エルサレムの使徒会議、弁護者、司牧の戦術
復活節第6主日聖書黙想 2010/5/9 トマス・ロシカ師
エルサレムの初代教会の共同体に、問題がなかったわけではありません!
その論争の幾つかは、今日の第一朗読の使徒言行録 15 章にはっきりと記されています。
エルサレムでパウロの最初の宣教旅行の結果を聞いた、ファリサイ派から信者になった人の何人かは、異邦人たちにモーセの律法に従うよう命じるべきだと主張しました。パウロとバルナバは、エルサレムの教会の権威を認めていたので、異邦人たちが、この義務(割礼)を含まない形のキリスト教を信奉することができるかという問題に決着をつけるために、エルサレムにやってきたのです。( 1-5 節) エルサレムの使徒会議(使徒言行録 15:1-35 )は、異邦人の改宗者たちはモーセの律法を完全に守らなければならない、という頑なな見解を公式に却下する決定を下します。ここから、使徒言行録の最後に至るまで、ルカは、パウロと異邦人への宣教に焦点を当てることになります。
初代教会の論争
もし異邦人たちがキリスト者になるとしたら、ユダヤ人がキリスト教へ改宗する際の習慣を守らなければならないのでしょうか。その場合は、割礼、食事の制約、結婚の規定を押しつけることになります。今日の第一朗読の場面は、初代教会の最初の大きな論争の一つを示すだけなく、伝統と継承についての理解と、教会内における争いの解決(方法)への優れた洞察を与えてくれます。
今日の使徒言行録の朗読によると、エルサレムの教会から権限を与えられていない人々が、アンティオキアで、「割礼は教会で救われるのに不可欠である。」と主張していました。初代教会の典型的な問題は、救いに対するモーセの律法の必要性が中心になっていました。イエスは生後8日目に割礼を受けたのですから(ルカ 2:21 )、生まれたときからモーセの律法を完全に守り、決してその掟を破ることはありませんでした。事実、イエスは極めて明快に次のように述べています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない、廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ 5:17 ) しかしペトロは、既に聖霊に突き動かされて、割礼を要求することなくローマの百人隊長のコルネリウスの一家に洗礼を授けていました。
使徒と長老たちが集まって協議した結果、「モーセの律法は要求されるべきではないし、また、多くの伝統的なラビの教えも同様である。」ということでエルサレムの母教会と合意に達しました。改宗者たちは、慎みをもって、血、及び血を抜き取らずに不適切に殺された動物、(同じ理由で)絞め殺された動物の肉を食べないように、また一つの血のきずなの中での結婚をしないように求められました。
伝統と歴史
こうして、エルサレムの使徒会議は、割礼とモーセの律法に関する教義上の争点を解決しました。
それも、平和的なやり方で解決しました。これは、今日において「伝統」「継承」「対立」の問題を処理するのに大変ふさわしい模範です。神学的な問題も、人々の感情も、どちらも大変重要です。ペトロとパウロは、普通の人々の普通の暮らしの中に顕われる聖霊のしるしに並外れた尊敬を示します。「霊」が、何世紀も続いてきた聖なる伝統を損なうように思えるときでも、ペトロとパウロは、聖霊は伝統や歴史に縛られることはないと知っていました。
ペトロもパウロも、教会全体の指導者たちへの問題や疑問を恐れずに引き受けました。祈りと断食と協議と投票を通して決定はなされます。そのすべての基礎となっているのは、主義や人権に関して妥協することなく、万難を排して平和を保とうという願いです。何と言っても、別れに際してイエスが教会に与えた贈り物は、分裂や不一致ではなく、平和です。わたしたちが下す判断と決定は、わたしたちと子々孫々のすべてを最終的なゴール、すなわち地上に建てられた「新しいエルサレム」へと、正義と喜びと平和の支配する世界へと、導くものでなければなりません。
弁護者
今日の福音朗読(ヨハネ 14:23-29 )は、キリストに出会いキリストと親しく交わるようになった人々は、「三位一体の交わり」そのものを、その心に喜んで迎え入れるということを思い出させてくれます。
それは、イエスが弟子たちに約束されたことです。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」( 14:23 )
ヨハネ 14 章 16 節でイエスは、「別の弁護者」を送り、永遠にわたしたちと一緒にいるようにすると言っています。ヨハネはギリシャ語の「パラクレートス( parakletos )」という言葉を用いています。これは文字通り、「一緒にいるように呼ばれたもの」という意味ですが、一般的な使われ方での「一緒にいるように呼ばれた人」とは、法律的な場面での弁護人を指します。イエスが「弁護者」について語るときには、法律的なひびきを感じますが、イメージは、もっとはっきりとした検察官の姿をしています。
イエスご自身は十字架の死を目前にしておられます。この世の視点からは、イエスは裁かれ、罪をかぶせられ、有罪の判決を下されるでしょう。しかし、イエスの死後、「弁護者(聖霊)」が現れ、この世に有罪を宣告し、イエスの無罪を宣言して判決を覆すのです。
イエスは、御父と共にある最初のわたしたちの弁護者です。新しい弁護者(聖霊)は、不在の主の代わりに送られた代理人のようなものではありません。それどころか、御父の現存と同様に、主の現存をも保証するものです。それらの「現存」は、イエスの御言葉に忠実な人を「訪れ」、その人の「内に」住むのです。その他の、主を愛さず、主の御言葉を守らない人の内に住むことはありません。
この弁護者(聖霊)は、イエスを愛し掟を守る全ての人の内に住み、その現存は時の制限を受けません(ヨハネ 14 : 15-17 ) これは、聖霊の到来を「より良いもの」にするやり方かも知れません。イエスが弁護者について語ったこれらの言葉は、最後の晩餐の折にイエスの話を聞いた人たちが、歴史上のこの瞬間の(イエスからの)賜物を、如何に後世に伝えるかを見事に言い表しています。イエスの言葉は、今日のわたしたちにも向けられているのです。
弁護者(聖霊)は、初代教会に現存したように、現代のイエスの弟子たちにも現存しています。イエスが今の時代の教会を見捨てるなどと考えてはなりません。彼は、神の真理の霊を遣わし続けています。福音書にはこう書かれています。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」( 26 節)
「カトリック教会のカテキズム」の聖霊についての記述は、この「思い起こし」を新たな言葉によって美しく表現しています:「聖霊は教会の生きた記念(過越の出来事を生き生きと想起させてくださるかた)です。」 聖霊は、わたしたちのイエスへの愛、兄弟姉妹への愛に応じて、わたしたちへの賜物を増やしてくださいます。御言葉の内に住み、掟に従い、受けたものを惜しみなく分かち合うほどに、一層その賜物を豊かに与えてくださいます。
手本
エルサレムの使徒会議は、教会が困難な状況に直面した時の手本を示してくれます。使徒たちにとっては、神学的な問題も、人々の感情も、どちらも大切でした。「霊」が、何世紀も続いてきた聖なる伝統を損なうように思えるときでも、ペトロとパウロは、聖霊が伝統や歴史に縛られることはないと知っていました。これと同じ司牧的な戦略や方法論は、今日、わたしたちが英語圏で経験しようとしている、典礼の変化のある部分についても役立っていると言えるでしょう。
2010 年 4 月 28 日、ベネディクト 16 世はバチカンで「国際“ Vox Clara ”委員会( International Vox Clara Committee )」のメンバーと会見しました。枢機卿、司教、典礼専門家から成るこの委員会は、ここ数年間、ローマミサ典礼の新しい英語訳を完成させる為に大変な努力を続けてきました。彼らの仕事はしばしば、多くのグループから誤解され、批判され、不当な評価を受けてきました。わたしは、この委員会に対する教皇の励ましの言葉のうちに、最初のエルサレム使徒会議を支配していた「司牧への配慮」と「歴史感覚」が反映されているのを感じました。
この典礼検討委員会へのベネディクト 16 世の言葉を想起し、それによって、英語圏のための新しい英語訳ミサを「受け入れる」準備に役立てましょう:
「この 8 年間、“ Vox Clara ”が典礼秘跡省に援助と助言を行い、同省が典礼文を英訳する役割を遂行できたことを感謝します。これこそ、まさに協働の成果と言えるでしょう。」
「聖アウグスティヌスは、ヨルダン川の岸辺に響き渡った洗者ヨハネの声( vox clara )と、彼が告げた御言葉との関係を美しく言い表しています。アウグスティヌスによれば、声とは、話し手の心に既に存在するメッセージを、聴き手と共有するためのものです。一旦、言葉が発せられたら、それは双方(話し手と聞き手)の心の中に留まり、役目を終えた声は消えるに任されるのです。」(「説教」 293 参照)
「ローマ・ミサ典書の英訳が直ぐにも出版される運びとなり、あなたがたが懸命に働いて準備した式文が、英語圏の世界で挙げられるミサで公布されることになるというニュースを嬉しく思います。これらの聖なる式文と、それに伴う所作を通して、キリストは民のただ中に現存し、生きるようになります。これらの言葉(式文)を生みだす手助けをしてきた『声』は、その役目を終えることでしょう。」
「そして、そこに新らたな仕事が生まれます。それは、“ Vox Clara ”の直接的な力の外にありますが、誰もが何らかの形でそれに関与することになるでしょう。その仕事とは、聖職者と信徒が新しい翻訳文を受け入れるための準備です。 40 年間途切れることなく以前の訳を使ってきたのですから、馴染みのない式文に順応するのが難しいと感じる人たちは多いことでしょう。」
「この変化は、相応の感性をもって導入される必要があるでしょう。また、その感性が示すカテケージスにふさわしい機会を、しっかりと把握する必要があります。それによって混乱や戸惑いの危険が回避できるように祈っています。それどころか、この変化が、すべての英語圏において、ミサ聖祭を刷新し深めるための跳躍台となるよう願っています。」
聖書朗読
使徒言行録 15:01 [そのころ、]ある人々がユダヤから[アンティオキアに]下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
:02 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。 :22 [この問題について協議するためにエルサレムに集まった]使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。
:23 使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。 :24 聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。 :25 それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。 :26 このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。 :27 それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。 :28 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。 :29 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
黙示録 21:10 [一人の]天使が、”霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。 :11 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。 :12 都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。 :13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。 :14 都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。
:22 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。
:23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。
ヨハネ 14 :23 [そのときイエスは弟子たちに言われた。] 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 :24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 :26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 :27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。 :29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
Council of Jerusalem, the Advocate, and Pastoral Strategy
Biblical Reflection for 6th Sunday of Easter C, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, MAY 4, 2010 ( Zenit.org ) .- The early Church community in Jerusalem was not without its problems! Several of the controversies are evident in today's first reading from Chapter 15 of the Acts of the Apostles.
When some of the converted pharisees of Jerusalem discover the results of the first missionary journey of Paul ( vv 1-5 ) , they urge that the Gentiles be taught to follow the Mosaic law. Recognizing the authority of the Jerusalem church, Paul and Barnabas go there to settle the question of whether Gentiles can embrace a form of Christianity that does not include this obligation. The Council of Jerusalem ( Acts 15:1-35 ) marks the official rejection of the rigid view that Gentile converts were obliged to observe the Mosaic law completely. From here to the end of the book of Acts, Paul and the Gentile mission become the focus of Luke's writing.
Early Church controversies
If the Gentiles are to become Christian, does that imply they must observe the customs of the Jewish converts to Christianity? This would mean imposing circumcision, dietary restrictions, and marriage regulations. The scene from today's first reading not only presents us with one of the first great controversies of the early Church, but also gives us some excellent insights into our own understanding of tradition and continuity, and the resolution of conflicts in the Church.
In the reading from the Book of Acts, some unauthorized members of the Jerusalem church tried to insist upon circumcision as a necessity for salvation within the church at Antioch. The classical problem of the early Church revolved around the necessity of the Mosaic law for salvation. Jesus certainly kept it perfectly, from his birth, for he was circumcised on the eighth day ( Luke 2:21 ) and he never annulled the force of the Mosaic law. In fact he states quite clearly: "Do not think I have come to abolish the law and the prophets. I have come, not to abolish them, but to fulfill them" ( Matthew 5:17 ) . Yet, Peter on the impulse of the Spirit had baptized the household of the Roman centurion Cornelius without requiring circumcision.
The Apostles and elders gathered for deliberation and came to an agreement with the Mother Church at Jerusalem that the Mosaic laws were not to be required, nor the many traditions of the rabbis. The converts, out of courtesy, were asked not to partake of blood, nor of animals improperly slaughtered without draining the blood, nor of strangled animals for the same reason, nor of marriages within certain blood bonds.
Tradition and history
The Council of Jerusalem therefore settled a doctrinal issue about circumcision and the Mosaic law, but did it in a way to preserve peace. This is a very good model for handling questions of tradition, continuity and conflict today. Both the theological issues and the feelings of people are very important. Peter and Paul show a remarkable respect for the manifestation of the Holy Spirit in the lives of ordinary people and situations. Even when the Spirit seemed to shatter the sacred traditions that existed for centuries, Peter and Paul knew that the Holy Spirit was not bound by tradition and history.
Neither Peter nor Paul were afraid of taking their cases and questions to the leaders of the whole Church. Through prayer, fasting, consultation and voting, decisions are made. Underlying all of this is the desire to preserve peace at all costs, without compromising on principles and human rights. After all, Jesus' farewell gift to the Church is peace, not division and discord. Our judgments and decisions must lead us and all future generations to our final goal, the New Jerusalem established on earth, the reign of justice, joy and peace among us.
Defense attorney
Today's Gospel reading ( John 14:23-29 ) reminds us that those who encounter Christ and enter into a friendly relationship with him welcome into their hearts Trinitarian Communion itself, in accordance with Jesus' promise to his disciples: "If a man loves me, he will keep my word, and my Father will love him, and we will come to him and make our home with him" ( 14:23 ) .
In John 14:16 Jesus says that he will send "another Advocate" to be on our side. John uses the Greek word "parakletos," which literally means "one called alongside," and a standard use of the term for one called alongside to help in a legal situation is defense attorney. There is a legal tone to some of what Jesus says about the Advocate, yet the picture is more exactly that of a prosecuting attorney.
Jesus himself is going to be crucified and die; in the eyes of the world he will be judged, found guilty, and convicted. Yet after his death, the "paraclete" will come forward and reverse the sentence by convicting the world and providing Jesus' innocence ( 16:8-11 ) .
Jesus was our first Advocate with the Father. The new Advocate is not a kind of a proxy sent to replace the absent Lord: on the contrary, it assures his presence as well as the Father's. They will "come to" the one who remains faithful to Jesus' word, and they will dwell "with" him. Not with the others -- those who do not love the Lord and do not keep his word.
The paraclete dwells in everyone who loves Jesus and keeps the commandments, and so his presence is not limited by time ( 14:15-17 ) . That may be the way in which the coming of the paraclete is "better." These words of Jesus about the paralcete illustrate beautifully how the audience to which he speaks at the Last Supper extends beyond those present at that moment in history. Jesus words are also addressed to us today.
The paraclete is just as present in the modern disciples of Jesus as he was in the first generation. No one should think that Jesus has abandoned his Church in our times. He continues to send us God's Spirit of Truth. We are told in the Gospel that the "one whom the Father will send will teach us everything, and remind us of all that Jesus has said to us" ( v 26 ) . This reminding or calling to memory is beautifully expressed in a new term used in the Catechism of the Catholic Church to describe the work of the paraclete: "The Holy Spirit is the Church's living memory" ( No. 1099 ) . The Holy Spirit will increase our gifts to the extent that we love Jesus and our brothers and sisters, dwell in his Word, obey the commandments, and share what we have received so generously and freely with others.
A model
The Council of Jerusalem left us a model for dealing with difficult situations in the Church. Both the theological issues and the feelings of people were very important for the apostles. Even when the Spirit seemed to shatter the sacred traditions that existed for centuries, Pe ter and Paul knew that the Holy Spirit was not bound by tradition and history. We could say that this same pastoral strategy or methodology is at work today in some of the liturgical changes we will be experiencing in the English-speaking world.
On April 28, 2010, Benedict XVI met with the International Vox Clara Committee at the Vatican. This group of cardinals, bishops and liturgical experts has worked very hard over the past years to establish and finalize the new translation of the Roman Missal in the English language. Their work has often been misunderstood, criticized and unfairly judged in many circles. I found the Pope's encouraging words to the Vox Clara Commission to reflect in many ways the pastoral sensitivity and sense of history that reigned at the first Council of Jerusalem.
Let us recall Benedict XVI's words to this liturgical committee, and in so doing, learn from them as we prepare to "receive" the new translation of the Roman Missal for the English speaking world: "I thank you for the work that Vox Clara has done over the last eight years, assisting and advising the Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacraments in fulfilling its responsibilities with regard to the English translations of liturgical texts. This has been a truly collegial enterprise.
"St. Augustine spoke beautifully of the relation between John the Baptist, the vox clara that resounded on the banks of the Jordan, and the Word that he spoke. A voice, he said, serves to share with the listener the message that is already in the speaker's heart. Once the word has been spoken, it is present in the hearts of both, and so the voice, its task having been completed, can fade away ( cf. Sermon 293 ) .
"I welcome the news that the English translation of the Roman Missal will soon be ready for publication, so that the texts you have worked so hard to prepare may be proclaimed in the liturgy that is celebrated across the Anglophone world. Through these sacred texts and the actions that accompany them, Christ will be made present and active in the midst of his people. The voice that helped bring these words to birth will have completed its task.
"A new task will then present itself, one which falls outside the direct competence of Vox Clara, but which in one way or another will involve all of you -- the task of preparing for the reception of the new translation by clergy and lay faithful. Many will find it hard to adjust to unfamiliar texts after nearly 40 years of continuous use of the previous translation.
"The change will need to be introduced with due sensitivity, and the opportunity for catechesis that it presents will need to be firmly grasped. I pray that in this way any risk of confusion or bewilderment will be averted, and the change will serve instead as a springboard for a renewal and a deepening of Eucharistic devotion all over the English-speaking world."