「この世に目覚めを!」
教皇フランシスコ、修道生活を語る
原文:La Civilta Cattolica 2014.3.17 by Antonio Spadaro, S.J.
イタリア:「チビッタ・カトリカ」誌 2014.3.17、記録:アントニオ・スパダロS.J.
英訳:Fr. Donald Maldari S.J.
2013年11月27日~29日、バチカン、新シノドス・ホールでの男子修道会総長連合第82回総会の席上、
修道生活について交わされた教皇フランシスコとの対話。1
教皇フランシスコが即興で語ったり対話をしたりするときには、その話し方に、波打つような一定のリズムがある。注意深くそれを追ってみるのもよいだろう。なぜなら教皇の対話は、相手と共に体験する生き生きとした関係に養われているからである。教皇が語る内容だけでなく、そこに創造される関係のダイナミズムにも注意を払わなければならない。
これは、教皇が男子修道会総長連合第82回総会の最後に行った対話の記録である。1
わたしはその席に加わって対話のメモを取った。3時間の集会での、活発でのびのびとしたトーンを失わないように、できるだけその内容の豊かさを表現したいと思う。教皇は集会の途中30分ほど、参加者たちの間を巡り、総長一人一人に挨拶をしてまわり、肩の張らない打ち解けた雰囲気でくつろいだ。
実のところ、総長たちは教皇を歓迎する短時間の集会を求めていたのだが、教皇は午前中のすべての時間を総長たちと過ごしたいと望んだ。
しかしながら教皇は、自分が講演することも総長たちが準備した意見表明を聞くこともしないと決めていた。教皇が望んでいたのは、Q&Aによる率直で自由な会話であった。
9時25分になった。カメラマンたちが到着し、それがバチカンのシノドス新ホールへの教皇の入場が迫っていることを知らせた。そこには、約120人の総長たちが教皇の入場を待っていた。
修道者:それは罪人であり、また預言者でもある
拍手で迎えられた教皇は、正確に9時30分に席に着き、時計を眺め、自分が「スイス的」に時間を厳守できたことを褒めた。そこで皆は大笑いした。教皇はスイス人のマウロ・ヨーリ神父への挨拶を送ったのだ。ヨーリ神父は小さき兄弟のカプチン会総長で、総長連合副議長に選出されたばかりだった。
議長でイエズス会総長のアドルフォ・ニコラス神父と、事務局長でコンボニ宣教会士のデヴィッド・グレンディ神父から短い歓迎の言葉があり、続いて教皇フランシスコが、簡単、かつ丁重に招待への謝辞を述べた。その後、最初のグループの質疑がすぐに始まった。
修道者たちは、特に修道者のアイデンティティと使命について質問した。「修道生活に何を期待するのか? わたしたちに何を求めるのか? 仮にあなたが我々の立場にいたら“最前線に行け、恐れずに(sine glossa) 福音を述べ、福音的預言職を生きよ”というあなたの呼びかけにどう応えるだろうか? わたしたちはあなたの呼びかけから何を聞き取ればいいのか?」
そして更にこう訊ねた。「いま大切なことは何か? 優先すべきことは何か?」
教皇フランシスコは、自分も修道士であり、従ってその経験から修道士たちがどんなことを話し合っているか知っていると語り始めた。2 修道会出身で一番最近の教皇は、カマルドリ会士のグレゴリオ16世で、1831年に選出されている。教皇フランシスコは、ここでベネディクト16世に言及した。「彼は、教会の成長は証しによるものであり、改宗者を増やすことではないと言っています。本当に人々を惹きつける魅力ある証しとは、非凡な姿勢と結びついた証しです。非凡な姿勢、それはすなわち他者を愛するための寛大さ、孤立、犠牲、自己放棄です。これが、証しであり、修道生活における“殉教”です。それは人々の心に“警鐘を鳴らし”ます。修道者はその生活で人々に語るのです。」
「何が起きているのでしょう?」彼ら(修道者たち)はわたしに何かを告げてくれる!彼らはこの世の地平を越えて行く。教皇はさらにベネディクト16世の言葉を引用し、「このようにして、修道生活者は、その魅力によって教会の成長を促進しなければなりません。」3
それ故に、「教会は魅力的でなければなりません。この世を目覚めさせましょう!物事の異なるやり方、異なる行動のし方、異なる生き方の証し人になってください。この世で、別な生き方を選ぶことは可能です。わたしは、終末論的な物の見方について、この地上に受肉した神の国の価値について話しているのです。これは、すべてを捨てて主に従うことに関わる問題です。わたしは“過激になれ”と言いたい訳ではありません。福音的な過激さは修道者だけのものではありません。全ての人に求められものです。しかし、修道者は特別なやり方、預言者的なやり方で主に従うのです。わたしがあなた方に期待するのは、このような証しです。修道者は男であれ女であれ、世界を目覚めさせることが出来なければなりません。」
教皇フランシスコは、既に触れた概念に話を戻し、それらをさらに深めていった。彼はこう続けた。
「あなたがたは、それぞれ違う行いや振る舞いによって、真の証し人とならねばなりません。しかし、生活していく上では、すべての物事について明快に、正しく、きちんと輪郭を描くことは困難です。人間の生活は複雑で、神の恵みと罪とが混在しています。罪を犯さない者は人間とはいえません。わたしたちは皆間違いを犯しますし、自分の弱さを認めなければなりません。自分が弱く、罪人であると認める修道者は、自分がなすべく呼ばれている証しを否定することなく、一層それを増大させます。これがすべての人の役に立つのです。従って、わたしがあなた方に期待するのは、証しすることです。わたしは、修道者に対して特別な証しを求めています。」
原理主義を避け、未来への道を照らしなさい
教皇フランシスコは、なおも最初の質問に応えて、自分の思考のキーポイントの一つに触れた。「わたしは一つのことを確信しています。歴史の大きな変化は、現実を見る視点が中心部からではなく辺縁の側に移ったことによって実現したのです。それは聖書解釈の問題です。
現実を理解できるのは辺縁から見たときです。わたしたちの視点がすべてから等距離にあるときではありません。現実を本当に理解するためには、穏やかで平和な中心部から離れ、辺縁地域に身を移すことが必要です。4 辺縁地域に身を置くことは、よりよく見て理解し、現実をより正確に分析し、中央集権主義と観念的アプローチを回避するのに役立ちます。」
従って、「宇宙の中心に居るというのは良い戦略ではありません。ものごとを理解するためには、動き回り、様々な視点から現実を見なければいけません。5 わたしたちは考えることに慣れなければいけません。わたしは、イエズス会の総長であったペドロ・アルペ神父の書簡を良く例にあげます。それは、社会.・行動と研究センター<The Centros de Investigacion y Accion Social (CIAS) >に宛てた書簡です。その中で、アルペ神父は貧しさについて話し、時には貧しい人々と実際に接することが必要であると述べています。これはわたしには大きな意味を持っています。体験によって現実をよく知ることの必要性、すなわち人々の現実と生活体験を理解するために、辺縁地域を歩くことに時間を費やす必要性です。これがなければ、わたしたちは現実とかけ離れた観念論者か原理主義者になる恐れがあります。それは健全なことではありません。」6
訳注: ペドロ・アルペ(Pedro Arrupe、1907 - 1991) スペイン生まれのバスク人カトリック司祭、イエズス会第28代総長 (1965 -1983年) 。元上智大学教授。真珠湾攻撃の日は日本では無原罪の聖母の祝日であり、アルペはミサ後に投獄された。アルペは「我らの今日の使命: 信仰への奉仕と正義の促進」で信仰と並んで社会正義の促進を掲げた。1977年エルサルバドルで解放の神学に携わり活動していたイエズス会士が暗殺の脅威に曝されたときアルペは彼らと相談した上で「彼らは殉教者となろうとも、わたしの司祭たちはこの国を離れないだろう。人々と共にあるからだ。」と語った。
そのため教皇は具体的な課題、すなわち若者の司牧(使徒職)にこだわりを見せる。「若者と共に働く人々は、宗教のパンフレットにあるような教条的な表現に甘んじていてはいけません。若い人たちにとって、そんな言葉は左の耳から入って右の耳から出て行ってしまいます。わたしたちには、新しい言葉、新しい物の言い方が必要なのです。今日、神はわたしたちに次のようなことを求めています。派遣されるために、わたしたちを包み込んでいる「巣」を後にすること。そして修道院で奉献生活を生きる人は、福音が成長するように、祈りの中で同様の内的緊張を生きることです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ:16:15)という福音の命令を達成するためは、この御言葉の解釈のポイントを、実存的(人間的)かつ地理的な辺境に移すことが必要です。これが、辺縁に置かれた人々のもとに向かわれたイエスに倣う最も具体的な方法です。イエスはそれら全ての人々を訪れました。本当に全ての人々のもとへ・・・。わたしは辺縁の地に行くことを不安には思いません。あなたがたも、だれかに手をさしのべることに不安を感じてはいけないのです。
では、奉献生活で一番大切なことは何だろうか。教皇は次のように答えた。
「神の国を預言することです。神の国は交渉や妥協の対象ではありません。強調されるべきは預言者であること、真似事でない真の預言者になることです。当然、悪魔は誘惑の手を差し伸べてきます。その一つは「一見、預言者のように振舞う」ということです。しかし、このようなことを見せかけで取り繕うことはできません。わたし自身、このような悲しむべき例を見てきました。いいえ、修道者は未来への道を照らす人々(男女)なのです。
教皇フランシスコはCiviltà Cattolica誌のインタビューで、修道者は預言者として生きるように呼ばれているとはっきり述べている。これは修道者にとって特別な召命です。
「修道者たちの特別の召命とは、先ずイエスがこの地上でどのように生きたのかを示す預言者になること、そして、神の国が完全に実現するとはどのようなことかを宣言することです。修道者は、決して預言を放棄してはなりません。アボットの聖アントニオ以来の多くの偉大な聖人たち、修道僧、そして修道者と修道女が成し遂げたことを考えてみましょう。預言者であるということは、時には波風を立てるという意味を含むかも知れません。何と言ったらいいでしょうか……預言者は、不快な雑音を立て、騒ぎを引き起こします。それを『混乱(mess)』と言う人もいます。しかし実際には、修道者のカリスマはイースト菌のようなものです。預言者は福音の精神を告げ知らせるのです。」7
訳注:Civiltà Cattolica誌のインタビュー: 2013年8月に行われたイタリアのイエズス会士による教皇独占インタビュー。「学び合いの会・海外ニュース」263、264、266号で3回に分けて全文を配信済み。
では、どのようにしたら、修道者として自らの特有なカリスマを生きる預言者になれるのだろうか? 教皇フランシスコにとっては、「修道生活の制度(秩序)を大切にし、使徒職を果たそうとして修道会を混乱させないこと」が必要だという。「前者(制度)は永続するが、後者(働き)は消え去っていきます。」さらに教皇は続けて「カリスマは永続するものです。カリスマは強固です。しかし働きは消え去るものです。時には、修道会の制度とその働きが混乱を生むことがあります。修道会の制度は創造的で、常にはけ口を求めています。このようにして、辺縁部もまた変化し、そのたびに別のチェック・リストが造られることになるでしょう。」
「カリスマはビン入りの蒸留水ではない」
ここで質問は「召命」というテーマに集中した。わたしたちは、教会が人文地理学的に大きく変化して行く様子を目の当たりにしている。そのような変化は修道会でも起きている。
アフリカとアジアでは召命が増加しており、それだけで召命の総数の大部分を占める。このことのすべてが一連の問題点を生んでいる。すなわち、カリスマのインカルチュレーション(土着化)、召命の識別と志願者の選別、諸宗教間の対話の試み、修道会の管理組織におけるより公正な代表選出制度の検討、もっと一般的には、教会組織におけるより公正な選挙制度の検討である。教皇は、この状況に対する指標を示すよう求められた。
教皇フランシスコは、地理的な面で修道生活に多くの変化が起きていることは十分認識しているとして次のように語った。
「すべての文化は主に必要とされる可能性があり、その主は、世界のある場所に、他よりも多くの召命の種を播くことも自由にお出来になります。最も若い教会に召命を送ることで、主は一体何を告げようとされているのでしょうか?わたしにはわかりません。しかし、わたしはそれを自分に問いかけます。あなた方も問わねばなりません。どうやら主のご意思はこのすべての内にあるようだからです。新しい実りを結びつつある教会があります。ことによると、一時はそれほどでもなかったかも知れませんが、今は豊かな実りを結んでいます。
勿論それによってカリスマのインカルチュレーションをもう一度考えなおす必要が生まれます。カリスマは唯一のものですが、聖イグナチオがよく言っていたように、それは場所、時、人に応じて生かされる必要があるからです。
カリスマは瓶に入った蒸留水ではありません。それは、文化に応じた新たな解釈のもとで、活力に満ちて生かされる必要があります。しかし、このやり方には失敗や誤ちを犯す危険が伴います。リスクがあるのです。必ず、確実に、疑う余地なく、わたしたちはいつも誤ちを犯します。
しかし、だからと言ってそこに留まっていてはいけません。その場合はいっそう悪い誤ちを犯してしまう危険があります。実際、わたしたちはいつも赦しを求め、勇気がないために使徒的使命を果たせなかった数々の失敗を恥じ入りながら思い返す必要があります。たとえば、マテオ・リッチの先駆者的な直感のことを思い出して下さい。当時その発想は粉々に砕かれてしまったのです。」8
訳注: マテオ・リッチ(Matteo Ricci、1552 - 1610)は、イタリア人イエズス会員・カトリック司祭。中国名は利瑪竇(Lì Mǎdòu)。フランシスコ・ザビエルの夢見た中国宣教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷において活躍した。中国にヨーロッパの最新技術を伝えると共に、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となった。
原注より: 中国でのイエズス会員たちは、福音の宣言を現地の文化や祭式に適合させようと試みた。しかし教会内部からは、こうしたアプローチはキリストのメッセージを誤る恐れがあるとの声が上がった。預言者的な試みは通常の解釈を超える要素を含むため、受け入れられないのが常である。
「わたしは、慣習の民俗的適応のことを言っているのではありません。— と教皇は続けた —それは、精神構造の問題、ものの見方の問題です。たとえば、抽象的でなく具体的にものごとを考える民族があります。あるいは、少なくとも西洋とは違うタイプの抽象思考を受け継ぐ民族があります。わたし自身も、アルゼンチンのイエズス会管区長だったとき、この相違を経験しました。今でも覚えていますが、或るイエズス会の兄弟とわたしが会話するとき、日常生活の簡単な話題でさえ、互いにどれほどのエネルギーを費やしたことでしょう。彼は、グアラニ―族の住む地域出身でした。グアラニ―族は、非常に具体的なものの考え方をする人たちなのです。」
訳注:グアラニー族 (Guaraníes): アメリカ州の先住民族の一つで、主にパラナ川からパラグアイ川にかけてのラ・プラタ地域(現在の地域でアルゼンチン、ボリビア東部、パラグアイ、ウルグアイ)と、ブラジルに住んでいたが、純粋な民族としてはほとんど絶滅し、グアラニー語を話せる者の多くはメスティーソ(白人との混血)になっている。
「わたしたちは、勇敢に生き、これらの挑戦に立ち向かう必要があります。それが重要な課題への挑戦ならば、なおさらのことです。結局のところわたしは、彼または彼女の人生、経験、感性、そして文化的な背景を考えることなしに、一人の人間を修道者に養成することはできません。これが進むべき道です。これが、偉大な修道会のたどった道です。」
「スペイン人のイエズス会士、セグンド・ロレンテの類いまれな冒険が頭に浮かびます。
彼はアラスカで粘り強く観想的な宣教を行った人です。彼はそこの民族の言葉ばかりでなく、具体的な考え方も学びました。このように、カリスマのインカルチュレーションは大変重要なことであり、決してカリスマを相対化するという意味ではありません。」9
「わたしたちは、カリスマを硬直化、固定化させてはいけません。自分たちの文化を規範にするなら、それはカリスマを殺すことになります。」と教皇はきっぱり結論づけ、「様々な文化の人々を、修道会や宣教会の中央組織に導き入れ、その人たちがカリスマの多様な生き方を示してくれる」ことの必要性を示唆した。
教皇フランシスコは「召命の掘り起こし」の面からも、若い教会が直面する危険を確かに理解している。教皇はとりわけ1994年の「奉献生活と宣教に関する通常シノドス」の際、フィリピンの司教団が「修練者貿易(novice trade)」を批判したことを思い起こした。「修練者貿易」とは、召命者を集め、後にヨーロッパに移動させる目的で、フィリピン諸島に修道院を開設する外国の修道会が集中したことを指す。「そのような状況を、目を見開いてしっかりと見守る必要があります。」と教皇は述べた。
教皇は兄弟たちの、もっと一般的に言うと司祭でない修道士たちの召命についても時間を取った。教皇は、この特別な召命への適切な認識が未だに十分深まっていないことへの不満を述べた。教皇は、これまで一度も出されたことがないこれに関連する文書に言及し、その再検討を示唆した。その文書が出来あがれば一層満足のいく考察が促進されるだろう。
ここで教皇は、集会に出席していた奉献・使徒的生活会省長官ジョアン・ブラス・ジ・アビス枢機卿と同省の次官ホセ・ロドリゲス・カルバッロ大司教に合図を送り、この問題の検討を要請した。そして教皇はこう結論づけた。「実はわたしは、司祭でない修道士たちの間にある召命の危機が、この召命が既に終わったものだと告げる“時のしるし”ではないと信じています。むしろわたしたちは、神が何を求めているのかを理解すべきです。」
教皇は、修道会の長上(指導者)としての兄弟たちに関する質問に対しては、「これは教会法上の問題なので、そのレベルで取り扱う必要があります。」と答えた。
志願者の養成は芸術的な(熟練を要する)仕事であり、規律至上主義ではいけない。
そのあと、教皇フランシスコは養成についてのいくつかの質問を受けた。教皇はその場で自分が優先する課題を示して次のように述べた。「志願者の養成は基本的な課題です。養成には四つの柱があります。それは、霊的、知的、共同体的、使徒的の四つの柱です。闘うべき亡霊は、修道生活に対する間違ったイメージ、すなわち修道院の「外」に存在する困難で複雑な世界から逃れる場所、隠遁する場所というイメージです。四つの柱は、修練に入った最初の日から統合的に示されるべきもので、順を追って示されるものではありません。四つの柱は相互に作用し合うものだからです。」
教皇は、今日における養成の問題が困難な課題であると認識している。「文化は、わたしたちが何年も前に体験したよりも、日々豊かに、また複雑になっています。わたしたちの時代には、文化はもっと単純で秩序のあるものでした。今日のインカルチュレーションは、それとは異なる向き合い方が求められています。たとえば、あれとこれとはしてはいけないと禁じるだけでは、問題は簡単には解決できません。対立だけでなく対話が必要です。養成施設のなかには、問題を回避するため、若者たちが歯を食いしばり、誤りを犯さないよう努め、笑みをたたえて規則に従い『よろしい。養成は終了した』と言われる日をただ待っているところもあります。これは、聖職者主義がもたらす偽善であり、もっとも厭うべき罪悪の一つです。わたしは、同様に昨夏(2013.7)リオデジャネイロで開かれたラテンアメリカ司教会議(CELAM)で、司教団に次のように申し上げました。『わたしたちは、修練院や神学校におけるこの聖職者主義の傾向を克服する必要があります。』わたしが若い頃に受けたある忠告で、話をまとめようと思います。『もし君が出世したいなら、明快に考え、曖昧に話せ。』これは明らかな偽善への招きです。わたしたちは、何としてもこれだけは避けなければなりません。」
実のところ、教皇はリオデジャネイロで、聖職者主義は神の民の間にある「成熟不足とキリスト教的自由の欠如」の原因の一つであると指摘している。10
そしてこう続ける。「もし神学校が大きすぎるなら、担当する共同体に同伴する能力を真に備えた養成者がいる小さな組織に分割すべきです。対話は真剣で、恐れることなく、誠実に行われなければなりません。今日養成される若者たちの言葉が過去のそれとは違うことを想起することは大切です。わたしたちは画期的な変化の中に生きているのです。養成は芸術的な仕事であって、警察的行為(規律と秩序の維持)ではありません。わたしたちは修練者たちの心を養成しなければなりません。そうでなければ、わたしたちは小さな怪物を作り出してしまいます。そしてその小怪物たちが神の民を型にはめ込んでしまう。本当に考えるだけでも鳥肌が立ちます。」
それから教皇は、養成の目的を個人の成長のみに置くのはなく、その最終目標である「神の民」を視野に入れなければならないと主張した。養成期間中、自分が派遣されるであろう相手の人々について考えることが大切だというのだ。「わたしたちは、いつも信者のこと、神の忠実な民のことを考えなければなりません。修練者はイエスの復活の証人になるように養成されなければなりません。養成担当者は、修練者が神の民の世話をするように呼ばれることを心にとめておくべきです。わたしたちは、いつも、あらゆる点で、神の民のことを考えなければなりません。例えば、酢のように酸っぱい(気難しい)心を持つ修道者を思い浮かべてみてください。そのような修道者は、人々のための修道者にはなっていません。結局のところ、わたしたちは管理者、経営者ではなく、父親、兄弟、旅の同伴者を養成しなければならないのです。」
最後に教皇フランシスコは、さらなる危険を強調することを望まれた。「養成に関わるトラブルにより、あるいは重大な理由により、以前に修道会を去るよう求められた若者を(再び)受け入れることは、非常に大きな問題です。わたしは、自分が罪人であると認めている人々のことを話しているのではありません。わたしたちはみな罪人ですが、誰もが堕落しているわけではありません。罪人は受け入れられますが、堕落している人々は受け入れられないのです」。ここで教皇は、ベネディクト16世が性的虐待の問題に対処するために行った重要な決定を思い起こして次のように述べた。「わたしたちはこれを、個人の養成に当たる者はそれが重大な挑戦であることを意識し、いつも神の民のことを心にとめて取り組む勇気を持つようにという教訓にしなければなりません。」
「争いを静め」兄弟と共に生きる
新しい福音宣教に関するシノドスは、修道者が兄弟的生活を通して、福音の持つ「人々を人間らしくする力」の証し人となるようにと求めた。この呼びかけからヒントを得て、修道者は、兄弟として共に、いかにして生きるべきかについての質問が、教皇に問いかけられた。「わたしたちは、共同体の生活の誓約と共に宣教使命の誓約をどうすれば守れるのか。わたしたちは、個人主義に向かう傾向とどうすれば闘えるのか。わたしたちは、困難に陥っている兄弟、あるいは争いに留まるか争いを生み出す兄弟に対して、どのように振る舞うべきか。難しい事例の場合、正義とあわれみをどうやって結びつけるのか。
訳注: 「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」をテーマにした「世界代表司教会議(シノドス)第13回通常総会」は、2012.10.7~28開催。ここで採択された「提言」のうち「奉献生活」の部分を下に引用する。
------------------------------------------------------------------------------
提言50:奉献生活
男女の奉献生活は、歴史を通じて教会の福音宣教活動にきわめて重要な貢献を行ってきた。新しい福音宣教の時代にあたって、シノドスは奉献生活者と在俗会の会員に、奉献された者としての身分を徹底的に、かつ喜びをもって生きるよう願う。生活のあかしは、神の国の力強い宣教となる。それは、神が第一に優先されるべきことを示し、共同生活を通して福音のもつ人々を人間らしくする力を表すからである。
奉献生活は、完全に福音的かつ福音宣教的であり、教会の司牧者と深く交わり、信徒と共同責任を担い、それぞれのカリスマに忠実であるとき、新しい福音宣教に大きな貢献を果たす。
シノドスは修道会に対して、福音宣教の地理的、社会的、文化的前線に進んで赴いてくれることを願う。シノドスは修道者に対して、宣教の新たな「アレオパゴス」に向かうよう願う。
新しい福音宣教は本質的に霊的なものなので、シノドスは福音を伝えるための観想生活の重要性も強調する。
祈りと労働を安定した共同体生活を通して行う、歴史の古い奉献された観想生活の伝統は、教会生活と宣教の力強い恵みの源泉であり続ける。シノドスは新しい福音宣教が、多くの信者にこの生活形態を始めるよう促すことを希望する。
教皇フランシスコは、その前日テゼの小修道院長のブラザー・アロイと会って話したことを詳しく述べた。「テゼにはカトリック、カルビン派、ルター派などの修道士が居ます。彼らは皆、一緒に真の兄弟生活を送っています。彼らは、若い人々にとって使徒の役割の感動的な模範になっています。兄弟的共同体には人々を呼び集める大きな力があるのです。その一方で不健全な共同体には破壊の力があります。兄弟に背を向ける誘惑は、奉献生活を深める上で破滅的な影響を及ぼします。聖ヤン(ヨハネ)・ベルクマンス11 は、自分にとっての一番の償いは共同生活そのものであると言っています。兄弟生活には困難なときもありますが、それを生きなければ何も生み出せません。働きは、たとえそれが『使徒的』であっても兄弟生活からの逃避となり得ます。兄弟生活が出来ない人は、修道生活も出来ないのです。」
訳注:Saint John Berchmans (1599 –1621) ベルギー生まれのイエズス会士。1888年1月15日列聖。「共同生活」のパトロン聖人。
教皇は続けた。「修道者の兄弟生活は、可能なすべての多様性をかかえながらも、対立を超える愛の体験です。共同体の中での対立は避けがたいものですが、その共同体が真に誠実で率直な関係性を生きているなら、ある意味で対立は必要なことなのです。それが生活というものです。人生の困難を体験していない兄弟たちの共同体で暮らそうなど考えるのは、理屈に合いません。対立のない共同体には何かが欠けているのです。現実を見れば、どんな家族にもどんな集団にも対立があることが分かります。そして対立には正面から立ち向かわなければなりません。目をそらせてはいけません。」
「対立を覆い隠そうとするのは圧力釜のようなもので、いずれは爆発するでしょう。対立のない生活は生活とはいえません。」
それは大きな賭けである。教皇フランシスコの基本的行動原則の一つが「一致は対立に勝る」である。しかし、修道者への教皇の言葉は「エヴァンジェリ・ガウディウム(仮訳:福音の喜び)」(226-230節)を踏まえて読むとよい。その中で、教皇は、「対立を担い、それを解決し、それを、新しいプロセスへと変えることを受け入れる」(227節)ことについて疑問を呈している。ベルゴリオにとって、個人の達成は、決して個人だけの業ではなく、集団のものであり、共同体のものである。12 この意味で対立は、成熟への過程の中で進化することができるし、また進化すべきなのである。
どんな時でも、対立には、霊的カウンセリングで取り組まなければならない。
「よきサマリア人のたとえに出てくる祭司やレビ人のように、困っている人の横をただ通り過ぎるような振る舞いは決してしてはいけません。しかし、わたしたちは何をすべきなのでしょうか?」教皇は続けた。「わたしが思い出すのは、22才の若者のことです。彼は重い鬱病に苦しんでいました。彼は修道者ではなく母親と暮らす若者で、酒浸りの生活をしていました。母親は彼を助けることができませんでした。毎朝、彼が出かける前に、ただ優しさに満ちあふれる眼差しで彼を見送るだけでした。この若者はいま、責任ある地位に就いています。彼は問題を克服したのです。最後には母親の優しい眼差しが若者の目を覚ましたのです。わたしたちは、この母の眼差しのような優しさを取り戻さなくてはなりません。聖フランシスコが生きた「優しさ」を考えてみてください。優しさは、対立に打ち勝つ助けになります。もしそれでも足りなければ、共同体自体を変える必要があるのかも知れません。
教皇フランシスコは続けた――「確かに、わたしたちは、とても残酷になることがあります。わたしたちは皆、自己満足のために、あるいは自分の利益を得るために他を攻撃する誘惑に駆られます。兄弟間に起きる問題の原因が性格の弱さによることもあります。その場合は、専門の心理学者の助けを求めるべきです。そのことを恐れる必要はありません。心理主義に身を屈することを必ずしも恐れる必要はありません。
しかし、兄弟間の対立を解決しようとするときは、断じて経営者のように振る舞ってはいけません。わたしたちは、心の問題と関わる必要があるのです。
「兄弟の関係はデリケートなものです。アルゼンチンの聖ヨゼフの祝日の聖務日課の第一晩課の賛歌では、聖ヨゼフは、『聖体の優しさ』(ternura de eucaristia)13 で教会を見守るようにと求められています。『聖体の優しさ』こそが兄弟に接する態度です。対立は優しく受け止める必要があります。わたしは、パウロ6世が子どもたちから、たくさんの絵が描かれた手紙を受け取ったときのことを思い出します。パウロ6世にとって、諸問題を扱う手紙で覆われた机に、そのような手紙が置かれていたことは、大きな救いでした。優しさは、救いです。聖体の優しさは、対立を覆い隠すのではなく、わたしたちが、人々のように対立に立ち向かうときの手助けとなるのです。」
修道会と地元教会の相互関係
ここで、修道会の総長たちが、地元の諸教会との関連をふまえ、修道会の活動に関して、また司教たちとの関係についていくつか質問した。
それぞれの修道会が、生活と働きの場にしている地域の教会に貢献するためには、修道会のカリスマはどのようにすれば尊重され、生かされるだろうか?
すべての人々の成長と宣教使命のよりよい発展のために、異なるカリスマやキリスト者の様々な生活形態の中で、どのように霊的交わりを育てていくことが出来るだろうか?
1978年に奉献・使徒的生活会省と司教省から公布された、教会内の司教と修道者の間の関係に関する指示基準書(Mutuae relaiones)を見直してほしいとの要請は、長いこと審理中のままであると、教皇フランシスコは答えた。教皇によれば「この文書は、当時は有益であったが、今では時代遅れになっている」ため、時は熟しているという。「様々な修道会のカリスマは、教区にとって必要なものであり、尊重され育成されなければなりません。わたしは司教と修道会の間に起こりうる問題を経験から知っています。」と教皇は続けた。たとえば、「もしある日、修道会が、人手不足から自分たちの仕事の一つから手を引くと決めれば、司教は、突然やっかいな問題を引き受けさせられたと思いがちです。わたし自身もそのような困難な経験をしました。仕事が中断することになると告げられて途方に暮れました。実際、事後に知らされたこともありました。」
「その一方でわたしは、別な建設的な話もできます。それは次のような事実です。わたしは問題がある事を承知していますが、また同時に、司教たちが必ずしも修道者のカリスマと働きを熟知しているとは限らないことも知っています。わたしたち司教は、修道生活者は教区の職員ではなく、教区を豊かにする“賜物”であることを理解する必要があります。修道会の教区への関わりは大切なことです。修道会のカリスマへの理解不足によって、司教が修道者を単に便利な道具として見ることがないように、司教と修道者との対話を取り戻されなければなりません。」
このような理由から、教皇は指示基準書(Mutuae relationes)の検討再開の仕事を奉献・使徒的生活会省に託した。
ミッションの最前線(辺境) ― 文化、教育の細分化
最後の質問では、再度、奉献生活者の宣教の最前線の問題が取り上げられた。教皇はこれまでしばしば、「出発」”depart”、「出向く」”going”、「最前線(辺境)」”frontier” について語ってきた。そこで総長たちは、出発し向かうべき最前線とは何処なのかと次のように尋ねた。「あなたは、この世界における社会的疎外の現実の中にあって、奉献生活の存在をどう見るのか? 多くの修道会は教育の仕事に携わっているが、この種の奉仕をあなたはどう見るのか? この分野に携わる修道者に言いたいことは何か?」
教皇はまず、地理的な最前線(辺境、周辺地域)が未だに残っていることは確かで、「移動」に対応できることが必要であると述べた。しかし、前もって特定できず、対応策の異なる象徴的な周辺地域もあるとして次のように語った。「これについては、各修道会のカリスマに基づいて模索されるべきです。すなわち、各修道会のカリスマの働きに応じて識別が行われるべきです。「排除(疎外)」という現実は確かに重要な優先事項ですが、そこでは識別が求められます。第一の基準は、社会的疎外と周辺化(再分化)の状況に対応できる、最もふさわしくて才能豊かな人を送り込むことです。それはとても危険な状況なので、勇気と、多くの祈りが求められます。そして長上たちは、このような仕事に献身する人々を支え勇気づける必要があります。危険はいつも存在するのです。」教皇は思い出しながら語った。「それは熱意に身を任せてしまう危険です。たとえ善意にあふれていても、派遣先の周辺地域で直面する細分化された状況に対応できない修道者を送ってしまうことになるかも知れません。適切な識別と支援ができることが確かでないまま、周辺地域に関する決定をしてはいけません。」
このような周辺地域に関する課題に加え、教皇は別の二つの課題にも言及した。この二つは常に存在する重要な課題である。一つは文化的な課題であり、もう一つは学校と大学における教育の課題である。奉献生活はこれらの領域で大いに役立つ可能性があるという。
教皇は思い出話をした。「Civilta Cattorica誌の神父たちが来訪したとき、わたしは彼らとフロンティア(最前線、辺境地)の思想を話題にしました。フロンティアの思想はユニークさと弱さとを併せ持っています。わたしは、このフロンティアの思想を大切にしてほしいと彼らに言いました。サレジオ会の修道院長も知っているように、サレジオ会のすべては、フロンティアにおける教育を夢見て始まったのです。創始者ドン・ボスコの夢は、サレジオ会士たちをパタゴニアの辺境地に送り出すことでした。この他にも沢山の例をあげることが出来ます。」
教皇によれば、教育の柱は「理解を伝える、やり方を伝える、価値を伝える、」の三つである。「信仰はこれらを通して伝えられます。教育者は、教えることが出来る人でなければなりません。彼または彼女は、変化しつつある世代に向かって、どのようにキリストを宣言したらよいかをよく考える必要があります。」そのため、教皇は次のように主張する。「今日、教育こそが、大切な、大切な、キーポイントの使命です!」そして、教皇はブエノスアイレスでの経験を語った。それは、子どもたち――複雑な状況にある子ども、特に問題のある家庭の児童や青少年――を、教育環境に迎え入れるのに必要な準備についての話だった。
「わたしはある少女のことで、とても悲しい思い出があります。彼女は自分の心の状態の原因をやっと先生に打ち明けたのです。『お母さんの婚約者が、わたしを好きではないの。』
学校に通う子どものうち、両親が離婚したり別居したりしているパーセンテージはとても高いのです。今わたしたちが置かれている状況は、時に理解困難な課題を突き付けてきます。これらの少年少女に、どうすればキリストを示すことができるのでしょうか?変りつつある世代に、どうすればキリストを示すことができるのでしょうか。彼らに、信仰を弱めるようなワクチンを投与しないよう、気をつけなければいけません。」14
***
3時間が経過した12時半頃、教皇は、残念ながらこの対話を終わらなければならないと言い、「質問の一部は次回に残しましょう。」と微笑みながら語った。教皇は、歯医者が待っているのだと打ち明けた。総長たちに別れの挨拶をする前に、教皇は、「2015年は、修道生活に献げる年となるだろう。」との声明を発表した。(次頁訳注参照)
この言葉は、鳴りやまない拍手で受け入れられた。
教皇は微笑みながら、奉献・使徒生活会省の長官と次官の二人を見て、「これは、彼らの間違いです。そして彼らのアイデアの一つです。この二つが重なると危険です。」と言って、会場中の笑いを誘った。
会場を去るにあたり、教皇は次のように述べた。「ありがとうございます。この集会で皆さんが示して下さった信仰深い行動に感謝します。あなた方のなさること、あなた方の信仰の精神、あなた方の奉仕の追求に感謝します。あなた方が示された証しに、あなた方が教会に与える犠牲に、そしてあなた方が堪えねばならない屈辱に感謝します。これが十字架の道です。心の底からの感謝を申し上げます。」
(終)
訳注:2014-01-31 バチカン放送局の記事より:
カトリック教会は、2015年を「奉献生活者に捧げる年」とすることが明らかになった。教皇庁奉献・使徒的生活会省(長官:ジョアン・ブラス・ジ・アビス枢機卿)は、12月31日、この特別年について概要の説明を行なった。
教皇フランシスコは、2013年11月29日、バチカンで男子修道会総長120名との出会いの際、2015年は「奉献生活者」に捧げる年にしたいと述べられた。その後、奉献・使徒的生活会省との話し合いのもと、この特別年実施に向けての主な内容がまとめられた。
この年は、「奉献生活と教会にとっての恵みの時」として、1年を通して様々な行事が予定されている。
奉献生活者の年は、第2バチカン公会議(1962-1965)から半世紀、特に奉献生活者に関する公文書「修道生活の刷新・適応に関する教令」(1965)の公布50周年を記念するものである。
また、第6章に「修道者について」という項目を持つ「教会憲章」の公布(1964年11月)から今年で50周年であることをも記念するために、この特別年の開幕を今年2014年の秋とし、その閉幕を2015年11月にする旨が提案されている。
奉献生活者の年は、教皇フランシスコの今後のスケジュールを尊重しつつ、可能ならば2014年11月21日、観想修道会の修道者たちに捧げられた「祈る人のための日」に教皇の荘厳ミサによって開幕する。今年11月には、奉献・使徒的生活会省の総会を開催、第2バチカン公会議以降の奉献生活をテーマとした会議を行なう。また、特別年開催中には、若い修道者(修練者、有期誓願者、誓願を立ててから10年以内の無期誓願者)の出会いや、養成者の集い、奉献・使徒的生活会省主催の奉献生活をめぐる神学会議なども予定されている。
《WAKE UP THE WORLD!》
Conversation with Pope Francis about the Religious Life
Antonio Spadaro, S.J.
original text in Italian (La Civilta Cattolica 20141 3-17)
translated into English by Fr. Donald Maldari S.J. (revised, Jan 6)
@La Civilta Cattolica
9:25 a.m. The New Hall of the Synod in the Vatican
When Pope Francis speaks "off the cuff” and dialogs, his speech has a certain rhythm that "undulates" progressively; one would do well to follow it with care because it is fed by the living relations he experiences with his interlocutors. Those who notice should pay careful attention not only to the contents of what he says but also to the dynamic of the relationship that is created. This is what happened during the conversation that the Holy Father held with the Union of Superiors General of religious men at the end of their 82nd General Assembly.1 Seated among them I took note of the dialog. I will here try to express as far as possible the richness of the contents, preserving the lively and spontaneous tone of the three hour meeting. Halfway through the meeting, for a half hour, the Pope circulated among the participants to greet the Superiors General personally, taking a mate in a relaxed and informal atmosphere.
The Superiors had, in fact, requested only a brief meeting to greet the Pope, but the Pontiff wished to spend the whole morning with them.
He decided, however, neither to give a talk nor to listen to their prepared remarks: he wished to have a frank and free conversation consisting of questions and answers.
It is 9:25 and the arrival of the photographers announces the Pope's imminent entrance into the New Hall of the Synod in the Vatican, where approximately 120 Superiors await him.
Religious: Sinners and Prophets
Greeted by applause the Holy Father takes a seat at exactly 9:3o, looks at the clock and congratulates himself for his "Swiss" punctuality. All laugh: the Pope wanted to greet Fr. Mauro Johre, this way: he is Swiss and the Minister General of the Capuchin Friars Minor who had just been elected vice-president of the Union of Superiors General.
After a few brief words of greeting from the president, Fr. Adolfo Nicolas, the Superior General of the Jesuits, and from the general secretary, Fr. David Glenday, a Comboni Missionary, Pope Francis cordially thanked the Assembly in a very simple way for its invitation; the first group of questions began immediately after.
The religious questioned the Pope especially about the identity and the mission of religious: "What do expect of consecrated life? What do you ask of us? If you were in our place what would you do to respond to your call to go to the frontiers, to live the Gospel sine glossa, evangelical prophecy? What should we hear you calling us to do?"
And further: "What should be emphasized today? What are the priorities?"
Pope Francis began by saying that he, too, is a religious, and he therefore knows from experience what they were talking about.2 The last Pope who belonged to a religious order was the Camaldolese Gregory XVI, elected in 1831. He then made explicit reference to Benedict XVI: "He said that the Church grows through witness, not by proselytism. The witness that can really attract is that associated with attitudes which are uncommon: generosity, detachment, sacrifice, self-forgetfulness in order to care for others. This is the witness, the "martyrdom" of religious life. It "sounds an alarm" for people. Religious say to people with their life:
"What's happening?" These people are telling me something! These people go beyond a mundane horizon. "Thus," continued the Pope quoting Benedict XVI, "religious life ought to promote growth in the Church by way of attraction."3
"The Church," therefore, "must be attractive. Wake up the world! Be witnesses of a different way of doing things, of acting, of living! It is possible to live differently in this world. We are speaking of an eschatological outlook, of the values of the Kingdom incarnated here, on this earth. It is a question of leaving everything to follow the Lord. No, I do not want to say "radical." Evangelical radicalness is not only for religious: it is demanded of all. But religious follow the Lord in a special way, in a prophetic way. It is this witness that I expect of you. Religious should be men and women who are able to wake the world up."
Pope Francis has returned in a circular fashion to concepts that he has already touched on, exploring them more deeply. In fact he continued:
"You should be real witnesses of a way of doing and acting differently. But in life it is difficult for everything to be clear, precise, outlined neatly. Life is complicated; it consists of grace and sin. He who does not sin is not human. We all make mistakes and we need to recognize our weakness. A religious who recognizes himself as weak and a sinner does not negate the witness that he is called to give, rather he reinforces it, and this is good for everyone. What I expect of you therefore is to give witness. I want this special witness from religious."
Avoid Fundamentalism and Light the Way the Future
Continuing his response to the first questions Pope Francis has touched on one of the key points of his thinking: "I am convinced of one thing: the great changes in history were realized when reality was seen not from the center but rather from the periphery. It is a hermeneutical question: reality is understood only if it is looked at from the periphery, and not when our viewpoint is equidistant from everything. Truly to understand reality we need to move away from the central position of calmness and peacefulness and direct ourselves to the peripheral areas. 4 Being at the periphery helps to see and to understand better, to analyze reality more correctly, to shun centralism and ideological approaches."
Therefore: "It is not a good strategy to be at the center of a sphere. To understand we ought to move around, to see reality from various viewpoints.5 We ought to get used to thinking. I often refer to a letter of Father Pedro Arrupe, who had been General of the Society of Jesus. It was a letter directed to the Centros de Investigacion y Accion Social (CIAS). In this letter Father Arrupe spoke of poverty and said that some time of real contact with the poor is necessary. This is really very important to me: the need to become acquainted with reality by experience, to spend time walking on the periphery in order really to become acquainted with the reality and life-experiences of people. If this does not happen we then run the risk of being abstract ideologists or fundamentalists, which is not healthy."6
The Pope lingered, therefore, on a concrete issue, that of the apostolate to youth. "Those who work with youth cannot be content with simply saying things that are too tidy and structured, as in a tract; these things go in one ear and out the other of young people. We need a new language, a new way of saying things. Today God asks this of us: to leave the nest which encloses us in order to be sent. He who lives his consecration in a cloister lives this interior tension in prayer so that the Gospel might grow. The fulfillment of the evangelical command "Go to the whole world and proclaim the Gospel to every creature" (Mk 16:15) can be accomplished with this hermeneutical key shifted to the existential
and geographical periphery. It is the most concrete way of imitating Jesus, who went toward all the peripheries. Jesus went to all, really all. I would not really feel uncomfortable going to the periphery: you should not feel uncomfortable in reaching out to anyone."
What, therefore, is the priority of consecrated life? The Pope answered: "Prophecy of the Kingdom, which is a non-negotiable. The emphasis should fall on being prophets, and not in playing at being them. Naturally the devil proposes his temptations to us; one of them is: just appear to be prophets. But it is not possible simply to play at these things. I myself have seen very sad things in this regard. No: religious are men and women who light the way to the future."
In his interview with Clujlta Cattolica Pope Francis had clearly stated that religious are called to a prophetic life. This is what is particular to them: "to be prophets, in particular, by demonstrating how Jesus lived on this earth, and to proclaim how the kingdom of God will be in its perfection. A religious must never give up prophesising. [...] Let us think about what so many great saints, monks and religious men and women have done, from St. Anthony the Abbot onward. Being prophets may sometimes involve making ruido [Spanish for noise]. I do not know how to put it.... Prophecy makes noise, uproar, some say 'a mess.' But in reality, the charism of religious people is like yeast: prophecy announces the spirit of the Gospel."7
So, how to be prophets living one's own particular religious charism? For Pope Francis there is a need "to reinforce that which is institutional in consecrated life and not confuse the Institute with the apostolic work. The former perdures; the latter fades away." The Pope continues: "The charism perdures, is strong; the work fades away. Sometimes the Institute and the work are confused. The Institute is creative, is always looking for outlets. In this way too the peripheries change and a checklist can be made that is always different."
"The Charism is not a Bottle of Distilled Water"
At this point the questions asked centered around themes of vocations. We are witnessing a profound change in the human geography of the Church and so too of religious institutes.
Vocations in Africa and Asia are increasing, which alone account for most of their total number. All this poses a series of challenges: inculturation of the charism, vocational discernment and the selection of candidates, the challenge of interreligious dialog, the search for a more equitable representation in the governmental organizations of the Institutes and, more generally, in the structure of the Church. The Pope was thus asked to offer some guidance concerning this situation.
Pope Francis says that he is well aware of the many geographical changes in consecrated life and that
"all cultures are able to be called by the Lord, that he is free to stir up more vocations in one part of the world than in another. What does the Lord wish to say by sending us vocations from the youngest Churches? I don't know. But I ask myself the question. We have to ask it. The Lord's will is somehow in all this. There are Churches who are bearing new fruit. At one time they perhaps were not so fertile, but they are now. This necessitates, of course, rethinking the inculturation of the charism. The charism is one but, as Saint Ignatius used to say, it needs to be lived according to the places, times and persons.
The charism is not a bottle of distilled water. It needs to be lived energetically as well as reinterpreted culturally. But in this way there is the danger of making a mistake, you say, of committing errors. It is risky. Certainly, certainly: we will always make mistakes, no doubt about it.
But this should not stop us, because there is the chance of making worse mistakes. In fact we should always ask for forgiveness and look shamefully upon apostolic failures due to a lack of courage. Just think, for example, of the pioneer intuitions of Matteo Ricci which were allowed to crumble at that time."8
"I am not referring to folkloric adaptations of customs" — the Pope continued —: "it is a question of mentality, of a mindset. For example: there are peoples who think in a more concrete than abstract way, or at least in a kind of abstraction different from that in the West. I lived this difference myself when I was the Jesuit provincial in Argentina. I remember how much effort a Jesuit Brother and I expended when we talked even about simple things of daily life; he was from an area where the Guarini live, a people who have developed a very concrete way of thinking.
We need to live courageously and face these challenges when they deal with important subjects as well. In the end I cannot form a person as a religious without consideration of his or her life, experience, mentality and cultural context. This is the way to proceed. This is what the great religious missionaries did.
The extraordinary adventures of the Spanish Jesuit Segundo Llorente come to mind, a tenacious and contemplative missionary in Alaska. He not only learned the language but also the concrete way of thinking of the people.9 Inculturating the charism, therefore, is fundamental, and this never means relativizing it.
訳注:Segundo Llorente Villa, S.J. (18 November 1906, Mansilla Mayor, León, Spain – 26 January 1989, Spokane, Washington, USA) was a Spanish Jesuit, philosopher, and author who spent 40 years as a missionary among the Yupik people in the most remote parts of Alaska. He won a seat to the 2nd Alaska State Legislature as a write-in candidate, becoming the state’s first Catholic priest elected to office. He wrote hundreds of essays and one dozen autobiographical books in Spanish and English about his life in Alaska.
We must not make the charism rigid or uniform. When we make our cultures uniform we kill the charism," the Pontiff concluded decisively, indicating the necessity of "introducing persons of various cultures into the central governance of the Orders and Congregations, who express divers ways of living the charism."
Pope Francis is certainly aware of the risks, even in terms of "vocational recruitment," by younger Churches. He recalled, inter alia, that in 1994, in the context of the Ordinary Synod on Consecrated Life and the Missions, the Filipino bishops criticized the "novice trade," i.e., massive arrival of foreign Congregations who were opening houses in the archipelago with an eye toward recruiting vocations to be transplanted to Europe. "We need to keep our eyes open for such situations," the Pope said.
He also spent some time on the vocation of brothers and, more generally, religious who are not priests. He complained that an adequate awareness of this specific vocation has not yet been developed. He referred to a document related to this which has never appeared, and which might be looked at again. It might be finished and so as to facilitate a more satisfactory reflection.
At this point the Pope signaled to Cardinal Joao Braz de Aviz, Prefect of the Congregation of Institutes of Consecrated Life and Societies of Apostolic Life, and to the secretary of that Congregation, Monsignor Jose Rodriguez Carballo, who were present in the Assembly, inviting them to consider the question. He concluded: "I do not actually believe that the vocational crisis among religious who are not priests is a sign of the times telling us that this vocation has ended. We should rather understand what God is asking us."
Answering a question concerning religious brothers as superiors in clerical orders, the Pope replied that this was a canonical issue that needs to be dealt with at that level.
Formation is a work of art, not a police action
Pope Francis then listens to a few questions about formation. He answers immediately, indicating his priorities: "The formation of candidates is fundamental. There are four pillars of formation: spiritual, intellectual, communitarian and apostolic. The ghost to fight against is the image of religious life understood as an escape or hiding place in face of an "external," difficult and complex world. The four pillars should be integrated right from the first day of entrance into the noviceship, and should not be arranged sequentially. They must be interactive."
The Pope is aware of the fact that the problem of formation today is not easy to deal with: "Daily culture is much richer and conflictual than that which we experienced in our day, years ago. Our culture was simpler and more ordered. Inculturation today calls for a different attitude. For example: problems are not solved simply by forbidding doing this or that. Dialog as well as confrontation are needed. To avoid problems, in some houses of formation, young people grit their teeth, try not to make mistakes, follow the rules smiling a lot, just waiting for the day when they are told: 'Good. You have finished formation.' This is hypocrisy that is the result of clericalism, which is one of the worst evils.
I said as much to the bishops of the Latin American Bishops Council (CELAM) this summer in Rio de Janeiro: we need to conquer this propensity toward clericalism in houses of formation and seminaries too. I summarize by some advice that I once received as a young man: 'If you want to advance, think clearly and speak obscurely.' That was a clear invitation to hypocrisy. We need to avoid that at all costs."
As a matter of fact in Rio the Pope identified clericalism as one of the causes of the "lack of maturity and Christian freedom" in the People of God.
It follows that: "If the seminary is too large, it ought to be divided into smaller communities with formators who are equipped really to accompany those in their charge. Dialog must be serious, without fear, sincere. It is important to recall that the language of young people in formation today is different from that in the past: we are living through an epochal change. Formation is a work of art, not a police action. We must form their hearts. Otherwise we are creating little monsters. And then these little monsters mold the People of God. This really gives me goose bumps."
The Pope then insisted on the fact that formation should not be oriented only toward personal growth but also in view of its final goal: the People of God. It is important to think about the people to whom these persons will be sent while forming them: "We must always think of the faithful, of the faithful People of God. Persons must be formed who are witness of the resurrection of Jesus. The formator should keep in mind that the person in formation will be called to care for the People of God. We always must think of the People of God in all of this. Just think of religious who have hearts that are as sour as vinegar: they are not made for the people. In the end we must not form administrators, managers, but fathers, brothers, traveling companions."
Finally, Pope Francis wanted to highlight a further risk: "accepting a young man in a seminary who has been asked to leave a religious institute because of problems with formation and for serious reasons is a huge problem. I am not speaking about people who recognize that they are sinners: we are all sinners, but we are not all corrupt. Sinners are accepted, but not people who are corrupt." Here the Pope recalled Benedict XVI's important decision in dealing with cases of abuse: "this should be a lesson to us to have the courage to approach personal formation as a serious challenge, always keeping in mind the People of God."
Living Brotherhood by "Soothing Conflicts"
The Synod on the New Evangelization had asked religious to be witnesses of the humanizing power of the Gospel through a life of brotherhood. Taking a cue from this call, the Pope was asked a few questions about how religious should live together as brothers: "How can we keep commitments of the mission as well as those of community life? How can we combat the tendency toward individualism? How should we act toward brothers in difficulty or who live or create conflict? How can we combine justice and mercy in difficult cases?"
Pope Francis recounted that the previous day he met with the prior of Taize, Frere Alois: "There are Catholic, Calvinist, Lutheran, etc. monks at Taize.... They all live a real life of brotherhood together. They are an impressive apostolic role model for young people. The fraternal community has an enormous power to call people together. The illnesses of the community, on the other hand, have power that destroys. The temptation against fraternity is that which is the most disruptive to progress in consecrated life. Saint John Berchmansii used to say that his greatest penance was precisely community life. Sometimes living fraternally is difficult, but if it is not lived it is not productive. Work, even that which is 'apostolic' can become an escape from fraternal life. If a person cannot live brotherhood he cannot live religious life."
"Religious brotherhood" — continued the Pope — "with all its possible diversity, is an experience of love that goes beyond conflicts. Community conflicts are inevitable: in a certain sense they need to happen, if the community is truly living sincere and honest relationships. That's life. It does not make sense to think of living in a community in which there are brothers who are not experiencing difficulties in their lives. Something is missing from communities where there is no conflict. Reality dictates that there are conflicts in all families and all groups of people. And conflict must be faced head on: it should not be ignored.
Covering it over just creates a pressure cooker that will eventually explode. A life without conflicts is not life."
The stakes at play are high. We know that one of the fundamental principles of Pope Francis is that "unity is superior to conflict." His words to religious should be read in light of Evangelii gaudium (n. 226-23o), where he wonders about "the acceptance of bearing conflict, of resolving it and ransforming it into a link that leads to a new process" (227). It is important to recall that for Bergoglio personal fulfillment is never an exclusively individual undertaking, but collective, communitarian.12 Conflict in this sense can, and even should evolve in a process of maturation.
In any case conflict must be approached with spiritual counseling: "We should never act like the priest or levite in the parable of the good Samaritan, who just walked by. But what should we do? I recall," says the Pope, "the story of a young man, 22 years old, who was suffering from a deep depression. I am not speaking of a religious, but of a young man who lived with his mom, who was a widow and who did the laundry of wealthy families. This young man no longer went to work and lived in an alcoholic haze. The mom was not able to help him: every morning before leaving she would simply look at him with great tenderness. Today this young man has a position of responsibility: he overcame that problem, because in the end that look of tenderness from his mom shook him up.
We have to recapture that tenderness, including maternal tenderness. Think of the tenderness that Saint Francis lived, for example. Tenderness helps to overcome conflicts. If this is insufficient, it might be necessary to change communities.
"It is true," — Pope Francis continued — "sometimes we are very cruel. We all experience the temptation to criticize for personal satisfactions or to gain personal advantage. Sometimes the problems in the brotherhood are due to fragile personalities, in which case the help of a professional, a psychologist, should be sought. There is no need to be afraid of this: one need not fear necessarily succumbing to psychologism.
But never, never should we act like managers when dealing with conflicts in the brotherhood. We should involve the heart.
"Brotherhood is a delicate thing. In the hymn of First Vespers of the Solemnity of Saint Joseph in the Argentine breviary the Saint is asked to take care of the Church with ternura de eucaristia, 'Eucharistic tenderness.13 This is how we should treat brothers: with Eucharistic tenderness. We need to caress conflicts. I recall when Paul VI received a child's letter with many drawings. Paul said that the reception of such a letter on a desk covered only with letters that dealt with problems did him a lot of good. Tenderness does us good. Eucharistic tenderness does not mask conflict but rather helps us to confront it like people."
The Mutual Relations between Religious and Local Churches
At this point the Superiors General asked the Pope several questions regarding the activities of religious communities in the context of local Churches and about their relationship with bishops: how can the charisms of the various Institutes be both respected and promoted for the welfare of the Church where they live and work? How can communion among the distinct charisms and forms of Christian life be fostered so as to cultivate the growth of all and a better development of mission?
Pope Francis answers that the request to review the directive criteria that were promulgated in 1978 by the Congregation for Religious and by the Congregation for Bishops (Mutuae relationes) concerning the relations between bishops and religious in the Church has been pending for quite a few years now. The Pope is of the opinion that the time is ripe now because "that document was useful at the time but is now outdated. The charisms of the various Institutes need to be respected and fostered because they are needed in dioceses. I know by experience the problems" — he continued — "that can arise between a bishop and religious communities." For example: "if the religious decide one day to withdraw from one of their works due to a lack of manpower the bishop often finds himself suddenly left with a hot potato in his hand. I myself have had such difficult experiences. I would be informed that a work was being dropped and I did not know what to do. I was once actually told after the fact.
On the other hand I can also speak about other, positive developments. The fact is: I know the problems, but I also know that the bishops are not always acquainted with the charisms and works of religious. We bishops need to understand that consecrated persons are not functionaries but gifts that enrich dioceses. The involvement of religious communities in dioceses is important. Dialog between the bishop and religious must be rescued so that, due to a lack of understanding of their charisms, bishops do not view religious simply as useful instruments."
For this reason the Pope confided to the Congregation for Religious the task of resuming reflection on the document Mutuae relationes and to work on a revision.
The Frontiers of Mission: Marginalization, Culture and Education
The last questions once again brought up the frontiers of the mission of consecrated persons. The Pope has often spoken about "departing," "going," and "frontiers." The Superiors General, therefore, inquired what these frontiers might be to which we should depart: "how do you see the presence of consecrated life in the reality of exclusion in our world? Many Institutes are engaged in the work of education: how do you see this kind of service? What would you say to religious who are engaged in this field?"
First of all the Pope states that geographical frontiers certainly remain, and that it is necessary to be available to move. But there are also symbolic frontiers that are not predetermined and are not the same for everyone, rather they "need to be sought on the basis of the charisms of each Institute. Discernment, therefore, should be undertaken in function of one's own charism. The realities of exclusion certainly remain the most significant priorities, but they call for discernment. The first criterion is to send the best, most gifted people into these situations of exclusion and marginalization. These are the most risky situations and call for courage and a great deal of prayer. And it is necessary that superiors support and encourage the people dedicated to this work. There is always the risk,” the Pope recalled, “to allow oneself to be overcome by enthusiasm; this might result in sending religious who have good will but who are not prepared for situations they will find in the frontiers of the marginalized where they are sent. We must not make decisions concerning the marginalized without being sure of adequate discernment and support.
Besides this challenge of the marginalized the Pope referred to two other ever-present and important challenges: one cultural and the other having to do with education in schools and universities. Consecrated life can be of great service in these areas. He recalled: "When the Fathers of Civilta Cattolica came to visit me I spoke with them about the frontiers of thought, thought that is unique and weak. I recommended this frontier to them. As the major rector of the Salesians knows, everything for them began on the basis of a dream of education at the frontier, the dream of Don Bosco that thrust his Salesians to the geographical peripheries of Patagonia. We could give many other examples."
The pillars of education according to the Pope are: "convey understanding, convey ways of doing things, convey values. Faith is conveyed through these. The educator should be up to being a person who educates, he or she should consider how to proclaim Jesus Christ to a generation that is changing." He insisted, therefore: "Education today is a key, key, key mission!" And he recalled some of his experiences in Buenos Aires regarding the preparation necessary to welcome children in an educational context, little boys and girls, young adults who live in complex situations, especially family ones: "I remember the case of a very sad little girl who finally confided to her teacher the reason for her state of mind: 'my mother's fiancée doesn't like me.' The percentage of children studying in schools who have separated parents is very high. The situation in which we live now provides us with new challenges which sometimes are difficult for us to understand. How can we proclaim Christ to these boys and girls? How can we proclaim Christ to a generation that is changing? We must be careful not to administer a vaccine against faith to them.14
***
At the end of three hours, around 12:3o, the Pope said he was sorry to have to end the conversation: "let's leave some questions for next time" he said smiling. He confessed that the dentist was waiting for him. Before saying good-bye to the Superiors General he has an announcement to make: 2015 will be a year dedicated to consecrated life; these words were greeted with a long applause.
The Pontiff looks smiling at the Prefect and the Secretary for the Congregation for Religious and of
Institutes of Apostolic Life, saying: "it's their fault; it's one of their ideas: it's dangerous when these two get together," provoking laughter among all in the Assembly.
As he left the hall he stated: "I thank you, I thank you for this act of faith that you have made in this meeting. Thank you for what you do, for your spirit of faith and your pursuit of service. Thank you for your witness, for the martyrs that you continue to give to the Church, as well for the humiliations to which you must submit: this is the way of the Cross. Thank you from the bottom of my heart."
***
<原注>
1 The Assembly took place from November 27 to 29 at the Salesianum in Rome. It consisted of a meeting based on three experiences that guided the reflections that followed. Fr. Janson Herve of the Little Brothers of Jesus spoke of the "lights that help me to live this service to my brothers and how Pope Francis encourages my hope." Fr. Mauro Mini, a Capuchin, explained "how Pope Francis is inspiring me and challenging me in the service of directing my Order." Finally, Fr. Hainz Kuliike of the Society of the Divine Word dwelt on "leadership inside a missionary religious Congregation in an international and intercultural context in light of the example of Pope Francis."
2 Recall that J. M. Bergoglio as provincial of the Jesuits in Argentina had published Meditaciones para religiosos, San Miguel: Ediciones Dieo de Torres, 1982, a book consisting of a collection of a series of reflections given to his confreres. They are useful in shedding light on several key themes that Bergoglio will develop later.
3 Benedict XVI, Homily at the inaugural Mass of the General Episcopal Conference of Latin America and the Caribbean at the Shrine of Aparecida (May 13, 2007). Pope Francis has taken up this theme of his predecessor a number of times. He did so in his homily at Santa Marta on October 1, adding: "When people see this witness of humility, of meekness, of gentleness, they hear the need of which the prophet Zachariah speaks: "I wish to come with you!" People sense this need when faced with the witness of charity, that humble charity without pretense, not self-important, humble, which adores and serves." The quotation from Benedict XVI is repeated in Pope Francis' speech of October 4 during his visit to the cathedral of San Rufino in Assisi, as well as in the Apostolic
Exhortation Evangelii gaudium (n. 14).
4 Cf. J.M. Bergoglio, Nel cuore dell'uomo. Utopia e impegno, Milan: Bompiani, 2013, p. 23; Pope Francis, La mia porta e sempre aperta. Une conversazione con Antonio Spadaro, Milan: Rizzoli, 2013, p. 86ff.
5 Pope Francis has expressed this conviction in Evangelii guadium where he wrote: is equidistant from the center, and there are no differences between them. Instead, it is the polyhedron, which reflects the convergence of all its parts, each of which preserves its distinctiveness." (236)
6 Pope Francis is well acquainted with this letter of Father Pedro Arrupe and also quoted it in his interview with Civilita Cattolica, describing it as "inspired." Cf. Pope Francis, La mia porta e sempre aperta..., p. 117.
7 Ibid. 63f.
8 The lack of understanding was due to the fact that, in their missions, the Jesuits were trying to adapt the proclamation of the Gospel to the local culture and rituals. This worried some, and several voices were raised in the Church that objected to the spirit of such an approach, fearing that it might contaminate the Christian message. Prophetic positions are not usually accepted when formulated because they go beyond the ordinary way of understanding the facts.
9 Father Segundo Llorente (Mansilla, Mayor, Leon [Spain], November 18, 1906 — Spokane, Washington [USA] January 26, 1989), a Spanish Jesuit who spent more than 4o years as a missionary in Alaska. He was the Representative to the United States Congress from the State of Alaska, of which he is considered a co-founder. He was buried in an Indian cemetery in De Smet, Idaho, where only indigenous native Americans can be buried. When he arrived in Akulurak at the age of 29 his first problem consisted not only of learning Eskimo but also of speaking about God to people with a radically different way of thinking from that of Europe. He wrote 12 books about his missionary experience.
10 Ibid. Speech during a meeting with the coordinators of the Latin American Bishops Conference (CELAM) during the general organizational meeting at the Centro Studi di Sumare, Rio de Janeiro, July 28, 2012.
11 John (Jan) Berchmans (Diest [Belgium], March 12, 1599 - Rome, August 13, 1621) was a Jesuit, canonized by Pope Leo XIII in 1888. He pronounced his first religious profession as a Jesuit on September 24, 1618 and moved to Rome to complete his philosophical studies at the Roman College, where he fell ill. He died only two years later, August 13, 1621. True to his favorite mottos: Age quod agis (Do what you are doing well) and Maximi facere minima (Do the most with the least), he succeeded in accomplishing ordinary things in an extraordinary way and became the patron saint of community life.
12 Cf. J.M. Bergoglio, E l'amore the apre gli occhi, Milan: Rizzoli, 2013, P. 46.
13 Guarda a la Iglesia de quien fue figura / la inmaculada y maternal Maria; / guordala intacta, firme y con ternura / de eucaristia
14 Pope Francis has lingered here for a while in the past, on themes about education in various interventions in his capacity of cardinal archbishop of Buenos Aires. See in particular Scegliere la vita. Proposte per tempi difficili, Milan: Bompiani, 2013.