「学び合いの会-海外ニュース」 297号 ー1
† 主の平和
先月5日から2週間にわたってローマで開かれた臨時シノドス
(世界代表司教会議)は、最終報告書を採択して閉幕しました。
カトリック中央協議会は報告書の和訳を進めていますが、未だ
作業が終わっていない模様です。
海外のメディアは既に報告書について様々な論評を寄せてお
り、それを読むと報告書の内容やシノドスの成果を伺い知ること
が出来ます。全文に接する前に論評を読むのは「順逆」の感が
ありますが、代表的な論評記事を選んでお届けします。
Five Things the Synod Just Did (NCR)
シノドス、五つの成果
「シノドスが成し遂げた五つのこと」
ジェームズ・マーティン(イエズス会士)2014/10/18 NCR (The National Catholic Review)
家庭に関するシノドスの最終報告は、教会にとって何を意味しているのか。
シノドスの閉幕にあたって発表された最終報告書(relatio)が、これからの論議の出発点となるに違いない。また、それは幅広い透明性をもって提示され、承認に必要な票を獲得できなかった項目にも言及している。
今回のシノドスが行った五つのことを見る前に、この最終文書のユニークな「様式」を理解しておくことが重要である。教皇フランシスコは、この「最終文書」にすべての文言を、可決に必要な得票数(2/3の得票)を得られなかった項目さえも提示するよう要請した。その三つの項目のうちの二つは、LGBT《レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(性同一性障害者)の頭文字》のカトリック信者を取り扱ったものであり、一つは、離婚し再婚したカトリック信者を扱っている。おまけに、教皇は、すべての文言の横に投票結果を提示するよう要請した。すべての文言は個々に投票された。ジェラルド・オコーネルは、これを49年の伝統との決別と呼んでいる。
言い換えると、かりに最終文書が、承認された項目のみの記述で発表されたとすれば、これらの項目は表面に出ることはなかったということになる。
教皇は、何故そのような要請をしたのだろうか。
一方では、これを教皇フランシスコによる賢明な手立てと考えることもできる。教皇はこれらの項目を記録に残すだけでなく、得票数も示すことで、二つのことを保証した。第一は、これらの議題、LGBT問題や、離婚し再婚したカトリック信者の共同体への受け入れの問題が、来期のシノドスで議論されるということである。第二は、この問題はどちらも教皇自身が提起したものであるが、それに対する得票数が接近していることを教会が知るということである。それによって、こういった問題によりオープンな姿勢を求める人々は、次に機会にはもっと支持を集めて更に力強く闘うようにとの励ましとなるかも知れない。(逆に言えば、それは、オープンにすることに反対する司教たちの決意を強める結果になるかもしれない。)
それらの、強い感情的な反応を誘発する問題に関する項目が承認されなかったのは、それをこころよく思わない司教たちが居たからではなく、それらの項目が他に比べて論議不足であったからだと言う人もいる。言い換えると、それらの三つの項目は、遠慮しすぎているように見えたようだ。そのために、司教たちの中には投票しない選択をした人が居たのだ。
たとえば、カナダのPaul-André Durocher大司教は、今日の自身のブログに次のように書き込んでいる。「どうして、教会で一般に受け入れられている教えを繰り返しただけの文言を承認しない選択をした司教が居たのだろうか。わたしの印象では、多くの司教たちはもっとオープンで前向きな文言を望んでいるように思えたのだが。彼らは、そのような(オープンで前向きな)文言が無かったために、賛成する気にならなかったのかもしれない。しかし、それも(含めて)既に発表されたのだから、検討を続けていかなければならない。」
訳注とお詫び: 10/10付け海外ニュース294号でもPaul-André Durocher大司教の発言を紹介しています。なお、294号の記事ではPaul-André Durocher枢機卿となっていますが、正しくは大司教です。
お詫びして訂正します。
Durocher大司教は、「最終報告書」の全体的なトーンが、期待されていた以上に司牧的であったと考えている。従ってそれは教会にとっての勝利を意味していると言う。わたしもそう思う。それはまた、従来広くタブーとされてきた事柄――ゲイやレズビアン、離婚し再婚したカトリック、同棲カップル――に対する新たなアプローチについて、やっと話が出来たという、もうひとつの勝利でもある。(余談だが、ある司教は自分の思いをブログにこう書いている。「シノドスの閉会の日は、また新しい何かと見なされるべきである。」)
では、このシノドスの「土産(みやげ)」は何だろう。
シノドスが成し遂げた五つのことを次に記す。
対話:クリストフ・ショーンボーン枢機卿は先日、このシノドスは、実際に対話が行われたという点において「真正な」シノドスであったと述べている。バチカンに詳しい人々は、長年、シノドスが過度に「管理」されていると感じていた。すなわち、参加者たちは、何を話すべきか、何を話してはいけないか、何に投票すべきか、何に投票してはいけないかを弁えていて、最終的な結末も大体知っていたというのだ。しかし、今回の家庭に関するシノドスは、明らかに違っていた。開会の挨拶で教皇フランシスコは、参加者たちに、自由に話すことを求め、parresia(「開放性」を意味するギリシア語)の賜物を願って祈った。今や、対話は教会にとって欠くことのできない部分であり、最も大切なことと言っても過言ではない。そしてこれは良いことだ。
わたしには、これはどちらかと言えば、「イエズス会的」な意思決定の方法に思える。イエズス会の長上たちは、聖霊が、あらゆる人――上に立つ人、その庇護の下にある人――のどちらをも通して働くことを知っており、はっきりとそう述べている。それは、単なる「トップダウン」の統治方法ではない。であるから、イエズス会の意思決定のときには、たくさんの議論と対話が交わされ、それがかなりの時間続くことがたびたびある。そして、時には気まずくなることもある。
教皇フランシスコは、本日(10/18)のシノドスの最終講演で、明確にこの識別について語り、イエズス会の理想に言及した。
「個人的には、もしもこのような動機や生き生きとした議論、すなわち聖イグナチオが言う『霊の動き(霊操6)』がなく、誰も異論を述べず、誤った静寂の平和の中に居るとしたら、とても心配ですし悲しいことです。しかしわたしは、信仰と司牧的、教義的熱意に溢れ、知恵と、率直さと、勇気、すなわちparresia(開放性)に満ちあふれたスピーチと意見発表を喜びと感謝を持って見、そして聞くことができました。」
分裂:家庭(と性)の問題の多くに関して、教会にはかなり明確な分裂が見られる。ある枢機卿が定義したように、教義に焦点を当てる人々と、あわれみに焦点を当てる人々との分裂である。むろんわたしたちの教義はあわれみに満ちており、またあわれみは教義にとって欠くことのできない部分だと言うこともできるだろう。しかし、わたしの言いたいことはおわかり頂けるだろう。司教のうちの或る人は、既に存在する法(規則)のより確固たる適用を好み、また或る人は、ヨハネ23世が第2バチカン公会議の開会にあたって述べたような「あわれみの薬」の方を好む。(わたしは今週前半に、人々を教会に迎え入れるやり方の異なった二つのモデルについて書いた。すなわち「洗者ヨハネ」の「回心第一、受け入れ第二」のモデル。そして「ナザレのイエス」の「受け入れ第一、回心第二)のモデルである。それは互いに補完し合うものであり、矛盾するものではないが、教会がいかにして宣教使命に最善を尽くせるかを巡る論争の種になる。)
訳注: 「洗者ヨハネ」モデルと「ナザレのイエス」モデル: 筆者ジェームズ・マーチン師のfacebook (10/18付下記URL参照) によれば、洗者ヨハネ・モデルとは「先ず回心の後に受け入れる」やり方を指し、一方の、ナザレのイエス・モデルは「先ず迎え入れた後に回心」(例えばザアカイ物語…ルカ19:1-10)を意味する。 https://www.facebook.com/OLGCViennaVA/posts/709432499135293
これらの分裂は、公開の議論の場に持ち出された。また世界中の様々なカトリックのメディアにも取り上げられた。率直なところわたしは、この問題が特にソーシャルメディアを震撼させたことにショックを受けている。(わたしの場合、ここ2週間ほどの間に、これまで経験したことのないような多くのヘイトツイート〈憎悪に満ちたツイート〉を受け取った。)
時には高位聖職者さえもが、バチカンの問題に関わる際のたしなみとされる、ローマ人的上品さ(bella figura)の範囲を超えてしまうことがあった。その一方で、これは開放性(率直さ)を求める教皇が招いた事態とも言える。あるいは教皇はこうなることを予測していたのかもしれない。
透明性:今回のシノドスは、次のような結果をもたらした――記者たちの激しい質問が飛び交う生き生きとした毎日の記者会見、多くの司教たちの真に率直なコメント(ダーバンのウィルフレッド・ナピア枢機卿が、中間報告書を「救いようがない」と評したことや、ミュンヘンのラインハルト・マルクス枢機卿が、教会の慣習は「明白に」変え得ると語ったことを思いだして欲しい)、公表された中間報告書と作業グループの討論の記録、そして投票後、直ちに発表された最終報告書。(これには投票結果が添付されていた。)
これらのすべては、透明性を強く求める教皇の思いを反映している。そしてどれもが良いことだ。これは、このような集会につきまとう秘密の匂いの雰囲気を一掃するのに役立ち、説明責任のセンスを高め、さらには、教会が開放性を恐れなくなっていることを示すものだ。
LGBT:メディアがもっとも大きくとりあげた話題の一つは、今回のシノドスでLGBT 問題が話し合われたことである。これはシノドスの開会まで決まっていなかった。ということは、シノドスの参加者たちはその話題を避けることもできたのだ。しかし、会議の中で或る夫婦が、ゲイの息子を持つ知人夫婦と共に経験したことを話した日を境に、それは議題になった。わたしの考えでは、今週の始めに発表されたこれらの問題を含む中間報告書「relatio」のトーンの変化にメディアが焦点を当てたのは当然のことであった。中間報告書は、ゲイとレズビアンに関する言葉が盛り込まれた、新しい、劇的に新しい最初の「報告書(relatio)」であった。(「歓迎」「賜物と資質」、相互支援、「尊厳」「パートナー」等々の表現)これに加えて、ショーンボーン枢機卿のように、知り合いの「模範的な」カップルについて語り、わざわざゲイとレズビアンの人たちを称える司教たちも居た。これは確かにニュースと言える。
最終報告書は(繰り返すが、この中には承認されていない項目が入っており、それらは今後の議論のテーマになるだろう)(最終報告書は、中間報告書の)そのような言葉を排除し、結果的にはカテキズムに戻っている。すなわち、カテキズムはゲイやレズビアンの人たちに、「尊敬と思いやりと共感」をもって接するようにと求めている。(奇妙なことに、「最終報告書」は「尊敬と思いやり(rispetto e delicatezza)」について述べているが、「共感」は割愛している。)
これを妥協(敗北)と見なして、がっかりする人もいるかも知れない。その気持ちは容易に理解できる。中間「報告書」は週の始めに多くの注目を集め、わたしは深く心を動かされたのだが、ここには「同性愛の人たちを歓迎する(welcome)」と書かれていた。「歓迎する」という言葉は新鮮に響いた。(その週の半ばには、新たな英訳が「用意され」ていた。)しかし、新たな英訳では、シノドスは「同性愛者の司牧的ケア」について語っている。これは全く違う翻訳だ。(歓迎されるのと世話をされるのと、どちらが望ましいだろう?)その上「賜物または資質」については何の言及もない。しかし、繰り返すが、LGBTのカトリックというテーマは、欠かせない議論のテーマの一つになったのだ。そして、それらの項目(承認はされなかったが)を記録に残すことに拘った教皇フランシスコは、その議論を継続させることにしたのだ。
始まり:今回の2週間の会議は、実は(この後に続く議論の)「第一部(始まり)」に過ぎないということがシノドスのいくつかの議論の中で忘れ去られていた。この後司教と参加者たちは自分の教区に戻り、世界の教会は2015年10月の次期シノドスまでこれらの議事録を検討することになる。その間、「家庭問題世界会議(World Meeting of Families)」が、フィラデルフィアで開かれ(おそらくは教皇フランシスコも出席)、同様のテーマを巡る話し合い、討議、説教などが行われる予定だ。こうして、さらに踏み込んだ考察が行われることだろう。
来年10月、再びローマでシノドスが開催される。(その際はまた別の司教が、例えば現シカゴ大司教のブレイズ・キュピック師らが出席する。)そして、最終的には、教皇フランシスコが、シノドスに基づく高レベルの権威ある教えである「使徒的勧告」を公布することになる。このようにして、シノドスが重要な諮問機関であり、また教皇フランシスコも「synodality(司教会議の重要性)」を強く支持しているにもかかわらず、最終的には、教皇の言葉がすべての問題に関する結論になるのである。
毎日の記者会見に没頭しすぎるようなとき、わたしは時々自分にこう言い聞かせてきた。「こうした議論は大切で、ある問題に関する教会の熱意を表しているが、結局は、使徒的勧告が最も重要な文書になるのだ」と。例えば、第2バチカン公会議の文書に接したとき、わたしは当時のオッタビアーニ枢機卿やビー枢機卿が何を考えていたかに関心はなかったし、最終的な結果についても同様であった。公会議中のある場面で、ある枢機卿がどんな「意見」を述べたかなどよりも、わたしが関心を持ったのは「教会憲章(Lumen Gentium)」であり、「現代世界憲章(Gaudium et Spes)」であった。
全体として見れば、この2週間は、聖イグナティウス・ロヨラならそう呼ぶであろう、まさにイエズス会的な「やり方」を示すものであった。それはわたしたちが「識別」と呼ぶものであり、そこには祈りと、議論と、多少の分裂と、そしていくらかの論争も含まれているのだ。
しかし、結局は一人の人間が判断を下す。そしてこの場合、それは教皇である。教皇は、司教たちへの結びの演説の途中で冗談半分にこう言った。「わたしはここにいます。そしてわたしは教皇です。」
あるいは、イエズス会の中で言われていることだが、長上に関して言うならば、「あなたは識別する。われわれは識別する。しかし決めるのはわたしだ。」
http://americamagazine.org/content/all-things/five-things-synod-just-did
Five Things the Synod Just Did
James Martin, SJ | Oct 18 2014 - 7:05pm | America: The National Catholic Review
What does the final report of the Synod on the Family mean for the church?
Essentially, the “relatio” (or report) published today, at the close of the Synod, will serve as a starting point for future discussion. It was also presented with great transparency, including even sections that did not win the necessary votes for complete approval.
Before we look at five things the synod did, it’s important to understand the unique “form” of this unusual final document. Pope Francis asked to have all of the paragraphs presented in the “final” report, even those that failed to win the majority needed for full passage (a two-thirds majority). Two of those three dealt with LGBT Catholics, and one addressed divorced and remarried Catholics. What’s more, the Pope asked that the voting results be shown alongside all the paragraphs, which were voted on separately. Gerard O'Connell called this a break with 49 years of tradition.
In other words, if the final document was published with only the fully approved texts, those three paragraphs would not appear.
Why might the Pope have chosen to do this?
One the one hand, this could be seen as a smart move by Pope Francis, who by insisting on not only retaining those paragraphs but also showing the vote tallies, ensures two things. First, that those topics—LGBT issues and the reception of Communion for divorce and remarried Catholics—will be discussed at the next session of the Synod. Second, that the church will know that these votes, both of which he himself has addressed, were close. This may give encouragement to those in favor of more openness on these issues to rally support and fight more vigorously next time. (Conversely, it may perhaps strengthen the resolve of those bishops opposed to greater openness.)
Some said that the reason that the three paragraphs on those hot-button issues did not pass was not that the some bishops did not like them, but because they did not go far enough for others. In other words, those three paragraphs were seen as too timid, so some bishops chose not to vote for them. For example, Archbishop Paul-André Durocher, a Canadian bishop, on his blog today writes, “Why did some Bishops choose not to approve a text which only repeated the Church's received teaching? I have the impression many would have preferred a more open, positive language. Not finding it in this paragraph, they might have chosen to indicate their disapproval of it. However, it has also been published, and the reflection will have to continue.”
Archbishop Durocher believes that the overall tone of the “relatio” was more pastoral than could have been expected. So it represents a win for the church. I agree. Also, finally talking about some things that had been largely taboo—new approaches to gays and lesbians, divorced and remarried Catholics, cohabitation—is another win. (As an aside, a bishop is writing his reflections on his blog the day of the close of the synod should also be seen as something new.)
So what might be the “takeaway” from the Synod?
Here are five things the Synod did:
Dialogue: The synod was an “authentic” synod, as Cardinal Christoph Schoenborn said the other day, in that it included actual dialogue. No one can doubt that. For many years Vaticanologists had speculated that such synods had been overly “managed,” that is, participants knew what they could and could not talk about, what they could and could not vote on, and more or less what the final outcome would be. This was clearly not the case at Synod on the Family. In his opening address to the participants, Pope Francis specifically asked the participants to speak freely, and prayed for the gift of parresia (a Greek term meaning, roughly, “openness”). Dialogue is now a part of the church, at the very highest levels, and this is to the good.
To me, this seems a rather “Jesuit” model of decision-making. Jesuit superiors know, and explicitly say, that the Holy Spirit can work through everyone—both the superior and those men in his care. It is not simply a "top-down" method of governance. So in Jesuit decision-making there is always great deal of discussion and dialogue, which can often continue for a considerable length of time. At times, it’s uncomfortable.
Pope Francis mentioned this kind of discernment explicitly today in his final talk to the Synod, and referred to his Jesuit ideals: “Personally I would be very worried and saddened if it were not for these temptations and these animated discussions; this movement of the spirits, as St Ignatius called it (Spiritual Exercises, 6), if all were in a state of agreement, or silent in a false and quietist peace. Instead, I have seen and I have heard – with joy and appreciation – speeches and interventions full of faith, of pastoral and doctrinal zeal, of wisdom, of frankness and of courage: and of parresia [openness]
Division: There are fairly clear divisions in the church on many of issues related to the family (and sexuality), between what one cardinal termed those who focus on doctrine and those who focus on mercy. Of course one could say that our doctrine is merciful and that mercy is part of our doctrine. But you know what I mean: certain bishops favor a firmer application of laws already in existence (or a clearer explanation of them), and others prefer the “medicine of mercy,” as John XXIII had said at the opening of Vatican II. (I also wrote earlier this week of two different models of welcoming people into the church: The “John the Baptist” model of conversion and then communion, and the “Jesus of Nazareth” model of communion and then conversion. These are complementary, not competing models, but they give rise to disagreement over how the church will best live out its mission.)
These divisions spilled into the public forum, and then those divisions were taken up by various Catholics worldwide. Frankly, I was shocked at how vitriolic things became, particularly on social media. (For my part, I’ve never received more “hate tweets” than in the last two weeks.) At times even prelates moved beyond the usual politesse of the Roman “bella figura” that one associates with Vatican affairs. On the other hand, this is what the Pope invited, and probably expected, when he called for openness.
Transparency. This synod brought us the following: lively daily press briefings with vigorous questioning from reporters, extremely candid comments from many bishops (Remember Cardinal Wilfrid Napier’s terming the interim report as “irredeemable,” and Cardinal Reinhard Marx noting that “obviously” church practice could change), an interim document that was made public, as well published notes from the working groups, and a final document published almost immediately after the voting—with the votes attached.
All this shows the Pope’s desire for transparency. And all this is good. It helps to clear the air of the scent of secrecy that attends many of these gatherings, increases the sense of accountability, and, also shows that the church is less afraid of openness.
LGBT: One of the biggest issues in the media’s coverage was the emergence of LGBT issues at the Synod—which was, in the run-up to the synod, anything but a sure thing. That is, the synod participants could have avoided it. But from the day that a married couple spoke of their experience with another couple they knew who had a gay son, it was on the table. And to my mind, the media’s focus on the change in tone in the interim “relatio,” on these and other topics, released earlier this week, was entirely justified. The first “relatio” included language about gays and lesbians that was new—dramatically new. (“Welcoming,” “gifts and qualities,” mutual support, “precious” “partners,” etc.) In addition, some bishops, like Cardinal Schoenborn, who spoke of an “exemplary” couple he knew, went out of their way to praise gays and lesbians. So it was indeed newsworthy.
The final document (in paragraphs that, again, weren’t fully approved, but will remain topics of discussion) removed those words and, in essence, went back to the Catechism, which asks us to treat gays and lesbians with “respect, sensitivity and compassion.” (Oddly, the “relatio” speaks of “respect and sensitivity,” rispetto e delicatezza, but omits compassion.)
Some will see that as a loss and may be disappointed. It’s easy to understand why: the interim “relatio,” which garnered so much attention earlier in the week, and which moved me deeply, spoke of “Welcoming Homosexual Persons.” Just the word "welcome" was refreshing. (By the middle of the week, the new English translation had "Providing for.") Now the synod speaks of “Pastoral Care of the Homosexual Person.” That is quite different. (Would you rather be welcomed or cared for?) Moreover, there is no mention of any “gifts or qualities” at all. But again, the topic of LGBT Catholics is now part of the discussion, and by insisting that those paragraphs were retained (even though they were not approved) Pope Francis is keeping them on the table.
Beginning. Lost in some discussions of the Synod was that the last two weeks represented only Part One. After this, the bishops and participants will return to their home dioceses and the worldwide church will reflect on these proceedings until the next session, in October 2015. In the interim, the “World Meeting of Families” will take place in Philadelphia (with Pope Francis most likely attending) with similar topics being raised in talks, articles, homilies and the like. So there will be further reflection.
Next October, the synod will meet again in Rome. (With some different bishops, by the way, for example, Archbishop Cupich, now of Chicago.) And, finally, Pope Francis will issue his “apostolic exhortation” on the Synod, a document which enjoys a high level of teaching authority. Thus, while the synod is an important consultative body and Francis is very much in favor of “synodality,” his is the final word on all these issues.
At times, when I was getting too involved in the daily press conferences, I reminded myself that, while these discussions are important and show the temperature of the church on certain issues, the apostolic exhortation will be the most important document. When I read the documents of the Second Vatican Council, for example, I’m not that concerned about what Cardinals Ottaviani and Bea thought at the time, as much as I am with the final product. I’m more interested in “Lumen Gentium” and “Gaudium et Spes” than one cardinal’s particular “intervention” during one session of the Council.
All in all, the last two weeks have proven a very Jesuit “way of proceeding,” as St. Ignatius Loyola would say. It’s what we call “discernment,” which includes prayer, as well as much discussion, some division and even some debates.
But in the end one person makes the decisions, and in this case it’s the Pope. At one point during his concluding speech to the bishops he said, playfully, “I am here and I’m the pope!”
Or as we say in the Jesuits, when it comes to the superior it’s: “You discern, we discern, but I decide.”