「学び合いの会−海外ニュース」 275号

† 主の平和

教皇フランシスコは、1月8日と15日の水曜恒例一般謁見のなかで、2回にわたり「洗礼」についてのカテケージス(教話)を行いました。
内容はバチカン放送のホームページで見ることが出来ますが、大変親しみやすい言葉で語られた教話を2回分まとめてお届けします。
教皇はカテケージスの最後に、長い迫害の時代に、洗礼によって受け継がれた日本のキリシタンの信仰に触れて、「洗礼の重要さを語る上で、日本のキリスト教共同体の歴史は模範となるものです。」と述べています。

添付記事

1. バチカン放送記事: 教皇一般謁見のカテケージス
  「洗礼について」 第1回 1/8、 第2回 1/15

以上

教皇一般謁見・カテケーシス・洗礼について@ (2014/1/8)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日から秘跡についてのカテケーシスを始めましょう。まず洗礼の秘跡を考察しましょう。
ちょうど次の日曜日は、主の洗礼の祝日です。

1.洗礼はわたしたちの信仰そのものの土台であり、わたしたちをキリストとその教会の生きたメンバーとします。洗礼の秘跡は、聖体の秘跡と堅信の秘跡と共に、「キリスト教入信の秘跡」と呼ばれます。この三つの秘跡は、一つにまとまったものとして、わたしたちをキリストに似た者とし、キリストの現存とその愛のしるしとする偉大な秘跡です。

次のような疑問が生まれることでしょう。洗礼は本当にキリスト者として生き、キリストに従うために必要なものでしょうか。単なる一つの儀式ではないでしょうか。子供たちに名前を与えるための、教会の単なる形式的なものではないでしょうか。このような疑問はあり得ることです。

これに関して、使徒聖パウロの記述はよい説明となります。「それとも、あなたがたは知らないのですか。洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたちは皆、キリストの死に与る洗礼を受けたのではありませんか。わたしたちはその死に与るために、洗礼によってキリストと共に葬られたのです。それはキリストが御父の栄光によって使者のうちから復活させられたように、わたしたちもまた、新しい命に歩むためです」。 (ローマ 6,3-4)。

ですから、洗礼は単なる形式ではありません。わたしたちの存在そのものの奥底に達する行為なのです。洗礼を受けた赤ちゃんと、そうでない赤ちゃんは、同じではありません。洗礼を受けた人と、受けていない人とは、同じではないのです。わたしたちは洗礼によって尽きることのない命の泉に浸されるのです。それはキリストの死、全歴史の中で最も大きな愛の業です。この愛のおかげでわたしたちは、悪や罪、死の権力から解放され、神と兄弟たちとの交わりの中にあって、新しい生命に生きることができるのです。

2.誕生後すぐ洗礼を受けたなら、多くの人はこの秘跡を受けた時のことを少しも覚えていないでしょう。この広場でもわたしはすでに何度かこの質問をしました。「皆さんの洗礼の日付けを覚えている人は、手を挙げてください」と。イエスのあの無限の救いの泉に自分が浸された日を知るのは大切なことです。

皆さんに勧めます。勧めというより今日の宿題と言うべきでしょう。今日、家に帰ったら、自分の洗礼日がいつだったか尋ねてみてください。この素晴らしい洗礼の日がいつか分かるでしょう。わたしたちの受洗日を知ることは、大変幸せな日を知ることになります。それを知らないということは、主がわたしたちの中でなさったことや、わたしたちがいただいた素晴らしい恵みを忘れる危険があります。また、過去に起こった単なる一つの出来事、自分の意思ではなく両親の意思で行われたこと、だから今の自分には何の関係もないことともなりかねません。わたしたちの洗礼の記憶を目覚めさせる必要があります。わたしたちは毎日自分の洗礼を生きなければなりません。自分の限界、弱さや罪にも関わらず、イエスに従い教会の中に留まることができるのは、それはまさしくわたしたちが新しい存在となり、キリストと一つになった洗礼の秘跡によるのです。事実、原罪から解放され、父なる神とイエスとの関係の中にわたしたちが入れたのも、洗礼の力にあるのです。

わたしたちは新しい希望をもたらす者です。なぜなら、洗礼はこの新しい希望をわたしたちに与えてくれます。生涯にわたって救いの道を歩み続ける希望です。この希望を誰も何も消すことはできません。なぜならこの希望は決して欺くことがない希望だからです。覚えていてください。主における希望は、決して欺くことはありません。洗礼のおかげで、わたしたちは自分たちを侮辱し、悪を施す人々をも赦すことができるようになるのです。さらに、洗礼によって、わたしたちは貧しい人々の中に わたしたちを訪れ、近くにいてくださる主のみ顔を認めることができるのです。洗礼は、必要に迫られている人々や、苦しむ人々のうちに、わたしたちの隣人、そして主のみ顔を見ることを助けてくれます。これらすべては、洗礼の力のおかげで可能となるのです。

3.大切な最後の点です。ここで質問をしてみましょう。自分に自分自身で洗礼を授けることができるでしょうか。誰も自分自身に洗礼を授けることはできません。それは誰もできません。わたしたちはこの秘跡を願い、希望することはできます。しかし、主の名においてこの秘跡を授ける誰かを必要とします。なぜなら、洗礼は兄弟的な配慮と、分かち合いの中で与えられる贈り物だからです。いつも歴史の中で、一人がもう一人を、そしてまたもう一人をと、鎖がつながるように洗礼を授けてきました。恵みの鎖です。わたしは自分で洗礼を自分自身に授けることはできません。洗礼を授けてくれるよう、他の人に願わなくてはなりません。これは兄弟愛の行為であり、教会において子となる行為なのです。洗礼の儀式の中に、教会の最も純粋な姿を認めることができます。教会は母のごとく、聖霊の豊かさの中で、新たな子らを生み続けるのです。

洗礼によってわたしたちがいただいたこの恵みを、生涯にわたり毎日ますます強く体験することができるよう主に願いましょう。わたしたちの兄弟たちに出会うことによって、真の神の子イエス・キリストの、真の兄弟姉妹、教会の真のメンバーに出会うことができますように。今日の課題を忘れないでください。自分自身の洗礼の日付けを尋ねてください。 自分の誕生日を知るように、洗礼日も知らなければなりません。なぜならそれは大きな祝日なのですから。


テキストはバチカン放送局の http://ja.radiovaticana.va/news/2014/01/15/%E6%95%99%E7%9A%87%E4%B8%80%E8%88%AC%E8%AC%81%E8%A6%8B%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E6%B4%97%E7%A4%BC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E2%91%A0%EF%BC%88%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%94%EF%BC%8E%EF%BC%91%EF%BC%8E%EF%BC%98%EF%BC%89/gia-764326  のページからのものです

教皇一般謁見・カテケーシス・洗礼についてA (2014/01/15)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

先週水曜の一般謁見で、秘跡をめぐる一連のカテケーシスを、洗礼の秘跡から開始しました。今日も洗礼について考察しながら、この秘跡がもたらす大変重要な点を強調したいと思います。それは、洗礼がわたしたちをキリストの身体、神の民のメンバーとするということです。聖トマス・アクイナスは、洗礼を受ける者はキリストにその一部分となったかのように結び付けられ、信者たちの共同体、すなわち神の民の中に組み入れられると言っています。第2バチカン公会議の教えによれば、洗礼はわたしたちを神の民の中に導き入れ、歴史の中を歩み続ける旅する神の民の一員にしてくれるのです。

事実、生命が世代を通じて伝達されるように、洗礼の泉から再び生まれることを通して、世代から世代へと神の恵みは伝達されます。この恵みによってキリスト教徒たちは時代の中を歩み、河が大地を潤すかのように神の祝福を世界に広げていくのです。福音書が言うように、イエスが命じた時から、弟子たちは人々に洗礼を授けに出かけ、あの時から今日に到るまで、洗礼を通して信仰が鎖の輪のように伝達されてきました。わたしたち一人ひとりはその鎖の輪の一つです。そして、地を潤す河の流れのようにいつも一歩前進するのです。このように、神の恵み、わたしたちの信仰を、子どもたちに伝えていかなければなりません。この子どもたちもまた、ひとたび大人になったら、その信仰を自分の子らに伝えていくことができるようにです。洗礼とはこのようなものです。なぜでしょうか。それは洗礼が信仰を伝えるこの神の民の中にわたしたちを導き入れるからです。これは大変重要なことです。歩みながら信仰を伝える神の民です。

洗礼のおかげで、わたしたちは世界に福音をもたらすよう召された弟子、宣教者となります。「洗礼を受けたものは誰であれ、教会の中でいかなる職にあろうとも、信仰教育の段階がどんなであろうとも、福音宣教の行動的担い手です。新しい福音宣教は、新しい活動を促します」。神の民は、弟子でもある民です。なぜなら信仰を受け取るからです。そして宣教者でもあります。なぜなら信仰を伝達するからです。これが、洗礼がわたしたちの中に実現することです。洗礼はわたしたちに恵みを与え、信仰を伝えてくれます。教会の中でわたしたちは皆弟子です。生涯にわたって、わたしたちはいつも弟子なのです。そしてわたしたちは皆、主が託したそれぞれの場において、宣教師でもあるのです。

すべての人々、一番小さな人も宣教師です。そして大きな人たちも弟子なのです。ある人は言うでしょう。「司教たちは弟子ではありません、彼らは何でも知っています。教皇も何でも知っていますから、弟子ではありません」と。そうではありません。司教も教皇も実は弟子なのです。もし弟子でないならば、善を行なうことはできません。宣教師でもありえません。信仰を伝達することもできません。わたしたちは皆、弟子であり宣教師です。

キリスト教的召命の神秘的側面と、宣教的側面の間には、どちらも洗礼に根差した、解くことのできない結びつきがあります。「信仰と洗礼を受けることで、わたしたちキリスト者はイエス・キリストは神の子であると告白し、神を『わたしたちの父』と呼ばせる聖霊の働きを受け取ります。洗礼を受けた者すべては、三位一体との交わりを伝え生きるよう招かれています。なぜなら、福音宣教とは、三位一体の交わりに与るよう呼びかけることだからです」。

誰一人、自分で自分を救うことはできません。わたしたちは信じる者の共同体、神の民です。この共同体の中で、愛の体験を分かち合うことの素晴らしさを知ります。しかし同時に、わたしたちの罪や限界にも関わらず、互いに恵みを伝え合う「通り道」となることが必要です。共同体的側面は、添え物や飾りではなく、キリスト教生活、証しと福音宣教に不可欠な要素です。キリスト教信仰は、教会の中で生まれ、生きるのです。洗礼において、家庭や小教区は、新しいメンバーのキリストへの、そしてキリストの身体である教会への一致を祝うのです。

神の民にとっての洗礼の重要さを語る上で、日本のキリスト教共同体の歴史は模範となるものです。日本のキリスト教徒たちは、17世紀初頭から厳しい弾圧を受けました。これによって多くの殉教者を出し、司祭たちは追放され、信者たちは殺害されました。日本に司祭はいなくなってしまいました。皆、追放されてしまったのです。そこでキリスト教共同体は、潜伏生活に入り、隠れた生活の中で信仰と祈りを守ったのです。子どもが生まれるとお父さんやお母さんが洗礼を授けていました。なぜならすべての信者は、特別な状況においては、洗礼を授けることができるからです。

そして2世紀半、250年の後、日本に宣教師が戻った時、何万人ものキリスト教徒が発見され、教会は再び花開くことができました。彼らは洗礼のおかげで生き残ったのです。これは偉大なことです。神の民は子どもたちに洗礼を授け、それが続くことによって、信仰が伝えられていくのです。日本の信者たちは、隠れながらも、強い共同体の精神を保ち続けました。なぜなら洗礼が彼らをキリストにおいてただ一つの体としたからです。信者たちは孤立し、隠れていましたが、常に神の民の一部でした。この歴史からわたしたちは多くのことを学ぶことができるでしょう。




テキストはバチカン放送局の http://ja.radiovaticana.va/news/2014/01/22/%E6%95%99%E7%9A%87%E4%B8%80%E8%88%AC%E8%AC%81%E8%A6%8B%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E6%B4%97%E7%A4%BC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E2%91%A1%EF%BC%88%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%94%EF%BC%8E%EF%BC%91%EF%BC%8E%EF%BC%91%EF%BC%95%EF%BC%89/gia-766441   からのものです