見事な聖書の構成プラン

年間第 9 主日 A 年) 聖書黙想  2011/3/6  トマス・ロシカ師

 

今日の第一朗読の申命記( 11:18,26-28 )は、今日の(三つの)聖書朗読のお膳立てをすると共に、過去数週間にわたって読み続けてきた聖書全体を広く見渡す視点と、マタイ福音書を深く理解する手掛かりを与えてくれます。それらは、 3 9 日の(灰の)水曜日に(年間典礼暦における)通常の季節を中断し、四旬節に入る準備をするにふさわしい朗読箇所です。

 

今日、わたしたちは、モーセが民にこう話しかけるのを聞きます。「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちと無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。」

 

神は御言葉と命令を用いて、ご自分のいのちそのものをわたしたちに伝え、わたしたちを真理へと導きます。わたしたちはしばしば、その主の御言葉と命令を用いて死を伝え、真理を覆い隠します。

 

モーセとイエス

この数週間でわたしたちは、山上の説教が、明らかにマタイによる優れた構成作品であることを学んで来ました。マタイ福音書のイエスほどに、神の力と権威を持って教え、全く新しい生き方を可能にしてくれる道徳の教師は他には居ません。マタイは、モーセとイエスの類似点をいくつも示しています。古代イスラエル国家の創始者であるモーセは、シナイ山で神と出会いました。新約聖書の啓示者であるイエスは、ガリラヤの山の上で弟子たちに語りかけます(マタイ 5:3-12 )。キリスト者にとって十戒に代わるものとして、真福八端( 5:3-1 )が生活の規範として掲げられます。これは、わたしたちの生活の中心となるものをはっきりと表現しています。

 

わたしたちは、マタイの共同体の中で宣言され、生かされている真福八端の内に、貧しさや飢えを苦しみとしない人々も居るということを学んできました。マタイは、そのような人々の姿勢が神の国にふさわしいものである限り、イエスは彼らの運命も気にかけてくださると保証します。また、マタイ福音書のイエスは、律法を廃止せず、むしろ何故その律法が設けられたかを理解するまでの、より深い法の遵守を求めています。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」( 5:48 ) イエスとその弟子たちの義(正しさ)は、律法学者やファリサイ派の義を超えるものでなければならないのです。イエスは、そのような信念と威信をもって語り、ご自分がモーセよりも権威ある者であると示唆し、シナイ山で神が与えた約束のすべてにより、(新しい)律法を制定しているかのようです。

 

マルコが、イエスを十字架につけられたキリストとして受け入れ、イエスに従って厳しい自己否定の道を歩むことを受け入れる必要性を強調しているのに対して、マタイは、イエスの道徳上の教えに従うことで主への一途な献身を表明することを強調しています。律法学者やファリサイ派の義にまさる義( 5:20 )とは、イエスの教えを知っていることではなく、イエスの教えに従って行動することにあります。

 

岩の上に建てられた家

今日の福音( 7:21-27 )には、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」とあります。

イエスの時代には、自分の家を、高い場所の岩の上にしっかりと建てずに、砂地や低い場所に建てるなどは考えられないことでした。大雨の後には毎回激流が襲い、進路にあるものをすべて洗い流してしまいます。イエスが、これらの言葉を語ったのは、多分パレスチナで、豪雨や嵐のために建物が流されるのを実際に見たからでしょう。

 

イエスは、家と建築について二つの見方を示します。家を砂の上に建てるということは、希望と確信を、不安定で脆いもの、時という試練、偶然という危険に抵抗できないものの上に置くことを意味します。

 

それはどんなものでしょうか? お金、成功、名声、さらには健康や繁栄といったものも含まれるでしょう。家を岩の上に建てることは、自分の生活と希望の基礎を、頑丈で、長持ちし、時という風にさらわれないものに置くことを意味しています。イエスはわたしたちに、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」ことを思い出させます。(マタイ 24:35

 

家を岩の上に建てることは、すなわち、自分の人生を神の上に建てるということです。神はわたしたちの救いの岩です。岩は、聖書が神について語るときに好んで用いられる象徴の一つです。「どこまでも主に信頼せよ、主こそとこしえの岩。」(イザヤ書 26:4 ) 「主は岩、その御業は完全で / その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく / 正しくてまっすぐな方。」(申命記 32:4 ) 自分の家を岩の上に建てることは、教会の中で生きることを意味します。教会が堕落、不正、罪に満ちあふれているというからという口実で教会の周辺に留まり、教会から距離を置くことではありません。

 

今日の福音には、大変厳しいメッセージもあるように思われます。福音記者マタイは、イエスを自分たちの主と呼ぶ人々について初めて触れています。人の行う業が、主のためではなく、自分の名誉のためだとしたら、「主よ、主よ」と叫ぶことは何の役に立つでしょうか。わたしたちが「主よ」と叫ぶときには、それは、わたしたちが、一時的な知り合いではなく、常に主のものであるということを真に意味します。主が、主の名を叫ぶ人々を知らないと言い自分の前から去らせるとき、実際には、人々が御父から離れてほしくないという、イエスの心からの望みを表現しているのです。見られるため、尊敬されるためだけに、主の名において行動するけれど、主と親しく交わることを拒否する人々は偽りです。神の御言葉に耳をふさぎ、それに従って行動しない人々、生活を神の上に築かない人々は消え去るのみです。

 

信仰による義化

カトリック教会は、聖書に示されているように、義化と贖いは、イエスの死と復活によって神から与えられた恵みを通して来ると宣言しています。人間は、自力で贖いや救いを受けることはできません。また、善行を通してそれを勝ち取ることもできません。善い行いは、キリストのうちに行われた神の贖いの業に応える神の恵みによってなされるものです。従って、キリストは、神と人間との間を取りなす唯一のお方です。

                    訳注: 「義化」 信仰によって義とされること。プロテスタントは「義認」と訳す。両者の意味は厳密に                 は異なる。 ( cf. ローマ 3 21-31  ガラテア 2 16-17 3 24-25 ) 

 

今日の第2朗読の、聖パウロのローマの信徒への手紙( 3:21-25,28 )には、パウロの「福音」についてのはっきりとした宣言が書かれています。それはすなわち、キリストへの信仰によって義とされるという原則です。神は、人類を絶望的な状態から救い出す方法を見つけました。この神の導きに対してパウロが使った一般的向けの言葉が神の義(ローマの信徒への手紙 3:21 )なのです。

 

神の憐れみは、罪人が無罪であると宣言し、そのように(罪人を無罪に)します。神はこれを律法に依らず、律法から離れて行います。そしてそれは、人間の功徳の故ではなく、罪の赦しを通して( 3:24 )、すべての信じる者のためにイエス・キリストのうちに働く贖いの故になされるのです( 3:22,24-35 )。

神は、イエス・キリストの到来によって、その義を表明しました。そして、イエス・キリストの救いの働きが、人間の歴史に新しい時代の到来を告げるのです。

 

御言葉を受け取る

今日の福音に照らされて、「神のみことば( Verbum Domini )」についての黙想を続けましょう。

「教会生活と宣教における神のことば」の司教会議のテーマを受けた使徒的勧告 Verbum Domini の第 2 項を考察します。

 

「主がみことばを告げるのは、その同じみことばを『通して』創造された世界(人間)に、それを受け取らせるためです。 『言(ことば)は、自分の民のところへ来た』(ヨハネ 1:11 ): そのみことばは、基本的に、わたしたちが受け入れられないものではありません。そもそも創造は、神ご自身のいのちとの親しい関わりにおいて意図されたものです。しかし、ヨハネ福音書のプロローグは、『言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった』(ヨハネ 1:11 )と、わたしたち人間の側の拒絶を指摘します。受け入れないということは、その声に耳を貸さないこと、神のみことば(ロゴス)に従わないことを意味しています。」

                    訳注:  ヨハネ 1: 10   言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。

                    11  言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12   しかし、言は、自分を受け入                れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13   この人々は、血によってではな                 く、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 14   言は肉                     となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄                     光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

「その一方で、人間はいかに脆く、罪深いものであっても、キリストとの出会いに真に心を開くならば、根本的な変化が始まります。『しかし言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。』(ヨハネ 1:12 ) みことばを受けいれることは、キリストによって自分を形造り、さらに聖霊の力によって、『父の独り子』キリストに一致することを意味します。(ヨハネ 1:14

それは新しい創造の始まりです。新しい被造物が生まれ、新しい民が誕生します。信じる者、すなわち信仰の従順に生きる者は、『神によって生まれ』(ヨハネ 1:13 )、神のいのちに与る者、神の御子の子供になるのです。」( cf. ガラテア 4:5-6; ローマ 8:14-17

                    ガラテア 4: 5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためで                 した。 6   あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心                     に送ってくださった事実から分かります。

                    ローマ 8: 14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 15  あなたがたは、人を奴隷と               して再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、                     「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたち                     の霊と一緒になって証ししてくださいます。 17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続                     人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからで                     す。

 

「聖アウグスティヌスは、ヨハネ福音書のこの箇所について次のように見事ににコメントしています: 

 『あなた方はみことばを通して創造されたが、今や、みことばを通して蘇らなければならない。』

わたしたちは、このアウグスティヌスの言葉の中に、『 肉となって、わたしたちの間に宿られた』神のみことば(ヨハネ 1:14 )を受入れることによって浮かび上がる、真の教会の姿を垣間見ることが出来ます。私たちの中の神の住まい、その幕屋(シェキ−ナ)は、旧約聖書にあらかじめ示されており(出エジプト 26:1 )、今やそれが、キリストにおける神の確かな現存によって成就されたのです。( No. 50 )」

 

 

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聖書朗読:

 

申命記 11:18, 26~28, 32 あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、 11:26 見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。 11:27 あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、 11:28 もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。 11:32 今日、わたしがあなたたちに授けるすべての掟と法を忠実に守らねばならない。

 

ローマ 3:21-25a, 28 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

 

マタイ 7:21-27 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

BEST PRACTICES FOR BIBLICAL CONSTRUCTION PROJECTS

Biblical Reflection for 9th Sunday in Ordinary Time A, By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, MARCH 1, 2011 Zenit.org .- Today's first reading from the book of Deuteronomy 11:18, 26-28 sets the stage for our Scripture texts today, and offers us a wide-angle view of the biblical journey of the past weeks and a lens into Matthew's Gospel. They are very fitting readings as we interrupt ordinary time and prepare to enter into the season of Lent on Wednesday, March 9.

 

Today we hear Moses addressing the people: "I set before you here, this day, a blessing and a curse: a blessing for obeying the commandments of the LORD, your God, which I enjoin on you today; a curse if you do not obey the commandments of the LORD, your God, but turn aside from the way I ordain for you today, to follow other gods, whom you have not known."

 

God uses his word and his commandments to transmit his very life to us and to lead us into the truth. We often use the very words of the Lord and his commandments to transmit death and hide the truth!

 

Moses and Jesus

Over the past weeks, we have seen that the Sermon on the Mount is clearly Matthew's greatest composition. More than any other teacher of morality, the Jesus of Matthew's Gospel instructs with divine power and authority, and makes possible a completely new existence. Matthew offers us many parallels between Moses and Jesus. Moses, the architect of ancient Israel, encountered God on Mount Sinai; he New Testament revealer speaks to his disciples on a mountain in Galilee Matthew 5:3-12 . For Christians, next to the Ten Commandments, the Eight Beatitudes 5:3-1 are held up as the Magna Carta of Christian living, expressing clearly the core of our life.

 

We have learned that in the beatitudes proclaimed and lived in Matthew's community, there are some people who are not suffering from poverty and hunger. Matthew assures us that Jesus is also concerned about their lot, as long as their attitudes are attuned to the kingdom. We have also observed that the Matthean Jesus does not abolish the Law, but rather asks for a deeper observance that gets to the reason why its demands were formulated: "to be perfect as your heavenly Father is perfect" 5:48 . The righteousness of Jesus and his disciples must go beyond that of the scribes and Pharisees. J esus speaks with such confidence and credibility and implies that he is more authoritative than Moses and seems to legislate with all the assurance of the God of Mount Sinai.

 

Whereas Mark emphasizes the necessity of accepting Jesus as the crucified Christ and following him on the stark path of self-denial, Matthew emphasizes manifesting one's single-hearted devotion to the Lord by obeying his ethical instructions. The righteousness that surpasses that of the scribes and the Pharisees 5:20 consists not in possessing the teachings of Jesus, but rather in acting upon them.

 

House built on rock

In today's Gospel we hear 7:21-27 : "Everyone who listens to these words of mine and acts on them will be like a wise man who built his house on rock. The rain fell, the floods came, and the winds blew and buffeted the house. But it did not collapse; it had been set solidly on rock. And everyone who listens to these words of mine but does not act on them will be like a fool who built his house on sand. The rain fell, the floods came, and the winds blew and buffeted the house. And it collapsed and was completely ruined."

At the time of Jesus, it would make no sense to build one's house on sand, or in a low place, instead of building it on a higher place, firmly constructed on the rock. After each heavy rain, a torrent would come and wash away anything in its path. That Jesus spoke these words was probably due to the fact that he himself saw structures carried away by heavy rains and storms in Palestine.

 

Jesus offers us two perspectives on houses and construction. To build one's house on the sand means to place our hope and our certainty on things that are unstable and fleeting, things that do not resist the tests of time and the hazards of chance.

 

What are such things? Money, success, fame, and even health and prosperity. To build one's house on rock means to base one's life and hope on things that are solid, enduring, things that will not be carried away with the winds of the times. Jesus reminds us that heaven and earth will pass away, but his words will not pass away Matthew 24:35 .

 

To build one's house on rock simply means to build one's life on God. God is the rock of our salvation.   Rock is one of the preferred biblical symbols to speak of God. Trust in the LORD forever, for the LORD is the Rock eternal Isaiah 26:4 . "He is the Rock; his deeds are perfect. Everything he does is just and fair. He is a faithful God who does no wrong; how just and upright he is" Deuteronomy 32:4 . To build one's house on the rock means to live in the Church and not to remain on the periphery, at a distance, using the excuse that the Church is filled with corruption, dishonesty and sin.

 

Today's Gospel also appears to have a very harsh message. For the first time the evangelist speaks about people who refer to Jesus as their Lord. What good does it serve to cry out, "Lord, Lord" when the works one accomplishes are not done for the Lord but for one's own glory. When we cry out "Lord," it really means that we belong to him at all times, and not just as temporary acquaintances. When the Lord responds that he doesn't know those who call out his name, and dismisses them from his presence, Jesus is really expressing a heartfelt desire that he does not want people to be distant from the Father. Those who simply do things in his name to be seen and honored, yet refuse to be in communion with him are fraudulent. Those who are deaf to the Word of God, who do not act upon it, and whose lives are not built upon God will fade away.

 

Justification by faith

The Catholic Church proclaims that, just as the Bible indicates, justification and redemption come through the grace given by God because of the death and resurrection of Jesus.

Human beings cannot earn redemption or salvation. Neither is it won through good works. Good works are done through God's grace in response to God's redemptive work in Christ. Accordingly, Christ is the unique mediator between God and human beings.

 

Today's second reading from St. Paul's letter to the Romans 3:21-25, 28 provides a clear statement of Paul's "gospel," i.e., the principle of justification by faith in Christ. God has found a means of rescuing humanity from its desperate plight: Paul's general term for this divine initiative is the righteousness of God Romans 3:21 .

 

Divine mercy declares the guilty innocent and makes them so. God does this not as a result of the law but apart from it, and not because of any merit in human beings but through forgiveness of their sins 3:24 , in virtue of the redemption wrought in Christ Jesus for all who believe 3:22, 24-25 . God has manifested his righteousness in the coming of Jesus Christ, whose saving activity inaugurates a new era in human history.

 

Reception of the word

In light of today's readings, let us continue our reflections on "Verbum Domini," Benedict XVI's postsynodal exhortation on "The Word of God in the Life and Mission of the Church," and consider how the Church receives the Word.

 

"The Lord speaks his word so that it may be received by those who were created 'through' that same word. 'He came among his own' John 1:11 : his word is not something fundamentally alien to us, and creation was willed in a relationship of familiarity with God's own life. Yet the Prologue of the Fourth Gospel also places us before the rejection of God's word by 'his own,' who 'received him not' John 1:11 . Not to receive him means not to listen to his voice, not to be conformed to the Logos.

 

"On the other hand, whenever men and women, albeit frail and sinful, are sincerely open to an encounter with Christ, a radical transformation begins to take place: 'but to all who received him, he gave power to become children of God' John 1:12 . To receive the Word means to let oneself be shaped by him, and thus to be conformed by the power of the Holy Spirit to Christ, the 'only Son from the Father' John 1:14 .

It is the beginning of a new creation; a new creature is born, a new people comes to birth. Those who believe, that is to say, those who live the obedience of faith, are 'born of God' John 1:13 and made sharers in the divine life: sons in the Son cf. Galatians 4:5-6; Romans 8:14-17 .

 

"As St. Augustine puts it nicely in commenting on this passage from John's Gospel: 'you were created through the word, but now through the word you must be recreated.' Here we can glimpse the face of the Church as a reality defined by acceptance of the Word of God who, by taking flesh, came to pitch his tent among us cf. John 1:14 . This dwelling-place of God among men, this shekinah cf. Exodus 26:1 , prefigured in the Old Testament, is now fulfilled in God's definitive presence among us in Christ" No. 50 .

 

 

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