鳥のような生き方と感じても、心を強く持とう。
年間第 7 主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/2/20 トマス・ロシカ師
今日のマタイ福音書( 6:25-34 )の朗読で、イエスは、人間に必要なもの( 32 節)の現実は否定していませんが、それを思い悩む対象とすること、要するに、その奴隷となることは禁じています。
神が、イエスが啓示した天の父であると真に覚っている人々は、人間に必要なものについてそのように思い悩むことはありません。弟子たちは、自分のことは、相応に自分で始末しなければなりませんし、自分たちが責任を負っている人々の世話もしなければなりませんが、そのような不安は、神の掟や、掟が求める(神の)義( 33 節)への献身に比べれば、それほど重要ではありません。
今日の福音の 25 節は、人間が持つ心配事の主な二点を示しています。それは、生命維持に必要な物(食べ物と飲み物)と、衣服です。食物( 26-27 節)と衣服( 28-30 節)、それぞれの分野が、新約聖書の論理に沿って取り上げられています。神が、あれほどまでに空の鳥の世話をし、その食料を確保し、野の百合も見事に着飾れるように面倒を見るのなら、天の父も、弟子たちが不足しないように、もっともっと心を砕くことでしょう。神の目から見れば、弟子たちは、空の鳥、野の花よりももっと大切なものなのですから。
イエスは、このような類比を用いることで、決して道徳的な説教をしているのではありません。そうではなく、わたしたちの想像力に訴えかけているのです。
思い悩む人
優れたキリスト教作家であり、護教論者であった C.S. ルイスは、敬虔なキリスト者でしたが、自分は生涯を通じて大変思い悩む性格であったことを認めています! ルイスは、友人への手紙にしばしば今日の福音の箇所(マタイ 6:25-23 )を取り上げてこう書き送りました。「もし神が、わたしたたちが空の鳥のように生きることを望んでおられるのなら、わたしたちの身体を鳥のようにお創りになればよかったのに。」
イエスは、さほど思い悩む人であったようには思えません。イエスは、天の父への信頼を貫いて生涯を過ごし、自分に従う者たちにも同じようにするように教えようとしました。今日の福音を通して繰り返さる表現には、「思い悩むな。」という趣旨が含まれています。( 25 、 27 、 28 、 31 、 34-2 回) この表現をもっとうまく翻訳するなら、「やきもきするな」とか「心を奪われるな」となるのでしょう。弟子たちの「物」に対する関心は尤もなことかもしれませんが、もしも、そのような関心が不安に満ちたもので、新たな富への隷属になるようなものならば、弟子たちはきっと、人々を二人の主人に仕える奴隷へと導いてしまうことでしょう。わたしたちは神に仕えるよう呼ばれていますが、真の自由を体験するためには、最も深い意味で神お一人に仕えなければならないのです。
摂理のはたらき
この日曜日の三つの聖書朗読は、わたしたちへの神の摂理のはたらきについて黙想するよう招いています。わたしたちが「神の摂理」と言う時、人間存在のすべての原動力に意味を与える神の御名、特に父であり、創造主としての神の御名を思い浮かべます。神の摂理という言葉は、しばしば、単に宇宙(世界)の設計図の意味に使われます。この設計図の中で、すべてのものが百合の花や雀に対する配慮と同様に、準備され形作られます。聖書の中で、摂理という表現が神に適用されているのは、わずか三回(コヘレトの言葉 5:5 、知恵の書 14:3 、ユディト記 9:5 )ですが、神の摂理に関する教えは、旧約、新約の両聖書にたびたび出てきます。神の意思はすべてを統治します。神はすべての人を愛し、すべての人の救いを望み、その父としての配慮はすべての民族に及びます。
神は罪人の死を望まず、悔い改めを望みます。神はすべてにまさって慈悲深く、憐れみに満ちた神だからです。神は、わたしたちの働き、思い、能力に応じて報いて下さいます。神ただお一人が、悪を善に変えることができるのです。
あなたはもっと良い者のはず
イエスは、神の子らへの摂理のはたらきについて教え、また明日のことを思い悩むなと教えました。
あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって寿命を一時間でも延ばすことのできるでしょうか。イエスは、昔も今も、「鳥をよく見なさい。」と弟子たちを招きます。「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉庫も、納屋も持っていない。でも、神は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもずっと価値あるものではないか!」 食べ物に言えることは、衣服にも他の必要なものについても言えます。
(「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」 )
神の摂理が行き渡る現実を見る人々は、次第に知恵が増していきます。時と共に神の恵みから生まれる平静さは、傍観者や行きずりの人たちへの証しとなります。地球の恐ろしいほどの美しさ ― 静謐と嵐、そよ風とハリケーン、新しい生命と死 ― それらは何故か、神の摂理を心から信じる人のうちにあるように思われます。
恐れるに値するものは何か
旧約聖書では、人間が恐れを生み出す主な原因になっています。その恐れの理由には、戦争、死、奴隷状態、妻や子の死、災害が挙げられ、時には、特定の場所さえもが恐れの理由になります。
神への信頼は恐れからの解放をもたらします。恐れは、モーセ(出エジプト 34:30 )、ヨシュア(ヨシュア記 4:14 )、サムエル(サムエル記上 12:18 )といった神との特別な関係にある人々を前にしてもわき起こります。
福音書の中で、何度、イエスが人々に「恐れることはない!」と告げているのを聞くことでしょうか。
ヤイロの恐れはなくなります。(マルコ 5:36 ) 弟子たちは確信を受け入れます。(マルコ 6:50 ) タボル山の頂上に居た 3 人の弟子たちは、顔を上げて見ることができるようなります。(マタ 17:7 ) 婦人たちの恐れは、宣言と復活への信仰に変わります。(マタイ 28:10 ) イエスの幼年時代の物語で、天使が訪れた人々は、恐れることはないと告げられます。(ルカ 1:13 、 30 、 2:10 ) そしてペトロとパウロは、弟子への、または奉仕への招きとして、幻の中で「恐れるな」と命じられます。(ルカ 5:10 、使徒言行録 18:9 )
恐れるに値するものは何なのでしょう? イエスは自分に従う人たちに対して、魂を害する人々について警告します。今日、これはだれのことを指しているのでしょうか? 霊を干上がらせ、破壊し、霊の活力を徐々に奪い、希望と夢を打ち砕き、信仰と喜びを破壊する人々のことを指しているのです。霊を干上がらせ、希望と喜びを打ち砕く人々の多くは、いわゆる「悪い」人ではありません! 実際には、多くの場合それは善意の人々です。そうなのです。それが、「教会の」人や「敬虔な」人の場合さえあります! わたしたちはいつも、冷笑的な態度、貧しい霊、思いや心の狭さ、そして信仰、希望、喜びの足りなさによって、他人の魂を傷つけています。わたしたちは、他者を排除しないように気を使って、イエスについて話したりイエスを証ししたりすることを避け、何度、イエスを否定してきたことでしょうか?
時には、試練や苦難、痛みや不安のすべて無駄ではないということを知るのは励みになります。今後、自分の生き方が鳥のよう(価値のないもの)ではないかという恐れを感じたときには、心を強くして、もう少しの勇気と、神の摂理のはたらきへの信頼を持つようにしましょう。
慈悲深い神の摂理
最後に、教皇ヨハネ・パウロ 2 世の次のような感動的な言葉を贈りたいと思います。それは、 1995 年 10 月 5 日、ニューヨークでの国連総会での言葉です。教皇が、「キリストの光り輝く人間性」と「神の慈悲深い摂理の手」の中にある世界の命運に言及したことは、今日も、感動と霊感を与え続けています。
「キリストの 光り輝く人間性 の故に、ほんとうに人間的なものでキリスト者の心に触れないものはありません。キリストにおける信仰は、わたしたちを不寛容に向かわせるものではありません。逆にそれは、敬意を込めた対話の中で、他者との関わりを広げるのです。キリストの愛は、他者への関心を失わせるものではなく、むしろ他者との責任ある関係にわたしたちを招き、だれも排斥することなく、最も弱い人、苦しむ人への特別な配慮へと向かわせます。
こうしてキリスト誕生 2000 周年が近づくとき、カトリック教会は、この救いのメッセージを、敬意を以て提示できること、博愛と奉仕の中ですべての人間家族の連帯を促進することだけを求めます。」
「皆さん、わたしの前任者、 教皇パウロ 6 世 が 30 年前になさったのと同じように、わたしは、一時的な権力行使者としてではなく ― これはあの方の言葉ですが ― 自分の共同体に特権を求める宗教的指導者としてでもなく、あなた方の前に立っています。わたしは、あなた方の前に一人の証し人として来ています。人間の尊厳の証し人、希望の証し人、全ての国家の命運は憐み深い摂理の御手の中にあるという確信の証し人として来ています。」
「わたしたちは未来についての恐れを克服しなければなりません。しかし、わたしたちが力を合わせなければそれを完全に克服することはできないでしょう。その恐れへの「答え」は、強制でも抑圧でもなく、また全世界に単一の社会的「モデル」を押し付けることでもありません。 20 世紀の終わりに人間存在を暗くしているこの恐れへの答えは、愛の文明を築く共通の努力です。それは平和、連帯、正義、自由の普遍的価値に根差すものです。そして、愛の文明の「精神」は自由の文化です。自己犠牲による連帯と責任の中に生かされる、個人の自由と国々の自由の文化なのです。」
「わたしたちは未来を恐れてはなりません。わたしたちは人間を恐れてはなりません。わたしたちがここにいるのは偶然ではないのです。人間一人ひとりは、存在する全てのものの根源である方の「イメージと似姿」において創造されているのです。わたしたちは自らの内に知恵と美徳の能力を持っています。これらの賜物により、また神の恩寵の助けによって、わたしたちは次の世紀、次の千年期において、人間の人格にふさわしい文明、真の自由の文化を建設できるのです。
わたしたちにはこれが可能であり、これを達成しなければなりません。そうする中で、 20 世紀の(人々の)流す涙が、人間精神の新しい春の訪れのための土壌を準備しているのを見ることでしょう。」 ( No. 17-18 )
神のみことばの宣言と創造の保護
「神のみことば( Verbum Domini )」についての黙想を続け、「教会生活と宣教における神のことば」の世界代表司教会議のテーマを受けた使徒的勧告の第 108 項を考察しましょう。 (末尾の補注参照)
「神のみことばの要求に従いこの世界と関わることによって、わたしたちは、創造されたコスモス(宇宙)全体を新しい目で見るようになります。それは、全てを創造された御言葉の痕跡を含んでいます。 ( cf. ヨハネ 1:2 :この言は、初めに神と共にあった。 ) 福音を信じ宣言する者として、わたしたちには創造に向かう責任があります。啓示は、コスモス(宇宙)に対する神のご計画を示しますが、それはまた、全ての創造された事物を、勝手に利用できる単なる素材と見做し、創造主の御姿の反映として見ることを拒絶する誤った態度を糾弾するよう、わたしたちを導きます。」
「人間はこのように、創造を神からの賜物と見做し、それを神のご計画に従って受け取り、用いることができるようにする本質的な謙虚さに欠けているのです。その代わりに、『神が存在しないかのように』生きる人間の傲慢は、自然を身勝手に利用し破壊する結果となり、創造のみことばの業として自然を見なくなります。この神学的文脈の中で、わたしは、次のことを思い起こさせてくれる司教会議の声明を繰り返したいと思います。
『聖書により、また教会の生きた伝統により認められた神のみことばを受け容れることは、ものごとの新しい見方を呼び起し、その最も深いルーツを信仰への従順に置く真のエコロジーを促進し、(そして)それは、キリストにおいて創造される、全てのものごとの善性に対する新たな神学上の感受性を養うことになる。』 わたしたちにとって、創造された事物の中に示されるこのような美を、驚きをもって認識する能力の再教育が必要です。」 ( No. 108 )
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補注: 昨年の待降節以来ロシカ師が毎週引用している使徒的勧告「神のみことば」について、バチカン
放送の解説を参考までに付記します。
教皇、使徒的勧告「神のみことば(ヴェルブム・ドミニ)」を発表、
神のみことばをテーマにしたシノドス後の考察と提案」
2010 年 11 月 11 日付けバチカン放送
教皇ベネディクト 16 世は、 2010 年 11 月 11 日、使徒的勧告「ヴェルブム・ドミニ」を発表された。この使徒的勧告は、 2008 年 10 月にバチカンで行われた世界代表司教会議(シノドス)第 12 回通常総会(テーマ:「教会生活と宣教における神のみことば」)の内容を受けた教皇の考察と提案を記したもの。教皇は同文書を通して、個人と教会の生活における「神のみことばの中心性」と、みことばを人類の救いのために告げる緊急性と素晴らしさを再発見するよう招いている。そして、「聖書により親しむ」と共に、「キリスト教の真の生きた精神性の基礎は、教会において告げられ、受け入れられ、祝われ、取り次がれた神のみことばにある」ことを忘れてはならないと、すべての司牧者、修道者、信者に向けて呼びかけている。
「ヴェルブム・ドミニ」(主のみことば)と題されたこの勧告は、計 200 頁におよび、その構成は、次の各章からなっている。
序章
第1部『神のみことば』
「話しかける神」
「話しかける神への人間の応答」
「教会における聖書の解釈学」
第2部『教会におけるみことば』
「神のみことばと教会」
「教会生活における神のみことば」
第3部『世界のみことば』
「神のみ言葉を告げる、教会の使命」
「神のみ言葉と世界における働き」
「神のみことばと文化」
「神のみことばと諸宗教対話」
終章
この中で教皇は、「神がしばしば不要にあるいは異質に感じられている世界において、一番の急務は、私たちがいのちを豊かに受けることができるよう、私たちに話しかけ、その愛を伝える神に、今日の人間を近づけ導くことである」と述べ、「神だけがすべての人間の心の渇きに答えることができる」と強調している。
教会におけるみことばの重要性の再発見を促した第2バチカン公会議を思い起こしながら、教皇は、教会のみことばに対する大きな崇敬の理由として、「キリスト教は単に書かれた『本の宗教』ではなく、受肉され生きた『神のみことばの宗教』である」ことを指摘している。
教皇は現代の聖書研究にも言及。歴史・評論的注釈学と神学の対立を避け、2つの解釈のレベルを一致させた、信仰と理性の調和の取れた研究を希望している。
また、「旧約聖書の啓示はキリスト者にとって価値を持ち続ける」、「キリスト教はその根源を旧約聖書に持ち、キリスト教は常にこの根から養われている」と述べた教皇は、キリスト教とユダヤ教の間にある特別な関係を忘れることはできないと記している。
同文書は、みことばと典礼の関係にも触れている。教皇はみことばの宣言に最大の注意を払うことを求めつつ、朗読者の準備、説教の質、朗読箇所の正確さなどについて検証を促している。
教皇は聖書司牧にも注意を向け、歪曲した聖書解釈や、聖書の悪用がないように、小さな共同体にも教会の正統な聖書の知識を広め、カテキスタの養成をはじめ、信徒に正しく聖書が伝わる努力を説いている。
教会と福音宣教の密接な関係を示しながら、教皇は今日を生きるすべてのキリスト者にみことばを告げる使命を思い起こさせている。そして、キリストへの信仰のために迫害されている人々を思うと共に、各国政府に信教の自由の保証をアピールしている。
さらに、より正しい世界のために働くよう人々を導き、連帯と平等を推進し、和解と平和の源となるみことばの力を教皇は説くと共に、宗教が不寛容や戦争の理由とされることが決してあってはならないと訴えている。
同勧告は、若者や移民、苦しむ人々や貧しい人々に対して、みことばをどのように伝えるべきかを考えるように招き、文化の中においてもみことばとの様々な出会いがあるようにと願っている。
一方で、みことばを文化に根付かせる上の注意点として、みことばの受け入れを容易にするという理由で福音の本質を薄めたり、インカルチュレーションのプロセスが表面的になったり、諸宗教混合的な混乱があったりしてはならないと述べている。
現代こそ、神のみことばに耳を傾ける時、新しい福音宣教の時、と述べながら、教皇はみことばに触れ、毎日をキリストとの新しい出会いとしていこうと呼びかけている。(了)
http://www.radiovaticana.org/gia/Articolo.asp?c=438399
なお「教会生活と宣教における神のことば」世界代表司教会議第 12 回通常総会の提題解説
2007 年 5 月カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画 訳( 40 頁)は、次のサイトをご参照ください。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/synodus/synodus12th/synod12th_lineamenta.pdf )
聖書朗読
イザヤ 49:14-15 : シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。 49:15 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。
1 コリント 4:1-5 : こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。 4:2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。 4:3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。 4:4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。 4:5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。
マタイ 6:24-34 : 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
Just When You Think Life Is for the Birds, Take Heart
Biblical Reflection for the 8th Sunday in Ordinary Time A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, FEB. 22, 2011 ( Zenit.org ) .-
In today's reading from Matthew's Gospel ( 6:25-34 ) , Jesus does not deny the reality of human needs ( v. 32 ) , but forbids making them the object of anxious care and, in effect, becoming their slave.
Those who truly know God as the heavenly Father revealed by Jesus cannot be concerned about human needs in the same way. While disciples have to take reasonable care of themselves and of those for whom they are responsible, such concerns take second place to dedication to the rule of God and the "righteousness" ( v. 33 ) for which it calls.
Verse 25 of today's Gospel indicates two major areas of concern for the human being: sustenance ( food and drink ) necessary for life, and clothing. Each of the areas is addressed -- food ( vv. 26-27 ) , clothing ( vv. 28-30 ) -- in an argument that rests upon a New Testament logic. If God takes such care of the birds in the air, and ensures their feeding, and sees to it that the lilies of the field are magnificently adorned, how much more then will our heavenly Father take pains to see that the disciples shall not go wanting, since they are more precious in the divine sight than the birds of air and the flowers of the field?
In using this analogy, Jesus is by no means making a moral statement, but rather an imaginative appeal.
Worrywart
The great Christian author and apologist C.S. Lewis was a devout Christian, but he admitted that throughout his life he was a great worrier! Commenting on today's Gospel passage ( Matthew 6:25-34 ) , Lewis frequently wrote to his friends saying: "If God wanted us to live like the birds of the air, it would have be nice for him to have given us a constitution that was more like theirs!"
Jesus did not seem to be a person who worried a great deal; he lived his life on the principle of trusting his heavenly Father, and he tried to teach his followers to do the same. The refrain running through today's Gospel contains the sentiments of "do not worry" ( vv. 25, 27, 28, 31 and twice in 34 ) . A better translation of the expression could be, "do not fret" or "do not be preoccupied." Disciples may have legitimate concerns for material goods, but if those concerns are filled with insecurities and cause new forms of enslavement to wealth, they will inevitably lead people into slavery to two separate masters.We are called to serve God and God alone in the deepest sense in order to experience authentic freedom.
Providential care
The three Scripture readings for this Sunday invite us to reflect on God's providential care of us. When we say 'Divine Providence,' we are referring to the name of God, especially God as Father and Creator, which brings all of the dynamics of human existence into meaning.
Providence is often expressed only as a design for the universe in which all is ordered and formed as care for lilies and sparrows. Though the term Providence is applied to God only three times in Scripture ( Ecclesiastes 5:5; Wisdom 14:3; Judith 9:5 ) , and once to Wisdom ( Wisdom 6:17 ) , teaching about Providence is consistently found in both the Old and the New Testaments. God's will governs all things. God loves all people, desires the salvation of all and God's paternal Providence extends to all nations.God desires not the death of sinners, but rather that they should repent; for God is above all things a merciful God and a God of much compassion. God rewards us according to our works, our thoughts and our devices. God alone converts evil into good.
You are worth more
Jesus taught about God's provident care for his children and on not being anxious for the future. Can any of you by worrying add a single hour to your life? Jesus invited his disciples then and now to "consider the ravens: they neither sow nor reap, they have neither storehouse nor barn, and yet God feeds them. Of how much more value are you than the birds!" What holds true for food applies also to clothing and other necessities of life ( "consider the lilies, how they grow: they neither toil nor spin, yet I tell you, even Solomon in all his glory was not clothed like one of these" ) .
Those who see reality permeated by the Providence of God gradually grow in wisdom. Serenity, born of time and grace, becomes evident to onlookers and passersby. The terrible beauty of the earth, with its calms and its storms, its gentle breezes and its hurricanes, its new life and its deaths, seems somehow to be within the person who lives by trustingly believing in God's Providence.
What is worth fearing?
Throughout the Old Testament, humans are the main subjects of fear. The reasons for this fear are war, death, enslavement, loss of a wife or child, disaster, or even a particular place. Trust in God brings freedom from fear. Fear also arises in the presence of those who stand in a special relation to God, such as Moses ( Exodus 34:30 ) , Joshua ( Joshua 4:14 ) , or Samuel ( 1 Samuel 12:18 ) .
How many times in the Gospels do we hear Jesus telling people to "Fear not!" Jairus is not to be anxious ( Mark 5:36 ) ; the disciples receive assurance ( Mark 6:50 ) ; the three apostles atop Mount Tabor are enabled to look up ( Matthew 17:7 ) ; the women's fear gives way to proclamation and resurrection faith ( Matthew 28:10 ) ; those whom the angels visit in the infancy narratives are told not to fear ( Luke 1:13, 30; 2:10 ) ; and in a vision, Peter and Paul are both told by the Lord not to fear in a context of discipleship and service ( Luke 5:10 and Acts 18:9 ) .
What is worth fearing? Jesus warns his followers about those who can harm the soul. To what does this refer today? To those people or situations who can dehydrate the spirit, crushing it and sapping it of life, killing hopes and dreams, destroying faith and joy. Often those who dehydrate the spirit and kill hope and joy are not "bad" people! In fact, they are often very good people, and yes, even "church" people and ‘religious' people! We often harm the souls of others through our cynicism, our meanness of spirit and smallness of mind and heart; our lack of faith, hope and joy. How often have we denied Jesus through our own reluctance to talk about him and give witness to him, for fear of excluding others?
It is consoling to know once in a while that all of our trials and tribulations, our pains anxieties are not in vain. The next time we get that fearful feeling that our life is for the birds, let us take heart, and have a bit more courage and confidence in the Father's care.
Merciful Providence
Let me leave you with these moving words of Pope John Paul II, which he addressed the General Assembly of the United Nations Organization in New York City on Oct. 5, 1995.
His reference to the "radiant humanity of Christ" and to the destiny of the world "in the hands of a merciful Providence" continues to move and inspire me today.
"Because of the radiant humanity of Christ, nothing genuinely human fails to touch the hearts of Christians. Faith in Christ does not impel us to intolerance. On the contrary, it obliges us to engage others in a respectful dialogue.
Love of Christ does not distract us from interest in others, but rather invites us to responsibility for them, to the exclusion of no one and indeed, if anything, with a special concern for the weakest and the suffering. Thus, as we approach the two thousandth anniversary of the birth of Christ, the Church asks only to be able to propose respectfully this message of salvation, and to be able to promote, in charity and service, the solidarity of the entire human family.
"Ladies and Gentlemen! I come before you, as did my predecessor Pope Paul VI exactly thirty years ago, not as one who exercises temporal power -- these are his words -- nor as a religious leader seeking special privileges for his community. I come before you as a witness: a witness to human dignity, a witness to hope, a witness to the conviction that the destiny of all nations lies in the hands of a merciful Providence.
"We must overcome our fear of the future. But we will not be able to overcome it completely unless we do so together. The 'answer' to that fear is neither coercion nor repression, nor the imposition of one social 'model' on the entire world. The answer to the fear which darkens human existence at the end of the twentieth century is the common effort to build the civilization of love, founded on the universal values of peace, solidarity, justice, and liberty.
And the 'soul' of the civilization of love is the culture of freedom: the freedom of individuals and the freedom of nations, lived in self-giving solidarity and responsibility.
"We must not be afraid of the future. We must not be afraid of man. It is no accident that we are here. Each and every human person has been created in the 'image and likeness' of the One who is the origin of all that is. We have within us the capacities for wisdom and virtue. With these gifts, and with the help of God's grace, we can build in the next century and the next millennium a civilization worthy of the human person, a true culture of freedom.
We can and must do so! And in doing so, we shall see that the tears of this century have prepared the ground for a new springtime of the human spirit" ( No. 17-18 ) .
The proclamation of the word of God and the protection of creation
As we continue our reflection on "Verbum Domini" let us consider No. 108 of the postsynodal exhortation that reflected on the theme "The Word of God in the Life and Mission of the Church."
"Engagement with the world, as demanded by God's word, makes us look with new eyes at the entire created cosmos, which contains traces of that word through whom all things were made ( cf. John 1:2 ) . As men and women who believe in and proclaim the Gospel, we have a responsibility towards creation. Revelation makes known God's plan for the cosmos, yet it also leads us to denounce that mistaken attitude which refuses to view all created realities as a reflection of their Creator, but instead as mere raw material, to be exploited without scruple.
Man thus lacks that essential humility which would
enable him to see creation as a gift from God, to be received and used in accordance with his plan. Instead, the arrogance of human beings who live 'as if God did not exist' leads them to exploit and disfigure nature, failing to see it as the handiwork of the creative word.
In this theological context, I would like to echo the statements of the Synod Fathers who reminded us that 'accepting the word of God, attested to by Scripture and by the Church's living Tradition, gives rise to a new way of seeing things, promotes an authentic ecology which has its deepest roots in the obedience of faith ... [and] develops a renewed theological sensitivity to the goodness of all things, which are created in Christ.' We need to be re-educated in wonder and in the ability to recognize the beauty made manifest in created realities" ( No. 108 ) .