「あなたたちは聖なる者となりなさい。
あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」
年間第 7 主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/2/20 トマス・ロシカ師
今日の聖書朗読は、 わたしたちに次の三つの呼びかけをします。 神である主が聖であるように聖であること、その時代の知恵によって自分を欺かないこと、敵を愛し、迫害する者のために祈ること … 。
では、今週の黙想を、レビ記 ( 19:1-2, 17-18. ) の考察から始めましょう。
神は聖なる方、人間のいのちの創造主であり、人間は、神の完全な聖性の恩恵により祝福されています。それゆえ、すべての人間のいのちは聖なるものであり、至聖にして侵しがたいものです。レビ記 19 : 2 によれば、神の聖性は、道徳的行為に欠かせない規範になっています。
「聖なる者となりなさい(あなたたちを聖なる者にしよう)。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である!」 この含蓄に富んだ教えは、すべての男女への召命と、歴史を通した教会の使命全体をよく伝えています。それは聖性への召し出しです。
聖なる者となりなさい
聖性は、旧約聖書全体に浸透している真理です。神は聖なる者であり、すべての人々を聖性へと招きます。モーセの律法は、「聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」と説きました。聖性は神の内にあり、それが神の創造の頂点である人間の手に渡るのは、神からでしかないのです。わたしたちは神の似姿に作られています。そして、神の聖性と、神が「人間とは全く異なるものであること」は、わたしたちの一人一人の心に焼き付けられています。人間は、神の聖性をこの世に表す手段であり道具なのです。
この聖性は、わたしたちの心の中に確かに生き、燃えている神の御言葉の炎です。それは、わたしたちの内部や周囲に潜んでいる悪を焼き払い、聖性を一挙に開花させ、周囲の社会や文化を癒し、一変させる力強い炎です。悪を根絶やしに出来るのは聖性だけです。厳しさではありません。聖性は、癒しと変容の種子を社会にもたらします。
聖性は、責任と行動を伴う生き方です。それは受け身の努力ではなく、むしろ、神との関係を深めることによって、この世のすべての行動を神との関係に帰する生き方を常に選択するという、積極的な努力です。聖性は、ものの考え方や心構えを根本的に変えることを要求します。聖性への呼びかけを受け入れることで、わたしたちの生活のあらゆる局面での最終目標に神が据えられます。このように、根本的に神に向かうことは、他者との関係さえも包み込み、支えます。徳の高い生活によって支えられ、聖霊の賜物によって強められたわたしたちを、神は一層近くに引き寄せ、天の国で顔と顔を合わせて、完全な一致に至る日にまで引き寄せて下さいます。
今、この場所で、わたしたちは自分の個人的な経験の中に聖性を見出すことができます。それは仕事に最善の努力を尽くすこと、忍耐強く子供を育てること、家庭や学校や職場でよい人間関係を築くことによって発見できます。もしこれらの全てを神への愛を表す応えの一部とするならば、わたしたちは聖性への道を歩むことになります。
聖性の革命
今日の第一朗読のレビ記 ( 19:2 ) の言葉は、カトリック教会の伝承に見る聖人や福者たちのうちに蘇っています。伝承の中の数えきれないほどの男女は、 ベネディクト 16 世 が 2005 年のドイツ・ケルン市でのワールド・ユース・デー(世界青年の日)に美しく語ったように、真の「聖性の革命者たち」です。
「それは夥しい数の聖人たちです … 有名、無名の聖人たち … 主はわたしたちのために、その聖人たちの生涯のうちに福音を開かれ、ページをめくっておられます。主は、歴史を通してそのようになさり、今日もそのように続けておられます。聖人たちの生涯の中に、大きなな絵本を見るように福音の豊かさが啓示されています。彼らが歩んだ光り輝く道は、神ご自身が歴史を通して辿られ、今もなお辿られている道です・・・。先に述べたように、聖人たちは真の改革者です。今わたしは、もっと過激な言葉でこれを表現したいのです。聖人からのみ、神からのみ、真の革命が、世界を変える決定的な道がもたらされると。」
司牧の計画
2000 年の大聖年の終わりに発表された使徒的書簡「新千年期の初めに( Novo Millennio Ineunte ) 」の中で、 教皇ヨハネ・パウロ2世 は全ての人々に、「司牧の計画を、聖性というテーマのもとに置くように」とよびかけました。そして、「洗礼は、キリストに結ばれ、キリストの聖霊を宿し、神の聖性への真の入り口であるから、最低限の倫理やうわべの信心で平凡な生活に安住することは矛盾の行為である、という確信」を言い表すよう求めました。「日常のキリスト者の生活についての、このような高い基準を、すべての人々に信念をもって提言し直す時が来ています。教会共同体とキリスト者の家族の生活は全てこの方向に向けられていなければなりません。」( 31 項)
教会は「聖性の家」です。そして聖性は、わたしたちの最も確かなイメージ、わたしたちの真の肩書、そして、わたしたちからこの世への最も素晴らしい贈り物です。聖性は、わたしたちが何者であり、どう生きようと努めているかを最もよく示しています。
真の知恵
今日の第二朗読 ( 1 コリント 3:16-23 ) の中で、パウロは、コリントの人々の間で起きている争いを戒める中で ( 3 : 1-4 ) 、共同体に対して、キリストの教会は純粋で謙遜でなければならないこと ( 16:17 ) を思い起こさせます。自分の知恵を過信することはうぬぼれにすぎず、自己過信は自己欺瞞への第一歩です。自分自身を神殿に見立てる人々は、それが聖霊の神殿だと勘違いしているのです。彼らは、自身の聖性にも、教会の平和や純粋さにも無関心のままです。
もしもコリントの人々が本当に賢かったなら ( 3:18-20 ) 、彼らは考えを改めることでしょう。そして、この世の全てについて、また共に教会にいる人々について、互いの真の交わりの中で理解するでしょう。パウロは、神学的世界に含まれる全ての人々を、一定の階級の中に位置づけました。神、キリスト、教会のメンバー、教会の指導者です。これを上から下に読むと、この階級は所有(主従)関係を表します。下から上に読むと、奉仕の責務を表します。この関係図は、 1 コリント 8:6 と 1 コリント 15:20-28 に述べられる類似の言葉で補足されるべきです。キリスト者はそれぞれの職業によって(信仰宣言によって)聖なる者であり、心と言葉において純潔で、清くあるべきです。
訳注:
1コリ 8:6 :わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
1コリ 15:20 〜 28 :しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
あなたの隣人を愛しなさい
今日の福音 (マタイ 25:38-48 ) で黙想するように、イエスは、身体的な危険に直面するときに受け身であれと教えているのではありません。イエスは、暴力が暴力を生むことを教えます。そして無抵抗が相手を恥じ入らせ、態度が和らぐならば、それがより良い道です。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」 (マタイ 5:38-39 ) イエスは比喩的な表現で、もう一方の頬を向けなさい、下着だけでなく、上着も取らせなさい、腹の立つ相手に暴力で応じてはならない、そしてとりわけ、「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」 ( 5:42 ) と教えます。
これは、イエスの弟子たちの私生活から、報復の掟を根本的に排除することを意味しています。この場合、犯罪者から仲間を護る、あるいは市民や国家の権利を侵す者を罰する、という社会の権利がどうであろうと関係ありません。
イエスは、他の全ての人々の力の源泉である、完成への究極的なステップを教えます。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 ( 5:43-45 ) イスラエル人、すなわち敬虔なユダヤ人にとっての「隣人」を定めた旧約の律法の一般的解釈とは逆に、イエスは、神の掟の真正な解釈を定めます。そしてそこに、寛容で憐み深い天の父の宗教的な特質を加えました。天の父は、すべてに善を行い、それゆえに普遍的な愛の至高の模範なのです。
イエスは、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
( 5 : 48 ) と結びます。イエスは、従う者たちに愛の完全さを求めます。愛は、イエスがもたらした新しい律法の総合なのです。この愛は、他者との関係において、敵 − 味方といった古典的対立を克服することを可能にします。それは、心の中の動きから、社会的、政治的連帯へ、そして制度化された連帯にさえも調和する形へと変容して行きます。
非暴力の実りは愛
一度も法を破ったことのない 凡庸な精神の人々は大勢いますが、彼らは本当にキリスト者の模範となり得るでしょうか。寛大で利他的な人は、いつも他人に利用される危険があります。愛に心を開くと、傷つくことが少なくありません。持ち物を分かち合おうとすると、便利に使われてしまいます。どのような場合でも、傷ついたり、利用されたと思ったりする必要はありません。それはよくあることです。それを完全に防ぐ方法はただ一つで、疑い深く、物惜しみし、意地悪く、利己的であることです。しかし、これは全く愛と両立しません。非暴力の実りは愛です。この愛は、どこであれ、人々が出会うところに花開き、どこであれ、その源泉が神からのものであることを明かします。この愛は全ての敵に打ち勝ちます。それは、見知らぬ人々を引き合わせ、距離を無くします。空虚な場所を充たし、病人をいやし、死者 をよみがえらせます。
自分の中に、個人としても集団としても刻み込まれている、暴力、破壊、愛の欠如につながるパターンを打ち破るよう努力しましょう。もしも暴力が合理的な選択肢と思うならば、別な発想の論理を見つけましょう。もしも暴力が好ましくない人間を無機的に扱う「機械」であるなら、そこにモンキーレンチを投げ込む(打ち壊す)勇気を 祈り求めましょう。 そして、もしも自分が暴力の連鎖に加わっていると気づいたなら、そこから最初に外れる環になりましょう。
聖書の中の「闇」の個所
今日の福音に照らされて、「神のみことば( Verbum Domini )」についての黙想を続けましょう。「教会生活と宣教における神のことば」の司教会議のテーマを受けた使徒的勧告 Verbum Domini の第 2 項を考察します。
「旧約聖書と新約聖書の間の関係の議論の中で、今回の司教会議は、聖書のいくつかの個所についても考察しました。そこには、しばしば暴力や不道徳が描かれているために、意味が捉えにくく、難解な個所とされています。ここで何よりも先ず銘記しなければならないのは、『聖書の啓示は歴史に深く根ざしている』ということです。神のご計画は少しずつ明かされ、人間の抵抗にも拘わらず、段階を追ってゆっくりと達成されます。神は一つの民を選び、忍耐強く彼らを導き、教えてきました。啓示は、時を隔てた時代の文化的、道徳的レベルにふさわしい形で示されます。従って、欺きや策謀、暴力や虐殺行為といった事実や慣習もそのまま書き記し、それらの非道徳性をことさら非難することもありません。このことは歴史の流れの中で説明できますが、それを読む現代の読者は戸惑うかもしれません。特にその読者が、何世紀にもわたる歴史の中や、現代においても存在する、多くの「闇」の行為に気づかない場合には … 。」
「旧約聖書の預言者たちは、あらゆる不正や暴力に対して、それが集団によるものか個人によるものかを問わず、その言葉によって力強く挑戦しました。それは、神がその民に福音の準備をさせるための訓練の方法となりました。それゆえ、疑問の多い聖書のくだりを無視することは間違いです。むしろ、それらの個所の正しい解釈には、ある程度の専門的知識が必要であることを覚るべきです。その専門知識を得るためには、歴史的・文学的文脈の中でテキストを理解する訓練が必要です。さらに、究極的な聖書解釈の鍵となる『過越しの神秘においてもたらされたイエス・キリストの福音と新しい掟」に基づいた、キリスト教的な視点で聖書を解釈する訓練も必要です。わたし(ベネディクト16世)は、学者や司牧者たちが、キリストの神秘の光の中で初めて意味が明らかになるような方法で、全ての信者がこれらの(難しい)聖書の個所に近づくように導いてほしいと思います。」
聖書朗読:
レビ 19:1-2, 17-18 : 主はモーセに仰せになった。 19:2 イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。 19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
1 コリント 3:16-23 : あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 3:18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。 3:19 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、 3:20 また、/「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。 3:21 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。 3:22 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、 3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
マタイ 5:38-48 : 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」 5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
“BE HOLY, FOR I, THE LORD, YOUR GOD, AM HOLY”
Biblical Reflection for the 7th Sunday in Ordinary Time A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, FEB. 15, 2011 ( Zenit.org ) .- The Scripture readings for today issue three calls to us– to be holy as the Lord our God is holy; to not deceive ourselves with the wisdom of this age; and to love our enemies and pray for those who persecute us. Let us begin our reflections this week by considering the words of the Leviticus reading ( 19:1-2, 17-18. )
God is the Holy One and the Creator of human life, and the human being is blessed and obliged by God''s utter holiness. Therefore every human life is holy, sacrosanct and inviolable. According to Leviticus 19:2 God's holiness constitutes an essential imperative for the moral behavior: "You shall be holy for I am Holy, the Lord your God!" This loaded statement describes best the vocation of every man and woman, and the entire mission of the Church throughout history: a call to holiness.
You shall be holy
Holiness is a truth that pervades the whole of the Old Covenant: God is holy and calls all to holiness. The Mosaic Law exhorted: "You shall be holy; for I the Lord your God am holy." Holiness is in God, and only from God can it pass to the crown of God's creation: human beings. We are made in the image and likeness of God, and God's holiness, his ‘total otherness' is imprinted on each one of us. Human beings become vehicles and instruments of God's holiness for the world.
This holiness is the fire of God's Word that must be alive and burning within our hearts. It is this fire, this dynamism, that will burn away the evil within us and around us and cause holiness to burst forth, healing and transforming the society and culture surrounding us. Evil is only eradicated by holiness, not by harshness. Holiness introduces into society a seed that heals and transforms.
Holiness is a way of life that involves commitment and activity. It is not a passive endeavor, but rather a continuous choice to deepen one's relationship with God and to then allow this relationship to guide all of one's actions in the world. Holiness requires a radical change in mindset and attitude. The acceptance of the call to holiness places God as our final goal in every aspect of our lives. This fundamental orientation toward God even envelops and sustains our relationship with other human beings. Sustained by a life of virtue and fortified by the gifts of the Holy Spirit, God draws us ever closer to himself and to that day when we shall see Him face to face in heaven and achieve full union with him.
Here and now, we can find holiness in our personal experience of putting forth our best efforts in the work place, patiently raising our children, and building good relationships at home, at school and at work. If we make all of these things a part of our loving response to God, we are on the path of holiness.
Revolution of holiness
The words of Leviticus in today''s first reading ( 19:2 ) come alive in the saints and blessed of our Catholic tradition. These countless men and women throughout our tradition are the true “revolutionaries of holiness” as Benedict XVI said so beautifully during the 2005 World Youth Day in Cologne, Germany:
“It is the great multitude of the saints -- both known and unknown -- in whose lives the Lord has opened up the Gospel before us and turned over the pages; he has done this throughout history and he still does so today. In their lives, as if in a great picture-book, the riches of the Gospel are revealed.
They are the shining path which God himself has traced throughout history and is still tracing today…. The saints, as we said, are the true reformers. Now I want to express this in an even more radical way: Only from the saints, only from God does true revolution come, the definitive way to change the world.”
Pastoral planning
In his apostolic letter "Novo Millennio Ineunte"” at the close of the Great Jubilee of the Year 2000, Pope John Paul II invited all “to place pastoral planning under the heading of holiness”, to express "the conviction that, since baptism is a true entry into the holiness of God through incorporation into Christ and the indwelling of his Spirit, it would be a contradiction to settle for a life of mediocrity, marked by a minimalist ethic and a shallow religiosity… The time has come to re-propose wholeheartedly to everyone this high standard of ordinary Christian living: the whole life of the Christian community and of Christian families must lead in this direction" ( No. 31 ) .
The Church is the “home of holiness” and holiness is our most accurate image, our authentic calling card, and our greatest gift to the world. It describes best who and what we are and strive to be.
True wisdom
In today's second reading ( 1 Corinthians 3:16-23 ) , St. Paul, in continuing his reproach of the Corinthians for their contentions ( 1-4 ) , reminds the community that the churches of Christ ought to be kept pure, and humble ( 16:17 ) . To have a high opinion of our own wisdom, is but to flatter ourselves; and self-flattery is the next step to self-deceit. People are deceived who deem themselves the temples to be temples of the Holy Spirit yet are unconcerned about personal holiness, or the peace and purity of the church.
If the Corinthians were genuinely wise ( 3:18-20 ) , their perceptions would be reversed, and they would see everything in the world and all those with whom they exist in the Church in their true relations with one another. Paul assigns all the persons involved in the theological universe a position on a scale: God, Christ, Church members, Church leaders. Read from top to bottom, the scale expresses ownership; read from bottom to top, the obligation to serve. This picture should be complemented by similar statements such as those in 1 Corinthians 8:6 and 1 Corinthians 15:20-28. Christians are holy by profession, and should be pure and clean, both in heart and conversation.
Love your neighbor
As we reflect on today''s Gospel passage ( Matthew 25:38-48 ) , Jesus in no way teaches us to be passive in the face of physical danger. Jesus teaches that violence can breed violence. And if nonresistance will shame our opponent into peace, then such is the better course.
"You have heard that it was said, 'An eye for an eye and a tooth for a tooth.' But I say to you, offer no resistance to one who is evil." ( Matthew 5:38-39 ) . With metaphorical language Jesus teaches us to turn the other cheek, to hand over not only the tunic but also the cloak, not to respond with violence to the vexations of others, and above all, "Give to the one who asks of you, and do not turn your back on one who wants to borrow" ( 5:42 ) .
This is a radical exclusion of the law of retaliation in the personal life of Jesus' disciples whatever be the right of society to defend its members from evildoers and to punish those guilty of violating the rights of citizens and of the state itself.
Jesus teaches the ultimate step in the process of bringing to perfection, that in which all the others find their dynamic center: "You have heard that it was said, 'You shall love your neighbor and hate your enemy.' But I say to you, love your enemies and pray for those who persecute you, that you may be children of your heavenly Father, for he makes his sun rise on the bad and the good, and causes rain to fall on the just and the unjust." ( 5:43-45 ) . In opposition to the common interpretation of the old law which identified the neighbor with the Israelite, and indeed with the pious Israelite, Jesus set out the authentic interpretation of God's commandment. He added to it the religious dimension of reference to the clement and merciful heavenly Father who does good to all and is therefore the supreme exemplar of universal love.
Jesus concluded, "Be perfect, just as your heavenly Father is perfect" ( 5:48 ) . He asked of his followers the perfection of love. Love is the synthesis of the new law he brought. This love will enable us to overcome in our relations with others the classical opposition of friend-enemy. It will tend from within hearts to transform into corresponding forms of social, political and even institutionalized solidarity.
The fruit of nonviolence is love
There are lots of mean-spirited people who have never broken the law, but can they truly be models for Christians? There is always the risk of being taken advantage of when we are generous and unselfish. If we open ourselves to love, we may very well get hurt. If we share our material goods, we may very well be used. In no instance are we obligated to get hurt or used; it just happens sometimes. The only way to be fully protected is to be suspicious, stingy, cynical and selfish. But this is certainly inconsistent with love. The fruit of nonviolence is love. This love blossoms everywhere when people meet each other, and everywhere it divulges its divine origins. This love overcomes all opposition. It brings together strangers, overcoming distance. It fills emptiness. It heals the sick. It raises the dead to life.
Let us try to break those patterns within us individually and communally that lead to violence, destruction and lack of love. If violence seems a reasonable option for us, then let us invent a different kind of logic. If violence is a machine, dealing mechanically with people whom we don't like, let us pray for the courage to throw a monkey wrench into it. And if violence is a chain of which we are part, let us be the first link that's broken.
The "dark" passages of the Bible
Continuing our reflection on "Verbum Domini" in light of today's Gospel, let us consider No. 2 of the postsynodal exhortation that reflected on the theme "The Word of God in the Life and Mission of the Church."
"“In discussing the relationship between the Old and the New Testaments, the Synod also considered those passages in the Bible which, due to the violence and immorality they occasionally contain, prove obscure and difficult. Here it must be remembered first and foremost that biblical revelation is deeply rooted in history. God's plan is manifested progressively and it is accomplished slowly, in successive stages and despite human resistance. God chose a people and patiently worked to guide and educate them. Revelation is suited to the cultural and moral level of distant times and thus describes facts and customs, such as cheating and trickery, and acts of violence and massacre, without explicitly denouncing the immorality of such things. This can be explained by the historical context, yet it can cause the modern reader to be taken aback, especially if he or she fails to take account of the many "dark" deeds carried out down the centuries, and also in our own day.
In the Old Testament, the preaching of the prophets vigorously challenged every kind of injustice and violence, whether collective or individual, and thus became God's way of training his people in preparation for the Gospel. So it would be a mistake to neglect those passages of Scripture that strike us as problematic. Rather, we should be aware that the correct interpretation of these passages requires a degree of expertise, acquired through a training that interprets the texts in their historical-literary context and within the Christian perspective which has as its ultimate hermeneutical key "the Gospel and the new commandment of Jesus Christ brought about in the paschal mystery". I encourage scholars and pastors to help all the faithful to approach these passages through an interpretation which enables their meaning to emerge in the light of the mystery of Christ.””
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