「学び合いの会-海外ニュース」 286

 

† 主の平和

「家庭」をテーマに今秋開かれる臨時シノドス(世界代表司教会議

臨時総会)を前に、シノドス事務局は先月末、会議の議論の材料

になる「討議要綱」を発表しました。

 

この要綱を作成するためには、先ず全世界の司教宛に「提題解説

(アンケート)」が送られましたが、今回は特に一般信徒の回答も

認められ、学び合いの会有志もこのアンケートへの回答をまとめ

てシノドス事務局に送付しました。

 

先月発表された討議要綱は早速各方面の反響を呼びましたが、

この中から、代表的な二つのカトリック誌のコメントを紹介します。

討議要綱そのものは数十ページに及ぶ膨大な文書のため、今後

の中央協議会の翻訳を待つこととし、海外ニュース274号で紹介し

た「提題解説(アンケート)」を再添付しますので、参考になさって

下さい。(6ページ以降がアンケート質問項目です。)

 

添付記事

1. シノドス討議要綱・その第一印象

       アメリカ NCR (National Cathlic Reporter)

2.  家庭シノドスへ・憐みと更なる配慮を

   イギリス The Tablet

3. シノドス準備文書(提題解説:アンケート) ・・・既報

 

以上

1. シノドス討議要綱・その第一印象

       アメリカ NCR (National Cathlic Reporter)

 

シノドス討議要綱: その第一印象

ミカエル・ジーン・ウインタース  |  2014/6/26  NCR(ナショナル・カトリック・リポーター誌)

 

 

教皇庁は、今日(626日)、今秋に予定されている家庭(家族)についてのシノドス・世界司教会議臨時総会の討議要綱 (the Instrumentum laboris) を発表した。

この文書は長文であり、正確なコメントを加えるには更なる綿密な分析を要する。しかし、今朝とりあえず目を通したところでは、この文書の内容は一貫性を欠いているように思われた。挑発的(刺激的)な箇所があるかと思えば、陳腐な箇所も見られる。また多くの部分は、論じられている当の信徒から寄せられた数々の意見の影響を受けているようでもある。

注:世界代表司教会議では、提題解説(Lineamenta)と「討議要綱」(Instrumentum Laboris

とが示される。カトリック中央協議会:シノドス(世界代表司教会議)と「提題解説」参照 

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/synodus/index.htm

 

たとえば第31項には次のような記述がある:

「現実の生活の様々な状況、実例、そして多くの苦しみが示すのは、今、家庭が非常に困難な時代を経験しており、『あるがまま』の家庭への指針を示す際には、教会の共感と理解が必要だということである。この点を踏まえたうえで、それぞれの家庭独自のニーズに応える『家庭の福音』を宣言するのである。」

 

出発点として現実生活の実情に光を当てるべきという表現は注目に値する。現在流通している種々のカトリック要理の教材に詳しい人なら、それらが必ずしもここを出発点にしているとは限らないことを知っているだろう。カトリック校の教科書の中には、初めから終わりまで教義だけが記されているものがある。これは、良い教育とは言えない。

 

また、この「討議要項」の20-30項は、その大部分が、自然法についてと、自然法が結婚と家庭生活に関する教会の教えとどう関っているかについての記述である。文書はこう述べている。「圧倒的多数の回答と所見によれば、今日、様々な文化的状況においては、自然法の概念は、結局、完全に理解不能ではないにしても、非常に問題があるということが判明している。」

 

そうだろうか? カトリック護教論者の中には、教会の教えを説明する際、自然法を持ちだす人が多い。そのようなやり方では、仮にわたしが教会の教えについて質問しようと思っていたとしても、その人の話を聞き終わった時には、もう質問する気持ちは失せているだろう。

 

文書は、こうした領域での用語を改めることを提唱しているが、わたしは、用語問題以上に大切なことが刷新のために求められていると考える。その手始めとして、自然法に頼る人たちが、それを攻撃のための大鉈として使うのではなく、彼らが言うように、人間の価値についての普遍的な議論に役立てるために使ってくれれば有りがたいと考える。

 

この「討議要項」は、今日、家庭を脅かしている社会的・経済的抑圧の詳述にかなりのページを割いている。70項にはこう書かれている。

「仕事が幸福な家庭生活に及ぼす影響をとりあげたすべての回答は、過剰な仕事の負担を抱える家庭で、家族が共に生きていけるよう調整することの難しさに触れている。過剰な仕事は家庭により大きな順応性を要求する。仕事のペースは速く、時に心身を疲弊させる。労働時間はしばしば規定を超え、時には日曜日も働き、それらのすべてが家族が共に過す時間を奪っている。」

 

ますます忙しくなっていく生活のために、家族が共に平和な時間を過ごす機会はほとんどなくなってしまった。世界を見ると、経済成長と発展の代償が、家庭にしわ寄せされる兆候の見られる地域もある。不安定な労働市場と経済的危機とが、より広範な地域に影響を及ぼしているのは言うまでもないことだ。

 

就業の不安定と失業の増加、それに伴う通勤距離の拡大が家庭生活の負担になっている。それは、とりわけ家族間のつながりを弱め、孤立が深まり、不安感をいっそう募らせる結果を生んでいる。これは「福音の喜び」(使徒的勧告:Evangelii Gaudium)が述べる、現代の市場経済への鋭い批判が大いに生かされるべき状況と言える。「福音の喜び」の中で教皇フランシスコは「この経済は人を殺します。」と述べており、こうした経済のあり方が家庭生活を殺すことになり得るという点に注目すべきだろう。

             訳注:「この経済は人を殺します。」 使徒的勧告「福音の喜び」第253項参照

 

さらに(討議要綱の)次の項は、教会に対して、国家やその他の公共機関に働きかけ、労働市場の予測のつかない変動から家庭を護る法律を制定するよう求めている。要綱のこの部分は、自由市場主義者にちょっとした「ストレス性胃炎」を起こさせるにちがいない。結構なことだ。

 

要綱はまた、社会の一部に見られる消費拡大主義と極端な個人主義に触れ、それらの病理がいかに家庭生活を苦しめているかについて、真っ向から異議申し立てをしている。要綱の74項は、次のように述べている:

 

「家庭に対する文化的抑圧に関して、アンケートの回答は、一貫して消費拡大主義という言葉を用いている。そしてそれは次第に『自分が何者であるか。』ということよりも、『自分は何を持っているか。』ということに焦点を移している。特にヨーロッパからの回答に多く見られるこうした消費者意識は、『どんなことをしても子どもを持つ』という考え方と、その結果として様々な人工授精方法を生みだす原動力となっている。」

 

出世第一主義や競争主義も、家庭生活に深刻な影響を与えていると指摘されている。

特に西欧では、生活、信仰、倫理を、私的な次元へと貶めている点も注目され、これが決定的な影響を及ぼしていると指摘されている。言い換えると、個人の良心や選択の自由を尊重する傾向が、物事の善悪という究極的な価値を決めている。感覚(五感)と刹那的満足感を重んじる文化の影響もある。

 

これについては、今日の「浪費」や「刹那的生き方」への傾向に触れた教皇フランシスコの言葉が思い浮かぶ。「浪費」も「刹那的生き方」も、壊れやすい情緒的繋がりに強い影響を与え、しばしば家庭生活に深い不安や不安定をもたらす。

 

世界各地から送られてきた回答はまだ山積みなっているが、シノドス事務局は、恐らく多くの時間を費やしてでも、消費主義と極端な個人主義が家庭生活に与える悪影響を、今まで以上に詳しく分析するよう勧告を受けることだろう。子どもたちが、自分の兄弟姉妹の感情の動きを推量する方法よりも、テレビのリモコンの使い方の方をよく知っているとしたら、そして互いが衝突したとき、一方が他方のオン・オフ・スイッチを探すとしたら、そしてまた、フックアップ文化が、明瞭かつ積極的に、消費者の行動を親密な関係に持ち込むとしたら、さて、これは家庭生活を後押しするどころか、支えることのできない文化である。

訳注:フックアップ文化(A hookup culture)とは、肉体的快楽に焦点を置き、必ずしも愛情的結束や長期契約関係なしに、カジュアルな性的関係、一夜だけの情事、類似の行為と同様の性的出会い関係を容認し支持する文化。一般的には西洋、とりわけアメリカ大学生活に関わる文化である。フックアップの用語定義は曖昧で、キスを初め、性交渉パターンのどの形態をも意味する。

 

フックアップについての調査のほとんどが、アメリカの大学生に焦点を合わせてきたが、フックアップは、大学のキャンパスに限定されるものではない。青少年や新米成人の男女が、様々な理由でフックアップ関係に入る。それは、瞬間の肉体的満足から、感情的欲求を満たすこと、そして長期的な恋人を見いだす手段にまで及ぶ。フックアップ文化に対するメディアの反応は、従来、道徳的パニックとして片付けられてきた。

訳注:新米成人(Emerging adulthood)とは思春期と成熟した成人との中間期を指す用語で、2000年にJeffrey Arnettが米国心理学協会の機関誌に掲載した論文の中で提唱した。一般的に先進国における18~26歳の未婚の若者を指し、自分のアイデンティティを探し求める傾向がある。

 

これまでのところ、司教会議に関する議論の大部分は、離婚と再婚の問題に集中してきた。「討議要綱」のこの部分(100項以降)は、この課題を予断することなく、仕事を立派にこなしている。明らかに多くの司教が(婚姻の)無効宣言をスリム化した手続きを求めているが、一方には、手続きを簡素化しすぎることに懸念を示す司教もあると言う。更に要綱は、離婚し再婚したカトリック信者への有意義な司牧的働きかけが相対的に欠落しているとも述べている。これらの項は、さらなる議論を生み出すだろうし、この議論こそがまさに必要とされているのだ。

 

討議要綱の110-120項は同性関係の問題を扱っている。この項を読むのはつらいことだ。寄せられた回答は、同性婚のカップルが子どもを養子にすることを許す律法の制定に対して、はっきり反対する立場を取る。反対者たちはそこに、子どもたちに不可欠な「福利」を脅かす危険を見るからである。教皇フランシスコが最近指摘しているように、子どもは母親と父親を持つ権利があると言うのだ。(2014411日付国際カトリック児童局宛て書簡参照)

 

しかしながら、同性婚の人たちが子どもの洗礼を求める場合について、ほとんどすべての回答が、その子どもは他の子どもたちに与えられる保護、優しさ、配慮を同じように受けなければならないと強調している。多くの回答が、そのような状況ではさらに具体的な司牧的指導を受ける方がいいと指摘している。

 

わたし(記者)は、同性婚者が養子を取ることへのこうした危惧が理解できない。社会福祉担当者と話しても、明らかに、もっとも良い養育環境、養父母の中に多くのゲイ夫婦が入っており、特に子どもがトラウマを経験している場合はなおさらだと言う。したがって、別の家庭に他の子どもたちと一緒に置くことは、実際的ではないと言う。。

 

 

他方、この同性婚に関する箇所全体が、教会はより人間味のあるスタンスを求めていこうとしていると述べている点は否定しない。いくつかの点で、ゲイの人たちの尊厳の重視が確認されている。そしてこの文書は、アメリカ合衆国の一部の司教たちがとった立場とは相反する。その司教たちは、同性婚の子どもがカトリック校に入学することを禁じたのである。文書は次のように述べる:

 

「教会(教区)は、子どもや若者たちには両親の選択や生活状態に関して責任がないことをよく認識している。従って、子どもたちはどこでも、分け隔てなく尊重され、同じ愛、同じ心遣いで迎えられる。その子どもたちに提供されるキリスト者のための養成は、共同体の中の、他の子どもたちに対するカテケージスや司牧活動の取り組みと何ら変わらない。すなわちそれは、カテケージス(教理教授)、祈りの学校、典礼入門、様々な協会――中でもMCALA(ラテン・アメリカ幼少者宣教協会)、聖書研究会、聖歌隊、教区立の学校、教区主催のキャンプ、そして若者の諸グループなどである。」 (#149)

 

司教会議の参加者には、117項を深く心にとめることを期待したい。そこにはこう書かれている。「多くの回答と所見が、同性愛という現象についての多面的な見方を深めるために、人間科学との対話のうちに行われる神学的研究を求めている。」

 

わたしたちは、同性愛に関して、50年前には知らなかったことをたくさん学んできた。この「討議要綱」における同性婚の問題の扱いを見ると、そのような考え方は採っていない。しかし要綱を読む限り、書き手は、わたしがここまでで主張してきたように、この問題に関する教会の神学が、今となっては不適切であることを認識しているように思われる。

 

この文書は、今年の秋に開かれる臨時シノドスには、問題が山積しているであろうという事実を裏付けている。家庭生活の問題は、福音の宣言の中核をなし、欠かせないものだ。家庭生活は、わたしたちカトリック信者が理解するように、西洋の多くの文化の中で崩壊を余儀なくされている。そして今や、アフリカやアジアの一部のように、教会が急速に成長している地域が、それとは異なる課題に直面している。仮に読者が、アメリカ合衆国に問題があると考えるなら、この文書が繰り返して一夫多妻に言及していることに注目すべきだ!

 

この討議要綱でもっとも重要なことは、それがどのような過程を経て成立したか(まとめられたか)か、ということだ。この事実を見失ってはならない。その所見は、普遍教会の歴史におけるどのシノドスよりも幅広い意見集約と審議に基づいている。その審議はより幅広く、より深く掘り下げたものであったかも知れないし、またそうであったに違いない。今や、シノドスの体制が、この作業文書に提起されている諸問題について本物の議論を実現させるよう願い、また、聖霊が働く場所が残されていることを願わざるを得ない。

この文書は優れている。仮に一貫性に欠けるとしても、第一歩として認めたい。(完)

 


 

The Instrumentum laboris: First impressions

Michael Sean Winters  |  Jun. 26, 2014  NCR

 

The Holy See released the Instrumentum laboris for the upcoming Synod on the Family today. The document is long and will require more in depth analysis to be sure. But, a quick reading of the text this morning suggests that the document is uneven. Parts are provocative, parts are stale, and much of it could have benefited from greater input from the people being discussed.

 

For example, in paragraph #31 we read this:

Real-life situations, stories and multiple trials demonstrate that the family is experiencing very difficult times, requiring the Church’s compassion and understanding in offering guidance to families “as they are” and, from this point of departure, proclaim the Gospel of the Family in response to their specific needs.

 

Highlighting the real-life situations as the point of departure is noteworthy. If you are familiar with various catechetical materials on the market today, you will know that this is not always the point of departure. Some Catholic school books are all doctrine, all the time, which is bad pedagogy.

 

The text also has an entire section, paragraphs 20-30, on the natural law and its relation to the Church’s teaching on marriage and family life. The text states, “In a vast majority of responses and observations, the concept of natural law today turns out to be, in different cultural contexts, highly problematic, if not completely incomprehensible.”

 

Ya think? I have often heard some Catholic apologists invoke the natural law to explain Church teaching in such a way that if I were inclined to question Church teaching beforehand, I would find myself rejecting when the apologist is finished.

 

The document calls for a renewal of language in this area, but I think more than the language of natural law needs renewal. For starters, it would help if those who invoke the natural law use it, as they claim it can be used, to furnish the basis for a universal discussion of human values, instead of using it as a sledgehammer to beat other people over the head with.

 

The Instrumentem laboris spends a fair amount of text detailing the socio-economic pressures on families today. Paragraph 70 states:

All responses, treating the impact of work on the well-being of the family, make reference to the difficulty of coordinating the communal aspects of family living with the excessive demands of work, which require of the family a greater flexibility. The pace of work is fast and sometimes even exhausting, and work hours, often excessive, can sometimes include Sundays, all of which hinders the possibility of a family’s spending time together.

 

An increasingly hectic life leaves little opportunity for moments of peace and family togetherness.Some parts of the world are showing signs of the price being paid by the family as a result of economic growth and development, not to mention the much broader effects produced by the economic crisis and the instability of the labor market.

 

Increasing job insecurity, together with the growth of unemployment and the consequent need to travel greater distances to work, have taken their toll on family life, resulting in, among other things, a weakening of family relationships and the gradual isolation of persons, causing even greater anxiety. This could have used more of Evangelii Gaudium’s trenchant critique of modern market economies.There, Pope Francis said, “This economy kills” and it might be noted here that this economy can kill family life.

 

Still, the very next paragraph calls on the Church to work with the State and other public entities to enact laws that protect the family from the vagaries of the job market. I am sure that this section will cause some free-marketers a bit of agita. Good.

 

The document also squarely challenges the consumerism and hyper-individualism of some societies, and how these pathologies afflict family life. Paragraph 74 states:

 

In treating the cultural pressures on the family, the responses consistently mention consumerism, which is gradually focusing more on “what I have” rather than “who I am”. This consumer mentality, cited especially by respondents from Europe, is the driving force in the idea of “having a child at any cost” and the consequent methods of artificial fertilization.

 

Careerism and a competitive spirit are also pointed out as crucially affecting family life. Relegating life, faith and ethics to the private sphere is also noted, particularly in the West, to have a decisive effect. In other words, an individual’s conscience and free choice determines the ultimate value of whether something is good or bad. A culture based on the senses and immediate gratification is also having an influence.

 

In this regard, the words of Pope Francis on a tendency today to “waste” and “live for the moment only” come to mind, both of which, having a major impact on the fragile endurance of emotional relationships, are often the cause of deep discomfort and instability in family life.

 

There is a lot to unpack there, but the synod will be well advised to spend a good deal of time analyzing the corrosive effects of consumerism and hyper-individualism on family life in greater detail. When children know more about how to use the television clicker than how to gauge the emotional reactions of their siblings, when relationships hit a bump and one of the partners looks for the other’s “on/off” switch, when the hook-up culture explicitly and aggressively brings consumer attitudes into intimate relations, well, this is a culture that cannot sustain, let alone encourage, family life.

 

Most research on hookups has been focused on American college students, but hookups are not limited to college campuses. Adolescents, emerging adults, men and women engage in hookups for a variety of reasons, which may range from instant physical gratification, to fulfillment of emotional needs, to using it as a means of finding a long-term romantic partner. Media reaction to hookup culture has been dismissed as moral panic.

 

Much of the discussion about the synod so far has focused on the issue of divorce and re-marriage. This section of the Instrumentum laboris (Paragraphs 100 ff.) does a fine job of not pre-judging the issue. Obviously, many bishops want a stream-lined process for annulments, although the text notes that other bishops raise concerns about making the process too easy. As well, the text notes the relative absence of meaningful pastoral outreach to divorced and remarried Catholics. These paragraphs will generate more discussion which is precisely what is needed.

 

Paragraphs 110-120 treat the issue of same-sex relations. It is distressing to read that: The responses are clearly opposed to legislation which would allow the adoption of children by persons in a same-sex union, because they see a risk to the integral good of the child, who has the right to have a mother and father, as pointed out recently by Pope Francis (cf. Address to Members of the International Catholic Child Bureau (BICE), 11 April 2014 ).

 

However, when people living in such unions request a child’s baptism, almost all the responses emphasize that the child must be received with the same care, tenderness and concern which is given to other children. Many responses indicate that it would be helpful to receive more concrete pastoral directives in these situations.  

 

I do not understand this fear about same-sex adoption when, in my conversations with social workers, it is clear that many gay couples are among the best foster care and adoptive parents available, especially in situations where the child has experienced trauma and, so, placing him in a home with other children may be impractical.

 

On the other hand, there is no denying that this entire section on same-sex unions shows that the Church is trying to find its way towards a more humane stance. The emphasis on the dignity of gay persons is affirmed at several points. And the document clearly contradicts the position taken by some bishops in the U.S. forbidding the children of same-sex parents from attending Catholic schools. The text states:

 

Particular Churches are well aware that children or young people are not to blame for the choices and living situation of their parents. Consequently, children are welcome everywhere, without distinction with respect to others and with the same love and attention. The Christian formation offered to them is no different from the initiatives in catechesis and pastoral activities intended for the other children in the community, namely: catechesis; schools of prayer; introduction to the liturgy; associations, especially the Missionary Childhood Association in Latin America; biblical acting schools and church choirs; schools and camps; and youth groups. (#149)

 

It is also to be hoped that the synod fathers take to heart Paragraph 117: 

“Many responses and observations call for theological study in dialogue with the human sciences to develop a multi-faceted look at the phenomenon of homosexuality.”

 

We have learned a lot about homosexuality that we did not know fifty years ago. The Instrumentum laboris’ treatment of the issue of same-sex unions does not put it this way, but reading it, I think the authors acknowledge, as I have argued in these pages previously, that the Church’s theology on this issue is currently inadequate.

 

This document attests to the fact that the synod will have a lot on its plate when it meets this autumn. The issue of family life is central and integral to the proclamation of the Gospel and family life, as we Catholics understand it, has been permitted to deteriorate in many cultures in the West and now faces different challenges in those parts of the world where the Church is growing fastest, such as Africa and parts of Asia. If you think we have problems in the U.S., note the number of times the text refers to polygamy!

 

No one should lose sight of the fact that the most important part of this text is how it came to be. The observations are based on a wider consultation than has preceded any other synod in the history of the universal Church. That consultation could – and should – have been even wider and undertaken in greater depth. Now, we must hope that the structure of the Synod permits a real discussion of the issues raised in this working paper, and that there is room left for the Holy Spirit to do Her work too. This text is a good, if uneven, first step. (End)

 

 

2.  家庭シノドスへ・憐みと更なる配慮を

    イギリス The Tablet

 

 

世界代表司教会議第3回臨時総会

福音宣教の観点から見た家庭の司牧的課題

準備文書

バチカン市国 2013

 

 

Ⅰ シノドス:家庭と福音宣教

 

主イエスからその弟子に託された全ての被造物に対する福音宣教の使命は、歴史をとおして教会の中で継続してきている今日の世界における明白な社会的、霊的危機は、社会と教会共同体を構成する重要な要素である「家庭」の福音化という司牧上の課題を投げかけている。

家庭についての福音が、このような理由で、これほど緊急かつ必要であると叫ばれたことは、いまだなかったことである。この課題の重要性は、教皇が世界代表司教会議の招集を決定している事実に反映されている。会議は次の二段階に予定されている:

第一は、2014年の第3回特別総会で、それは“status quaestionis(実情の問題点)を定義するべく意図され、たしかな方法で家庭の福音を宣べ伝え、生きることの司教たちの諸経験と提案を集めるべく意図されている。第二は、2015年に開かれる通常総会で、個人と家庭の司牧ケアにおける実用的なガイドラインを検討する。

 

数年前までは耳にすることのなかった問題が、今日の様々な状況によって表面化している。

それは、結婚に至らない、時として結婚そのものを否定する「同棲」カップルの増加に始まり、同性間の結合、しかもその二人に養子が認められることも少なくない状況まで、さまざまである。

教会の関心と司牧ケアを必要とする多くの新しい状況には、次のようなものがある:

異宗教間の結婚、片親の家庭、一夫多妻または一妻多夫、後日に問題を残す新婦の持参金(その持参金は往々にして女性の購入代価とされる。)カースト制度(インドの世襲的階級; 僧・士族・平民・奴隷の四階級がある)。結婚の絆を一時的なものと考える文化。教会に敵意を持つフェミニズムの諸形態。「家庭」の概念の移行と歪曲。「結婚」の概念の相対主義的多元論。結婚と家庭生活に関する考え方に大衆文化のメディアが及ぼす影響。結婚の誓いの恒久性と忠実性を軽視する法案の思想の根本にある傾向。代理母出産の増加(子宮借用)。人権に対する新しい解釈など。

教会内では、結婚の秘跡性や、ゆるしの秘跡の癒しの力を信じることは、その人の弱さや、全面的な自己放棄のしるしと見做される。

 

以上のことから、問題の緊急性をよく理解できるだろう。世界中の司教が「ペトロと共に、ペトロの下に(”cum et sub Petro”)」協力してこれらの問題にチャレンジするよう求められている。たとえば、前述のような状況の結果として、親たちが聖体拝領する姿を見たことのない子どもたちや若者が大勢いることを思い起すだけでも、今日の状況における福音宣教への挑戦が、いかに緊急事態であるかを理解するのである。そのような状況は“global village”(地球村:通信手段などの発達で地球が狭い村のようになった)のあらゆる場所で見られるのである。

今日のこのような現実に対応する特別な方法としては、世界的に、また実存的状況の中で社会の片隅に追い遣られて苦しむ人々を思い、神のあわれみと思いやりの教えを広く受け入れることしかない。それ故、家庭に関して司牧上なされるべき決定に対しては、非常に大きな期待が存在するのである。シノドスにおけるこれらの諸課題についての考察に加え、さらに必要かつ緊急なことは、司教たちのケアに託され、人類家族全体が支えるべき人々に向けた、信者の本分としての愛(charity)の表現である。

 

Ⅱ 家庭と教会、家庭と福音

 

神の愛の福音は、男女の結びつきと、子どもの恵みを求める交わりという、人間の基本的な体験を生きる人々、すなわち、家族という共同体に向かって、宣べ伝えられるべきである。結婚についての信仰の教えは、明瞭で効果のある方法で示されるべきである。それによって人々の心に達し、彼らがイエス・キリストにおいて明らかにされた神の意思に従って変わるように。


この文書の中の、結婚と家庭についての聖書からの引用は、重要な部分のみである。このことは普遍的性格のものに限られる教導権文書からの引用についても同じで、それには、(家庭司牧を推進し、教会と社会における家庭の権利および尊厳を擁護する)「家庭評議会」からの文書引用も含まれる。シノドス参加司教が、その司教協議会からの引用をするときはそれぞれの裁量に任される。


どの時代にも、また様々な異なる文化の中でも、司牧者の教えは明白であり、信者の具体的な証し(証言)を欠くこともなかった。それぞれに多様な事情の中で―男も女も―彼らの人生と子どものために、この上なく大切な恵みとして家庭の福音を生きてきたのである。
次回の臨時総会のための準備文書(commitment)は、このメッセージを人々に強く、深く伝えたいという願いに触発され、支えられている。これは啓示憲章26「教会に委託された啓示の宝が人々の心をますます満たすように」との願いによるものである。

 

訳注:DV:「神の啓示に関する教義憲章」Constitutio Dogmatica de Divina Revelationeを略して 

「啓示憲章」(DV)とする。(これは「神の言葉」(Dei Verbum)で始まるので、その頭文字を

取ってDVと略する.) DV26の訳は南山大学訳による。

 

神の計画、創造主と贖い主

家庭についての聖書の美しいメッセージは、そのルーツを男と女の創造にもつ。男も女も共に神の似姿に造られた。(1:24-31; 2:4-25) 結婚する者は、固い秘跡の絆に結ばれ、結婚において、愛、父性、母性、そして神の創造のみ業に参加する至高の尊厳を体験する。

 

結婚の結束の恵みの中で、二人は人類の将来のための別の人間を育て、教育する責任をとることになる。生殖を通して、男と女は信仰において、創造の保護と人間家族の成長において、神の協力者としての使命を充たすのである。

 

使徒的勧告「贖いの秘儀の光のうちに」(Familiaris Consortio 1981)の中で、福者教皇ヨハネ・パウロ2世は、この局面について次のように述べている:

「神はご自分の似姿に人を造られた。(1:26, 27):愛を通しての存在に人を招きながら、神は同時に人を愛のために呼ばれた。神は愛である。(cf. 1 Jn 4:8 :愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。) そして神ご自身は神格的愛の交わり(personal loving communion)の秘儀を生きておられる。神はご自身の似姿に人類を創造され、その存在を保たせながら、男と女の人間性における使命(天職)とその能力と責任を、愛と一致において刻まれた。(Gaudium et spes, 12)それゆえ、愛は、全ての人間にとって基本的な、天賦の使命なのである。」

 

訳注:世界憲章12項「神の像である人間」参照。「神は人間を孤独なものとして造ったのではない。神は最初から「人間を男と女につくった。」(創世記 1:27)のであり、かれらの共同生活は人格的交わりの最初の形態である。人間はその深い本性から社会的存在であり、他人との関係なしに生活することも才能を発揮することもできない。」訳は南山大学訳による。

 

創造主である神のご計画は、原罪によって中断されたが ( 3:1-24)、選ばれた民の出来の歴史を通してそれを明らかにされた。時が充ち、(up to the fullness of time)神の子の受肉を以ってそれを明らかにされたのである。それは、約束された救いをもたらす神の意思だけでなく、その同じ意思によって恵みをもたらす贖いとして明らかにされたのである。

 

神の御子、御言葉は肉となり(ヨハ1:14) 乙女である母の胎内に宿られ、ナザレの家庭の中で成長し、カナの婚礼に立ち合い、その最初の「しるし」 (ヨハ2:1-11) を以って祝宴に重要性を加えた。喜びの内に、彼は進んで弟子たちの家に迎えられ (マコ1:29-31; 2:13-17)、肉親を失い悲しむベタニアの友人の家族を慰めた。(ルカ 10:38- 42; ヨハ11:1-44 )

 

イエス・キリストは、再び神の一つのご計画を示して婚姻の美しさを回復された。それはイスラエルの民の伝統の中でさえも、人間の心の頑なさのために放棄されていたのであった。(cf. Mt 5:31-32; 19:3-12; Mk 10:1-12; Lk 16:18) 始まりに立ち戻って、イエスは、相手の拒否と姦通の誤りを明らかにされて、夫と妻の一体性と誠実さを教えられた。

 

人間の愛の特別な美しさ―それは既に、雅歌が描き出す高揚感の中で祝福され、ホセアやマラキのような預言者が求め慈しんだ結婚の絆 (ホセア1:2, 3.3、マラキ2:13-16) によって祝福されているがまさにその美しさを通して、イエスは、男と女が結婚によって育む愛の根源的な尊厳を確かなものとされたのである。


家庭についての教会の教え:

初期の教会共同体においても、家庭は「家庭の教会」として現れている。(cf. CCC, 1655)        訳注:CCCThe Catechism of the Catholic Church

http://www.holyredeemerbray.ie/understand-faith-articles-blogs-parish/213-teaching-on-family

新約聖書の使徒書簡に示されたいわゆる「家族訓」の中では、古代世界の大家族は、夫と妻、親と子供、富裕者と貧困者の間の深い意味での連帯の場として性格付けられている。(エフェソ 5:21-6:9; コロサイ3:18-4:1; 1テモテ2:8-15; テトス2:1-10; 1 1ペトロ2:13-3:7; &フィレモンへの手紙参照)

訳注:In the so-called “family canons” of the Apostolic letters of the New Testament,

コロサイの信徒への手紙の中の、信徒の「家庭訓」:この手紙の前半は教理とパウロの使命について、後半は真の福音に従う教会と信徒の家庭訓を教える内容である。

http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/sinyaku.html
とりわけ、エフェソの信徒への手紙の中では、男と女の間の結婚の愛を、この世におけるキリストと教会の愛を示す偉大な神秘として認めている。(エフェソ5:31-32)

(「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。

わたしは、キリストと教会について述べているのです。 )

 

幾世紀もの間、とりわけ近代から現在に至るまで、教会は、その土台を築いた家庭と結婚について継続的に教え、その教義を発達させ、滞ることはなかった。その最高の表現は第2バチカン公会議の現代世界憲章Gaudium et spesに示されている。その第二部の「若干の緊急課題」では、社会を構成する家庭の大切さを述べて、一つの章全てを結婚と家庭の尊厳の振興に当てている。:「家庭は種々の世代が集まって、英知を深め、個人の権利を社会生活の種々の要請に調和させるよう互いに助け合う所であるから、社会の基礎である。」(GS, 52)


とりわけ心を打たれるのは、夫婦の信仰生活におけるキリスト中心の霊性へのアピールである。
「夫婦自身も、生きた神の似姿につくられ、人間の真の尊厳を持つものとして、同じ愛情、同じ考え、相互の聖化に一つにむすばれなければならない。こうして生命の原理であるキリストに従う者となり、喜びと犠牲を伴う自分たちの召命の中に、その忠実な愛を通して,生が死と復活をもって世に啓示した愛の秘儀の証人となるであろう。」(GS, 52)
2バチカン公会議の後、ペトロの後継者たちはこの結婚と家庭についての教えを豊かにした。とりわけ教皇パウロ6世は、特定の原理とガイドラインを示す回勅「フマネヴィテ」(人間のいのちについて)によってこれに寄与した。 


その後に、教皇ヨハネ・パウロ2世は、使徒的勧告Familiaris consortio (家庭 愛といのちのきずな)の中で、結婚の愛と家庭の基礎的真理における神の計画を示すことを強調した。
「その真理全体においてこの自己犠牲が可能となる唯一のは、結婚である。それは、自由に意識を以って選ばれる結婚の愛の誓約であり、それによって男と女は、神ご自身の意向である親密な共同体を受容する。」(cf. Gaudium et spes, 48) そしてそれは、この光の中にのみ、その真の意味を明らかにする。

訳注:48項「婚姻と家庭の聖性」(南山大学訳):「夫婦によって結ばれる生命と愛の深い共同体は、創造主によって設立され、法則を与えられた。それは結婚の誓約、すなわち撤回できない個人的同意を基礎とする。こうして配偶者が互いに自分を与え、受ける人間行為によって、神の制定による堅固な制度が教会の前にも生まれる。」

 

結婚制度は、社会または権力による不当な干渉ではなく、また一形態の付帯的な付加でもない。それはむしろ結婚の愛の誓約の内面的要件であって、創造主である神のご計画を完全に忠実に生きるために唯一の排他的関係として公的に確言される。この忠実さにより制限されることなく、人の自由は、あらゆる主観主義または相対主義に対して確保され、創造的知恵の分担者となる。」(FC, 11)

カトリック教会のカテキズムは、この教えの基本的側面を一つに集める。「結婚の契約によって一人の男と一人の女とが、いのちと愛とによる親密な共同体を形づくりますが、この結婚は創造主によって設立され、独自の法則を与えられています。結婚は本質的に夫婦の善益と子供の出産および教育とに向けられています。受洗者同士の結婚はキリストによって尊い秘跡にまで高められました。」[2バチカン公会議・現代世界憲章48;教会法1055参照] (CCC 1660).

 

このカテキズムによって示される教義は、(第2部第3章第7項の)「結婚の秘跡」(1601-1658)

及び(第22章第6項)「第6のおきて」(2331-2391) の、二つの別々な表題の下に展開された神学的原理と倫理的行動にふれる。このカテキズムの関係箇所を注意深く読むと、信仰の教義の最新の理解を得ることが出来、それは現代の挑戦に直面する教会の働きの助けとなる。
教会の司牧者は、神のご計画の一部としての結婚の真理にインスピレーションを見出す。神は男と女を創造し、時が満ちるとイエスにおいて、秘跡のレベルにまで高められた夫婦の愛の完全性が啓示する。互いの一致に基づいたキリスト教信者の結婚は、配偶者の善意と義務のような、自ずから生まれる効果が与えられる。同時に、結婚によって罪の効果から免がれるわけではない (3:1-24)、それは深い傷の原因や、秘跡の尊厳を傷つける原因となり得る。

 

教皇フランシスコの最近の回勅「信仰の光」(Lumen fidei)は、信仰が「人々の間に神が現存されるとき、その絆がどれほど固いものか」を、いかに啓示するか考察する文脈の中で、家庭について語っている。(LF, 50).

「信仰が人間の都市(human city)を啓発する最初の環境背景は家庭にある。わたしは結婚における男性と女性の安定した一致を第一に考える。この一致は、神の愛のしるしと現存としての彼らの愛の誕生であり、そして性的分化の善性の認知と受容のしるしなのである。それによって配偶者は一体となることができる。( 2:24) そして新しい生命に誕生を与えることができる。それは創造主の善性、知恵と愛の計画の明示なのである。
この愛の大地の上に立って、男と女とは、彼らの全面的な生活(いのち)に従事し、そして信仰の特色を映し出すジェスチャーの中で互いに相互の愛を約束できる。
我々が、自分の考えや見通しを超える大きな計画をさとる時に、永遠の愛を約束することは可能である。それは、我々が愛する方のために自分の将来を全面的に差し出すときに我々を支え、我々にそれを可能ならしめる計画である。」(LF, 52)


「信仰は、臆病者の逃げ場ではなく、我々の生活を高める何ものかである。それは我々に愛の使命である壮大な召命を気づかせる。それはこの愛が信ずるに足るものであり、抱く価値があることを保証する。なぜならばそれは神の忠実さに基礎を置いているからである。それは我々の全ての弱さを覆って余りある。( LF, 53)

 

 

 

3. シノドス準備文書(提題解説:アンケート) ・・・既報

 

 

Ⅲ 質問

 

下記の一連の質問は、個々の教会が臨時シノドスの準備に積極的に参加するためのものである。臨時シノドスの目的は、現代の家庭に向き合う司牧のチャレンジという文脈での、福音宣教にある。

 

1.聖書と教会の教導権における、家族に関する教えの普及

 

a) 聖書や現代世界憲章、使徒的勧告「家庭愛といのちのきずな」、その他公会議後の教導権についての文書に記載されている家庭の価値に関する教会の教えは、現代の人々にどう理解されているかを記述して下さい。家庭生活についての教会の教えに関して、どんな情報が人々に与えられていますか?

 

b) 教会の教えが知られている場合には、それは、十分に受け入れられていますか?

或いはそれを実践するのに困難がありますか。もしあるとしたら、それは何ですか?

 

c) 全国レベル、教区レベル、小教区レベルで、司牧プログラムの中の教会の教えは、どの程度広く知られていますか?

家庭についてどんなカテケージスがなされていますか?

d ) この教えは、どの程度までとりわけどんな側面が教会の外で実際に知られ、受け入れられ、拒絶される、あるいは批判されていますか?

家庭に関する教会の教えを十分に受け入れることを妨げている文化的要因は何ですか。

 

2.自然法による結婚

 

a) 自然法の考え方は、社会文化的領域、すなわち制度、教育、学界、および一般の人々の間で、どのような場を得ていますか? どのような文化人類学的な考え方が、家庭の自然原理についての議論の根拠になっていますか?

b) 男女の結びつきにおおける自然法の考え方は、受洗者に受け入れられるように、一般にも受け入れられていますか?

c) 男女の結びつきにおける自然法の理論と実践は、家庭の形成の観点からどのように挑戦されているでしょうか?

それは、世俗的制度と教会制度の中で、どのように提示され、発展しているでしょうか。

d) 教えを実践していないカトリック信者、あるいは信仰を否定している人が結婚の祝福を求める場合に、この司牧上の課題はどのように取扱われるのかを記述して下さい。

3.福音宣教における家庭の司牧的ケア

 

a) 結婚の準備に関して、ここ数十年間、どのような経験をしてきましたか?

夫婦と家族が福音宣教の務めを果たすために、どのような努力がなされていますか?

どのようにすれば、家庭が「家庭の教会」であるという気づきを広めることができますか?

 

b) 生活環境の複雑さや現代文化の中で耐えて信仰を守るため、家庭内での祈り方をどのように上手に提案できていますか?

 

c) 現在の世代的危機の中で、キリスト教信者の家庭は、信仰を伝えるという召命をどのようにして果たしてきたのでしょうか?

 

d) 地方の教会や、家庭の霊性の諸運動は、どのようなやり方で、模範となる行動の方法を生み出してきたでしょうか?

 

e) 夫婦およびその家族が、今日の夫婦やクリスチャン家庭という信頼に足る全体論的な考え方を広めるために貢献できる具体策は何でしょうか?

 

f) 教会は、安定した夫婦や危機的状況にある夫婦の支援に、どのような司牧ケアを行って来ましたか?

4.一定の困難な結婚生活の状況における司牧的ケア

 

a)  あなたの教会では、婚前同棲(cohabitation ad experimentum)は司牧上の現実課題になっていますか? その比率を概算できますか?

“ad experimentum”とは“実験的”の意味で、新しいことがらの試行期間を表します。

b) 宗教上、民法上、認められない結びつきがありますか?

信頼できる統計値が入手できますか?

 

c) 別居夫婦、および離婚後再婚した人々が、あなたの教会の司牧の現実になっていますか?あなたは、その比率を概算できますか?

あなたはこの状況を適切な司牧プログラムで処理するためにどのように扱っていますか?

 

d) これらのすべての場合において、受洗者はそのような変則的状況の中でどのように暮らしていますか? 

彼らはこの変則状況に気づいていますか? 単にそれには無関心なだけでしょうか?

彼らは、聖体拝領ができないことに差別感をもち、苦しんでいますか?

 

e) 離婚して再婚した人々は、教会に対して、聖体拝領の秘跡と和解の秘跡(告解)に関してどんな問題を提起していますか。このような状況にあるそのような人々のうち、何人がこられの秘跡を求めていますか


f )
 「結婚契約の無効宣言を認める教会法上の手続き」の簡素化は、関係者の問題解決に積極的な貢献をするでしょうか? もしそうなら、どんな形式をとるのがいいのでしょうか?

訳注: カトリック教会における婚姻の無効wiipedia):カトリック教会では、伝統的に信徒の婚姻関係は神の前で結ぶものであり、その解消、すなわち離婚はできないと教えてきた。それにも拘わらず特別な場合に限っては「婚姻の無効」が認められることがある。しかし、カトリック教会での「婚姻の無効」は「離婚」と同義ではない。つまり、「結婚が成立した上でその関係を解消する」離婚とは異なり、婚姻の無効は「結婚成立の時点へさかのぼってその是非を問う」からである。婚姻の無効を実質的な離婚の手段として濫用することは、カトリック教会における本来の意図から離れたものであるため、「婚姻の無効」は簡単には認められない。カトリックの伝統的な婚姻観は(旧約聖書の「創世記」にあるように)神の前で男女が一体になる」ものであることを示すものである。カトリック教会のカテキズム1629条には「このような理由により、カトリック教会は教会裁判所による厳密な審査のあとで婚姻の無効(婚姻関係そのものが成立していなかったということ)を判断することができる。その場合、婚姻の無効が成立した二人は自由に結婚することができる。」とある。カトリック教会の中でも、この婚姻の無効の成立によってその夫婦の間に生まれた子どもが正式な子どもと認められなくなるのではないかと危惧するものもあるが、教会法1137条は婚姻の無効が成立した場合でもその子どもは正式な婚姻の下に生まれたものとして認められるとしている。カトリック教会においての婚姻の無効の認定は、法的な離婚とは別種のものである。とはいっても教会が婚姻の無効を認めるほどのケースであれば、法的にも離婚が成立し、事実上離婚している場合がほとんどである。もし結婚しようとする者に、かつて結婚した事実を示すものがあるなら、カトリック教会ではその婚姻の無効が認められない限り結婚式をあげることができない。それはどちらかがカトリック教会でないところで結婚していた場合でもそうである。カトリック教会では、洗礼を受けたもの同士が自由意志によって婚姻の関係を結んだ場合、決して解消することができないとみなしている。

g) これらの事例の処理をする司牧は存在しますか? その司牧手続きを記述して下さい。全国レベルや教区レベルでのそのようなプログラムが存在しますか? 

教会は、別居者および離婚・再婚者に対して、神の憐れみをどのように宣言し、彼らの信仰の旅路においてどのような支援を行っていますか?

 

5.同性同士の結びつきについて

 

a) 貴国には、民法上、同性同士の結びつきを認め、それを何らかの形で結婚と同等と見なす法律がありますか?

 

b) 同性者の結びつきの合法化を推進する人、およびこの種の結合(訳注、以下同性婚)の当事者の双方に対し、あなたの教会、および個々の諸教会はどのような姿勢をとっていますか?

 

c) そのようなかたちで生きる選択をした人々に、どのような司牧的配慮を払うことができますか?

 

d) 養子をとった同性婚の場合信仰を伝えるという観点から司牧上何ができるでしょうか?

6.非正規の結婚における子どもたちの教育

 

a) 通常の結婚家庭で生まれ育つ子どもとの比較で、変則的な結婚の家庭で育つ子どもや青年の比率はどれくらいですか?

 

c) 同性婚の親をもつ子どもに対して、個々の教会は、両親の求める子どもへの信仰教育のニーズにどのように応じる試みをしていますか?

 

d) これらの場合の秘跡の扱いについて、準備や、秘跡の授与とそれに伴う事柄の手続きはどのようになされていますか?

 

7.いのちに開かれた結婚カップル

 

a) 今日、キリスト教信者は、責任ある親であることについて、パウロ6世の回勅フマネ・ヴィテ(Humanae vitae:人間の生命について - 産児制限について)の教えをどの程度知っていますか? 彼らは家族計画の様々な方法を道徳的に判断する方法を知っていますか?

この点に関して、司牧上何らかの洞察・識見を示唆できるでしょうか?

訳注:家族計画(family planning)は、家庭毎の、いつ・どれだけ子どもを持つかという計画をいう。主に避妊(birth controlcontraception)により行われ、人工的方法(避妊具、避妊薬、手術など)と生理的変化を利用した自然避妊方法とがある。教皇パウロ六世の回勅フマネ・ヴィテは 「きずなをはぐくむ側面と生殖にかかわる側面は不可分の関係にあり、両側面とも婚姻行為に内在します。神がお定めになったこの関係を人が恣意的に破壊することは許されません」と述べる:

b) この(フマネ・ヴィテの)倫理的教えは、貴地では容認されていますか?

この教えを容認する大多数の夫婦にとって、もっとも困難な側面は何ですか?

c) フマネ・ヴィテの教えを実践する配偶者たちを助けるために、個々の教会ではどのような自然な(避妊の)方法を推奨していますか?

 

d) 「ゆるしの秘跡」や「聖体拝領」の実践において、この(避妊の)テーマに関してどんな体験をしましたか?

 

e) この点に関して、教会の教えと一般の市民教育との間にどんな相違が見られますか?

 

f) 子どもを持つことへのもっと自由な態度(open attitude)はどのように養成できるでしょうか。出産を促進するにはどうしたらいいでしょうか?

 

8.家庭と、個人の人格との関係

 

a) イエス・キリストは、人間の人格の神秘と召命を明らかにしました。家庭は、どうすればこのことを実現する特権を与えられた場となることができるでしょうか?

 

b) 現代の家庭において、一個の人格とキリストとの出会いを妨害する危機的状況とはどのようなものでしょうか?

 

c) 人々が体験する多くの信仰の危機は、家庭生活にどの程度まで影響を及ぼしていますか?

 

9.その他の課題と提案

 

この他に、上記の質問の話題と関連するどんな課題と提案が緊急に処理すべきであり、また処理する価値があるとお考えですか?                            (以上)

家庭シノドスへのバチカン文書、憐みと更なる配慮を求める

2014/6/26 クリストファー・ラム <タブレット誌>

 

教会の教えに従えないカトリック信者は、あわれみを持って遇されるべきであるが、同時に、

教えの内容に関してよりよい教育を受ける必要がある。家庭に関する10月の臨時シノドス(世界代表司教会議臨時総会)に向けて、今日(2014/6/26)発表された新しい文書は、そのように述べている。

 

シノドス(世界代表司教会議)の作業用文書である「討議要綱」Instrumentum Laboris)は、たとえば、離婚して再婚した人たちや、同性婚をしている人たちの聖体拝領といった問題への質問に対する世界中の司教協議会からの回答を校合してきた。

 

注:世界代表司教会議では、「提題解説」(Lineamenta)と「討議要綱」(Instrumentum Laboris

とが示される。下記、カトリック中央協議会:シノドス(世界代表司教会議)と「提題解説」参照 

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/synodus/index.htm

 

バチカンが今日発表した長文の文書は、結婚と性に関する教会の教えを一層強化している。

 

来るべき司教会議が、たとえば、離婚して再婚した人たちに聖体拝領を許すことなどを含め、教会の教えの進展のきっかけとなるのではないかという期待が高まっていた。しかし、司教たちが一堂に会して行う討議の土台となるこの文書は、姿勢としては司牧的である一方で、教会の教えは必ずしも変える必要はなく、むしろ明確に伝えられる必要があると提言している。

 

家庭が、様々な角度から圧力を受けるようになっていることが特に懸念されているようだ。西欧の場合、その圧力は、快楽主義、相対主義、個人主義、虚無思想、そして刹那的な満足への欲望といったものが挙げられるが、一方アフリカやアジアの一部では、女性が子供を産めないという理由での一夫多妻や離婚が引き合いに出されている。この文書はまた、ジェンダー(性別)が社会の構成概念の一つであるとする「ジェンダー理論」を、婚姻関係に対するもう一つの脅威として、たびたび批判的に言及している。

 

同時にこの文書は、金銭上の制約への配慮も示している。それには適切な住宅の不足も含まれ、それが若いカップルの結婚を遅らせているとしている。そして教会に対しては、非正規婚の若者たちの手助けをし、ゲイ夫婦の子供たちを迎え入れる司牧プログラムを求めている。

 

文書は、カトリック信者が結婚に関する教会の教えを知らず、聖職者の中には、性に関しての教えを説明する心構えができていない者もあり、中には全く無関心な者たちもいると述べている。

 

こうした意識の低さは、結婚と性に関する教会の教えの哲学的土台となっている自然法に関して、特に明らかである。「自然」とは「自然本性がもたらすもの」であるといった信念に基づいて、自然法の概念についての理解を示すカトリック信者はほとんど居ない。文書は、西欧では、進化論、生物学、神経科学が、自然法は「科学的」ではないと主張している点も指摘している。

 

以下に挙げる教会の重要問題に関して、文書は次のように述べている。

 

結婚して再婚した人たちの聖体拝領

 

離婚して再婚した多くの夫婦は、自分たちが非正規婚であることを単に意識していないだけだが、一方の意識している人たちは、聖体拝領ができないという事実の故に「落ち込み、のけ者にされていると感じている。」

 

「他の罪は許されるのに、どうして自分たちの罪は許されないのかと思い悩む人たちもいる。また、修道者や司祭たちが誓願や聖職者の義務からの特別免除を受けて結婚ができるのに、どうして離婚し再婚したら聖体拝領ができないのか理解できない人たちもいる。」

 

しかし文書はこう述べる。これらの問題は「その問題に関する適切な配慮と情報が提供されることの必要性を浮き彫りにしている。」

 

しかしながら、教会が「新しいカップルに、より幅広いあわれみと思いやり、寛大さを示すこと」を求める各地の聖職者らの要望によって、この文書の論調は司牧的になっている。

 

文書こう続ける。「大きなあわれみの心によって、教会は、和解への道を歩むその子らのために『共に歩むもの』としてのありようを見つけることが求められている。教会は忍耐と理解を持って、これらの人々に、あなたたちが秘跡を受けられないことは、キリスト者の生活や、神との関係から閉め出されているのではないと説明しなければならない。」さらに文書は、婚姻無効宣言の手続きをより簡便に、より効率的にするよう、司教団の総意を暗に求めている。

 

同性のカップル

 

2003年の文書からの引用を用いていた間は、民法上の同性婚の夫婦を受け入れることに関する変更の可能性はまったくうかがえなかった。その文書は、当時教理省長官であったジョセフ・ラッツィンガー枢機卿によって書かれ、受け入れ反対についての教会の立場を説明している。

訳注:2003年8月1日CNN記事より「ローマ教皇庁同性間結婚に反対する指針を発表」

(以下抜粋)バチカンのローマ教皇庁は31日、同性結婚の法的権利を支持するカトリック系の政治家に対して「限りなく不道徳だ」と警告している。ヨーロッパや北米で同性愛カップルの法的権利を保障する法律が増えていることに危機感を抱き、バチカン教理省は31日、ヨハネ・パウロ2世の承認を受けた12ページに及ぶ指針を発表した。指針は「結婚は男女間の神聖なもの」とし、同性間の結婚を法的に認めることは「逸脱行為を承認するだけでなく、人類共通の遺産である基本的な価値を奪うものだ」と批判。カトリック系の議員に対して、同性間結婚に反対するように要請している。また、同性カップルが子どもを養子にすることは「子どもの成長を妨げる暴力だ」と記している。

 

しかし、今回の文書では意見の一致は見られないとの指摘はあるが、司教協議会は、ゲイの夫婦に対して「尊敬の念を持ち、裁くことはしない」という姿勢を見いだそうとしていると述べている。

 

産児制限

 

ヨハネ・パウロ2世の回勅フマネ・ヴィテは人工避妊の禁止を繰り返し述べているが、ほとんどの人は、この回勅の「肯定的側面」に気づいていない、と文書は言う。

「様々な避妊法の倫理的評価(否定)は、一般的には、夫婦の親密な生活への不当な介入として、また、良心の自主性の侵害として受け取られていることを、大多数の(アンケートの)回答が強調している。」と文書は説明する。

 

またこうも説明する。「夫婦は一般的に、避妊具の使用が罪であるとか、告解すべき問題とは考えない。(しかし、中絶に関しては正反対のの考え方である。)」

 

文書はこう結論する。「フマネ・ヴィテは、結婚準備のコースでもっとよく教えなければならない。また、医学的訓練を受けた人々との協力の下でなされなければならない。」

 

最後に、希望を抱けるしるしとして、文書は、若い人たちの間に、結婚して家庭を築きたいたいという昔も今も変わらぬ願いがあることを挙げている。

 

「これは、司牧の好機と見なすべき、真の時のしるしである。」と文書は述べている。

 

「福音宣教の観点から見た家庭の司牧的課題」をテーマとする世界代表司教会議の臨時総会は、105日から19日に開催され、世界各地の司教協議会の長たちが出席する。もっと多くの司教や参加者が集う通常総会は、一年後に開催される。

 

 

シノドス討議要綱(Instrumentum Laboris)の全文は下記参照。

http://www.thetablet.co.uk/UserFiles/Files/Instrumentum_Laboris_ENG_Synod_2014.pdf

 


 

http://www.thetablet.co.uk/news/927/0/-vatican-document-on-family-calls-for-mercy-and-better-formation-

 

Vatican document on family calls for mercy and better formation

26 June 2014 12:44 by Christopher Lamb “The TABLET”

 

Catholics failing to follow Church teaching should be treated with mercy but at the same time need to be better educated on its content, a new document released today in preparation for October’s Synod on the family states.

 

The Instrumentum Laboris – a working document for the synod of bishops – has collated the responses from bishops’ conferences from across the world to questions on issues such as communion for the divorced and remarried and same-sex couples.

 

The lengthy document, released by the Vatican, strongly reinforces Church teaching on marriage and sexuality.

 

Hopes have been high that the forthcoming synod could lead to a development in Church teaching including, for example, on allowing communion for the divorced and remarried. But this document, which will provide the basis of the bishops’ discussions when they meet, suggests that while the approach will be pastoral Church teaching will not necessarily shift and instead needs to be better articulated.

 

It seems particularly concerned that the family is coming under pressure from a variety of angles. In the West these are listed as hedonism, relativism, individualism, transiency and the desire for immediate gratification while in Africa and parts of Asia polygamy and divorce on the grounds of a woman being unable to have children are cited. The document also makes frequent critical references to “gender theory”, the idea that gender is a social construct, as another threat to marriage.

 

At the same time the document shows a sensitivity to financial constraints – including a lack of suitable housing – that lead younger couples to delay getting married and calls on the Church to develop pastoral programmes to help those in irregular marriages and to welcome the children of gay couples.

 

It says that knowledge of the Church’s teaching on marriage is lacking among Catholics and that some clergy feel unprepared to explain teaching on sexuality while others express indifference.

 

This ignorance is especially evident when it comes to natural law, the philosophical underpinning of the Church’s teaching on marriage and sexuality. Very few Catholics demonstrated an understanding of the concept with some believing that “natural” meant “what comes naturally.” It also pointed out that in the West evolution, biology and neuroscience argue that natural law is “not scientific.”

 

On the following hot-button issues in the Church, the document had this to say:

 

Communion for divorced and remarried

 

A number of divorced and remarried couples are simply unaware of their irregular union, the document says, while those who are aware “feel frustrated and marginalised” due to the fact they are unable to receive communion.

 

“Some wonder why other sins can be forgiven and not theirs,” it says. “Others cannot see how religious and priests can receive a dispensation from their vows and priestly obligations so they can marry, while divorced and remarried persons are unable to receive communion.”

 

But the document states that these questions “highlight the necessity of providing suitable formation and information on the matter.”

 

At the same time, however, the tone is pastoral with a request from local hierarchies for the Church to “more widely exercise mercy, clemency and indulgence towards new unions.”

 

It goes on: “With great mercy, the Church is called to find forms of “accompaniment” which can support her children on the path of reconciliation. With patience and understanding, she must explain to these people that their not being able to celebrate the sacraments does not mean that they are excluded from the Christian life and a relationship with God.”  Furthermore, the document implied a consensus among bishops to make the annulment process easier and more efficient.

 

Same-sex couples

 

There was no hint of a shift on accepting gay civil unions with a quote used from a 2003 document explaining church opposition to this written by the then Cardinal Joseph Ratzinger when he was Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith.

 

Bishops’ conferences, however, say they are trying to find a “respectful, non judgemental” attitude to gay couples although the document points out there is no consensus. It stresses that gay couples should be given support “in the same manner as for any other couple” when seeking baptism for their child. The offspring of homosexuals must also be greeted with the same “tenderness and concern which is given to other children.”

 

Contraception

 

The document states that the vast majority are unaware of the “positive aspects” of Humanae Vitae - Pope Paul VI’s encyclical reiterating the ban on artificial contraception.

“A vast majority of responses emphasise how the moral evaluation of the different methods of birth control is commonly perceived today as an intrusion in the intimate life of the couple and an encroachment of the autonomy of conscience,” it explains.

 

It also says that couples do not generally consider the use of contraception to be a sin and a matter for confession (the opposite, however, is believed about abortion). 

 

Humanae Vitae, the document concludes, must be made better known in marriage preparation courses and this should be done in collaboration with those who are medically trained.

 

Finally, as a sign of hope, the document points to the continued desire among young people to marry and start a family.

 

“This is a true sign of the times which should be seen as an opportunity for pastoral ministry,” it states.

 

The Extraordinary General Assembly of the Synod of Bishops on the theme of “Pastoral Challenges of the Family in the Context of Evangelisation” takes place on 5-19 October and will be attended by presidents of episcopal conferences from across the world. An Ordinary General Assembly with a greater number of bishops and participants will take place a year later.

 

 

To read full text of the Instrumentum Laboris:

http://www.thetablet.co.uk/UserFiles/Files/Instrumentum_Laboris_ENG_Synod_2014.pdf

 

以上

 

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