「学び合いの会-海外ニュース」 319号 

 

† 主の平和

 

アメリカに端を発して、世界に拡大した聖職者による性的

虐待の告発は、カトリック教会の存在を根本から揺るがす

深刻な問題です。

虐待が明るみに出た当初から長年にわたり被害者の援護

に尽力してきた司祭による痛恨のリポートを、仲間が翻訳し

ました。長文ですが一読いただければ幸いです。

 

添付記事

1. 聖職者の性的虐待を乗り越え歴史を変えた人々(NCR)

 

聖職者の性的虐待を乗り越え歴史を変えた人々

トーマス P. ドイル |  Jul. 8, 2015 NCR

 

編集者註: この記事は、カトリック教会内に起きた虐待事件について、危機の30年間を振り返る

1週間のシリーズの一部である。

このエッセイは、「司祭の虐待を乗り越えた人々のネットワーク」(the Survivors Network of those Abused by Priests)の2014年の年次総会における、ドミニコ会士トム・ドイル神父のスピーチを要約した短縮版。スピーチの全文は、最近出版されたロバート・ブレア・カイザーによるドイル師の伝記「警告:聖職者による性的虐待の被害者の揺るぎない証人・トム・ドイル」(Whistle: Tom Doyle's Steadfast Witness for Victims of Clerical Sexual Abuse, by Robert Blair Kaiser)を参照されたい。

本書は現在アマゾンとキンドルで入手可能である。

 

1984年6月、ロサンジェルス・ラファイエット教区の司教総代理からローマ教皇大使に送られた手紙が、カトリックの聖職者ばかりでなくすべての宗派の聖職者が引き起こした未成年者性的虐待の被害者の運命を変える一連の出来事の引き金となった。

 

この手紙は、ガスタル一家が、教区との間の内密の金銭的和解を受け入れないと決めたことを教皇大使に告げたものだ。手紙はさらに、この一家が弁護士の手を借りて教区を告訴する予定であると述べていた。

 

この手紙こそが、被害者の運命と、無垢な子どもやあらゆる年代の弱者保護のレベルを遙かに超えた、直接的な衝撃を生みだす長いプロセスの始まりであった。それは、西欧社会におけるカトリック教会という組織のイメージと立場を一変させてしまった。教会の土台を支える地殻構造が、30年前には予測も出来ず、誰もが夢想だにしなかった形にまで変ってしまったのである。

 

わたしには、この恐ろしい現象の意味を適切に伝える言葉が見つからない。もっとも弱い立場にある仲間を性的、霊的に冒涜することが出来、その事態に直面するや、組織的な隠蔽と被害者の完全な無視で応じるようなキリスト者の教会のイメージは、「問題」とか「危機」とか「スキャンダル」などといった言葉では到底言い表すことはできない。広く蔓延した聖職者による未成年者・成人に対する性的冒涜と、指導者たち、特に司教たちの恐るべき反応は、今日の教会組織の、暗黒と汚辱にまみれた側面を顕わにしたものと言える。

 

この暗黒の側面はいつも存在してきた。わたしたちの時代において、それは、パラダイムシフトと呼ぶにふさわしい、複雑で深く根をはるプロセスを促す触媒の役割を果たしたのだ。聖職者による性的虐待に対応するパラダイム(枠組み)は、根底から変えられた(シフトした)のである。

訳註:パラダイムシフト(paradigm shift)とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することを言う。(Wiki)

 

未成年者虐待に対する社会の理解と対応のパラダイムは、1970年代初頭のフェミニスト運動の到来と共に変わり始めていたが、80年代半ばまでにはそれがかなり加速していた。

 

社会と相互に影響しあう組織としての教会のパラダイムは変化してきたし、今も変化し続けている。それは、正義と、公正と、位階組織の責任を要求する力が、執拗にプレッシャーを与え続けているからだ。かつては敵味方を問わず、堅固な君主体制として受け入れられていたカトリックの一枚岩は、崩れ始めている。

この複雑で歴史的なプロセスの過程で、最大の影響力を持ち、それだけの強制力を持つ、たった一つの要素は、決して第2バチカン公会議などではなかった。それは、性的虐待の被害者たちの行動であった。

 

物事の始まりから、身も心もひるみ戸惑う現象のただ中に置かれて、今なお、しっかりと立ち続けている者もわずかに残っている。わたしたちは、果てしなく繰り返されるかのような事件、暴露、暴発の連鎖に巻き込まれ、押し流されてきた。それらは、当初からこの現象を特徴付けてきたし、将来も変わらないだろう。

 

それはまた、直接的、間接的に関わった多くの人々の信仰体系と霊性に深い衝撃を与えてきた。わたし自身も、組織としての教会に寄せる信用と信頼を打ち砕かれてしまった。わたしは、自分の人生の霊的次元に何が起きたのかを、何年もかけて整理しようと試みてきた。

 

深く染みついた聖職者主義文化がもたらす巨大な暗闇は、無垢でもっとも弱い立場にある人たちへの性的暴行を許してしまった。それは、教会組織が、神から特別な恵みを受ける立場にあるという主張の根拠としてきた神学的、歴史的、文化的な支柱に、暗い影を落とした。わたしが頼ってきた神学的、教義的真理の全てが消え去り、意味を失った。

 

被害者たちを支援して来た仲間のうちには、公的な教会の教えの反対者として告発された人もいる。わたしたちは、様々な性的問題についての教会の立場に対して積極的な反論を促すために性的虐待問題を利用したとして、反カトリックであると非難されている。

 

そのような非難は全くナンセンスである。これは、教会の教えに反対とか賛成とかという類(たぐい)の問題ではない。信頼する教会メンバーによる、無数の被害者への性的暴行の問題なのだ。それは、反カトリックの宣伝活動とは関係のない問題なのだ。

 

しかしそれは、性的虐待をゆるし、被害者を悪魔の手に渡すような、教会指導者、政策、行為に対する、真っ向からの異議申し立てである。それは、教会のイメージを傷つけたというような次元の問題ではない。それらの悪を誰よりもうまくやってのけたのは司教たち自身に他ならない。

 

わたしたちの仲間の中には、その人のパーソナルな神、あるいは人間中心の神という概念もまた打ち壊された人たちがいる。多くの場合その原因となったのは、次のような答えの見つからない疑問である。「もし、わたしたちを見守る愛の神がおられるのなら、どうして神に仕える司祭や司教たちが、あれほど大勢の無垢な子らの身体を冒涜し、魂を破壊するのをお許しになったのか?」

 

組織としての教会を支えていると自負する筋金入りの信者にとっては、大変不本意なことだろうが、性的虐待と霊的な裏切りを受け、それを乗り越えてきた人たちが、カトリックの歴史を変え、これからも変え続けるプロセスを確かに歩み始めたのだ。このカトリックの経験に学んで、他の宗派のメンバーも、自分たちの中にある性的虐待を認識し、説明責任を要求するようになった。それは、かつて手を触れることも出来なかった教会に対する、一般社会の対応をも永遠に変えてしまったのだ。

 

責任の放棄

 

教会の歴史をみると、子ども、青年、成人に対する性的虐待の報告があっても、多くの場合、責任を放棄して、最初はそれを否定することが多かった。そして否定に失敗すると、今度は毛布でくるむように秘密を覆い隠そうとした。

 

加害者は他の仕事に回された。被害者は脅しに屈して沈黙させられた。メディアは何も知らず、かりに法的介入や公的関与があっても、「教会の利益のために」司教の意見に従った。

 

加害者のうち僅かな者は、教会が運営する特別な施設に送られて秘密裏に扱われ、多くの場合は、解放されて再び司牧職に戻った。これらの施設のもっとも有力な創設者である、調停者(Paraclete)ジェラルド・フィッツジェラルド神父は、子どもや弱い者を虐待した司祭は決して司牧職に戻らせてはならず、司祭職から追放されるべきだと固く信じていた。

 

彼は自身の明確な信念を、司教たち、検邪聖省長官(1962年当時)、そして1963年には個人的な謁見で教皇パウロ6世にも知らしめた。しかし、彼は無視された。

 

ギルバート・ガースが関わったラファイエット事件(前出)は、責任放棄の慣例を終わらせる契機になった。

 

この事件の主な登場人物たちは、だれ一人として自分たちが関与していることの重大さに全く気付いていなかったのではないかと思う。わたしもその中の一人であり、この事件がどう展開していくのかを想像することもできなかったことは確かだ。この事件が注目を集めたのは、組織的な隠蔽の故である。その隠蔽は、ガースが叙階され、過去に有罪判決を受け、禁固刑を受ける以前から続いていた。

 

教会の背信行為をすべて、隠すことなく、一般市民に暴露した責任(功績)は、ジェイソン・ベリー一人にある。この物語を全国メディアが取り上げた。やがて、南部の保守的な地域だけでなく、他の地域の小教区や教区からも、司祭による性的虐待の報告が出てきた。

 

1985年当時、レイ・モートン、マイク・ピーターソン神父とわたしは、司教たちが司祭による性的暴行やレイプの実際のケースに直面した時どう対応すべきかのガイダンスを探していると考えた。そこで、わたしたちは、対応の概要を詳しく述べた報告書、すなわちマニュアルを作成した。

 

当時、わたしが会った司教の多くは、どう対応したらいいのか当惑していると認めた。地平線のすぐ先で一連の爆発的事態が待ち受けているとはだれも予測していなかった。話し合った司教の中には、わたしが尊敬し信頼するようになった人たちも居た。その人たちは、状況の進展に応じて、わたしたちが提言したいかなる解決策をも支持してくれるだろうと信じていた。

 

ピーターソンとモートンとわたしは、この事件が、ごく稀で一時的な「問題」だと思っていた。むしろそれは、聖職者集団の内に存在するものとして、認識し是正すべき極めて有害な習慣と見なしていた。

 

わたしが相談し、支援し、指導することになった人の中には、やがて全国に拡大する悪夢のような出来事の主な登場人物となった人もいる。そのうちもっとも有名な二人は、ボストンのバーナード・ロー枢機卿とフィラデルフィアのアンソニー・ベビラッカ枢機卿である。二人はわたしがかつて友人だと思っていた人物であった。

 

程なくわたしは、敵対する主要勢力が全国司教協議会の中央指導部、特に事務総局であると悟ることになった。

 

当初わたしたちは、司教会議がわたしたちの作ったマニュアルを読み、そこに提示されている行動提案を検討するだろうという希望的観測を抱いていた。しかし、司教団が協議会の事務局を通して、モートン、ピーターソン、そしてわたしを、自分たちのサービスを各教区に売るための利益源としてマニュアルを作ったと公に非難したとき、敵対的な姿勢がより強まるだろうことを悟り始めたのだった。

 

この時点でわたしたち3人は、司教団指導部の関心が、被害者の福祉よりも自身たちのイメージや権力の方に強く傾いているという痛ましい現実を受け入れなければならなかった。

 

2014年に、バチカンが二人の教皇、ヨハネ23世、ヨハネ・パウロ2世の列聖を祝った時、保守的なカトリック評論家のジョージ・ウィーゲルとヨハネ・パウロ2世の報道官であったホアキン・ナヴァロ‐ヴァロスは、ヨハネ・パウロ2世の果たした役割について、途轍もない幻想的なストーリーを創りあげた。そして、ヨハネ・パウロ2世は、2002年のボストンの大失策が起こるまで何も知らなかったと主張した。

訳注:2002年1月、ボストンの元神父の性的虐待が明るみに出たのをきっかけに、聖職者に対する告発が相次ぎ、半年余りで約250人の聖職者が辞任や資格停止に追い込まれ、多くの訴訟が起きた。これをきっかけに聖職者の性的虐待が世界的な問題として大きく取り上げられるようになった。

 

これは、明らかな、そして実証可能な虚偽であった。ヨハネ・パウロ2世は1985年2月に、ロサンジェルス・ラファイエットでの性的虐待と隠蔽に関する42ページにわたる詳細な報告書を受け取っていた。それは、教皇大使から(教皇に宛て)、司教を指名してラファイエットに送り、起きていることを正確に調査させて欲しいという依頼の根拠を示すために送られたものであった。フィラデルフィアのジョン・クロル枢機卿がこの報告書をローマに届けた。それは教皇大使が、その依頼が直接教皇に届くように、そして下位レベルの職員たちが隠匿したりすることのないようにと望んだからであった。

 

教皇は報告書を読み、その後、4日以内に(司教の)指名が行われた。指名された司教はクリーブランドの補佐司教、A.J. クインであった。しかし、彼は解決の一端を担うよりは、むしろ、問題の大きな部分を担う(責任を負う)ことになる。

 

クインはラファイエットを2回訪問し、何も成し遂げなかった。モートンとピーターソンとわたしは1985年の終わりには彼の意図に疑いを抱き、そして1986年までには全く確信した。

 

1990年、クインは、the Canon Law Society of America(アメリカ教会法協会)に呼びかけ、もしも司教が司祭たちのファイルに見られたくない情報を見つけたら、そのファイルを教皇大使に送り、外交免責によって隠蔽して貰うようにとアドバイスしたのだ。教会法の法律家であると同時に民事の弁護士でもあるクインは、そのとき、倫理に反する提言によって、資格剥奪の対象となる行為を犯したのだ。

 

1980年から1990年までアメリカの教皇大使であったピオ・ラギ枢機卿は、わたしたちの取り組みの支えとなり、定期的にバチカンと電話で連絡を取り合っていた。当時、聖職者省の長官であったシルビオ・オッディ枢機卿は、1985年6月に教皇大使を訪問し、概要説明を求めた。わたしがその仕事を委託された。

 

それまでに、わたしたちは国中のすべての地域から、急速にその数を増やす多くの事件の報告を得ていた。その時までにわたしたちが把握していたのは42のケースだったと記憶している。それは単純に考えても大きな数であった。わたしは、詳細を述べるだけでなく、具体的な描写を含めた長大な報告書を作成した。

 

わたしは、枢機卿を前にしてその報告書を読み、多くの質問に答えた。同席したのは枢機卿とわたしだけであったが、その最後に枢機卿は、この情報を教皇に届けると明言した。「それから、バチカンのすべての省(dicasteries:元の意味は古代アテネの市民裁判団)の長官の集会を行い、教令を発することになるでしょう。」

 

枢機卿はその情報を教皇に渡したに違いないとわたしは理解しているが、バチカンのすべての省の集会は開かれなかったし、教令が出されることもなかった。

 

司教協議会が、わたしたちのマニュアルに示した確固たる行動をとってくれるように、あるいは、せめて提起した問題点について考えてくれるように、という努力はすべて水泡に帰した。この30年間に実際に体験したことを振り返れば、彼らは、自分たちが知っているただ一つのやり方を貫いたのだと思う。それは保身に徹し、被害者とその家族への同情を欠いた恥ずべきやり方であった。

 

司教の中には、正しいやり方を自ら模索しようとしている人もいたが、すべての司教たちを代表する司教協議会は、降りかかる「死の灰」をコントロールし、自分たちの地位と権力を保つことに関心があったのだ。教皇の目に映った「罪」は、世俗の物質主義であり、騒ぎ立てるメディアであり、罪深い司祭たちであった。教皇は、一人ひとりの被害者からの何千もの要求など知る由もなかったし、ましてそれに応えることなどあり得なかったのだ。

 

1985年8月、わたしたちは、米国の全ての司教にマニュアルのコピーを送った。もしかしたら誰かがこれを読んで司教協議会の集会で立ち上がり、わたしたちの主張が最も重要な要素であることを司教たちに気付かせるかも知れないという希望を捨てていなかったのだ。重要な要素とは、被害者たちへの思いやりあるケアのことである。

 

1986年、ピーターソンは、司教たちが11月の年次集会を行っていたホテルに接待用の特別室を用意した。彼は、300人を超えるすべての司教に対して、聖職者による小さき者たちへの性的虐待の問題を討議するために出席を要請した。しかし、現れたのは8人だった。

 

米国やその他の各地での司教たちの取り組みは、お決まりの漸進的な手順に従っていた。

すなわち、否認、矮小化、責任転嫁、そして戦いを挑む人たちの地位の格下げであった。

司教たちは、慎重に用意された台本通りに謝罪し、被った痛みに遺憾の意を表明した。しかし、自分たちがしたことで被害者たちを傷つけたという点についての謝罪は一度も行われなかった。

 

同様に、虐待それ自体によって、また組織的な背信行為によって被害者たちが被った霊的、感情的ダメージについて、バチカンからも司教協議会からも心遣いを示す言葉はなんら聞こえてこなかった。

 

90年代の後半になると、問題は、単に御しがたい司教たちに止まるものではないということがはっきりしてきた。問題はもっと根本的なところにあった。正しい行動を妨げる障害は、聖職者文化そのものの中に深く組み込まれていたのだ。

 

2002年1月にボストンで、事件が白日の下に曝された時には、最も無関心な人々をさえも驚かすほどの、突然で、なおかつ継続性のある衝撃を与えた。メディアは、ボストンや他の場所で司教たちが何を仕出かしていたのかという記事を絶え間なく流し、それが広く大衆の激しい怒りを呼び起こした。訴訟の数は劇的に増加した。かつて聖職指導者たちが隠れ蓑にしてきた法的介入や公的関与への依存は、急速にその効果を失っていった。

 

2ヶ月の間に、三つの司法管轄区で大陪審の調査が始まり、さらに幾つかが続いた。もう司教たちには処理しきれなくなっていた。

 

多くの方面から位階組織に向けられた圧力の結果として、もっとも人目を引いたのはダラスでの集会であった。この集会は、司教たちの側が積極的に司牧に配慮して行ったものではなかった。それは、広告会社 R.F. Binder社が台本を書き演出したダメージ・コントロールの一環であった。

 

その集会の具体的な結果が、子どもと青少年の保護憲章(the Charter for the Protection of Children and Young People)と必須規範(the Essential Norms)であった。この憲章と規範は、これまで何の効果ももたらしていない。だれも驚かないことだが、憲章に述べられた司教たちの高遠な美辞麗句が行動に移されることはなかったのだ。

 

必須規範は、一様にそして一貫して守られていない。その証拠には、2002年以来毎年のように一定数の苦情申し立てが出されているが、それらを検証してみると、名の知れた加害者たちが、司牧職に留まったり、復帰を許されたりしていることが分かる。

 

 

全国審議会(The National Review Board)は初めの内、特に2004年に詳細な報告書を公表した時点では期待が持てた。しかし、本当に仕事を果たす力のある審議会メンバーが司教たちの真摯さに欠ける姿勢に失望して審議会を去ったため、この期待は裏切られ消滅した。

訳註:全国審議会(The National Review Board)は、2002年に米国カトリック司教協議会が、同国内における聖職者による虐待のスキャンダルを受けた「子どもと青少年の保護の憲章」の遂行を監視するために創設した委員会。(Wikipedia)

 

ごく少数の司教は公然と、虐待を乗り越えてきた人々の側に立って動いたが、彼らは左遷されたり、罰せられたりした。

 

対応はいつも決まり切ったものであった。美辞麗句で飾られた公式声明、様々な「子どもの安全プログラム」の支援、お決まりの刷新と啓蒙の約束、そして何よりも、被害者たちを打ち負かして信頼を傷つける一方で、位階組織が責任を免れるようにと、想像しうる、或いは想像し得ない戦術までも駆使する弁護士への、何億ドルもの多額の投資が行われたのだ。

 

組織としての教会は、基本的に中立を保ったままであるが、一般の市民社会の様々なグループは圧倒的に反発している。

 

1971年から2013年の間に、カトリック教会の中では、性的虐待に関する少なくとも72の主要な報告が行われた。この中には、公的機関からの委嘱による大がかりな調査の結果もあった。例えば、米国大陪審の報告、ベルギー議会の報告、アイルランドの調査委員会の報告などがある。それらは、北アメリカとヨーロッパの数カ国からの報告である。原因究明部門の調査では共通の特徴が示された。それはすなわち、司教たちによる、故意で、不適切で、逆効果を招く対応と行動であった。

 

ヨハネ・パウロ2世は、聖職者による性的虐待はアメリカの問題であり、それはそもそもメディアによる誇張、物質主義、そして祈りの欠如に起因していると、世界を納得させようと試みた。教皇は、性的虐待に関する最初の公式声明―1993年に米国司教団に宛てた書簡の終わりにこう記している。「そうなのです、兄弟の皆さん、アメリカにはもっと祈りが必要です。あなたたちがその魂を失わないために。」

 

2014年の時点では、どこに行こうが地理上の国境線が意味を持たなくなったことは疑う余地もない。教会組織とその聖職者の内部文化の極めて悪質な側面が、あらゆる大陸の国々で次から次へと暴露されていった。

 

ついに問題の中心はバチカンへと移った。2011年9月には、米国憲法センター(the Center for Constitutional Rights)が、ハーグの国際刑事裁判所への提訴を支援するに至った。2014年1月、国連子どもの権利委員会(the U.N. Committee on the Rights of the Child)は、聖職者による性的虐待に関するバチカンの対応への厳しい批判を発表した。2014年5月、国連拷問禁止委員会(the U.N. Committee Against Torture )は、バチカンの性的虐待事件の処理と、その国連の方針への反抗について同様に厳しく批判する報告書を発表した。

訳註:http://democracynow.jp/dailynews/14/05/08/1 参照

 

 

これは実に由々しきことだ。世界でもっとも大きな宗教組織が、世界の国々の共同体(国連)によって責任を取るよう求められているのだ。

 

30年を経て

 

30年が経過したこの時点でどんな結論を出したとしても、それはどう見ても間に合わせにしかならない。それは、これがこの問題の終わりではなく、道中の一里塚に過ぎないからである。

 

こんなにもいろいろなことが起きたのに、位階組織に抜本的な変化は起きていないとわたしには思える。司教たち一人ひとりは変わったかも知れないし、あるいは、いつも思いやりを持って援助をしてきたことは事実かも知れないが、位階組織全体としての行動は、今日も1985年も変わっていない。ミネアポリスのセントポール教区で起きたドラマティックな事件や、ミルウォーキーで現在進行中のスキャンダラスな破産手続きが、この頑なな姿勢を示す最近の例である。

 

この救い難い過ちは、組織としての教会の本質的な部分にひそむ根本的な欠陥を露呈した。これらの欠陥こそが、悲しむべき虐待の文化を生み出し、維持してきたのだ。

 

・教会の君主制の構造は神が意図したもので、無垢な被害者たちの犠牲を正当化するという誤った考え。

 

・司祭や司教たちは、信徒たちよりも優れていて、権力を持ち尊敬される資格があるという考え。

 

・聖職者に依存し、聖職者への服従と教会のすべての法と権威への絶対的服従の程度によって評価されるという信徒の精神性

 

・人間生活の現実を回避して、そこに、カトリックの中心的価値として慈悲と慈善を置き換える、正統的教義と定式的神学への妄想

 

・人格に根ざすのではなく特殊な神学的伝統に根ざした性の理解。その神学的伝統は、キリスト教以前のストア派に起因し、もともと精神の安定に疑問の余地のある独身男性らによって形成された。

 

・聖職者主義のビールスを増殖させてきた位階組織の内部文化。この聖職者崇拝主義によって、聖職者も信徒も一様に影響を受けたひどくゆがんだ価値体系が温存されてきたのだ。

 

教皇フランシスコは新しい希望の光をもたらしたのだろうか? この教皇は、かなり変わった人物ではあるが、それでも君主制度の産物であり、今も官僚組織に取り囲まれている。その官僚は、仮に組織としての教会が、性的虐待の悪夢を克服し、そのあるべき姿―「神の民」に立ち戻ろうとしても、必要な根本的変革へのあらゆる希望を妨げ、打ち砕く存在になるかも知れないのだ。

 

被害者は勿論のこと、実際には教会全体も、いつ果てるともしれない空しい声明の繰り返しと、守られない約束にうんざりしている。今こそ謝罪の時であり、後悔の念を示す時だ。

変化を約束する時はとうに過ぎ去ったのだ。今は行動が必要であり、行動がなければ、現在の教皇も司教も、被害者を見捨て教会を裏切った位階組織の人間の長いリストに自分の名前を加えることになるだろう。

 

最近のいくつかの行動によって、教皇フランシスコは、教会の取り組みに言葉以上のものを提供するのではないかという希望を与えてくれる。教皇はドミニカ共和国の前教皇大使ジョゼフ・ベゾロフスキiを還俗させ、数多くの子どもへの性的虐待の罪で裁判にかけた。それに先立ち教皇は、2013年7月、若い女性への性的虐待を理由に、ペルーのAyachucaの補佐司教Gabino Mirandaを還俗させた。

 

さらに教皇は、新たに司教の責任を審査する裁決機関を設立した。これは、教皇自身の虐待問題調査委員会の要請によるものであり、教皇がこの委員会の意向に耳を傾けていることを示している。2ヶ月に満たない間に、教皇は、米国で性的虐待の事件の処理に失敗した3人の司教を辞任させた。それは、ミズーリ州カンザスシティー・セントジョセフ教区のロバート・フィン司教と、ミネソタ州ミネアポリス・セントポール教区のジョン・ニエンステッド大司教、それに同教区のリー・ピケ補佐司教の3人である。

 

希望を持つ理由はあるとわたしは信じている。それは何も教皇フランシスコが魅力ある人物だからという理由ではない。教皇が行った被害者への交渉提案は、30年にわたる虐待を乗り越えた人たちの勇気ある努力に根ざしたものだ。彼らの努力がなければ変化は起きなかっただろう。

 

苦しみを乗り越えた人たちは、教会の歴史の流れを変え、パラダイムシフトを加速させた。カトリック教会が、膨れ上がる不見識な言葉によって体裁を取り繕う君主組織ではなく、「神の民」の組織として人々に認識されるためには、新しい教皇の言葉と行動が指し示す変化の方向が重要になる。もしも教皇が率先して、キリストの体の新しいイメージへの道を開くとしたら、それは、虐待(の被害)を乗り越えた人たちが教皇のために先ず道を開いたことに、その多くを負っているのだ。

 

 

ドミニコ会のトーマス・P・ドイル神父は教会法学者。長年カトリック聖職者による虐待被害者の援護に当たってきた。共著に「性・司祭と秘密コード:カトリック教会の性的虐待白書2006年版」(2006 book Sex, Priests and Secret Codes: The Catholic Church's 2,000-Year Paper Trail of Sexual Abuse.)がある。

 

How clergy abuse survivors have changed history

Thomas P. Doyle  |  Jul. 8, 2015 NCR

 

Editor's note: This story is part of a weeklong series dedicated to looking back on 30 years of the abuse crisis in the Catholic church. Read all parts of the series.

This essay is adapted from a speech by Dominican Fr. Tom Doyle at the 2014 annual convention of the Survivors Network of those Abused by Priests. It has been edited here for length. The full text of the speech appears in a recently published biography, Whistle: Tom Doyle's Steadfast Witness for Victims of Clerical Sexual Abuse, by Robert Blair Kaiser and now available at Amazon and Kindle.

 

A letter sent by the vicar general of the diocese of Lafayette, La., to the papal nuncio in June 1984 was the trigger that set in motion a series of events that has changed the fate of the victims of child sexual abuse by Catholic clergy and clergy of all denominations.

 

The letter informed the nuncio that the Gastal family had decided to withdraw from a confidential monetary settlement with the diocese. It went on to say the family had obtained the services of an attorney and planned to sue the diocese.

 

This began a long process that has had a direct impact on much more than the fate of victims and the security of innocent children and vulnerable persons of any age. It has altered the image and role of the institutional Catholic church in Western society to such an extent that the tectonic plates upon which this church rests have shifted in a way never expected or dreamed of 30 years ago.

 

I cannot find language that can adequately communicate the full import of this monstrous phenomenon. The image of a Christian church that enabled the sexual and spiritual violation of its most vulnerable members and, when confronted, responded with institutionalized mendacity and utter disregard for the victims cannot be adequately described as a "problem," a "crisis" or a "scandal." The widespread sexual violation of children and adults by clergy and the horrific response of the leadership, especially the bishops, is the present-day manifestation of a very dark and toxic dimension of the institutional church.

 

This dark side has always existed. In our era, it has served as the catalyst for a complex and deeply rooted process that can be best described as a paradigm shift. The paradigm for responding to sexual abuse by clergy has shifted at its foundation.

 

The paradigm for society's understanding of and response to child sexual abuse had begun to shift with the advent of the feminist movement in the early 1970s, but was significantly accelerated by the mid-'80s.

 

The paradigm of the institutional church interacting in society has shifted and continues to do so as the forces demanding justice, honesty and accountability of the hierarchy continue their relentless pressure. The Catholic monolith, once accepted by friend and foe alike as a rock-solid monarchy, is crumbling.

 

The single most influential and forceful element in this complex historical process has not been the Second Vatican Council. It has been the action of the victims of sexual abuse.

 

There are a few of us still standing who have been in the midst of this mind- and soul-boggling phenomenon from the beginning of the present era. We have been caught up and driven by the seemingly never-ending chain of events, revelations and explosions that have marked it from the very beginning and will continue to mark it into the future.

 

It has had a profound impact on the belief systems and the spirituality of many directly and indirectly involved. My own confidence and trust in the institutional church has been shattered. I have spent years trying to process what has been happening to the spiritual dimension of my life.

 

The vast enormity of a deeply engrained clerical culture that allowed the sexual violation of the innocent and most vulnerable has overshadowed the theological, historical and cultural supports upon which the institutional church has based its claim to divinely favored status. All of the theological and canonical truths I had depended upon have been dissipated to meaninglessness.

 

Some of us who have supported victims have been accused of being dissenters from official church teachings. We have been accused of being anti-Catholic, using the sexual abuse issue to promote active disagreement with church positions on various sexual issues.

 

These accusations are complete nonsense. This is not a matter of dissent or agreement with church teachings. It is about the sexual violation of countless victims by trusted church members. It is not a matter of anti-Catholic propaganda.

 

It is, however, direct opposition to church leaders, policies or practices that enable the perpetrators of sexual abuse and demonize the victims. It is not a matter of defaming the church's image. No one has done a better job of that than the bishops themselves.

 

For some of us, the very concept of a personal or anthropocentric God has also been destroyed, in great part by an unanswerable question: "If there is a loving God watching over us, why does he allow his priests and bishops to violate the bodies and destroy the souls of so many innocent children?"

 

Much to the chagrin of the hard-core cheerleaders for the institutional church, there is no question that the victims and survivors of the church's sexual abuse and spiritual treachery have set in motion a process that has changed and will continue to change the history of Catholicism. The Catholic experience has prompted members of other denominations to acknowledge sexual abuse in their midst and demand accountability. It has also forever altered the response of secular society to the once untouchable churches.

 

The default response

 

For much of church history, the default response to a report of child, adolescent or adult sexual abuse was first to deny it and, when denial failed, to enshroud it in an impenetrable blanket of secrecy.

 

The perpetrator was shifted to another assignment. The victim was intimidated into silence. The media knew nothing and if law enforcement or civil officials were involved, they deferred to the bishop "for the good of the church."

 

A small number of perpetrators were sent to special church-run institutions that treated them in secrecy and in many instances, released them to re-enter ministry. The founder of the most influential of these, Paraclete Fr. Gerald Fitzgerald, firmly believed that no priest who had violated a child or minor should ever be allowed back in ministry and should be dismissed from the priesthood.

 

He made his unequivocal beliefs known to bishops, to the prefect of the Holy Office (1962) and to Pope Paul VI in a private audience in 1963. He was ignored.

 

The Lafayette case involving Gilbert Gauthe was the beginning of the end of the default template.

 

I suspect that none of the major players in the case had any idea of the magnitude of what they were involved in. I was one of them and I certainly could never have imagined how this would all play out. The case sparked attention because of the systemic cover-up that had gone on from before Gauthe was ordained and continued past his conviction and imprisonment.

 

Jason Berry was singlehandedly responsible for opening up the full extent of the ecclesiastical treachery to the public. The story was picked up by the national media. Before long, other reports of sexual abuse by priests were coming in from parishes and dioceses not only in the Deep South but in other parts of the country.

 

In 1985, Ray Mouton, Fr. Mike Peterson and I, believing that the bishops were looking for guidance on how to proceed when faced with actual cases of sexual violation and rape by priests, authored a report or manual that outlined a clear response.

 

Many of the bishops I spoke to at the time admitted they were bewildered about what to do. None expected the series of explosions that were waiting just over the horizon. Some of the bishops I consulted with were men I had grown to respect and trust. I believed they would support whatever efforts we suggested to deal with the developing situation.

 

Peterson, Mouton and I did not see it as an isolated, one-time "problem." Rather, we saw it is as a highly toxic practice of the clerical culture that needed to be recognized and rectified.

 

Some of the men I consulted with and to whom I turned for support and guidance became, in time, major players in the national nightmare. The two most prominent were Cardinals Bernard Law of Boston and Anthony Bevilacqua of Philadelphia. Both men I once counted as friends.

 

It was not long before I realized that the major force of opposition was the central leadership of the National Conference of Catholic Bishops and the General Secretariat in particular.

 

We had initially hoped the bishops' conference would look at the manual and consider the action proposals that accompanied it. Our realization that the reactionary attitude would be more extensive began when the bishops, through the office of the general council, publicly accused Mouton, Peterson and me of creating the manual as a potential source of profit, with the hope of selling our services to the various dioceses.

 

At this point, the three of us had to accept the painful reality that episcopal leadership was far more interested in their own image and power than in the welfare of the victims.

 

At the 2014 Vatican celebrations canonizing Popes John XXIII and John Paul II, George Weigel, conservative Catholic commentator, and Joaquín Navarro-Valls, John Paul's press secretary, created an outrageous fantasy about the role of John Paul, claiming that he knew nothing until after the 2002 Boston debacle.

 

This was patently and provably false. John Paul was given a 42-page detailed report on the sex abuse and cover-up in Lafayette, La., in February 1985. It was sent as justification for the request from the papal nuncio that a bishop be appointed to go to Lafayette to try to find out exactly what was going on. Cardinal John Krol of Philadelphia carried the report to Rome precisely because the nuncio wanted it to go directly to the pope and not be sidetracked by lower-level functionaries.

 

The pope read the report, and within four days the requested appointment came through. The bishop appointed, A.J. Quinn, auxiliary of Cleveland, turned out to be a big part of the problem rather than a part of the solution.

 

Quinn visited Lafayette twice and accomplished nothing. Mouton, Peterson and I were suspicious of his intentions by the end of 1985 and quite certain by 1986.

 

In 1990, Quinn addressed the Canon Law Society of America and advised that if bishops found information in priests' files they did not want seen, they should send the files to the papal nuncio to be shielded by diplomatic immunity. Quinn, a civil lawyer as well as a canon lawyer, was then subjected to disbarment proceedings as a result of his unethical suggestion.

 

Cardinal Pio Laghi, papal nuncio to the U.S. from 1980 to 1990, was supportive of our efforts and was in regular telephone contact with the Vatican. Cardinal Silvio Oddi, then the prefect of the Congregation for the Clergy, visited the nunciature in June 1985 and asked to be briefed. I was deputed for the task.

 

By then, we had more information on the rapidly growing number of cases in all parts of the country. I recall that by that time we were aware of 42 cases, which I naively thought was a significant number. I prepared a lengthy report that was not only detailed but also graphic in its content.

 

I read the report to the cardinal and responded to his many questions. At the end of the meeting, at which only he and I were present, he announced that he would take this information back to the Holy Father. "Then there will be a meeting of the heads of all the dicasteries [Vatican congregations] and we will issue a decree."

 

I understand that he did take the information to the pope, but there never was a meeting of the dicasteries and no decree ever came forth.

 

Our efforts to get the U.S. bishops' conference to even consider the issues we set forth in our manual, much less take decisive action, were a total failure. Looking back from the perspective of 30 years of direct experience, I believe they acted in the only way they knew how -- which was completely self-serving, with scandalous lack of sympathy for the victims and their families.

 

There were individual bishops who were open to exploring the right way to proceed, but the conference, which represented all of the bishops, was interested in controlling the fallout and preserving their stature and their power. The culprits were, in the pope's eyes, secular materialism, media sensationalism and sinful priests. He never even acknowledged, much less responded to, the thousands of requests from individual victims.

 

We sent individual copies of the manual to every bishop in the U.S. on Dec. 8, 1985. We still had hope that perhaps someone would read it and stand up at the conference meetings and call the bishops' attention to what we had insisted was the most important element, namely the compassionate care of the victims.

 

In 1986, Peterson arranged for a hospitality suite at the hotel where the bishops were having their annual November meeting. He invited every bishop present -- more than 300 -- to come and discuss the matter of sexual abuse of minors by the clergy. Eight showed up.

 

The bishops' approach in the U.S. and elsewhere followed a standard evolutionary process: denial, minimization, blame-shifting, and devaluation of challengers. The bishops' carefully scripted apologies expressed their regret for the pain suffered. Never once did they apologize for what they had done to harm the victims.

 

Likewise, there was never any concern voiced by the Vatican or the bishops' conference about the spiritual and emotional damage done to the victims by the abuse itself and by the betrayal by the hierarchy.

 

It became clear by the end of the '90s that the problem was not simply recalcitrant bishops. It was much more fundamental. The barrier to doing the right thing was deeply embedded in the clerical culture itself.

 

The Boston revelations in January 2002 had an immediate and lasting impact that surprised even the most cynical. The continuous stream of media stories of what the bishops had been doing in Boston and elsewhere provoked widespread public outrage. The number of lawsuits dramatically increased and the protective deference on the part of law enforcement and civil officials, once counted on by the clerical leadership, was rapidly eroding.

 

Grand jury investigations were launched in three jurisdictions within two months, with several more to follow. It was all too much for the bishops to handle.

 

The most visible result of the many-sided pressure on the hierarchy was the Dallas meeting. This was not a proactive, pastorally sensitive gesture on the part of the bishops. It was defensive damage control, choreographed by the public relations firm of R.F. Binder.

 

The tangible result of the meeting was the Charter for the Protection of Children and Young People, and the Essential Norms. The impact of the charter and the norms has clearly been mixed. The lofty rhetoric of the bishops in the charter has not been followed up with action, to no one's surprise.

 

The Essential Norms have not been uniformly and consistently followed. As proof, we can look to the steady number of exceptions from 2002, whereby known perpetrators either are allowed to remain in ministry or are put back in ministry.

 

The National Review Board showed promise at the beginning, especially after the publication of its extensive report in 2004. This promise sputtered and died as the truly effective members of the board left when they realized the bishops weren't serious.

 

Those very few bishops who have publicly sided with the survivors have been marginalized and punished.

 

The general response has been limited to the well-tuned rhetoric of public statements, sponsorship of a variety of child safety programs, constant promises of change and enlightenment, and, above all, the investment of hundreds of millions of dollars in attorneys who have used every tactic imaginable and many that are not imaginable to defeat and discredit victims and to prevent the hierarchy from being held accountable.

 

While the institutional church has essentially remained in neutral, various segments of civil society have reacted decisively.

 

Between 1971 and 2013, there have been at least 72 major reports issued about sexual abuse in the Catholic church. Some of these have been commissioned by official bodies and are the result of extensive investigations, such as the U.S. grand jury reports, the Belgian parliamentary report and the Irish investigation commission reports. They come from several countries in North America and Europe. A study of the sections on causality has shown a common denominator: the deliberately inadequate and counterproductive responses and actions of the bishops.

 

John Paul attempted to persuade the world that sexual abuse by clergy was an American problem, caused primarily by media exaggerations, materialism and failure to pray. At the conclusion of his first public statement on sexual abuse, a 1993 letter to the U.S. bishops, he said, "Yes, dear Brothers, America needs much prayer -- lest it lose its soul."

 

By 2014, there was no doubt anywhere that geographic boundaries are irrelevant. This highly toxic dimension of the institutional church and its clerical subculture has been exposed in country after country on every continent.

 

The focus has finally shifted to the Vatican. In September 2011, the Center for Constitutional Rights assisted in the filing of a case before the International Criminal Court in The Hague. In January 2014, the U.N. Committee on the Rights of the Child delivered a blistering criticism of the Vatican's response to sexual abuse by clerics. In May 2014, the U.N. Committee Against Torture issued a report equally critical of the Vatican's handling of sexual abuse claims and its opposition to U.N. policies.

 

This is truly momentous. The world's largest religious denomination has been called to account by the community of nations.

 

Thirty years on

 

Any conclusions at this point, 30 years later, are obviously temporary, since this is not the end of the issue but simply a milestone along the way.

 

In spite of all that has happened, I do not believe there has been any fundamental change in the hierarchy. It may be true that individual bishops have either changed or been compassionately supportive all along, but in general the hierarchy is behaving today just as it did in 1985. The dramatic events in St. Paul-Minneapolis and the ongoing scandalous bankruptcy process in Milwaukee are the latest examples of this intransigence.

 

The institutional church's abject failure has revealed fundamental deficiencies in essential areas, all of which have been instrumental in perpetrating and sustaining the tragic culture of abuse:

 

・ The erroneous belief that the monarchical governmental structure of the church was intended byGod and justifies the sacrifice of innocent victims;

・The belief that priests and bishops are superior to laypersons, entitled to power and deference because they are ontologically different and uniquely joined to Christ;

・A lay spirituality that is dependent on the clergy and gauged by the degree of submission to them and unquestioned obedience to all church laws and authority figures;

・An obsession with doctrinal orthodoxy and theological formulations that bypasses the realities of human life and replaces mercy and charity as central Catholic values;

・An understanding of human sexuality that is not grounded in the reality of the human person but in a bizarre theological tradition that originated with the pre-Christian stoics and was originally formulated by celibate males of questionable psychological stability;

・The clerical subculture that has propagated the virus of clericalism, which has perpetuated a severely distorted value system that has influenced clergy and laity alike.

 

Has Pope Francis brought a new ray of hope? He is a significantly different kind of pope, but he is still a product of the monarchical system and he is still surrounded by a bureaucracy that could hinder or destroy any hopes for the radical change that is needed if the institutional church is to rise above the sex abuse nightmare and become what it is supposed to be, the people of God.

 

The victims and indeed the entire church are tired of the endless stream of empty statements and unfulfilled promises. The time for apologies, expressions of regret, and assurances of change is long gone. Action is needed, and without it, the pope and bishops today will simply be more names in the long line of hierarchs who have failed the victims and failed the church.

 

A few recent actions give some hope that Francis will supply more than words to the church's efforts. He laicized Jozef Wesolowski, the former nuncio to the Dominican Republic, and placed him on trial for numerous charges of sexual abuse of children. Prior to that, he laicized Bishop Gabino Miranda, auxiliary of Ayachuca, Peru in July 2013 for sexually abusing a young girl.

 

Additionally, he has instituted a new tribunal to hold bishops accountable. This was urged by his own abuse commission, which indicates he is listening to it. In a period of less than two months, he has forced the resignations of three U.S. bishops who failed in handling sex abuse cases: Bishop Robert Finn of Kansas City-St. Joseph, Mo.; and Archbishop John Nienstedt, and his auxiliary, Bishop Lee Piché, of St. Paul-Minneapolis.

 

I believe there is reason to hope, not because of Francis' engaging personality. This pope's overtures to victims are grounded on three decades of courageous efforts by survivors. Without these efforts, nothing would have changed.

 

Survivors have changed the course of history for the church and have accelerated the paradigm shift. If the Catholic church is to be known not as a gilded monarchy of increasing irrelevance but as the people of God, the change in direction hinted at by the new pope's words and actions are crucial. If he does lead the way to a new image of the body of Christ, it will be due in great part because the survivors have led the way for him.

 

 

[Dominican Fr. Thomas P. Doyle is a canon lawyer and longtime advocate for victims abused by Catholic clerics. He is also co-author of the 2006 book Sex, Priests and Secret Codes: The Catholic Church's 2,000-Year Paper Trail of Sexual Abuse.]