「学び合いの会-海外ニュース」 299号 

† 主の平和

新たにシノドス関連の記事が仲間から届きましたので添付します。

NCR(ナショナル・カトリック・リポーター誌)の社主が、アメリカの

神学者C. C. カラン師にインタビューした記事です。

カラン師は、秋のシノドスの評価に加えて、望ましい司牧への

アプローチやこれからの倫理神学のあり方などを語っています。

1. 「教皇職は,教えに誤りがあることを認めるべきだ」

 チャールズ・カラン神父(NCR)

 

カラン:「教皇職は、教えに誤りがあることを認めるべきだ。」

トーマス・C・フォックス(NCR社主)2014/11/21 

NCR(National Catholic Reporter)

 

10月にローマで開かれた、家庭に関する臨時シノドスが閉幕した直後、NCRは、チャールズ・カラン神父に、その印象を尋ねた。カラン師は、アメリカのダラスにある南メソジスト大学エリザベス・スクーロック校の人間学部教授であり、著名な倫理神学者である。以下はそのインタビューの骨子である。

 

NCR:今回のシノドスで最も良かったと思うことは何か?

カラン: 司教や枢機卿たちが、「何が教会にとって良いことか」を識別する作業の中で、おおやけに意見の相違を示したという事実だ。実際このようなことは第2バチカン公会議以来、なかったことだ。会議の全体を通して一つだけ残念に思ったのは、報道関係者がシノドスの会議の傍聴を許されず、生の議論に接することが出来なかったことだ。

 

Q 最も失望したことは何か?

シノドスが、教会の教えを何も変えなかっただけでなく、司牧上の変化を支持する人々でさえもが、教えを変えないことに固執したことだ。このことは特に、離婚し再婚したカトリック信者が完全な形で聖体拝領に与かる(与かれない)ことについての議論ではっきり表面化した。わたしの判断では、性倫理に関する特定の倫理の教えのうちには、変えなければならないものがある。

 

Q 従来、わたしたちは、シノドスは教義(doctrine)を変えるものではないと聞かされてきた。家庭に関する教義うちの何が変えられないもので、何が変えるべきものなのか? 結婚と性を取り上げた論点のうち、絶対確実(不可謬)だと宣言されたものはどれなのか? 何が、結婚、避妊、そしてゲイやレズビアンの生活スタイルに関する「教会の教義」であり、何がそうではないのか?

 

教会の「教義(doctrine)」は、簡単に言えば教会の教えの一つ、あるいはもっと厳密に言えば、教皇あるいは司教たちの教えを指す。ラテン語のdoctrinaは、教えることを意味する。確定的に、すなわち不可謬なものとして教えられる「教義」または「教え」はドグマ(教義)と呼ばれる。ご存知のように、これまでの教えの中で不可謬とされたもの、あるいは不可謬でないとされたものに関しては、多くの議論がなされてきた。

 

1970年代初頭、ロサンジェルス大司教区の司祭、ウィリアム・レヴァダが、グレゴリアン大学で、「位階制教会は、誤ることなく(不可謬に)自然法を教えることはできない」とする博士論文を書いた。自然法はまさにその本質から、そもそも啓示や神の御言葉に基づくものではなく、人間の理性に基づくものだ。レヴァダは40年後に教理省の長官になった!

 

わたしの判断では、これまで、特定の倫理問題に関して不可謬な教会の教えなど一つもなかった。何故ならこうした問題は信仰の核心からは外れたところに置かれ、多種多様な特異性や複雑性を抱えているからだ。その一方で、わたしたちはこの数十年、位階制教会の中に、わたしが「忍び寄る不可謬性」と呼ぶものを支持する動きを見てきた。何よりの証拠には、古い教会法典でさえもが、不可謬と見做すことができるものは何一つないと認めている。

言い換えると、少しでも疑いがあるものを不可謬な教えとすることはできないのだ。

 

過去において、不可謬ではない教会の教えが明確に変わったことがあることを歴史が思い出させてくれる。例えば、ほぼ1900年もの間ローマカトリック教会は(そして他の多くのキリスト教会も)奴隷制を否定していなかった。数年前、わたしはカトリックの倫理の公式的な教えの変化に関する本を編集し、変化が見られる多くの領域を紹介した。ある評論家は、「変化」という言葉の重要性を正確に指摘している。これは単なる「進歩」ではなく、現実的な「変化」なのだ。

 

大変興味深いことには、結婚や性の領域でも、教会の教えは多少変わってきている。

4世紀には、聖アウグスティヌスが、「配偶者たちは、夫婦関係に際して生殖の意図を持たなければならない」と主張していたが、教皇ピオ11世とピオ12世による周期法(オギノ式)の容認により、生殖を意図しなくてもよくなっただけでなく、子を産まない意志を持つことも、妊娠を避けることさえもできるようになった。もちろん、唯一許された手段は周期法だけであった。このように20世紀には、結婚の目的に関する教皇の教えは変わってきた。従来の教皇の教えでは、結婚の第一の目的は子孫を生み育てることであるとされてきた。しかし、最早そうではなくなっている。

 

教会が、影響力の大きな様々な特定の問題についての倫理的な教えを変えてきたという事実は、そのような教えが不変ではなく、今日不可謬でない教えとされているものは将来変わる可能性があるという論拠になる。何故そのような教えを変えることが出来るのか?という問いへの最も分かりやすい説明は、ただ単に「ことば」を見るだけでいいのかも知れない。  

不可謬ではない(noninfallible)という単語は、実は、何らか不可謬(fallible)なものがあることを意味しているのだ!

 

Q わたしたちは最近、絶対的な倫理を強調するのでなく、「漸進主義」、すなわち人々を信仰に近づけようとするある種の段階的な試みをもっと強調すべきであるという話を耳にするようになっている。これは新しい傾向なのか? これはどこから始まったのか? このアプローチをどう考えるか?

 

漸進主義という問題全体のなかには、特に倫理の領域に、重要な道徳的現実があると考える。ある意味で、これは目新しいことではない。なぜなら、これはまさに伝統的なカトリックの倫理の教えに根ざしているからだ。しかし、実際にはそれほど検討し尽くされたものではない……

 

漸進主義が受け入れられる究極の理由は、客観的秩序と主観的秩序の相違にある。客観的秩序は、当然のことながら客観的な道徳的現実に着目する。それに対して主観的秩序は、真実、かつ、善なる行為に努める人に注目する。

 

これを説明するには、ヘロイン中毒者に施すメタドン(治療薬の一つ)治療がもっとも分かりやすいかも知れない。メタドンもやはり薬剤なので、患者にマイナスの影響を与えるかもしれない。しかし、それはヘロイン中毒を克服する過程の一つなのだ。

 

事実、漸進主義は1980年の家庭に関するシノドスでも話し合われた。ヨハネ・パウロ2世はそのシノドスの議事録に基づいた使徒的勧告の中で、この漸移の法則、段階的進歩という考えを受け入れている。しかし、それは「法の漸移」と結びつくことはないと断言している。しかし、よきカトリック伝統では、その時点で小さな一歩しか踏み出せなかったとしても、それがその人に求められる全てなのだ。

 

Q シノドスには、注目すべき「教皇フランシスコ」の司牧上の強調点が表れていた。あなたは長い間、教会の改革を提唱してきた。神学者として、この司牧上の強調点はあなたのお考えになる「向かうべきところ」へとわたしたちを導いてくれると考えるか?

 

「司牧上」という言葉が多様な意味を持っていることは明らかだ。ローマの司教を含む教会の聖職者の第一の役割は司牧者であることにある。司牧者は人々の近くにあり、その喜びと悲しみ、笑いと涙を知り、体験しなければならない。わたしは、これこそ教皇フランシスコが、「司牧者は羊の匂いと共に生きる羊飼いになりなさい」と述べたときに言いたかったことでだと考える。

 

真の意味での司牧的なアプローチは、福音書の中の様々な教役者(ministers)が受け入れるすべてを受け入れなければならないのだが、それは、人々が今味わっているまさに現実の倫理問題に関連しているのも確かなことだ。わたしはそのことを漸移、段階性との関わりで既に述べた。これは、シノドスの討議内容について最初に出された要約の中にある一つの意見を思い起こさせる。「真実は人間の脆さの中に受肉する。脆さを罪に定めるためにではなく、それを癒すために。」

 

Q その司牧的アプローチは、もっと基本的な神学論争の始まりへの手立てなのか。それとも、それを避ける方法なのか?

 

将来いつの日か、この問題に対する答えを知る日が来るだろう。それがそれほど遠い未来でないことを願っている。司牧的アプローチはほんの入り口(足がかり)に過ぎないかも知れないし、そこから更に大きな扉を開くことにつながるのかも知れない。

 

シノドスに参加した保守的な人々の中には、問題を司牧レベルに開放することが、教義レベルの変化につながるのではないという心配があったことは確かだ。倫理学では、「テントの中のらくだの鼻(the camel's nose in the tent)」討論、あるいは「足がかり(the foot in the door)」討論のことがよく話題になる。これは、一度ラクダにテントの中に鼻を入れさせてしまうと、結局、テント全体が潰されてしまうという意味である。

訳注:中近東の寓話に、「ラクダが『寒いからテントの下に鼻だけ入れさせてください』と言ったので許したところ、肩から足から次々と入れてしまい、結局ラクダにテントを占領されてしまった」という話があり、「悪い前例を作ってしまうとそれが既成事実となって取り返しがつかなくなる」という教訓を示している。the camel's nose under the tent (テントの下のラクダの鼻)は「悪い前例」を意味する。

しかし、全てがそのようなことになるとは限らない。この古いことわざは、「もしも1インチ譲ったら、1マイル取られてしまうだろう。」という意味だが、必ずそのようになるとは限らない。これが教会の教えに変化をもたらすやり方であるかどうかを教えてくれるのは、時の経過だけだ。

 

Q あなたは、カトリック神学は「行動に基づく」ものであって、「意図に基づく」ものではないと書いておられるし、そうであって欲しいと望んでおられる。どのようにして、この、行動に基づく神学に到達したのか。あのアプローチのどこが間違っているのか。

 

わたしは確かに意図を大いに重要視したいと望んでいるのだが、行動そのものの重要性を忘れたくないとも思っている。わたしは数年前、神学校で教えていた頃に、古いスコラ哲学の格言(公理)とも呼べるものを思いついた。「広い心(寛大さ)は、愚かさの言い訳にはならない」。あなたは世界一良い意図を持っているかも知れないが、それでも間違ったことをし、人々を傷つけているかも知れないからだ。

 

しかしこの疑問は、当然のように、どのようにして自分の行動が正しいか間違っているかを決めるのかというより重要な問題を提起することになる。「性」についての問題点は、カトリックの教えが性的能力、あるいは性的パワーと呼ばれるものの本性に基礎を置いてきた点にあると思う。性的パワー、あるいは能力を見て、神がそれを与えた目的は何であるかを考えてほしい。

 

さて、ここに嘘に関するすべて包含する比喩(analogy)がある。何故嘘はいけない(悪い)のか? 教会がこれまで順守してきた立場は、「嘘は、神から与えられた話す能力やパワーの目的に反するから誤りである」というものだ。話すことのパワーや能力は、心にあることを(正直に)口にすることにあるのだ、と……

 

同じアプローチが性にも適用されている。神から与えられた性の本性と目的を見て欲しい。それは、生殖行為であり、配偶者同士の愛による結びつきであることが分かるだろう。従って、一つ一つの行為が、生殖や、夫と妻との愛の結びつきを表すものへと開かれていなければならない。ところで公式な教皇の教えによれば、人工避妊は、生殖行為の目的に反するという理由で罪とされているばかりではなく、人工授精も、それがたとえ夫の種であっても、すべての性行為が夫と妻の愛の結合を表すものでなければならないという理由で明確に禁じられている。すべての行為が生殖に開かれていなければならないという事実が基礎になって、自慰行為や人工避妊そして同性愛関係が非難の対象となる。

 

カトリックのアプローチの問題点は、身体的、精神的能力を、ある行為が正しいか間違っているかを知る評価基準として用いていることにある。性のパワーあるいは能力を人格とは別のものと見なすことは出来ないし、人格を、他の人格との関係性と切り離して考えることも決して出来ない。それ故たとえば、或る人格の利益のため、あるいは結婚の利益のために、場合によっては、性的能力に与えられた生殖という目的を曲げることができるし、またそうしなければならないことがあるのだ。そして同様に、その人の人格と、人格が持つ関係性にとって何が利益となるかを基準にした場合、同性愛関係とその結びつきを正当化することが可能になる。

 

興味深いことには、他の領域での教皇の教えは人の「人格」という評価基準を受け入れ、それをより大切なものとしてきた。そして、たとえば教皇レオ13世はすべての近代的自由を罪に定めたが、第2バチカン公会議は宗教的自由を容認した。第2バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」の冒頭には、「現代の人々は時とともに人格の尊厳をますます強く意識するようになっている。また行動するに際して強制されて動かされるのではなく義務の意識に導かれ、責任を持って自らの判断と自由を享受し使用すべきだと主張する人が増えている。」(第2バチカン公会議公文書改訂公式訳)と書かれている。

 

この文書は、続けて、「このバチカン教会会議は、このような精神的諸欲求を注意深く考慮しつつ、それらがどれほど真理と正義にかなっているかを明らかにするつもりで、」(同上)と述べている。このように、この文書は人の人格の尊厳という評価基準を受け入れている。

人の人格と人格の関係性の利益という倫理的な評価基準を受け入れるならば、人は「性」に関して、現在の教皇文書にあるのとは全く違うアプローチに至れるはずなのだ。

 

Q カトリック倫理神学が前進するために、より効果的な援護になる神学的根拠は何か? 

今回と次回の家庭シノドスの間の一年間にこれを議論するために何か良いアイデアがあるか?

 

既に述べたように、ローマ(教皇)は性に関する現行の教えの幾つかが誤りであることを認める必要があると思う。しかしそれを実現するには大きな困難が伴うだろう。パウロ6世は、回勅「フマネ・ヴィテ」の中で人工的避妊を罪に定めているが、避妊を承認することを支持する重大な討議があったことも認めている。しかしパウロ6世は、それが教会の伝統的で権威ある教えに反するという理由で承認することはできなかった。

 

教皇職の教えにとって、過去の教えが誤りであったと認めるのは、確かに大変困難なことだ。カトリック信者は、教皇職が聖霊に導かれていると信じている。一体、聖霊が教皇の教えを誤らせるなどということがあり得るのだろうか?と。

 

一方、歴史は、そのような教えが間違うこともあることを教えてきた。ことによると、教皇職が自らの教えに対する信頼性(自信)をあまりにも強調し過ぎてきたことに問題があるのかも知れない。わたしの友人の(Sisters of Mercy修道女会の)マーガレット・ファーリーは、数年前に「倫理学、教会学、そして自己不信の恵み(Ethics, Ecclesiology, and the Grace of Self-Doubt)」と題するすばらしいエッセーを書いた。

 

事実、非常に多くのカトリック信者が、それぞれ大きな犠牲を払って現行の教会の教えに従ってきている。その教えに何か変化があれば、その人たちはどう反応するだろう。

 

また、心理学的側面もある。先週わたしは、何人かの友人とこれらの問題について意見を交わした。そのうちの一人は、わたしの意見に全面的に賛成したが、もし人を「後が無いところ」まで追い詰めてしまったら、その人はきちんと反応できないだろうと指摘した。もっと対立的でないアプローチを取るべきなのだろうか?

 

わたしは、過去、現在の教皇職の教えが間違っていたと認める過程で生じる問題点や障害をすべて認識しているつもりだ。しかしこれはわたしたちが立ち向かうべき現実の問題なのだ。そうは言っても、ここまでわたしたちが話し合ってきたことからして、この問題に立ち向かう中で、ある種の漸進主義を受け入れたくなるのも確かなのだが……

 

とは言え、漸進主義を受け入れることに対する警告が聞こえてくる。過去においてカトリック教会は、教えの「変化」の可能性、あるいは(教会がより好む言い方で)「進歩」の可能性を取り上げるのに長い時間をかけてきた。しかし今は、瞬時にコミュニケーションが出来る時代なのだから、教会はこれまでのように長い時間をかける余裕はないのだ。

教会の善(利益)のためには、現在の教えを早急に変える必要があるのだ。

 

 

◇◆◇

 

 

Curran: Papacy should admit some of its teachings are wrong 

by Thomas C. Fox Nov. 21, 2014   *Thomas C. Fox is NCR publisher. 

 

Shortly after October's extraordinary Synod of Bishops on the family concluded in Rome, NCR asked Fr. Charles Curran, the Elizabeth Scurlock University Professor of Human Values at Southern Methodist University in Dallas and a noted moral theologian, for his impressions. Following is the text of the interview.

 

NCR: What pleased you most about the synod?

Curran: The fact that bishops and cardinals publicly disagreed with one another in their attempt to discern what is good for the church. We have really not had this experience since the open debates of the Second Vatican Council. The one negative aspect about all this was that the press was not allowed into the synod itself to hear the actual discussion, but only found out about the discussions after the fact.

 

What disappointed you most?

The fact that not only did the synod not chaしnge any teaching in the church, but even those who were in favor of pastoral change insisted they were not changing the teaching of the church. This came through especially in the debate about full participation in the Eucharist for divorced and remarried Catholics. In my judgment, we have to change some of our specific moral teachings with regard to sexual morality.

 

We kept hearing the synod is not about changing doctrine. What are the fundamentals of church doctrine regarding the family, and what are the teachings subject to change? Which of the issues dealing with marriage and gender have been infallibly proclaimed? What is "church doctrine" on marriage, contraception, and gay and lesbian lifestyles, and what is not?

Church "doctrine" is simply a teaching of the church, or, more specifically, a teaching of the pope or the bishops. The Latin word doctrina basically means teaching. A doctrine or teaching that is taught definitively, that is, infallibly, is called a dogma. As you might imagine, there has been much discussion about what has been taught infallibly and what is noninfallible teaching.

 

In the early 1970s, William Levada, a priest of the archdiocese of Los Angeles, wrote a doctoral dissertation at the Gregorian University maintaining that the hierarchical church cannot teach the natural law infallibly. The natural law by its very nature does not depend primarily on revelation and God's word, but on human reason. Forty-five years later, Levada became the prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith!

 

In my judgment, there never has been an infallible church teaching on a specific moral issue. The reason is that these issues are removed from the core of faith and deal with many different specificities and complexities. On the other hand, we have witnessed in the hierarchical church in the last decades an attempt to push what I call creeping infallibility. To its great credit, even the older Code of Canon Law admitted that nothing can be presumed to be infallible. In other words, if there is any doubt about it, it cannot be infallible teaching.

 

History reminds us that noninfallible church teaching has definitely changed in the past. Think, for example, that for almost 1,900 years the Roman Catholic church (and most other Christian churches) did not condemn slavery. A few years ago, I edited a book on change in official Catholic moral teachings in order to show the many different areas in which change has taken place. One reviewer correctly pointed out the importance of the word "change." This was not just a "development," but was a real change.

 

Interestingly enough, even in the area of marriage and sexuality our teaching has changed somewhat. St. Augustine in the fourth century claimed that spouses had to intend procreation when they had marital relations. With the acceptance of the rhythm system by Popes Pius XI and XII, not only did one not have to intend procreation, but one could intend not to procreate and even take means to avoid procreation. Of course, the only means allowed was rhythm. Likewise, in the last century, the papal teaching has changed on the ends of marriage. Papal teaching used to hold that the primary end of marriage is procreation and education of offspring. This is no longer the case.

 

The fact that the church has changed its moral teaching in a number of very significant specific issues is proof that such teaching is not unchangeable and what is taught today as noninfallible teaching can also be changed in the future. Perhaps the best explanation of why such teaching can be changed is simply looking at the language. Noninfallible really means that something is fallible!

 

We began to hear we might need less emphasis on moral absolutes and more emphasis on "gradualism," a kind of step-by-step attempt to bring people closer to the faith. Is this new? Where is this coming from? What do you think of the approach?

I think there is an important moral reality involved in the whole question of gradualism, especially in the area of morality. In a sense, it is not new, because it has its roots in very traditional Catholic moral teaching. However, in practice it has not been developed that much. ...

 

The ultimate reason for the acceptance of gradualism is the difference between the objective order and the subjective order. The objective order concerns by definition the objective moral reality, whereas the subjective order refers to the person who is striving to do what is true and good.

 

Perhaps the best illustration of this might be the use of methadone treatment for those who are addicted to heroin. Methadone is still a drug and probably has some negative consequences for the person, but it is a step on the way of overcoming the addiction to heroin.

 

In fact, gradualism was talked about in the 1980 synod on the family. In his apostolic exhortation based on the synodal proceedings, John Paul II accepted the idea of this law of gradualness, or a step-by-step advance, but insisted it could not be identified with "gradualness of the law." But in the best of the Catholic tradition, if one is only able to take a small step at this time, that is all that should be required of that person.

 

The synod had a distinct "Francis" pastoral emphasis. You are a longtime advocate of church reform. As a theologian, do you think this pastoral emphasis can get us to where you think we need to be?

The word "pastoral" obviously has a number of different meanings. The primary role of any minister in the church, including the bishop of Rome, is to be a pastor. The pastor has to be close to the people and to know and experience their joys and their sorrows, their laughter and their tears. I think this is what Francis meant when he told pastors to be shepherds living with the smell of the sheep.

 

The pastoral approach in a very true sense should embrace all that the various ministers of the Gospel do, but it certainly also has relevance to very practical moral problems that people are experiencing. I have already mentioned that with regard to gradualness. This brings to mind one of the statements that was found in the first summary of what went on in the synod: "The truth is incarnate in human fragility not to condemn it, but to cure it."

 

Is the pastoral approach a means to opening up more fundamental theological discussions -- or a way of avoiding them?

We will only know the answer to this question sometime in the future, and I hope the not too distant future! The pastoral approach can be a foot in the door, which then might lead to a much greater opening of the door.

 

It is obvious that some of the more conservative people in the synod are definitely fearful that opening things up on the pastoral level will move toward a change on the doctrinal level. In ethics, we often speak about the camel's nose in the tent argument or the foot in the door argument. This implies that once the camel's nose gets under the tent, ultimately the whole tent will come down.

 

However, this does not necessarily have to happen. The old saying is that if you give them an inch, they will take a mile, but that does not necessarily always occur. So only time will tell whether or not this is a way to bring about a change in the teaching.

 

You have written that Catholic theology is "act-based" and not "intention-based," as you would like it to be. How did we get to this act-based theology? What's wrong with this approach?

I certainly want to give great importance to the intention, but I do not want to forget about the importance of the act itself. Years ago, when I was teaching in the seminary, I invented what I call an old Scholastic axiom: A big heart doesn't excuse a stupid ass! You can have the best intentions in the world, but still do things that are wrong and harm people.

 

But this question obviously brings up the more important issue about how does one determine whether acts are right or wrong. My problem in the area of sexuality is that the Catholic teaching has been based on the nature of what has been called the sexual faculty or the sexual power. You look at the sexual power or faculty and find out what is its God-given purpose.

There is an analogy here with the whole question of lying. Why is a lie wrong? The older position in the Catholic church maintained that lying is wrong because you go against the God-given purpose of the faculty or power of speech. The power or faculty of speech is to put on my lips what is in my mind. ...

 

The same approach applies to sexuality. You look at the God-given nature and purpose of sexuality, and you determine it is procreation and the love union of the spouses. Every single act, therefore, must be open to procreation and expressive of the love union of husband and wife. Note, by the way, that official papal teaching not only condemns artificial contraception because it is against the procreative purpose of the act, but it also forbids artificial insemination even with the husband's seed precisely because it is against the fact that every sexual act must be expressive of the love union of husband and wife. The fact that every act must be open to procreation serves as the basis for the condemnation of masturbation, artificial contraception, and homosexual relations.

 

The problem with the Catholic approach is using the nature of the faculty as the criterion for discovering whether an act is right or wrong. One can never see the power or faculty of sexuality apart from the human person and the human person apart from one's relationship to other persons. Thus, for example, for the good of the person or the good of the marriage, one could and should at times interfere with the procreative purpose of the sexual faculty. In the same manner then, one could justify homosexual relations and unions on the basis of what is good for the human person and the human person's relationships.

 

It is interesting that in other areas, the papal teaching has accepted the criterion of the human person and given more importance to it. Thus, for example, Pope Leo XIII condemned all the modern freedoms, but the Second Vatican Council accepted religious freedom. The decree on religious liberty of Vatican II in the very first sentences says that contemporary human beings are becoming increasingly conscious of the dignity of the human person and demanding that human beings should exercise fully their own judgment and responsible freedom, not subject to the pressure of coercion, but inspired by a sense of duty.

 

The document goes on to say that the council pays careful attention to these aspirations and declares them to be greatly in accord with truth and justice. Thus, this document accepts the criterion of the dignity of the human person. If one were to accept the moral criterion of the good of the person and the person's relationships, one would come to a very different approach to sexuality than that found in papal documents at the present time.

 

What theological premise should support more effective Catholic moral theology going forward? Any practical ideas about how we can introduce this into discussions between now and the next family synod one year out?

As indicated earlier, I think it is necessary for the papacy to admit that some of its present teachings on sexuality are wrong. But that is going to be a very difficult task to do. When Paul VI came out with his encyclical Humanae Vitae, condemning artificial contraception, he recognized there were some significant arguments in favor of accepting contraception, but he could not accept them because they went against the traditional authoritative teaching of the church.

 

Without doubt, it will be very difficult for papal teaching to admit that its teaching in the past has been wrong. Catholics believe that the papal office is guided by the Holy Spirit. Could the Spirit ever allow the papal teaching to be wrong?

 

On the other hand, history has shown that such teachings have been wrong. Perhaps the problem has been that the papacy has claimed too much certitude for its own teaching. My friend [Mercy Sr.] Margaret Farley some years ago wrote a marvelous essay entitled "Ethics, Ecclesiology, and the Grace of Self-Doubt."

 

There is also the fact that a good number of Catholics with great personal sacrifice themselves have followed the existing church teachings. How would they react to any change in the teaching?

Also, there is the psychological aspect. I was discussing these issues with some friends this past week. One of them was in total agreement with me but pointed out the danger that if you force people into a corner with their backs up to the wall, they are not going to react very well. Might it be better to take a less confrontational approach?

 

I recognize all the problems and difficulties in the way of recognizing that past and present papal teaching has been wrong, but this is the real problem that we have to face. However, in facing it, in light of what we talked about earlier, I am certainly willing to accept some kind of gradualism ...

 

But with this acceptance of gradualism, there comes a warning. In the past, the Catholic church had a long time to deal with the possibility of change, or what it preferred to call development in its teachings. But because of instant communication today, the church no longer has the luxury to take that long. There is an urgency to change the present teaching for the good of the church.

(End)

 

http://ncronline.org/news/accountability/some-kind-gradualism-curran-says-papacy-should-admit-some-its-teachings-are