2008 年度 第 1 回「学び合いの会」例会記録
2008 年 4 月 19 日(土) 13 : 30-15 : 30 真生会館
参加者: 26 名
年間テーマ: 「社会にひびく福音」 本日のテーマ: 「豊かさと福音」 |
<発題 1>
本年度最初の初題者が、どうして私なのか?と申しますと「たまたま本日19日が出席可能で、今まで一度も話した事が無い」ということで、順番が参りました。
「豊かさとは・・?」は私の学生時代からのテーマですが、それに「福音」と付くと私にとっては、かなり重くなります。 今日は、物質的な豊かさと心の豊かさの関係についてどう考えればよいのか、私なりに考えてきたことを申し上げます。
「人はパンのみにて生きるにあらず」という教えに導かれ生きて参りました。物質的な豊かさだけでは、心が満たされないことは言うまでもないことです。
私の個人的な体験: もう30年も前になりますが、77年春シェガレ師の学生有志「アジアを旅する会」初回に参加、私は初めてアジアを旅しました。当時は海外は
JAL で行く時代、 KAL で、韓国・香港・台湾・タイを回りました。 バンコクでは、シェガレ師に交渉してちょっと抜け出し恩師のいる国連機関 ESCAP
を訪ね、さらにゼミの先輩が勤務していたユネスコの事務所にも・・そこは、まさにヨーロッパ、日本よりもむしろ近代的な内部でした。
その翌日参加メンバーで、ボートで水上マーケット。私がイメージしていたタイでした。 そこに集まって、物を売ったり、買ったりしている人たちはとてものどかで、穏やかで、満ち足りているように思えました。 その時、欧米流の「豊かさ」の基準に疑問を感じました。「心の豊かさ」があってこそ「真の豊かさ」といえるという考えは今でも私の発想の基本になっています。
今「真の豊かさ」という言葉を使いましたが、真の豊かさとは何なのでしょうか。
確かに経済的豊かになっても、人の心が貧しければ人は豊かさを実感できないでしょう。お金もあり立派な家に住み、美味しい物を沢山食べても、孤独な人は寂しく、精神的な満足を得られない。ここで「福音」が出てくるのでしょう。 私共が神の御言葉に従い生きる、日々一生懸命生活するのが「祈り」であり、神さまの御心のままに生きるなら、それが真の豊かさへの道となるのではないでしょうか。
今年の復活祭は(例年より早く)3月23日でしたが、悲しみ・耐え・待ち望む3日間があって、感動も大きく喜びも実感できるのでしょう。
「創世記」1章に神さまはお造りなられたものを<すべて良し>とされたとあります。
豊かさとは、競争社会の切り捨て主義では生まれず、弱者:人をいたわる気持ち、思いやりの心、痛みを分かち合える心をもつ人が、豊かな人であり、その集まりが豊かな社会と感じます。
年間テーマ「社会にひびく福音」で良かったです。福音「宣教」では信徒から離れ、響き合う福音なら、一緒に学び合って、神さまの御胸のままに教会や社会を良くしていこうという会の趣旨に沿っています。 発題としては、弱いかもしれませんが、たたき台になれば幸いに存じます。
<発題 2>
今回の”豊かさと福音”というテーマの”豊かさ”ということを、いわゆる物質的な豊かさと捉えるか、又は色々な面の豊かさと捉えるか考えてみました。
私は、物の豊かさから心の豊かさを持つということを考えて見ました。生活の面で恵まれていることは、ゆとりをもって、人や物事に対することが出来る反面、他の人を頼らず、関係なしに自分一人で生きられるという錯覚に陥ることになります。人は一人で生きていけるのでしょうか。人間の心を育てる芸術−例えば、絵画や音楽にふれることや、人と接しながら物を作るということは、心を癒し、深めることになると思います。ただその場合、感性が磨かれていることが必要です。
最近、ある新聞紙上で、仏教の僧侶の方だ「豊かな心とは、感謝の心、慈愛の心、敬う心、詫びの心、赦しの心」であると云われていましたが、福音的な心と共通していると共感致しました。この豊かな心は、どの様に育てられるのでしょうか。
今、社会の中で種々の陰惨な事件が多発していますが、家庭、学校、社会のあり方が崩壊しており、人間としての豊かな心が育たないのです。物質的な欲望にふりまわされ、人間の素晴らしい営みが消されてしまっています。先の僧侶の方も、こういう時に宗教者の役目があると云われ、少しずつ寺院で実践を始められているとのことです。お寺を訪ねてきた人々に、出来るだけ多く接し、説法をする様にしているとのことです。
私たちキリスト者も、一人一人が出合い、接する人々にキリストに倣う生き方を示し続けていってはどうでしょうか。社会の中で、家庭の中で、私たちの生き方が福音となって響いていくことではないでしょうか。
私は、少ない経験ですが、自分が体験し、感じたことをお話ししてみたいと思います。
この20年近く、ご病気の方、高齢者の方々にご聖体をお持ちしながら、訪問を続けてきました。お元気だった方が病気になられる、また高齢になって思う様に動けなくなった時、人は、どんなに物質的に恵まれていても、それだけでは心が満たされず、さびしい思いで人との交わりを求めておられます。お顔を合わせ、お話をし、受け入れられていることを感じる時、人は真の幸せを感じるのだと思います。ある時期、物質文明につかっていても、必ず、心の安らぎを求め、そこにとどまりたいと思います。又、ご病気や高齢の方々を持つご家族の方々も、キリスト者の接し方、行いを通して、何かを感じ、向き合って下さる様になります。
又、数年前から、新しく教会に転入された方、久しぶりに教会に来られた方など、孤独でさびしい思いをされている方々の居場所として、月に1回、ミサ後に集いをしております。そこに集まる方々は、互いに向き合い、自分の苦しみ、悩みを話せることによって、少しずつ気持ちが軽くなり、前向きに生きる力を得ていかれます。ここにも人との交わりがあります。お友達になり、”あなた一人ではないのですよ”と感じていただければと思っています。
その場は、静かに人の話を聞き、共感し、受容し、寄り添うことです。
一方、仕事の場に於いては、時代の流れに準じた対応と効率が優先されます。けれども、その中にいる人間には、生きる力、心の安らぎが必ず必要だと思います。大きな壁にぶつかったり、人間関係のトラブルなど沢山あり、それらに打ちのめされそうになります。そんな時、人からの暖かいまなざし(ことばと行為)は、本当に光となります。教会に行ってみたとか、教会でお話を聞き始めましたというお話をきき、とても嬉しく思います。
人は、より便利なもの、珍しいものに関心をもち、それを持ったり、使ったりしたいと思いますが、そのことすべてが悪いのではなく、その物に対する接し方が問われるのだと思います。
私は、自分が福音を伝えられているとは思いません。人々との関わりの中で福音化されていく様に感じています。自分の個性を知り、自分らしく、でもキリストの生き方を示せる様に、福音を信じ続けながら、歩み続けたいと思います。
<発題 3>
T. 「発題で言いたいこと」
「福音的視点からみた場合(=イエズス様)は豊かさを求め続ける、人間の絶え間ない努力を、どのよう思われているのだろうか?」
「“物質的に豊かであることを求める”のは、福音的に誤りなのか?」。
神様の人間創造、宇宙創造、エデンの園にさかのぼり、考えられたらよいな、と言うことです。
神様がつくられた 「楽園」は物質的にも豊かであったのではないですか。
「天国=神の国」はどうなのか、という投げかけです。人間はどのように社会的に生きることが求められているのかと言う投げかけです。
これまでは「福音」は「貧しさ」の視点からだけ、話されてきたと思います。「豊かさ」と「貧しさ」は表裏一体のものかもしれません。今日の話し合いは、もしかすると「豊かさ」の裏返しの「貧困」がテーマになってしまうのかも知れませんが、敢えて「物質的豊かさ」そのものから逃げないで、話し合えると良いと願っています。
U項目以下の説明及び別紙資料等は省略
<グループ別分かち合い> (各グループの簡単なまとめ)
1 G : 発題にあった「”物質的に豊かであることを求める”のは福音的に誤りなのか?」 が話題となった。神はそのようなことは決して言わないだろう。餅が一つしかないとして、ある福音の考え方では、それを皆で分け合うということになるのであろう。しかし、私は、皆の分に神はもっと大きな餅をくれると考える。それを求めて何が悪いのかというのが、私の今日の話のスタートである。
2 G :障者との関わりの中で自分が福音に沿っているのか自信が持てない、本当の豊かさから逃げていないか、福音に沿うように努力を続けたいという話があった。山上の垂訓にあるイエスの求めることを知るべきである。現代社会で心の癒しを求める人は、むしろ表面豊かな人々に多い。外資系企業の管理職で有能の人が心を病み、本当に福音を必要としているという話もあった。
心の癒しを本当に求めてる人を見逃さないようにすることが必要ではないか。
3 G : 豊かさは一つの状態である。すべての物が満たされている状態である。物質的にもある程度満たされていれば幸福感を感じるのだから、それも満たされている状態である。また、精神的に満たされる状態もあり得る。ただ心が満たされるということを考えると、それがイエスに結びついて初めて喜びを感じられるのである。
この世では、物質的に満たされるということを無視できない。物質的に満たされないと、心が満たされる状態になれないのではないか。毎日の生活の中で、物質的に満たされるということもある程度は必要であると思う。私たちの生きている社会構造には、経済至上主義、社会主義などがあり、その中で生きるしかないわけで、この社会で生きていく上で、格差は次々と出てくる。大事なことは、勝者が敗者に還元することである。それがキリスト教的なことであり、そういう循環が出来れば、格差社会が縮まるのではないか。
4 G :神に出合った体験を分かち合えるのかと思ってこの会に来たという人があった。人それぞれの体験によって、物の見方や切り口が違うのは仕方がないのではないか。外国から押しつけられたキリスト教に、日本人のよくないところが合わさって、変な神父、変な修道者が出来てきたのではないか。日本人のよいところと福音をつなげるにはどうしたらよいかがこれからの課題。
<全体会>
・ この場に教会外の人が居るのか。自分はキリスト教の信者ではない。(司会者:この場には、 A さん以外いない。)この会に関する、パンフレットやホームページには、社会に目を向けながら、教会には何が求められているのか学び合いたいと書かれている。教会外の人が居ることは許されている。それは、教会外の人に期待するものがあってのことなのか、それとも居てもいいのではないかという程度なのか、その辺が不明晰なように思う。教会外の困っている人はお客さんであるから、嫌われないし文句は言われない。しかし自分の意見を言う自分のようなタイプが居ることはうるさいのではないかと、さすがの自分でも感じる。今年度の知らせは、自分には来なかった。
自分はキリスト教を愛している。この一年もできるだけ出席し、皆様と本当にコンタクトを持ちたいと考えるがいかがなものであろうか。皆様の本音が聞きたい。
・ 自分はプロテスタントであるが、学び合いコースに参加し、その後、皆で学び合いを続けてきた。21世紀の教会ということを考え、教会は様々な矛盾を抱え、問題も多々あり、その教会をどうしたらいいのかを考えるのに、ここは大切な会である。教会にありながら、皆で教会をどうしたらいいのか考えている。 A さんは、ここの会に何を望んでいるのか。
・ 最初はプロテスタントとカトリックの違いは何かを知りたかった。吉祥寺教会で真生会館を紹介して貰った。これには感謝をしている。キリスト教は上品で、ハイカラであり、芸術の母、科学(鬼っ子)の厳父であると信じている。科学がこれだけ発展してキリスト教が衰えるのは当然であると考える人も多々居る。しかし、私はそう思わない。科学的発見によって、宇宙の仕組みが分かれば分かるほどに、かえって神なくしてこの宇宙が成り立つのかという怒りを感じている。神の「愛」とよく言われるが、自分は神の「場」としての宇宙を考えている。
・ A さんは、土曜日の午後の講座にしろ、ここにしろそこを自分の意見の発表の場としていないか。みんなで作りあげていくものであるということは確認したい。
・ 自分も節度は保っているつもりである。自分なりには一生懸命聴いている。一年前に比べ、自分の受容能力はましになってきていることに感謝している。
・ A さんような人が参加していることは喜ばしいことである。自分の考えを、時には言葉鋭く語る。どんどん意見を発表して欲しい。頑張って、休まずに来て欲しい。
・ A さんは緊張しているのではないか。
・ 緊張している。
(司会者: A さんの音楽を聴いてみるといいかも知れない。自分はそのような機会を得た。 A さんのような人が参加してくれることはいいことであるだろうが、一方、 B さんの指摘も大切なことであるかも知れない。)
・ 何時の日か A さんが私たちと同じように信仰の道に入られることがあるかも知れない。神様は分かっていらっしゃる。ここに参加されていることで、そのようなことがあるかも知れないと、自分は心の中で祈っている。
(司会者:話を社会と福音のことに戻しましょう。先ほどなかった5 G の発表をお願いしたい。)
・ 洗礼を受けて30年になる。教会のいくつかのグループに関わってきた。子育て、仕事、教会活動でまっしぐらに来た。洗礼を受けたのは遅く、実社会の体験から、もっと真実があるのではないかとたどり着いたのが教会であった。教会の糧を確かめたいと考え、教会に関わってきた。
確かに希望と信仰は失っていないが、たくさんの価値観の中で福音を見つめたとき、自分一人が福音を求めるのではなく、みんな一緒に確かめ合いたい、それを社会に還元していきたいという思いが根底にある。しかし、それが可能か疑問になり、それを整理する必要性を感じ始めた。
可能であるはずだから、それを追求するのに、この学び合いの会が発足した原点から逃げない。第2バチカン公会議から NICE T、 NICE Uの流れがあり、この会があったのだとするなら、自分の?がよりよい物であって欲しいと願う。
現在、社会に様々な問題が起きている。一方、教会では福音が語られている。この両者は本当に両立しているであろうか。現実には、自分がないがしろにしているものもある。しかし、教会で福音を語り、それが必ず地域社会に返っていくはずだという信念がある。あきらめてはいない。しかし、これからも時間とエネルギーを費やすことだろう。エネルギーをどのように使うことがよりよいことなのか、今そこに自分は留まっているところである。
・ どんなに小さいことであっても、心が突き動かされ、キリストの福音を自分のものとして生きることが大切である。仕事やボランティアの場で、相手と関わってよかったと思うことができる。簡単に言うとコミュニケーションがとれるということが、神様が自分たちに言う福音的な生き方なのではないかと思っている。自分は音楽療法をやっているが、精神障害者、認知症、統合失調症のような人たちと関わっている。間違いなく彼らの心を開かすこと出来た、彼らの笑顔を出てきたとき、よかったなと思える。これは、自分に神が与えたタレントによってやっている。これが、自然に神と繋がっているということではないかと思える。
<J.マシア師コメント>
ゆたかさについての発題と話し合いを伺ったのですが、多くの示唆を受けて豊かになったという感じです。まあ、しかし、無理にまとめるよりも皆さんの話に聞き入れながら考えさせられたいくつかの点を箇条書き程度で上げてみたいと思います。
この前の合宿での話し合いを背景に、今年のテーマを決めるための準備会で私たちは話しつづけてきました。その結果として「ゆたかさ」という今日のテーマを「福音が響きあう」こととの関連で取り上げることになりました。最初のうちは自分たちの信仰体験と日常生活の体験から話すことが多かったのですが、話しているうちにいつのまにか言葉のほうが独り歩きしたような気がします。というのは、経験についての話よりもその経験を表す表現(たとえば、「豊かさとは」「響きあうとは」)をめぐって私たちは議論をしていたのです。そこで、今日はもう一度経験の話に立ち返ったような気がします。皆さんのいろいろな体験を聞いて感動するのは言葉というものはどの深さのレベルから出るかによって聞き手の心のどのレベルまで届くかが決まるからです。とにかく、私たちは信仰体験をみなおすと同時に、それを表すために私たちが使っている表現も見直さなければならないでしょうし、言葉だけがひとりあるきしないように注意が必要でしょう。
豊かさの意味の相対化について考えさせられました。自分がおかれている豊かさのレベルとは違うレベルの者に接して初めてそれに気づきます。
豊かさ(特に心のゆたかさは)必ずしも裕福と同一視してはならないでしょうが、物質的な豊かさも大切にすることは一概に悪いとは言えないでしょう。ただ、どのようにそれを使ったり生かしたりするかが問題です。人類学者が指摘するように、進化の過程で、人間の一つの特徴は分かち合うことですが、それが現代においてともすればわすれられがちです。
豊かさに対しても貧しさに対しても、疑問を出さなければならないでしょう。福音に照らして考えるとき、私たちは福音から励まされると同時に、ゆさぶられます。豊かさに甘えてしまうとき福音から貧しさへと招かれますが、とり繕って物質的なまずしさだけにこだわるとき、むしろ物質的ゆたかさを無視しないようにさせられます。
「なれる」ということは恐ろしい面をもっています。ある裕福さのレベルになれてしまうとそれ以前の状態にもどりにくいし、人間は満たされすぎていると創造性と想像力が減ることがあります。
今日の話しあいの中で「宗教」と「無宗教」について横道にそれることがありましたが、その話題が出たことをきっかけに次の点も指摘したいと思います。つまり、いわゆる「信者か信者でないのか」ということにこだわり過ぎないようにしたいのです。たとえば、私にとって対話できる仏教者と話すほうが対話できないあるキリスト者と話すよりもやりやすいし、宗教か無宗教かという区別よりもまた宗教者の中にも無宗教者の中にも開かれた態度を持つかそれとも閉じられた態度をもつかという区別のほうがはるかに大きいです。
以上はまとめにはならないのですが、
今日の話し合いを聞きながら考えさせられた幾つかの点です。