「学び合いの会−海外ニュース」 274号
† 主の平和
今年10月にバチカンで開かれる第3回臨時シノドス(世界代表司教会議)を前に、昨秋、全世界の司教宛に「準備文書」が送付されました。
この「準備文書」の中で、シノドス事務局は、会議のテーマの「福音宣教の観点から見た家庭の司牧的課題」について、幾つかの質問(アンケート)への回答を求めています。
このアンケートは、全ての地方教会に向けられたもので、信徒一人ひとりにとっても決して無縁のものではありません。
複数の仲間によって「準備文書」全文の翻訳が出来ましたのでお届けします。(6ページ以降が質問項目です。)
また、ご参考までにシノドスと準備文書についての解説も添付します。
添付記事
1. シノドスと、その準備文書について
2. 第3回臨時シノドス準備文書
世界代表司教会議第3回臨時総会
福音宣教の観点から見た家庭の司牧的課題
準備文書
バチカン市国 2013
T シノドス:家庭と福音宣教
主イエスからその弟子に託された全ての被造物に対する福音宣教の使命は、歴史をとおして教会の中で継続してきている今日の世界における明白な社会的、霊的危機は、社会と教会共同体を構成する重要な要素である「家庭」の福音化という司牧上の課題を投げかけている。
家庭についての福音が、このような理由で、これほど緊急かつ必要であると叫ばれたことは、いまだなかったことである。この課題の重要性は、教皇が世界代表司教会議の招集を決定している事実に反映されている。会議は次の二段階に予定されている:
第一は、2014年の第3回特別総会で、それは“status quaestionis(実情の問題点)”を定義するべく意図され、たしかな方法で家庭の福音を宣べ伝え、生きることの司教たちの諸経験と提案を集めるべく意図されている。第二は、2015年に開かれる通常総会で、個人と家庭の司牧ケアにおける実用的なガイドラインを検討する。
数年前までは耳にすることのなかった問題が、今日の様々な状況によって表面化している。
それは、結婚に至らない、時として結婚そのものを否定する「同棲」カップルの増加に始まり、同性間の結合、しかもその二人に養子が認められることも少なくない状況まで、さまざまである。
教会の関心と司牧ケアを必要とする多くの新しい状況には、次のようなものがある:
異宗教間の結婚、片親の家庭、一夫多妻または一妻多夫、後日に問題を残す新婦の持参金(その持参金は往々にして女性の購入代価とされる。)カースト制度(インドの世襲的階級;
僧・士族・平民・奴隷の四階級がある)。結婚の絆を一時的なものと考える文化。教会に敵意を持つフェミニズムの諸形態。「家庭」の概念の移行と歪曲。「結婚」の概念の相対主義的多元論。結婚と家庭生活に関する考え方に大衆文化のメディアが及ぼす影響。結婚の誓いの恒久性と忠実性を軽視する法案の思想の根本にある傾向。代理母出産の増加(子宮借用)。人権に対する新しい解釈など。
教会内では、結婚の秘跡性や、ゆるしの秘跡の癒しの力を信じることは、その人の弱さや、全面的な自己放棄のしるしと見做される。
以上のことから、問題の緊急性をよく理解できるだろう。世界中の司教が「ペトロと共に、ペトロの下に(”cum et sub Petro”)」協力してこれらの問題にチャレンジするよう求められている。たとえば、前述のような状況の結果として、親たちが聖体拝領する姿を見たことのない子どもたちや若者が大勢いることを思い起すだけでも、今日の状況における福音宣教への挑戦が、いかに緊急事態であるかを理解するのである。そのような状況は“global
village”(地球村:通信手段などの発達で地球が狭い村のようになった)のあらゆる場所で見られるのである。
今日のこのような現実に対応する特別な方法としては、世界的に、また実存的状況の中で社会の片隅に追い遣られて苦しむ人々を思い、神のあわれみと思いやりの教えを広く受け入れることしかない。それ故、家庭に関して司牧上なされるべき決定に対しては、非常に大きな期待が存在するのである。シノドスにおけるこれらの諸課題についての考察に加え、さらに必要かつ緊急なことは、司教たちのケアに託され、人類家族全体が支えるべき人々に向けた、信者の本分としての愛(charity)の表現である。
U 家庭と教会、家庭と福音
神の愛の福音は、男女の結びつきと、子どもの恵みを求める交わりという、人間の基本的な体験を生きる人々、すなわち、家族という共同体に向かって、宣べ伝えられるべきである。結婚についての信仰の教えは、明瞭で効果のある方法で示されるべきである。それによって人々の心に達し、彼らがイエス・キリストにおいて明らかにされた神の意思に従って変わるように。
この文書の中の、結婚と家庭についての聖書からの引用は、重要な部分のみである。このことは普遍的性格のものに限られる教導権文書からの引用についても同じで、それには、(家庭司牧を推進し、教会と社会における家庭の権利および尊厳を擁護する)「家庭評議会」からの文書引用も含まれる。シノドス参加司教が、その司教協議会からの引用をするときはそれぞれの裁量に任される。
どの時代にも、また様々な異なる文化の中でも、司牧者の教えは明白であり、信者の具体的な証し(証言)を欠くこともなかった。それぞれに多様な事情の中で―男も女も―彼らの人生と子どものために、この上なく大切な恵みとして家庭の福音を生きてきたのである。
次回の臨時総会のための準備文書(commitment)は、このメッセージを人々に強く、深く伝えたいという願いに触発され、支えられている。これは啓示憲章26「教会に委託された啓示の宝が人々の心をますます満たすように」との願いによるものである。
訳注:DV:「神の啓示に関する教義憲章」Constitutio Dogmatica de Divina Revelationeを略して
「啓示憲章」(DV)とする。(これは「神の言葉」(Dei Verbum)で始まるので、その頭文字を
取ってDVと略する.) DV26の訳は南山大学訳による。
神の計画、創造主と贖い主
家庭についての聖書の美しいメッセージは、そのルーツを”男と女の創造”にもつ。男も女も共に神の似姿に造られた。(創1:24-31; 2:4-25) 結婚する者は、固い秘跡の絆に結ばれ、結婚において、愛、父性、母性、そして神の創造のみ業に参加する至高の尊厳を体験する。
結婚の結束の恵みの中で、二人は人類の将来のための別の人間を育て、教育する責任をとることになる。生殖を通して、男と女は信仰において、創造の保護と人間家族の成長において、神の協力者としての使命を充たすのである。
使徒的勧告「贖いの秘儀の光のうちに」(Familiaris Consortio 1981)の中で、福者教皇ヨハネ・パウロ2世は、この局面について次のように述べている:
「神はご自分の似姿に人を造られた。(創1:26, 27):愛を通しての存在に人を招きながら、神は同時に人を愛のために呼ばれた。神は愛である。(cf. 1
Jn 4:8 :愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。) そして神ご自身は神格的愛の交わり(personal loving communion)の秘儀を生きておられる。神はご自身の似姿に人類を創造され、その存在を保たせながら、男と女の人間性における使命(天職)とその能力と責任を、愛と一致において刻まれた。(Gaudium
et spes, 12)それゆえ、愛は、全ての人間にとって基本的な、天賦の使命なのである。」
訳注:世界憲章12項「神の像である人間」参照。「神は人間を孤独なものとして造ったのではない。神は最初から「人間を男と女につくった。」(創世記 1:27)のであり、かれらの共同生活は人格的交わりの最初の形態である。人間はその深い本性から社会的存在であり、他人との関係なしに生活することも才能を発揮することもできない。」訳は南山大学訳による。
創造主である神のご計画は、原罪によって中断されたが (創 3:1-24)、選ばれた民の出来の歴史を通してそれを明らかにされた。時が充ち、(up to the
fullness of time)神の子の受肉を以ってそれを明らかにされたのである。それは、約束された救いをもたらす神の意思だけでなく、その同じ意思によって恵みをもたらす贖いとして明らかにされたのである。
神の御子、御言葉は肉となり(ヨハ1:14) 乙女である母の胎内に宿られ、ナザレの家庭の中で成長し、カナの婚礼に立ち合い、その最初の「しるし」 (ヨハ2:1-11)
を以って祝宴に重要性を加えた。喜びの内に、彼は進んで弟子たちの家に迎えられ (マコ1:29-31; 2:13-17)、肉親を失い悲しむベタニアの友人の家族を慰めた。(ルカ
10:38- 42; ヨハ11:1-44 )
イエス・キリストは、再び神の一つのご計画を示して婚姻の美しさを回復された。それはイスラエルの民の伝統の中でさえも、人間の心の頑なさのために放棄されていたのであった。(cf.
Mt 5:31-32; 19:3-12; Mk 10:1-12; Lk 16:18) 始まりに立ち戻って、イエスは、相手の拒否と姦通の誤りを明らかにされて、夫と妻の一体性と誠実さを教えられた。
人間の愛の特別な美しさ―それは既に、雅歌が描き出す高揚感の中で祝福され、ホセアやマラキのような預言者が求め慈しんだ結婚の絆 (ホセア1:2, 3.3、マラキ2:13-16)
によって祝福されているが?まさにその美しさを通して、イエスは、男と女が結婚によって育む愛の根源的な尊厳を確かなものとされたのである。
家庭についての教会の教え:
初期の教会共同体においても、家庭は「家庭の教会」として現れている。(cf. CCC, 1655) 訳注:CCC=The Catechism of the
Catholic Church
http://www.holyredeemerbray.ie/understand-faith-articles-blogs-parish/213-teaching-on-family
新約聖書の使徒書簡に示されたいわゆる「家族訓」の中では、古代世界の大家族は、夫と妻、親と子供、富裕者と貧困者の間の深い意味での連帯の場として性格付けられている。(エフェソ
5:21-6:9; コロサイ3:18-4:1; 1テモテ2:8-15; テトス2:1-10; 1 1ペトロ2:13-3:7; &フィレモンへの手紙参照)。
訳注:In the so-called “family canons” of the Apostolic letters of the New Testament,:
コロサイの信徒への手紙の中の、信徒の「家庭訓」:この手紙の前半は教理とパウロの使命について、後半は真の福音に従う教会と信徒の家庭訓を教える内容である。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/sinyaku.html
とりわけ、エフェソの信徒への手紙の中では、男と女の間の結婚の愛を、この世におけるキリストと教会の愛を示す“偉大な神秘”として認めている。(エフェソ5:31-32):
(「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。
わたしは、キリストと教会について述べているのです。 )
幾世紀もの間、とりわけ近代から現在に至るまで、教会は、その土台を築いた家庭と結婚について継続的に教え、その教義を発達させ、滞ることはなかった。その最高の表現は第2バチカン公会議の現代世界憲章Gaudium
et spesに示されている。その第二部の「若干の緊急課題」では、社会を構成する家庭の大切さを述べて、一つの章全てを結婚と家庭の尊厳の振興に当てている。:「家庭は種々の世代が集まって、英知を深め、個人の権利を社会生活の種々の要請に調和させるよう互いに助け合う所であるから、社会の基礎である。」(GS,
52)
とりわけ心を打たれるのは、夫婦の信仰生活におけるキリスト中心の霊性へのアピールである。
「夫婦自身も、生きた神の似姿につくられ、人間の真の尊厳を持つものとして、同じ愛情、同じ考え、相互の聖化に一つにむすばれなければならない。こうして生命の原理であるキリストに従う者となり、喜びと犠牲を伴う自分たちの召命の中に、その忠実な愛を通して,生が死と復活をもって世に啓示した愛の秘儀の証人となるであろう。」(GS,
52)
第2バチカン公会議の後、ペトロの後継者たちはこの結婚と家庭についての教えを豊かにした。とりわけ教皇パウロ6世は、特定の原理とガイドラインを示す回勅「フマネヴィテ」(人間のいのちについて)によってこれに寄与した。
その後に、教皇ヨハネ・パウロ2世は、使徒的勧告Familiaris consortio (家庭 愛といのちのきずな)の中で、結婚の愛と家庭の基礎的真理における神の計画を示すことを強調した。
「その真理全体においてこの自己犠牲が可能となる唯一の“場”は、結婚である。それは、自由に意識を以って選ばれる結婚の愛の誓約であり、それによって男と女は、神ご自身の意向である親密な共同体を受容する。」(cf.
Gaudium et spes, 48) そしてそれは、この光の中にのみ、その真の意味を明らかにする。
訳注:48項「婚姻と家庭の聖性」(南山大学訳):「夫婦によって結ばれる生命と愛の深い共同体は、創造主によって設立され、法則を与えられた。それは結婚の誓約、すなわち撤回できない個人的同意を基礎とする。こうして配偶者が互いに自分を与え、受ける人間行為によって、神の制定による堅固な制度が教会の前にも生まれる。」
結婚制度は、社会または権力による不当な干渉ではなく、また一形態の付帯的な付加でもない。それはむしろ結婚の愛の誓約の内面的要件であって、創造主である神のご計画を完全に忠実に生きるために唯一の排他的関係として公的に確言される。この忠実さにより制限されることなく、人の自由は、あらゆる主観主義または相対主義に対して確保され、創造的知恵の分担者となる。」(FC,
11)
カトリック教会のカテキズムは、この教えの基本的側面を一つに集める。「結婚の契約によって一人の男と一人の女とが、いのちと愛とによる親密な共同体を形づくりますが、この結婚は創造主によって設立され、独自の法則を与えられています。結婚は本質的に夫婦の善益と子供の出産および教育とに向けられています。受洗者同士の結婚はキリストによって尊い秘跡にまで高められました。」[第2バチカン公会議・現代世界憲章48;教会法1055参照]
(CCC 1660).
このカテキズムによって示される教義は、(第2部第3章第7項の)「結婚の秘跡」(1601-1658)、
及び(第2部2章第6項)「第6のおきて」(2331-2391) の、二つの別々な表題の下に展開された神学的原理と倫理的行動にふれる。このカテキズムの関係箇所を注意深く読むと、信仰の教義の最新の理解を得ることが出来、それは現代の挑戦に直面する教会の働きの助けとなる。
教会の司牧者は、神のご計画の一部としての結婚の真理にインスピレーションを見出す。神は男と女を創造し、時が満ちるとイエスにおいて、秘跡のレベルにまで高められた夫婦の愛の完全性が啓示する。互いの一致に基づいたキリスト教信者の結婚は、配偶者の善意と義務のような、自ずから生まれる効果が与えられる。同時に、結婚によって罪の効果から免がれるわけではない
(創3:1-24)、それは深い傷の原因や、秘跡の尊厳を傷つける原因となり得る。
教皇フランシスコの最近の回勅「信仰の光」(Lumen fidei)は、信仰が「人々の間に神が現存されるとき、その絆がどれほど固いものか」を、いかに啓示するか考察する文脈の中で、家庭について語っている。(LF,
50).
「信仰が人間の都市(human city)を啓発する最初の環境背景は家庭にある。わたしは結婚における男性と女性の安定した一致を第一に考える。この一致は、神の愛のしるしと現存としての彼らの愛の誕生であり、そして性的分化の善性の認知と受容のしるしなのである。それによって配偶者は一体となることができる。(創
2:24) そして新しい生命に誕生を与えることができる。それは創造主の善性、知恵と愛の計画の明示なのである。
この愛の大地の上に立って、男と女とは、彼らの全面的な生活(いのち)に従事し、そして信仰の特色を映し出すジェスチャーの中で互いに相互の愛を約束できる。
我々が、自分の考えや見通しを超える大きな計画をさとる時に、永遠の愛を約束することは可能である。それは、我々が愛する方のために自分の将来を全面的に差し出すときに我々を支え、我々にそれを可能ならしめる計画である。」(LF,
52)
「信仰は、臆病者の逃げ場ではなく、我々の生活を高める何ものかである。それは我々に愛の使命である壮大な召命を気づかせる。それはこの愛が信ずるに足るものであり、抱く価値があることを保証する。なぜならばそれは神の忠実さに基礎を置いているからである。それは我々の全ての弱さを覆って余りある。(
LF, 53)
V 質問
下記の一連の質問は、個々の教会が臨時シノドスの準備に積極的に参加するためのものである。臨時シノドスの目的は、現代の家庭に向き合う司牧のチャレンジという文脈での、福音宣教にある。
1.聖書と教会の教導権における、家族に関する教えの普及
a) 聖書や現代世界憲章、使徒的勧告「家庭愛といのちのきずな」、その他公会議後の教導権についての文書に記載されている家庭の価値に関する教会の教えは、現代の人々にどう理解されているかを記述して下さい。家庭生活についての教会の教えに関して、どんな情報が人々に与えられていますか?
b) 教会の教えが知られている場合には、それは、十分に受け入れられていますか?
或いはそれを実践するのに困難がありますか。もしあるとしたら、それは何ですか?
c) 全国レベル、教区レベル、小教区レベルで、司牧プログラムの中の教会の教えは、どの程度広く知られていますか?
家庭についてどんなカテケージスがなされていますか?
d ) この教えは、どの程度まで?とりわけどんな側面が?教会の外で実際に知られ、受け入れられ、拒絶される、あるいは批判されていますか?
家庭に関する教会の教えを十分に受け入れることを妨げている文化的要因は何ですか。
2.自然法による結婚
a) 自然法の考え方は、社会文化的領域、すなわち制度、教育、学界、および一般の人々の間で、どのような場を得ていますか? どのような文化人類学的な考え方が、家庭の自然原理についての議論の根拠になっていますか?
b) 男女の結びつきにおおける自然法の考え方は、受洗者に受け入れられるように、一般にも受け入れられていますか?
c) 男女の結びつきにおける自然法の理論と実践は、家庭の形成の観点からどのように挑戦されているでしょうか?
それは、世俗的制度と教会制度の中で、どのように提示され、発展しているでしょうか。
d) 教えを実践していないカトリック信者、あるいは信仰を否定している人が結婚の祝福を求める場合に、この司牧上の課題はどのように取扱われるのかを記述して下さい。
3.福音宣教における家庭の司牧的ケア
a) 結婚の準備に関して、ここ数十年間、どのような経験をしてきましたか?
夫婦と家族が福音宣教の務めを果たすために、どのような努力がなされていますか?
どのようにすれば、家庭が「家庭の教会」であるという気づきを広めることができますか?
b) 生活環境の複雑さや現代文化の中で耐えて信仰を守るため、家庭内での祈り方をどのように上手に提案できていますか?
c) 現在の世代的危機の中で、キリスト教信者の家庭は、信仰を伝えるという召命をどのようにして果たしてきたのでしょうか?
d) 地方の教会や、家庭の霊性の諸運動は、どのようなやり方で、模範となる行動の方法を生み出してきたでしょうか?
e) 夫婦およびその家族が、今日の夫婦やクリスチャン家庭という信頼に足る全体論的な考え方を広めるために貢献できる具体策は何でしょうか?
f) 教会は、安定した夫婦や危機的状況にある夫婦の支援に、どのような司牧ケアを行って来ましたか?
4.一定の困難な結婚生活の状況における司牧的ケア
a) あなたの教会では、婚前同棲(cohabitation ad experimentum)は司牧上の現実課題になっていますか? その比率を概算できますか?
“ad experimentum”とは“実験的”の意味で、新しいことがらの試行期間を表します。
b) 宗教上、民法上、認められない結びつきがありますか?
信頼できる統計値が入手できますか?
c) 別居夫婦、および離婚後再婚した人々が、あなたの教会の司牧の現実になっていますか?あなたは、その比率を概算できますか?
あなたはこの状況を適切な司牧プログラムで処理するためにどのように扱っていますか?
d) これらのすべての場合において、受洗者はそのような変則的状況の中でどのように暮らしていますか?
彼らはこの変則状況に気づいていますか? 単にそれには無関心なだけでしょうか?
彼らは、聖体拝領ができないことに差別感をもち、苦しんでいますか?
e) 離婚して再婚した人々は、教会に対して、聖体拝領の秘跡と和解の秘跡(告解)に関してどんな問題を提起していますか。このような状況にあるそのような人々のうち、何人がこられの秘跡を求めていますか
f ) 「結婚契約の無効宣言を認める教会法上の手続き」の簡素化は、関係者の問題解決に積極的な貢献をするでしょうか? もしそうなら、どんな形式をとるのがいいのでしょうか?
訳注: カトリック教会における婚姻の無効(wikipedia):カトリック教会では、伝統的に信徒の婚姻関係は神の前で結ぶものであり、その解消、すなわち離婚はできないと教えてきた。それにも拘わらず特別な場合に限っては「婚姻の無効」が認められることがある。しかし、カトリック教会での「婚姻の無効」は「離婚」と同義ではない。つまり、「結婚が成立した上でその関係を解消する」離婚とは異なり、婚姻の無効は「結婚成立の時点へさかのぼってその是非を問う」からである。婚姻の無効を実質的な離婚の手段として濫用することは、カトリック教会における本来の意図から離れたものであるため、「婚姻の無効」は簡単には認められない。カトリックの伝統的な婚姻観は(旧約聖書の「創世記」にあるように)神の前で男女が一体になる」ものであることを示すものである。カトリック教会のカテキズム1629条には「このような理由により、カトリック教会は教会裁判所による厳密な審査のあとで婚姻の無効(婚姻関係そのものが成立していなかったということ)を判断することができる。その場合、婚姻の無効が成立した二人は自由に結婚することができる。」とある。カトリック教会の中でも、この婚姻の無効の成立によってその夫婦の間に生まれた子どもが正式な子どもと認められなくなるのではないかと危惧するものもあるが、教会法1137条は婚姻の無効が成立した場合でもその子どもは正式な婚姻の下に生まれたものとして認められるとしている。カトリック教会においての婚姻の無効の認定は、法的な離婚とは別種のものである。とはいっても教会が婚姻の無効を認めるほどのケースであれば、法的にも離婚が成立し、事実上離婚している場合がほとんどである。もし結婚しようとする者に、かつて結婚した事実を示すものがあるなら、カトリック教会ではその婚姻の無効が認められない限り結婚式をあげることができない。それはどちらかがカトリック教会でないところで結婚していた場合でもそうである。カトリック教会では、洗礼を受けたもの同士が自由意志によって婚姻の関係を結んだ場合、決して解消することができないとみなしている。
g) これらの事例の処理をする司牧は存在しますか? その司牧手続きを記述して下さい。全国レベルや教区レベルでのそのようなプログラムが存在しますか?
教会は、別居者および離婚・再婚者に対して、神の憐れみをどのように宣言し、彼らの信仰の旅路においてどのような支援を行っていますか?
5.同性同士の結びつきについて
a) 貴国には、民法上、同性同士の結びつきを認め、それを何らかの形で結婚と同等と見なす法律がありますか?
b) 同性者の結びつきの合法化を推進する人、およびこの種の結合(訳注、以下同性婚)の当事者の双方に対し、あなたの教会、および個々の諸教会はどのような姿勢をとっていますか?
c) そのようなかたちで生きる選択をした人々に、どのような司牧的配慮を払うことができますか?
d) 養子をとった同性婚の場合信仰を伝えるという観点から司牧上何ができるでしょうか?
6.非正規の結婚における子どもたちの教育
a) 通常の結婚家庭で生まれ育つ子どもとの比較で、変則的な結婚の家庭で育つ子どもや青年の比率はどれくらいですか?
c) 同性婚の親をもつ子どもに対して、個々の教会は、両親の求める子どもへの信仰教育のニーズにどのように応じる試みをしていますか?
d) これらの場合の秘跡の扱いについて、準備や、秘跡の授与とそれに伴う事柄の手続きはどのようになされていますか?
7.いのちに開かれた結婚カップル
a) 今日、キリスト教信者は、責任ある親であることについて、パウロ6世の回勅フマネ・ヴィテ(Humanae vitae:人間の生命について - 産児制限について)の教えをどの程度知っていますか? 彼らは家族計画の様々な方法を道徳的に判断する方法を知っていますか?
この点に関して、司牧上何らかの洞察・識見を示唆できるでしょうか?
訳注:家族計画(family planning)は、家庭毎の、いつ・どれだけ子どもを持つかという計画をいう。主に避妊(birth control、contraception)により行われ、人工的方法(避妊具、避妊薬、手術など)と生理的変化を利用した自然避妊方法とがある。教皇パウロ六世の回勅“フマネ・ヴィテ”は
「きずなをはぐくむ側面と生殖にかかわる側面は不可分の関係にあり、両側面とも婚姻行為に内在します。神がお定めになったこの関係を人が恣意的に破壊することは許されません」と述べる:
b) この(フマネ・ヴィテの)倫理的教えは、貴地では容認されていますか?
この教えを容認する大多数の夫婦にとって、もっとも困難な側面は何ですか?
c) フマネ・ヴィテの教えを実践する配偶者たちを助けるために、個々の教会ではどのような自然な(避妊の)方法を推奨していますか?
d) 「ゆるしの秘跡」や「聖体拝領」の実践において、この(避妊の)テーマに関してどんな体験をしましたか?
e) この点に関して、教会の教えと一般の市民教育との間にどんな相違が見られますか?
f) 子どもを持つことへのもっと自由な態度(open attitude)はどのように養成できるでしょうか。出産を促進するにはどうしたらいいでしょうか?
8.家庭と、個人の人格との関係
a) イエス・キリストは、人間の人格の神秘と召命を明らかにしました。家庭は、どうすればこのことを実現する特権を与えられた場となることができるでしょうか?
b) 現代の家庭において、一個の人格とキリストとの出会いを妨害する危機的状況とはどのようなものでしょうか?
c) 人々が体験する多くの信仰の危機は、家庭生活にどの程度まで影響を及ぼしていますか?
9.その他の課題と提案
この他に、上記の質問の話題と関連するどんな課題と提案が緊急に処理すべきであり、また処理する価値があるとお考えですか? (以上)