「学び合いの会-海外ニュース」 314号
† 主の平和
今日、7月1日は「ペトロ岐部と187殉教者」の記念日です。
学び合いの仲間が、今日のためにペトロ岐部に関する記事を
簡潔にまとめて下さいましたので、御参考までに添付します。
添付記事
1. ペトロ岐部について
ペトロ岐部について
日本のカトリック教会では、7月1日を「ペトロ岐部と187殉教者」の記念日としている。
ペトロ岐部と187殉教者は、1603年から1639年にかけて日本の各地で殉教した日本人のカトリック司祭・修道者・信徒で、2008年に長崎市で行われた列福式でカトリック教会の福者に列せられた188人のキリシタンの総称。
ペトロ岐部神父、江戸の殉教者ヨハネ原主水らを含む。
四谷の聖イグナチオ教会敷地内に岐部神父を記念して「岐部ホール」と名付けられたイエズス会日本管区本部のある施設がある。
ペトロ岐部(岐部 茂勝、1587-1639))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのカトリックの司祭。ペトロ・カスイ岐部とも呼ばれる。
1587年、豊後の大名大友氏の重臣であった父・ロマーノ岐部、母・マリア波多のもとに生まれる。
司祭になるべくローマへ向かう途上、日本人として初めてエルサレムを訪問するなど、近世初頭の日本人の中で最も世界を渡り歩いたため「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」ともいわれる。
キリスト教徒の両親の間に生まれたペトロ岐部は、13歳で有馬のセミナリヨに入学した。
1606年、イエズス会入会を志して「カスイ」と号した。
1614年、江戸幕府によるキリシタン追放令によってマカオへ追放された岐部は、司祭になるべく同地のコレジオでラテン語と神学を学んだ。
しかし、マカオの長上の日本人への偏見から司祭叙階がかなわないことを知ると、独力でローマのイエズス会本部を目指すことを決意し、マンショ小西、ミゲル・ミノエスとともにコレジオを脱出して渡航した。
マカオからマラッカ、ゴアへは船で渡り、そこから岐部は1人で陸路インドからペルシャを経てヨーロッパを目指した。
ホルムズ、バグダードを経て、日本人としてはじめてエルサレム入りを果たした。ローマにたどりついたのは出発から3年が経った1620年のことであった。
すでにマカオからローマへは「マカオを脱出した日本人がそちらへ向かうが決して相手にしないように」という警告の手紙が送られていたが、ローマでイエズス会士による審査を受けた岐部は、司祭にふさわしい適性と充分な学識を備えていることを認められ、1620年11月15日、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂において32歳で司祭に叙階された。
さらにローマのイエズス会聖アンドレ修練院で2年間イエズス会士としての養成を受け、リスボンに赴いて同地で誓願を宣立した。1623年、20人のイエズス会士とともに、インドを目指す旅に出る。はるか喜望峰を回り、翌1624年ゴアにたどりついた。
岐部は殉教を覚悟して日本への渡航を希望したが、そのころの日本では弾圧が強化され、宣教師の入国は厳禁されていたため、司祭を乗せる船がなかった。そのため岐部は日本への足を求めて東南アジア各地をまわった。
1630年にマニラから日本に向かう船に乗り込むことに成功。難破しながらも何とか薩摩の坊津(現、鹿児島県)に到着した。日本を出てから16年ぶりの帰国であった。
岐部は潜伏し、激しい迫害と摘発を逃れながら、長崎から東北へ向かいつつ、信徒たちを励ましたが、1639年に仙台にあるキリシタンの家にかくまわれていたところを密告され逮捕された。
江戸に送られ、すでに棄教していた沢野忠庵(フェレイラ、Cristovao Ferreira, 1580 -1650)と対面すると逆に彼に信仰に戻るよう薦めた。
*フェレイラは、16世紀のポルトガル人宣教師。イエズス会士であったが、日本において拷問によって棄教し、沢野忠庵を名乗ってキリシタン弾圧に協力した。遠藤周作の小説「沈黙」のモデルとなった。
岐部は激しい拷問を受けても棄教せず、最後は、浅草待乳山聖天近くの空地で穴吊りにされた。そのさなかにも隣で吊られていた信徒を励ましていたため、穴から引き出され、1639年7月4日(旧暦6月4日)に斬首された。52歳没。
なお、出生の地である大分県国東市国見町岐部には、セッキ神父により作られたペトロ・カスイ岐部記念公園があり、舟越保武によるペトロ・カスイ岐部の像が建てられている。