「学び合いの会-海外ニュース」 290号

前号にも登場したイエズス会士でジャーナリストのトーマス・リース師が、

1980年に行われた「家庭シノドス」を取材した経験を記事にしました。

来月同様のテーマで行われる臨時シノドスを視野に入れた興味深い

内容です。仲間による翻訳をお届けします。

添付記事

1. 1980年の「家庭シノドス」を回顧する (NCR記事)

 

1980年の「家庭シノドス」を回顧する

トーマス・リース 2014/9/12  NCR(National Catholic Reporter)

 

筆者がジャーナリストとして初めて取材したシノドスが、1980年の「家庭シノドス」であった。それは楽しさとフラストレーションが混じり合った一ヶ月だった。

楽しかったのは、会議が行われた時季が、ローマ訪問には最適の10月であったこと。それに当時は、まだインターネットが普及していなかったため、仕事の重圧が少なかったこともある。わたしは週刊誌「America」の記者として、コラムを3つ受け持てば良かった。そのほかには、宗教ニュース・サービス誌の編集者トム・ロバーツのために、何本かの記事も書いていた。けれども今日のようなウェブサイトやブログ、ツイッター、フェイスブックのような、四六時中アップデートしなければならないメディアは存在しなかった。

そうは言っても、記事を埋めるのは楽ではなかった。Eメールもファックスもなかったし、実際、コンピューターも無かった。わたしはイエズス会の事務所のテレックスを使って原稿をタイプし、それが無事に本国に届くことを祈るしかなかった。

 

しかし、あのシノドスの最善、かつ最悪の特徴は、会議が取材陣をシャットアウトして行われたことである。ジャーナリストとしてはその閉鎖性に苦労させられたが、その一方では、初めて訪れたローマの観光にたっぷり時間をとれたのは、正直嬉しかった。ローマ観光案内(the Blue Guide Rome)を買いこんで、行ける限り沢山の教会、博物館、遺跡を訪ね回ったものだった。バチカン当局からの発表は、全て、司教たちの話し合いの要約に過ぎず、それも英語版が発表されるのは大抵数日遅れだった。

 

司教たちは、議事録の全文を報道陣に渡してはいけないことになっていたが、米国の司教たちは、教皇と司教の挨拶の最初の部分を省くことで「全文禁止」のルールの裏をかき、われわれに情報を与えてくれた。しかし、シノドスでは8分間演説が160回もあったので、記者たちは会議の全文をもらわなかったことを密かに喜び、また会議を傍聴せずに済んだことを更に有難く思ったのが本当のところである。

 

アメリカの司教たちは、ワシントンで行われる米国司教協議会の年次総会でやっているように、記者会見を行った。わたしの記憶が正しければ、この記者会見は、床に玩具が散らばったままの託児室(デイ・ケアの部屋)で行われた。ローマ教皇庁は記者会見に不賛成だったが、ベイジル・ヒューム枢機卿は、選んだ記者たちを茶話会に招くという形をとって彼らの反対をうまくかわしたのだ。

訳注: ベイジル・ヒューム元枢機卿(Cardinal Basil Hume、1923.3.2-1999.6.17) ウェストミンスター大司教、イングランドとウェールズの司教区の長。カトリック界だけでなく、マーガレット・サッチャー元首相やトニー・ブレア元首相などの政治家や多くの有名人と幅広い交流を持ち、バチカンとの橋渡しをするなど、活発な活動で注目された。それと同時に、教区長時代に、カトリック司祭による子供への性的虐待を隠蔽していたことが発覚したり、数百人の少女に対する性的虐待で世間を騒がせたイギリスの元TVパーソナリティのジミー・サヴィルとも親しかったなど、批判も少なくない。(wikipedia)

 

そうした欲求不満があったにも拘わらず、ジャーナリストとしてこのシノドスを取材できたことは一つの天啓であった。90を越える国々から集まった200人以上ものシノドス教父たち(女性はゼロ)と共に、家庭(家族)が直面する諸問題についての多様な意見を内包する普遍教会の有り様を、畏敬の念を持って体験できたのだ。尤も、文化も言語も多様な人々の集まりであったため、意思疎通(communicating)の問題も抱えていた。

 

たとえば途上国の司教たちは、シノドス開催前の準備文書(アンケートや提題解説など)が、自分たちの抱える問題よりは、第一世界(先進諸国)の問題を扱っていると不満を表明した。インドの司教たちは、異種宗教間の結婚に伴う問題を取り上げるよう望んだ。また、インドの司教たちにとっては、先進国のカトリック信者が問題にする産児制限よりも、家族数を制限しようとする政府との戦いの方が大きな課題であった。ラテンアメリカの司教たちは、彼らの国々の場合、貧困こそが結婚に伴う問題の根源であると語った。アフリカの司教たちは、一夫多妻制について語った。

 

欧米の記者にとって、シノドス1週目のハイライトは、教皇パウロ6世の回勅フマネ・ヴィタエ(Humanae Vitae )に関するジョン・クイン大司教*のスピーチであった。彼は当時、米国司教協議会の会長であり、いかなる場合にも人工避妊を認めないというこの回勅の内容には、信者も司祭も神学者も当惑していると述べた。彼は、この回勅を受け入れることを再確認しながらも、神学者と教皇庁との間で避妊に関する対話を行うよう要求した。

訳注:ジョン・クイン大司教(Archbishop John Quinn): サンフランシスコ大司教、米カトリック評議会、米司教協議会の会長など歴任。

 

インドネシア司教協議会を含む一部の司教たちは彼を支持したが、バチカンの否定的反応はすさまじいものだった。多くの人は、このシノドスの後、教会内におけるクイン大司教の影響力が急速に低下したと感じた。

 

シノドスに参加した司教の中には、会議での意見陳述の多くが結婚そのものよりも、結婚の義務について語り、また家庭(家族)についてよりも、結婚についての意見が多かったと不満を言う者もいた。また、貴重な時間がバチカン官僚による報告のために無駄に費やされたが、それは情報提供というよりは上からの訓戒のようなものであった。

 

多くの司教たちにとって、このシノドスで一番よかったのは、言語ごとに区分けされた非公式の小グループによる議論であったという点で意見が一致している。これらの小グループ討論は、非公開であったため取材はできなかった。

 

このシノドスの皮肉な側面の一つとして、多くの司教が、スピーチの中で、教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉の引用に異例なほどの時間を費やしたことが挙げられる。それは聴く者に、教皇自身が自分の語ったことを知らないかのように感じさせる程であった。彼らのスピーチは、(自分の教区の)実情を報告・助言するというよりは、教皇への忠誠心を証言しているように思えた。このような司教たちの態度は、ヨハネ・パウロ教皇の在任中に行われた全てのシノドスを特徴づけるものとなった。

 

1980年のシノドスは、キリスト者の家庭に向けた「愛、確信と希望」の司牧的メッセージを以って閉幕した。このシノドスの最終週に完成する予定であった最終文書は、討議は行われなかった。各項目の中身は投票で決定されたが、会議の場で改訂の提案は出来なかった。

 

投票は「賛成(placet)」、「不賛成(non placet)」 、または 「修正条件付賛成(placet juxta modum)」のいずれかであった。最終文書(ステートメント)の草案を作成した委員会が、修正案の再検討を行った。そして最終文書は、回勅Humanae Vitaeを再確認し、離婚し再婚した者の聖体拝領を禁止する原則を維持した。このことは驚きではなかった。というのは教皇ヨハネ・パウロ2世の2回にわたる意見陳述はこの問題に関するものであり、教皇は原則を変えるつもりはないと明確に述べたからである。同時に、聖職者たちは、誰に対しても思いやり(compassion)と共感(sympathy)を以って接するよう強く求められた。

 

家庭についての2014年のシノドスは、1980年シノドスの再現となるのか、それとも別の展開を見せるのか。注目して行こうではないか。

 

なお、筆者が1980年のAmerica 誌に寄稿した記事は次の3件である:

「シノドスからの報告」1980年10月11日

http://ja.scribd.com/doc/239453850/A-Report-From-the-Synod

「シノドス閉幕」1980年11月8日

http://ja.scribd.com/doc/239453861/The-Close-of-the-Synod

「シノドスの報告」1980年12月20日

http://ja.scribd.com/doc/239453858/Reporting-on-the-Synod

 

 

以 上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“Looking back at the 1980 synod on the family”

by Thomas Reese on Sep. 12, 2014  NCR(National Catholic Reporter)

 

The first synod I covered as a journalist was the 1980 Synod of Bishops on the family, which proved to be a month of fun and frustration. It was fun because it took place in October, the best month for visiting Rome. It was also the pre-Internet world, so it was not heavy lifting. I only had to file three columns for America, the weekly magazine where I was working as an associate editor. I also filed some pieces for Religion News Service as a favor to Tom Roberts, who was then its editor. (Sadly, neither I nor RNS can find copies of these stories.)

But there were no websites, blogs, tweets or Facebook pages to update constantly. On the other hand, filing stories was a challenge. There was no email or fax machines; in fact, there were no computers. I had to type out my articles on the Jesuit Curia's telex machine and pray it went through.

 

But the best and worst part about the synod was that it was closed to the press. As a journalist, I was appalled by the lack of openness, but as a first-time visitor to Rome, I confess that I was delighted to have lots of time to visit the sights. I bought a copy of the Blue Guide Rome and spent hours visiting as many churches, museums and ruins as I could. All the press received from the Vatican press office were summaries of the bishops' talks, and it usually took extra days for the English versions to become available.

 

The bishops were not supposed to give their full texts to the press, but the U.S. bishops circumvented that rule by dropping the first sentence saluting the pope and bishops. But since there were 160 eight-minute speeches at the synod, journalists were secretly happy they did not get the full texts and even happier that they did not have to listen to them. 

 

The American bishops also held press conferences, just as they did at their annual bishops' conference meetings in Washington, D.C. If I recall correctly, the American press conferences were held in a room used for day care with children's toys scattered around the floor. The Roman Curia discouraged press conferences. Cardinal Basil Hume got around this by inviting selected journalists to tea.

 

Despite its frustrations, covering the synod as a journalist is a revelation. With over 200 synodal fathers (no women) from more than 90 countries, you get an awesome experience of the universal church with a variety of views about the issues facing the family. But such a culturally and linguistically diverse group also had problems communicating.

 

Bishops from developing nations, for example, complained that the pre-synodal documents reflected first-world problems, not theirs. Bishops from India wanted to talk about interreligious marriages. And while first-world Catholics might have problems with birth control, the Indian bishops were fighting a government that wanted to impose limits on family size. Latin American bishops spoke of poverty as the root of marriage problems in their countries. Bishops from Africa spoke about polygamy.

 

The highlight of the first week of the synod for Western journalists was Archbishop John Quinn's speech on Pope Paul VI's encyclical Humanae Vitae. Quinn, who was president of the U.S. bishops' conference at the time, noted that people, priests and theologians had problems with the encyclical's rejection of artificial contraception in all cases. While he reaffirmed his acceptance of the encyclical, he called for dialogue between theologians and the Holy See on the issue of contraception.

 Although some bishops, including the bishops' conference of Indonesia, supported him, the negative reaction from the Vatican was fierce. Many felt that Quinn's influence in the church declined speedily after the synod.

 

Some synodal fathers complained that more of the interventions were on the obligations of marriage than about marriage itself, and more were about marriage than about the family. Valuable time was also wasted with reports from Vatican officials, which were more homiletic than informational.

 

Most bishops agreed that the best part of the synod were the informal small group discussions, which were organized by language. These were private and impossible to report on.

 

One of the ironic aspects of the synod was that most bishops spent an inordinate amount of time in their speeches quoting Pope John Paul II to himself, as if he did not know what he had said. 

It was as if they were testifying to their loyalty rather than actually advising the pope. This became a defining characteristic of all the synods during his papacy.

 

The synod concluded with a pastoral message of "love, confidence and hope" to Christian families. There was no debate over the final document, which had to be completed in the last week of the synod. Each paragraph was voted on, but no amendments could be offered from the floor. The vote was "placet," "non placet," or "placet juxta modum" ("yes," "no," "yes with amendment"). The same committee that had drafted the statement reviewed the amendments. The statement reaffirmed Humanae Vitae and maintained the policy of excluding divorced and remarried Catholics from Communion. This was not a surprise because the Pope John Paul's two interventions were on these topics, and he made clear there was going to be no change. At the same time, priests were urged to treat everyone with compassion and sympathy.

 

Will the 2014 Synod of Bishops on the family be a rerun of the 1980 synod, or will it do something different? Stay tuned. 

 

To read my America columns on the 1980 synod, click the links below:

•"A Report from the Synod," America magazine, Oct. 11, 1980

•"The Close of the Synod," America magazine, Nov. 8, 1980

•"Reporting on the Synod," America magazine, Dec. 20, 1980