墓地へと変えてしまった」人々を引き合いに出すときの滅多に見ることのない、教皇の本当の怒りに揺らめく炎を理解できるのである。
人々の間にある不平等とその犠牲となる貧しい人々への教皇の深い悲しみもまた、注目に値する新しいデータがこれを精神的に下支えする。この新しいデータによって、この悲しみは以前の批判とはまた別のものになる。そのデータが今まさに示すのは、不平等がほとんど不条理の高みに達しつつあるということである。たとえば、ウォールマート1の財産の6人の相続人は、アメリカ人の全人口の底辺の42%を集めたよりも多くの資産を持っている。またコーク兄弟二人(二人合わせて、世界最高の金持ちである)は、次期連邦選挙に、共和党や民主党が使うよりも多くの金を使う計画をしている。何故、占拠運動2や以前のバーニー・サンダース3に向かう流れが、普通の政治評論家を驚かしたのかを理解したいと思うなら、このような現実を検討してみるとよい。(教皇はこう示唆する。「多くの専門家、世論を形成する人たち、通信媒体、中心部と権力側は、裕福な都市部に暮らし、位置していて、貧しい人々からほど遠く、貧しい人々の問題との直接の接点はないに等しい」)
訳註1:ウォールマート:米国の大手スーパーマーケットチェーン
訳註2:ウォール街を占拠せよ(英語: Occupy Wall Street)とは、2011年9月17日よりアメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン区のウォール街において発生した、アメリカ経済界、政界に対する一連の抗議運動を主催する団体名、またはその合言葉である。2012年3月現在も継続中であるが、大規模な運動そのものは開始後約2ヶ月ほどで沈静化している。
訳註3:バーニー・サンダース:ユダヤ系ポーランド人移民の息子としてニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリンで生まれた。ブルックリンのジェームズ・マディソン高校を卒業、シカゴ大学に進学し1964年に政治学の学位を取得した。卒業後はイスラエルのキブツで過ごし、政治的見解を形成した。1964年にバーモント州に移り住み、大工、映画製作、作家、研究者など様々な職を経験した。
左翼系無所属の議員であるが、アメリカ合衆国第112議会の上院では同じく無所属のアンガス・キングとともに、民主党と院内会派を組んでいる。2015年4月30日、2016年アメリカ合衆国大統領選挙に民主党から出馬することを表明した。
とりわけ、気候変動に関する実験に基づくデータは、この回勅が出されるに機が熟したことをはっきりと示している。長々と連なる一連の教祖たちの流れ、その最後に連なるのが教皇フランシスコであるのだが、この流れは、今やたくさんの現代の科学者たちに収斂されつつある。物理学者や化学者たちは、聖典の代わりに、それぞれのコンピューターモデルからの最新のプリントアウトに意見を聞くが、この二つの識別の方法は、同じような意見を述べることになるように思える。これまでのところ、わたしたちは、夏場の北極圏の海氷の大部分を溶かしてしまい、海を30%より酸性化させ、西南極氷床の周辺の海への崩落を始めてしまったことは明らかである。この崩落は元に戻ることはない。別のいい方をすれば、わたしたちは、この惑星のもっとも大きな物理的性質を体系的に破壊しているのであり、しかもそれを急ピッチでしているのだ。
そうだと仮定して、だれが現実主義者なのか。わたしたちには、急激な文化的変容が必要であると断言する教皇か、あるいは、自己満足に賛成する意見を述べ、「長期にわたる苦労のあげく、人々も自然も科学技術の進歩でより幸福になった」と断言するデイヴィッド・ブルックスなのか。論点は、もはや長期にわたる労苦などないということである。教皇の言葉で、「技術的解決法への平然とした屈服、あるいは盲目的信頼」の言葉を話す人々は、もはや持ちこたえられる言い分を持たない。教皇が、「魅惑的な市場という概念」と呼ぶものは、最終的に、レーガンが約束したことをやっていない。それどころか、それは、将来、地球誕生直後の時期と査定されるであろう大規模な地球の破壊、変化の非常に現実的な不安を増したのであった。
教皇がこの戦いに負ける可能性は充分にある。ことによると五分五分である。教皇は、科学と精神を結合したが、その結合体はさらにお金と戦わなければならない。回勅が発表された週に、連邦議会は、超党派という形で、ファスト・トラック貿易法を承認した。これは、均質化、技術家政治、財政、そして回勅が「rapidification」と呼ぶものの勢力にとっての非常に大きな勝利である。
それは、環境問題の解決に市場の果たすべき役割はないということではない。この問題を研究した人は皆、化石燃料業界は、炭素が大気中で与えた損害の代価を払うべきであり、その支払い額がまずまずであれば、再生可能なエネルギーへの移行はスピードアップすることだと考えている。しかし、気候ムーブメント(the climate movement)は、おおむね、そのお金を世界のエクソン社1から受け取り、すべての市民に返す計画を応援することで団結してきた。それは、貧しい人々や中産階級の人々にかなりの純利益を与える効果があることだろう。この人たちは、一般的にほとんど化石燃料を使っていないのだ。これに反して、新しいファスト・トラック2の協定は、どうやら貿易交渉の一部として新しい気候協定を明白に差し止めているようだ。
訳註1:エクソン社:ロイヤル・ダッチ・シェル・グループと並ぶ世界最大級の石油会社。天然ガス,化学,鉱業,石炭でも大手。1971年ジャージー・スタンダード(スタンダード・オイルより分割)がエクソンに改称し,同時にハンブル石油精製,エッソ化学もそれぞれエクソンUSA,エクソン化学と改名,その一部となる。
訳註2:ファスト・トラック(Fast Track)とは、 元々は通商に関する権限が議会にあるアメリカ合衆国において、 通商協定の批准の際に議会に対して修正審議を認めず、 部分修正無しに協定全体の承認か不承認かを選ばせることにより、 大統領に迅速かつ柔軟に通商交渉を行うための、 大きな権限を与える制度。
とにかく、かりに、現実世界の論争の結果が不確かであるとしたら、教皇は、知的論争を支援する。たとえば、ブルックスは、回勅における以下の考えを自身の攻撃の最重要項目としている。その考えとは、有り難いことには、見込みのある技術系の取り組みがあり、それはフラッキングを拡大することである。それは、天然ガスを燃焼させる方が、石炭を燃焼させるよりも生み出す炭素が少なく押さえられるからである。これは科学的におろかである。(ここで説明を入れると、新たなに出てきた多数の証拠によって、フラッキングは、むしろ、さらに強力な温室効果ガスである非常に高濃度のメタンを放出することが分かっている。)
しかし、いずれにしろ、わたしたちが気候に与えてしまったダメージの大きさはあまりに大きく、わたしたちにはもはや、化石燃料に与えるダメージをわずかに少なくするなどという余裕はないということなのだ。わたしたちは、再生可能なエネルギーに飛躍しなければならない。
訳註:
Q: フラッキングとは何か?
A: フラッキングは、天然ガス・石油(シェールガス・シェールオイル)を含む頁岩(けつがん)の層まで深い穴を掘り、砂と化学物質を混ぜた大量の水を非常な高圧で注入する。これによって頁岩に小さな亀裂が入り、その亀裂から、閉じ込められていたガス・石油が放出される。ガス・石油は井戸に集められ、井戸を通じて地表に送られる。
Q: 何が問題なのか?
A: 頁岩の層の多くは、帯水層の下に存在しているので、もし井戸の回りを覆っているセメントが不十分だと、フラッキングにより化学物質が帯水層に漏れ出してしまう。また、メタンが漏れると、火災や爆発の可能性が生じる。さらに、注入される水と化学物質の混合物は、徐々に地表に移動し、そこで土壌や地下水を汚染する。(中略)加えて、水が大量に使用されることで、地域の生態系を消耗させることになりうる。フラッキングに伴う地震の懸念もある。
そして、福音は、そのすべてが可能であるということだ。教皇がその創造力を称賛する技術者たちのおかげで、わたしたちは、たったこの6年間で、ソーラーパネルの値段が75パーセントも下がったのを目の当たりにしてきた。ソーラーパネルは今や、実際的な物理学に根ざして、10年もしないうちに、エネルギーを利用する方法のない小屋などなくなることを、化石燃料の現体制が200年間に成就し損ねたものを確保できるかも知れないほどに安価になっている。そのような変化をもたらしたのは、まさに教皇が仕事の尊厳という表現を使うときに念頭に置く種類の小規模の起業家たちである。そして、これは、全く異なる世界を意味しているのだろう。地球は、コーク兄弟のような石油ガス貴族たちの手に集中している電源の代わりに、広く拡散し、より民主的な送電系統からそのエネルギーを得ることになるだろう。そのようなシステムを作り上げるには、もっとも貧しい国々への援助をして伝統を活性化する必要がある。それには、たとえば、教皇が心に描いているのと極めて似た世界が必要になってくる。そこでは、ブルックスの悲しい表現うぃ借りるなら、「現状がそうであるように、人々は低いモチベーションしか持たず」、貧しい人々への配慮はそれに応じて尊重される。
ブルッスやレーガン、サッチャーは、わたしたちの中にある最悪のことを命じて、それが現
実に問題を解決すると思い込んでいる。ブルックスの悲しい表現をもう一度繰り返して、わたしたちは、「今の現実がそうであるような、人々が持つ低いモチベーション」に頼らなければならない。そうではなく、教皇フランシスコは、この大きな危機のときに、個として、そしてもっと重要なことである種として存在できる人たちに話してかけている。データが示しているように、これが、わたしたちに残された唯一の選択なのかも知れない。
(終)
The Pope and the Planet
Bill McKibben
AUGUST 13, 2015 ISSUE
Laudato Si’: On Care for Our Common Home
an encyclical letter by Pope Francis Vatican Press, 184 pp., available at w2.vatican.va
On a sprawling, multicultural, fractious planet, no person can be heard by everyone. But Pope Francis comes closer than anyone else. He heads the world’s largest religious denomination and so has 1.2 billion people in his flock, but even (maybe especially) outside the precincts of Catholicism his talent for the telling gesture has earned him the respect and affection of huge numbers of people. From his seat in Rome he addresses the developed world, much of which descended from the Christendom he represents; but from his Argentine roots he speaks to the developing world, and with firsthand knowledge of the poverty that is the fate of most on our planet.
So no one could have considered more usefully the first truly planetary question we’ve ever faced: the rapid heating of the earth from the consumption of fossil fuels. Scientists have done a remarkable job of getting the climate message out, reaching a workable consensus on the problem in relatively short order. But national political leaders, beholden to the fossil fuel industry, have been timid at best—Barack Obama, for instance, barely mentioned the question during the 2012 election campaign. Since Francis first announced plans for an encyclical on climate change, many have eagerly awaited his words.
And on those narrow grounds, Laudato Si’ does not disappoint. It does indeed accomplish all the things that the extensive news coverage highlighted: insist that climate change is the fault of man; call for rapid conversion of our economies from coal, oil, and gas to renewable energy; and remind us that the first victims of the environmental crisis are the poor. (It also does Americans the service of putting climate-denier politicians—a fairly rare species in the rest of the world—in a difficult place. Jeb Bush, for example, was reduced to saying that in the case of climate the pope should butt out, leaving the issue to politicians. “I think religion ought to be about making us better as people,” he said, in words that may come back to haunt him.)
The pope’s contribution to the climate debate builds on the words of his predecessors—in the first few pages he quotes from John XXIII, Paul VI, John Paul II, and Benedict XVI—but clearly for those prelates ecological questions were secondary. He also cites the pathbreaking work of Bartholomew, the Orthodox leader sometimes called the “green patriarch”; others, from the Dalai Lama to Anglican archbishop Desmond Tutu, have spoken eloquently on this issue as well. Still, Francis’s words fall as a rock in this pond, not a pebble; they help greatly to consolidate the current momentum toward some kind of agreement at the global climate conference in Paris in December. He has, in effect, said that all people of good conscience need to do as he has done and give the question the priority it requires. The power of celebrity is the power to set the agenda, and his timing has been impeccable. On those grounds alone, Laudato Si’ stands as one of the most influential documents of recent times.
It is, therefore, remarkable to actually read the whole document and realize that it is far more important even than that. In fact, it is entirely different from what the media reports might lead one to believe. Instead of a narrow and focused contribution to the climate debate, it turns out to be nothing less than a sweeping, radical, and highly persuasive critique of how we inhabit this planet—an ecological critique, yes, but also a moral, social, economic, and spiritual commentary. In scope and tone it reminded me instantly of E.F. Schumacher’s Small Is Beautiful (1973), and of the essays of the great American writer Wendell Berry.1 As with those writers, it’s no use trying to categorize the text as liberal or conservative; there’s some of each, but it goes far deeper than our political labels allow. It’s both caustic and tender, and it should unsettle every nonpoor reader who opens its pages.
The ecological problems we face are not, in their origin, technological, says Francis. Instead, “a certain way of understanding human life and activity has gone awry, to the serious detriment of the world around us.” He is no Luddite (“who can deny the beauty of an aircraft or a skyscraper?”) but he insists that we have succumbed to a “technocratic paradigm,” which leads us to believe that “every increase in power means ‘an increase of “progress” itself’…as if reality, goodness and truth automatically flow from technological and economic power as such.” This paradigm “exalts the concept of a subject who, using logical and rational procedures, progressively approaches and gains control over an external object.” Men and women, he writes, have from the start intervened in nature, but for a long time this meant being in tune with and respecting the possibilities offered by the things themselves. It was a matter of receiving what nature itself allowed, as if from its own hand.
In our world, however, “human beings and material objects no longer extend a friendly hand to one another; the relationship has become confrontational.” With the great power that technology has afforded us, it’s become easy to accept the idea of infinite or unlimited growth, which proves so attractive to economists, financiers and experts in technology. It is based on the lie that there is an infinite supply of the earth’s goods, and this leads to the planet being squeezed dry beyond every limit.
The deterioration of the environment, he says, is just one sign of this “reductionism which affects every aspect of human and social life.” And though “the idea of promoting a different cultural paradigm…is nowadays inconceivable,” the pope is determined to try exactly that, going beyond “urgent and partial responses to the immediate problems of pollution” to imagine a world where technology has been liberated to serve the poor, the rest of creation, and indeed the rest of us who pay our own price even amid our temporary prosperity. The present ecological crisis is “one small sign of the ethical, cultural and spiritual crisis of modernity,” he says, dangerous to the dignity of us all.
Thus girded, the pope intervenes in a variety of contemporary debates. Automation versus work, for instance. As he notes, “the orientation of the economy has favoured a kind of technological process in which the costs of production are reduced by laying off workers and replacing them with machines,” which is a sadness since “work is a necessity, part of the meaning of life on this earth, a path to growth.” The example he cites demonstrates the subtlety of his argument. Genetic modification of crops is a way, in a sense, to automate or rationalize farming. There’s no “conclusive proof” that GMOs may be harmful to our bodies; there’s extensive proof, however, that “following the introduction of these crops, productive land is concentrated in the hands of a few owners” who can afford the new technologies.
Given that half the world still works as peasant farmers, this accelerates the exodus off the farm and into hovels at the margins of overcrowded cities; there is a need instead to “promote an economy which favours productive diversity,” including “small-scale food production systems…be it in small agricultural parcels, in orchards and gardens, hunting and wild harvesting or local fishing.” (And lest anyone think this is a romantic prescription for starvation, the UN’s Food and Agriculture Organization has in the last few years published one study after another showing that small farms in fact produce more calories per acre. Not per dollar invested—if you want to grow rich, you need a spread. But if you want to feed the world, clever peasant farming will be effective.)
It’s not just small versus large. The pope insists on giving priority to diverse culture over the “levelling effect on cultures” encouraged by a “consumerist vision,” which diminishes the “immense variety which is the heritage of all humanity.” In words that are somewhat remarkable coming from the head of an institution that first set out to universalize the world, the disappearance of a culture can be just as serious, or even more serious, than the disappearance of a species of plant or animal. The imposition of a dominant lifestyle…can be just as harmful as the altering of ecosystems.
Even more striking, in this regard, is his steadfast defense of “indigenous communities and their cultural traditions. They are not merely one minority among others, but should be the principal dialogue partners, especially when large projects affecting their land are proposed,” because for them land “is a sacred space with which they need to interact if they are to maintain their identity and values.” Compare that attitude with, say, the oil companies now destroying aboriginal land in order to mine Canada’s tar sands.
But the pope is just as radical, given current reality, when he insists on beauty over ugliness. When he demands the protection from development of “those common areas, visual landmarks and urban landscapes which increase our sense of belonging, of rootedness, of ‘feeling at home’ within a city which includes us and brings us together,” he is not just celebrating Frederick Law Olmsted—he’s wading into, for instance, the still-simmering Turkish revolt that began with plans to tear down Istanbul’s Gezi Park and replace it with a mall and luxury apartments.
He also insists on giving “priority to public transportation” over private cars. This was the precise phrase used by Jaime Lerner, the visionary mayor of Curitiba, Brazil, when a generation ago he launched the world’s best transit system. His vision of Bus Rapid Transit is now spreading around the world, and it works best precisely where it most inconveniences autos, by insisting on dedicated bus lanes and the like. It makes getting around as easy for the poor as for the rich; every BRT lane is a concrete demonstration of what the Latin American liberation theologians, scorned and hounded by previous popes, once called “the preferential option for the poor.”
The pope is at his most rigorous when he insists that we must prefer the common good to individual advancement, for of course the world we currently inhabit really began with Ronald Reagan’s and Margaret Thatcher’s insistence on the opposite. (It was Thatcher who said, memorably, that “there’s no such thing as society. There are individual men and women and there are families,” and that’s that.) In particular, the pope insists that “intergenerational solidarity is not optional, but rather a basic question of justice, since the world we have received also belongs to those who will follow us.”
Think of the limitations that really believing that would place on our current activities. And think too what it would mean if we kept not only “the poor of the future in mind, but also today’s poor, whose life on this earth is brief and who cannot keep on waiting.” We literally would have to stop doing much of what we’re currently doing; with poor people living on the margins firmly in mind, and weighing the interests of dozens of future generations, would someone like to write a brief favoring, say, this summer’s expansion by Shell (with permission from President Obama) of oil drilling into the newly melted waters of the Arctic? Again the only applicable word is “radical.”
But as I say, we’ve seen this kind of neither-liberal-nor-conservative radicalism before—from critics like Schumacher or Berry or, in the formulation of New York Times columnist David Brooks, other “purveyors of “1970s-style doom-mongering about technological civilization.” Indeed any serious effort to alter or even critique the largest trends in our civilization is now scorned, often by the theoretical left as well as the right. Brooks is united with, for instance, n+1 editor Mark Greif, who in his recent The Age of the Crisis of Man (2015) heaps contempt on those who would do precisely what the pope undertakes: Anytime your inquiries lead you to say, “At this moment we must ask and decide who we fundamentally are…” just stop. You have begun asking the wrong analytic questions for your moment…. Answer, rather, the practical matters…and find the immediate actions necessary to achieve an aim.
For some, this would mean don’t talk about individualism versus the common good; talk about some new scheme for carbon credits. In Brooks and Greif we hear the “real world” talking.
By contrast, at least since the Buddha, a line of spiritual leaders has offered a reasonably coherent and remarkably similar critique of who we are and how we live. The greatest of those critics was perhaps Jesus, but the line continues through Francis’s great namesake, and through Thoreau, and Gandhi, and many others. Mostly, of course, we’ve paid them devoted lip service and gone on living largely as before.
We’ve come close to change—opinion surveys at the end of the 1970s, for instance, showed that 30 percent of Americans were “pro-growth,” 31 percent “anti-growth,” and 39 percent “highly uncertain,” and President Carter held a White House reception for Schumacher. But Reagan’s election resolved that tension in the usual way, and the progress we’ve made, before and since, has been technological, not moral; people have been pulled from poverty by expansion, not by solidarity. The question is whether the present moment is actually any different, or whether the pope’s words will fall as seeds on rocky ground.
If there’s a difference this time, it’s that we seem to have actually reached the edge of the precipice. Schumacher and the visionaries of the 1970s imagined that the limits to growth were a little further off, and offered us strong warnings, which we didn’t heed.
Take water, which the pope addresses at length. We probably should not need his words to know that “access to safe drinkable water is a basic and universal human right, since it is essential to human survival.” We all know it should not be wasted, and yet we continue to waste it because doing so is beneficial to the rich and powerful: for instance, insurance companies have planted enormous almond groves across California in recent years even as water supplies have started to shrink, and agribusiness planters have drawn down the aquifers of the Midwest.
In the same week that the pope’s encyclical emerged, a huge new study showed that those aquifers are now overdrawn in regions that provide food for two billion people—the data come from satellites measuring the earth’s gravitational field, which means that the water losses are so large they’re affecting the planet on that scale. In the American West alone, the drought has become so serious that last year those satellites showed the evaporation of 63 trillion gallons of groundwater, weighing nearly 240 billion tons, a loss of enough weight that the Sierra Nevada mountains became measurably higher. New data also show that California’s drillers must now go so deep to find groundwater that the supplies they tap have been in the ground for 20,000 years.
Or take biodiversity, where the pope rightly notes that “caring for ecosystems demands far-sightedness, since no one looking for quick and easy profit is truly interested in their preservation.” But that alarm sounds somewhat louder when, in the same week as the encyclical, a new study in a prestigious journal found that extinctions were now happening at 114 times the normal background rate, and that the planet’s “sixth mass extinction is already underway.” In view of such empirical data, we can understand the pope’s rare flicker of real anger when he refers to those “who turned the wonderworld of the seas into underwater cemeteries bereft of colour and life.”
His profound sadness about the inequality among people, and the toll it exacts on the poor, is also undergirded by remarkable new data that separate it from earlier critiques. The data show right now that inequality is reaching almost absurd heights: for instance, the six heirs to the Walmart fortune have more assets than the bottom 42 percent of all Americans combined; the two Koch brothers (together the richest men on the planet) have plans to spend more than the Republicans or the Democrats on the next federal election. If you want to understand why the Occupy movement or the early surge toward Bernie Sanders caught the usual political analysts by surprise, consider those facts. (The pope suggests that “many professionals, opinion makers, communications media and centres and power, being located in affluent urban areas, are far removed from the poor with little direct contact with their problems.”)
Above all, the empirical data about climate change make it clear that the moment is ripe for this encyclical. A long line of gurus, of whom Francis is the latest, is now converging with a large number of contemporary scientists; instead of scriptures, the physicists and chemists consult the latest printouts from their computer models, but the two ways of knowing seem to be making the same point. So far we’ve melted most of the sea ice in the summer Arctic, made the oceans 30 percent more acidic, and started the apparently irreversible slide of the West Antarctic Ice Sheet into the surrounding ocean. We are, to put it another way, systematically destroying the largest physical features on the planet, and we are doing it at a rapid pace.
Given that, who’s the realist? The pope, with his insistence that we need a rapid cultural transformation, or David Brooks, speaking for the complacent, with his insistence that “over the long haul both people and nature are better off with technological progress”? The point is, there no longer is any long haul. Those who speak, in the pope’s words, the language of “nonchalant resignation or blind confidence in technical solutions” no longer have a tenable case. What he calls the “magical conception of the market” has not, ultimately, done what Reagan promised; instead it has raised, for the first time, the very real specter of wholesale planetary destruction, of change that will be measured in geological time.
It’s quite possible—probable, even—that the pope will lose this fight. He’s united science and spirit, but that league still must do battle with money. The week the encyclical was released, Congress approved, in bipartisan fashion, fast-track trade legislation, a huge victory for the forces of homogenization, technocracy, finance, and what the encyclical calls “rapidification.”
It’s not that markets shouldn’t play a part in environmental solutions: everyone who’s studied the problem believes that the fossil fuel industry should pay a price for the damage carbon does in the atmosphere, and that that price, if set high enough, would speed up the transition to renewable energy. But the climate movement has largely united behind plans that would take that money from the Exxons of the world and return it to all citizens, which would have the effect of giving poor and middle-class people, who generally use less fossil fuel, a substantial net gain. The new fast-track agreements, by contrast, apparently explicitly forbid new climate agreements as a part of trade negotiations.
Anyway, if the outcome of the real-world battle is uncertain, the pope carries the intellectual contest. Brooks, for instance, makes the centerpiece of his attack on the encyclical the notion that the promising technocratic approach is, fortunately, expanding fracking, because burning natural gas produces less carbon than burning coal. This is scientifically obtuse (as I explained in these pages, an emerging body of evidence shows that fracking instead liberates vast quantities of methane, an even more potent greenhouse gas2), but in any event the extent of the damage we’ve already done to the climate means we no longer have room for slightly less damaging fossil fuels. We have to make the leap to renewable power.
And the good news is that that’s entirely possible. Thanks to the engineers whose creativity the pope celebrates, we’ve watched the price of solar panels fall 75 percent in the last six years alone. They’re now cheap enough that a vast effort, rooted in pragmatic physics, could ensure before the decade was out that there would hardly be a hut or hovel that lacked access to energy, something that the fossil fuel status quo has failed to achieve in two hundred years. Such a change would be carried out by small-scale entrepreneurs of just the sort the pope has in mind when he describes the dignity of work. And it would mean a very different world. Instead of centralized power in the hands of a few oil and gas barons like the Koch brothers, the earth would draw its energy from a widely diffused and much more democratic grid. Building that system in time would require aid to the poorest nations to jumpstart the transition. It would require, for instance, a world much like the one the pope envisions, where concern for the poor counts as much as, in Brooks’s sad words, the “low motivations of people as they actually are.”
Brooks, Reagan, and Thatcher summon the worst in us and assume that will eventually solve our problems—to repeat Brooks’s sad phrase, we should rely on the “low motivations of people as they actually are.” Pope Francis, in a moment of great crisis, speaks instead to who we could be individually and more importantly as a species. As the data suggest, this may be the only option we have left.
1 See my “ Prophet in Kentucky,” The New York Review, June 14, 1990. ↩
2 See “ Why Not Frack?,” The New York Review, March 8, 2012. ↩
http://www.nybooks.com/articles/archives/2015/aug/13/pope-and-planet/