イエスに従い、イエスに倣い、イエスの光の中を歩む
年間第 6 主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/2/13 トマス・ロシカ師
マタイによる福音書は、紀元前 70 年のエルサレム崩壊後の初代教会の状況を映し出しています。
この福音書を通して、イエスは、律法が永遠に有効であることを確認していますが、そこには、完全な権威をもって与えられた新しい解釈が加えられています。(マタイ 5:18-19 、 21-48 )
イエスは、律法の精神を刷新することでそれを「完成」(マタイ 5:17 )させます。時には、律法の文言(離婚、同害復讐法 訳注:<目には目を>の思想に基づく法 )を廃止します。ある時にはより厳しい解釈を(殺人、姦淫、誓いについて)、またある時には、もっとゆるやかな解釈を(安息日について)与えます。イエスは、神への愛(申命記 6-5 )と、隣人への愛(レビ記 19:18 )という二つの掟を強調します。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ 22:34-40 )
訳注:申命記 6:5 : あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 レビ記 19:18 :復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように 隣人を愛しなさい。わたしは主である。
マタイ 22:34-40 最も重要な掟 : ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと 聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、 律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを 尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同 じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づ いている。」
イエスは律法に従い、新しいモーセとして、神の意志についての知識を人類に、最初はユダヤ人に、それから諸民族にも同様に分け与えます(マタイ 28:19-20 )。
訳注:マタイ 28:19-20 :だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
山上の説教は、新約聖書の中で、律法を超える力(イスラエルはそれを契約の基礎として、既に神から受けていた)が、イエスによって明白に確認され、はっきりと実行されたことを示す個所です。そして、その場所、ガリラヤの聖なる山の上でイエスは次のように宣言します。イエスは、律法の永久的な有効性と、それを遵守する義務を宣言(マタイ 5:18-19 )した後に、言葉を続けて、律法学者やファリサイ派の正義を超える正義が必要であること、すなわち、慈しみと誠実という福音宣教の精神によって命を与えられた律法の遵守こそが必要であると宣言します。
マタイ福音書の偉大な教えを黙想するうちに、今日の福音の長いパッセージ( 5:17-37 )に至ります。ここは、複雑で、禁止事項で一杯のように思えるかも知れません。そのような福音の箇所を、そこにある豊かな意味を理解しようとしないで、無視してしまうことは何とたやすいことでしょうか。この節( 5:17 )は再確認の言葉で始まります。「わたしか来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
律法は存続し、これからも常に生き続けます。それが変わることのない神から来るものだからです。
イエスが意図したのは、ご自分の出現によってもたらされた地上の新しい王国の理想を述べることでした。イエスが本当に望んでいるのは、律法学者やファリサイ派に大きな影響を与えている律法主義や、掟の文字通りの解釈を超えて、律法の精神に至らせることです。律法を最低限遵守するという姿勢は、神と隣人を愛する人々の姿勢にはるかに劣るとイエスは教えます。完全さに遠く及ばない愛を追い求めるのは、ほとんど何も求めていないも同然なのです。
律法主義と直解主義を超えて
マタイ 5:21-48 には、キリストの弟子に求められる品行の六つの例が出てきます。それぞれが律法の掟を扱っていて、いずれも、先ず「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は……と命じられている」、乃至はそれと似た表現で始まり、続いてその掟に関するイエスの教えが語られます。そのあとに、「しかし、わたしは言っておく。」と続くのは「対照法」のレトリックです。六つの例のうちの三つは、モーセの律法を受けていますが、それを拡大し、深めています(マタイ 5:21-22;27-28;43-44 )。残りの三つは、モーセの律法を弟子のとるべき品行の基準とは認めていません .
(マタイ 5:31-32 ; 33-37 ; 38-39 )。
キリストの弟子に求められる品行の最初の例は、怒り、憤り、悪意に打ち勝つことです。怒り、憤り、悪意は、たとえ表面的にモーセの十戒を遵守していても、たびたび人の心に蓄積されます。モーセの十戒には殺してはいけないという掟があります。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」(マタイ 5:21-22 ) この掟は、人を傷つける言葉を吐いたり、嘲ったり、馬鹿にしたりする場合にも適用されます。それは、嫌悪の情に流されてしまったことに対する断罪です。嫌悪を覚える本能は、潜在的に、少なくとも精神的な意味での傷害行為であり、殺害行為であるとさえ言えます。それは人間関係に必要な愛を損ない、他者に害を及ぼすからです。
イエスは、改めて人間の心の奥底に呼びかける、慈愛に満ちた浄化の掟を示します。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイ 5:23-24 ) イエスの説く愛は、皆が善いことを望み、隣人と善い関係を結び、あるいは結び直すときに、皆を等しく一つにします。たとえそれが法的な争いやその手続きの場合でも同様です。(マタイ 5:25 )。
訳注:「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。」 ( マタイ 5:25 )
イエスは二番目の例を提供します。それは、十戒の中でモーセが姦淫を禁じている第 6 戒に関して、法を完全にするものです。イエスはこう言います。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。」(マタイ 5 : 37 ) イエスは、続けて、不純な視線や不純な欲望を非難する一方で、罪の機会を避け、禁欲する勇気を持ち、霊魂と全人格の救いをすべてに優先するよう勧めます。 (マタイ 5:29-30 )
訳注:マタイ 5:29-30 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」離縁してはならない。
これと関連して、イエスは次の教えの場面でこう言います。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。」 イエスは、 「あなたたちの心が頑固なので」(マタイ 19:8 参照)(モーセによって)イスラエルの人々に許された古い掟は、もはや有効ではないと宣言し、婚姻の不解消性を再確認するとともに、愛の掟をこのような形(離婚)で冒すことも禁じました。(マタイ 19:9 参照)
訳注:マタイ 19:9 「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
今日の福音で、イエスはまた、いつも率直で誠実な隣人を、信じなかったり、疑ったりしてはならないと教えました。むしろ、人は次のような話し方と行動の基本的ルールに従うべきです。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイ 5:37 )
廃するためでなく、完成のため
イエスが使う完成(成就)という言葉は、常に、ユダヤの民との契約との関連、律法や預言者や書き残されたものとの関連で理解されなければなりません。この廃止することのない完成は、一方では、旧約聖書の確認を示唆しています。それは、神が唯一であるように、神の御言葉は唯一だからです。
その一方で、それは新約聖書の完成(完全性)をも示唆しています。神は、新約聖書によってご自分が父であり、子であり、聖霊であることを啓示されます。(マタイ 28:19 )
訳注:マタイ 28:19-20 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに 父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさ い。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イエスは、律法を完全に知り、愛をもってそれに従います。しかしイエスは、律法から完全に解放された姿を示します。イエスは、律法(安息日、禁じられている食べ物、法に則った清め、断食など)の真正な解釈を教え、その奥深さと内面性を示したいと望んでいます。イエスは、ご自身が神と等しい権威をもって新しい律法を定める者であると宣言するに至ります。キリストご自身が、律法の完成(ローマ 10:4 )なのです。
訳注:ローマ 10:4 「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。 」
イエスはまた、そのメッセージと生涯によって、ご自分が真に預言者たちに連なる者であることを示します。預言者たちと同じく、イエスは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(マタイ 22:32 )への信仰を宣言します。
訳注:マタイ 22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
イエスはまた、ご自分が旧約聖書の知恵の書の完成であることも明らかにします。知恵の書は、詩編、ことわざ、民衆の物語といった形をとり、神の民が、一方では道を示す律法に支配され、もう一方では、迷える民や王たち、時には祭司さえも叱る預言者に支配されていることへの自覚を表現しています。
確実で、追求に価する愛
新約聖書のイエスは、ご自分が旧約聖書を引き継ぐ者、あるいは終わらせる者にとどまらず、まったく新しい、唯一の、超越者であることを示します。イエスは、神の愛を、とても確かで、追求に価するものにします。愛は、信仰の深さによって、実に細部に至るまで、律法の一字一句にまで照らして計られます。そして、わたしたちが神の愛に応える能力は、純粋に上からの賜物です。イエスの生涯はこの愛の完成の模範でした。イエスは弟子たちに、単に「わたしの掟に従いなさい。」と言うだけでなく、「わたしに従い、わたしに倣い、わたしから出る光の中を歩みなさい。」とも言ったのです。
イエスは、わたしたちが聖書の理解を深める助けとなるだけではありません。イエスご自身が、完全で包括的な神の御言葉です。それはイエスが、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えられておられ」るからです(ヘブライ 1:3 )。イエスは、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ 1:14 )御言葉です。イエスは、「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(ヨハネ 1:9 )のです。イエスは、「最初の者にして最後の者、また生きている者」(黙示録 1:17 、 18 )です。 聖書と歴史の中の物事は、そのどれもが、キリストの光の許でなければ正しく理解することはできません。
聖書教育の体制
今日の豊かな福音の教えに照らして、「神のみことば ( Verbum Domini )」 についての黙想を続けましょう。「 教会生活と宣教における神のことば 」の司教会議のテーマを受けた使徒的勧告第 75 項を考察します。
「司教会議が定めた目標、すなわち、教会の司牧活動において一層聖書に重点を置くために、全てのキリスト者、とりわけ教理教育担当者は適切な修練を受ける必要があります。聖書教育の職務に配慮しなければなりません。教会の経験が示すように、それはこの目的にとって非常に有効な手段なのです。」
「司教会議の教父たちはまた、できれば既存の研究組織を使って、信徒や宣教者が神の御言葉を理解し、それを生き、伝える訓練を受けるためのセンターを設立すべきであると勧告しました。また、必要に応じて、聖書研究のために特化した研究所が設置されるべきであるとも述べました。それは、 聖書解釈学者 たちが確かな神学理解を持ち、使命を果たすべき場の状況を正しく認識できるようにするためです。」
聖書朗読:
シラ書 15:15-20 :(略)
1 コリント 2:6-10 : [ 皆さん、 ] わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。 2:7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。 2:8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 2:9 しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。 2:10 わたしたちには、神が “ 霊 ” によってそのことを明らかに示してくださいました。 “ 霊 ” は一切のことを、神の深みさえも究めます。
マタイ 5:17-37 : [ その時、イエスは弟子たちに言われた。 ] 《 17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃 止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 18 はっきり言 っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ること はない。 19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天 の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる 者と呼ばれる。》
20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」腹を立ててはならない 21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
《 兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込ま れる。 23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそ こで思い出したなら、 24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰 って来て、供え物を献げなさい。 25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しな さい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投 げ込まれるにちがいない。 26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこか ら出ることはできない。」 》
27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
《 29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がな くなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30 もし、右の手があなたをつまずか せるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がま しである。」離縁してはならない 31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。 32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の 罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》
33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」
《「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 35 地にかけて誓ってはならない。そこ は神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 36 また、あ なたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」 37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
FOLLOWING JESUS, IMITATING HIM, AND WALKING IN HIS LIGHT
Biblical Reflection for the 6th Sunday in Ordinary Time A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, FEB. 8, 2011 ( Zenit.org ) .- Matthew's Gospel reflects the situation of the early Church after the destruction of Jerusalem in A.D. 70. Throughout the Gospel, Jesus affirms the permanent validity of the Law, but with a new interpretation, given with full authority ( Matthew 5:18-19, 21-48 ) .
Jesus "fulfills" the Law ( Matthew 5:17 ) by radicalizing it: At times he abolishes the letter of the Law ( divorce, law of the talion ) , at other times, he gives a more demanding interpretation ( murder, adultery, oaths ) , or a more flexible one ( sabbath ) . Jesus insists on the double commandment of love of God ( Deuteronomy 6:5 ) and of neighbor ( Leviticus 19:18 ) , on which "depends all the Law and the prophets" ( Matthew 22:34-40 ) .
Along with the Law, Jesus, the new Moses, imparts knowledge of God's will to mankind, to the Jews first of all, then to the nations as well ( Matthew 28:19-20 ) .
The Sermon on the Mount is the place in the New Testament where one sees the power over the law ( which Israel had received from God as the foundation of the covenant ) clearly affirmed and decisively exercised by Jesus. It is there, on that holy mountain in Galilee, after having declared the perpetual validity of the law and the duty to observe it ( Matthew 5:18-19 ) , that Jesus went on to affirm the necessity of a righteousness surpassing that of the scribes and Pharisees, or of an observance of the law animated by the new evangelical spirit of charity and sincerity.
As we continue our reflection on Matthew's great sermon, we hear a long Gospel passage today that may seem to be complex and filled with prohibitions ( 5:17-37 ) . It is far too easy to "tune out" such a Gospel text, rather than trying to understand its rich meaning. The passage ( 5:17 ) begins with a word of reassurance: "Do not think that I have come to abolish the law or the prophets; I have come not to abolish but to fulfill."
The law remains and will always remain because it comes from our unchanging God. Jesus intends to state the ideals of the new kingdom on earth that is ushered in by his appearance. His whole intention is to bring people beyond legalism -- which seriously affected the Scribes and the Pharisees -- and a literal interpretation of rules, and into the spirit of the law. Jesus teaches that minimal obedience is far beneath the dignity of those who love God and neighbor. To strive for less than perfect love is to strive for too little.
Beyond legalism and literalism
Matthew 5:21-48 contains six examples of the conduct demanded of the Christian disciple. Each deals with a commandment of the law, introduced by "You have heard that it was said to your ancestors or an equivalent formula, followed by Jesus' teaching in respect to that commandment, But I say to you;" thus their designation as "antitheses." Three of them accept the Mosaic law but extend or deepen it ( Matthew 5:21-22; 27-28; 43-44 ) ; three reject it as a standard of conduct for the disciples ( Matthew 31-32; 33-37; 38-39 ) .
The first example of the conduct demanded of the Christian disciple consists in the victory over anger, resentment and ill will, which are frequently stored in the human heart, even with the outward observance of the Mosaic precepts, among which is that of not killing. "You have heard that it was said to your ancestors, 'You shall not kill; and whoever kills will be liable to judgment.' But I say to you, whoever is angry with his brother will be liable to judgment" ( Matthew 5:21-22 ) . The same holds good in the case of one who has offended another with hurtful words, mockery and derision. It is the condemnation of all yielding to the instinct of aversion, which is potentially an act of injury and even of killing, at least spiritually, because it violates the required love in human relationships and causes harm to others.
Jesus presents the purifying law of charity that re-orders human beings in their most intimate heart of hearts, "Therefore, if you bring your gift to the altar, and there recall that your brother has anything against you, leave your gift there at the altar. Go first and be reconciled with your brother, and then come and offer your gift" ( Matthew 5:23-24 ) . The love preached by Jesus equalizes and unifies all in willing what is good, in establishing or re-establishing harmony in relations with one's neighbors, and even in cases of legal contentions and proceedings ( cf. Matthew 5:25 ) .
Jesus offers a second example of bringing the law to perfection concerning the sixth commandment of the Decalogue in which Moses prohibited adultery. Jesus announced, "You have heard what was said, 'You shall not commit adultery'; but I say to you." ( Matthew 5:27 ) . He went on to also condemn impure looks and desires, while recommending flight from occasions of sin, the courage of mortification, the subordination of all acts and behavior to the demands of the salvation of the soul and of the whole person ( cf. Matthew 5:29-30 ) . Linked to this case is another of Jesus' teaching moments when he said: "Whoever divorces his wife must give her a bill of divorce. But I say to you." He declared as no longer valid the concession made by the old law to the people of Israel "because of the hardness of their hearts" ( cf. Matthew 19:8 ) , by prohibiting even this form of the violation of the law of love in harmony with the re-establishment of the indissolubility of marriage ( cf. Matthew 19:9 ) .
In today's Gospel Jesus also taught that one should not be disbelieving or distrustful of one's neighbor when he is habitually candid and sincere. Rather, one should follow this fundamental law of speech and action, "Let your 'yes' mean 'yes' and your 'no' mean 'no.' Anything more is from the evil one" ( Matthew 5:37 ) .
Not to abolish, but to fulfill
Jesus' language of fulfillment must always be understood in relation to the Covenant with the Jewish people and in relation to the Law, the prophets, and the writings. This fulfillment and non-abolition on the one hand indicates the confirmation of the Old Testament, since God's Word is one just as he is one. On the other hand it indicates the fullness of the New, in which God reveals Himself as Father, Son and Holy Spirit ( cf. Matthew 28:19 ) .
Jesus knows the Law perfectly and observes it with devotion. However, he shows himself perfectly free with regard to the Law. He wishes to give the authentic interpretation of the Law ( the sabbath, forbidden foods, legal purifications, fasting etc. ) , and to show its depth and interiority. He goes so far as to declare himself the new lawgiver, with an authority equal to that of God. He himself is the fulfillment of the Law ( cf. Romans 10:4 ) . Jesus also shows that he is the genuine continuation of the prophets in his message and his life. Like them, he proclaims faith in the "God of Abraham, of Isaac, and of Jacob" ( Matthew 2:32 ) .
Jesus also presents himself as a fulfillment of the wisdom literature in the Old Testament. These books, under the form of psalms, proverbs and popular narratives, show an awareness that the people of God is governed on one side by the Law, which indicates the way, and on the other side, by the prophets, who correct the people, the kings and even the priests when they go astray.
Precise and challenging love
In the New Testament, Jesus presents himself not merely as the continuation or the end of the Old Testament, but as something completely new, original and superior. Jesus makes God's love very precise and challenging. Love is measured by faithfulness to the smallest details, to the periods and commas of the law. And our ability to follow it is purely a gift from above. Jesus' life was a model of this fulfillment. Jesus could say to his disciples not only and not merely, "Follow my law," but, "Follow me, imitate me, walk in the light which comes from me."
Jesus does not only help us to gain a better understanding of the Bible; but he himself is the perfect and comprehensive Word of God, because he "is the very reflection of His glory, the very imprint of His being, the one who sustains all things by his mighty word" ( Hebrew 1:3 ) . He is the Word who "became flesh and made his dwelling among us" ( John 1:14 ) . He is "the true light, which enlightens everyone" ( John 1:9 ) . He is the "first and the last, the one who lives" ( Revelation 1:17,18 ) . Everything in the Bible and history cannot be definitively understood except in the light of Christ.
Biblical formation
Continuing our reflection on "Verbum Domini" in light of today's rich Gospel teaching, let us consider No. 75 of the postsynodal exhortation that reflected on the theme "The Word of God in the Life and Mission of the Church": "In order to achieve the goal set by the Synod, namely, an increased emphasis on the Bible in the Church's pastoral activity, all Christians, and catechists in particular, need to receive suitable training. Attention needs to be paid to the biblical apostolate, which is a very valuable means to that end, as the Church's experience has shown.
"The Synod Fathers also recommended that, possibly through the use of existing academic structures, centres of formation should be established where laity and missionaries can be trained to understand, live and proclaim the word of God. Also, where needed, specialized institutes for biblical studies should be established to ensure that exegetes possess a solid understanding of theology and an appropriate appreciation for the contexts in which they carry out their mission."