いま、地の塩、世の光であるために

年間第 5 主日 ( A 年) 聖書黙想  2011/2/6  トマス・ロシカ師

 

ナザレのイエスは優れた教師であり、偉大な語り部でした。イエスが、ガリラヤ湖のほとりで、丘の中腹で、荒野で、あるいはエルサレムの神殿の境内で若い友人たちと一緒に座り、彼らに教え諭している様子が容易に目に浮かびます。イエスは、教えたり説教したりするとき、周囲のあらゆるものを利用し、わたしたちのために人間の状況と神が創造された世界のすばらしい芸術的なひな形を示します。

 

イエスのこのような資質は、きょう朗読されるマタイ福音書の山上の説教に続く部分( 5:13-16 )に明確に表れています。今日の福音の言葉を生き生きと感じさせてくれた二つの個人的な体験を通して、その豊かな意味をお話ししたいと思います。一つは、聖地での研究期間中の体験であり、もう一つは、それ以前にフランスで美術史を学んでいたときの体験です。

 

地の塩とは

古代の聖書の世界では塩は貴重品でした。塩は、食べ物に味と風味を与えてくれます。また防腐剤としても重要です。人々はさらに塩以上のなにかを渇き求めるようになりました。イエスは、弟子たちが自分の教えを通してこの世に味と風味を与えること、イエスが世に宣言した真理を守り伝えること、そして、世がより高いものを渇望することを望んでいました。

 

エルサレムの聖書学校( the Ecole Biblique )での研究期間中に、ヤコブの井戸を訪れるためにエルサレムからナブラス(聖書ではシュケム)へ、かなり危険な旅をしたことを鮮明に覚えています。曲がりくねった道に沿って走りながら、パレスチナ人のタクシー運転手のアリは、多くのパレスチナ人の家々の脇にある粘土でできた竈をわたしに示しました。アリによれば、土地の人たちの多くは、たとえ電気やプロパンガスのストーブを持っていても、未だに土竈の方を好んでいるというのです。このタイプの竈は古代からこの地方で使われてきました。実際、聖書の時代には、どの村にも共同の竈がありました。わたしたちはたびたび車を止め、道路脇で自分たちのための「パン屋」を開いているいくつかの家族を訪ねて、粘土の竈で焼いたばかりの暖かいピタパンを味わいました。

 

イエスが話した古代のアラム語とヘブライ語では、一つの単語が「粘土の竈」と「大地」の両方を意味していました。

火にくべる燃料としての木材の代わりに、村の若者たちはラクダやロバのふんを集め、塩と混ぜて平たいパテ状にし、暑い中東の太陽のもとで乾かしました。今日でも世界の多くの地域で、このようなふんのパテがたき火の燃料として未だに用いられています。板状の塩を竈の底に置き、塩を混ぜたふんのパテをその上に乗せます。塩にはふんを燃え易くする触媒作用があります。一定の時間が過ぎると塩は触媒能力を失い役に立たなくなります。わたしは、ナブラスへの道沿いの家の屋根や壁に点々と干してあるパテをこの目で見ました。わたしはその日、イエスが、「もはや、(塩は)何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(マタイ 5:13 )と言ったときに、何を引き合いに出していたかを悟りました。

 

古代の聖書の世界では、塩は大切な生活必需品の一つに数えられていました。塩は、食べ物に味をつけるだけでなく、食物を腐らすことなく貯蔵するためにも使われていました。また食べ物ばかりでなく、生け贄を捧げるとき、それが穀物であっても焼いた生け贄であっても、その上にふりかけられました。また、塩は契約を結ぶときや誓約をするときにも使われました。「あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」(レビ記 2:13

 

旧約聖書には、「塩の契約」についても語られています。「イスラエルの人々が主にささげる聖なる献納物はすべて、あなたとあなたと共にいる息子たち、娘たちに与える。これは不変の定めである。

これは、主の御前にあって、あなたとあなたと共にいるあなたの子孫に対する永遠の塩の契約である。」(民数記 18:19 ) 「塩の契約」は、永遠の関係を意味しています。誰かと一緒に塩を食べることは、忠実に結ばれていることを意味しました。これが、福音記者マルコが、「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ 9:50 )と書いたときに、引き合いに出したことです。塩は、また新生児を拭くときにも使われました。それには医学的な意味もありますが他の目的もあります。たとえば、悪魔の力から子供を守るという願いもあげられるでしょう。

 

塩に塩気がなくなれば

「塩に塩気がなくなる」という心配を、今日の私たちが理解するのは困難です。それは特に、わたしたちが使う塩の純粋さの故です。イエスの時代には、塩はわたしたちが知っているようなやり方で精製されることはなく、死海の水が乾いてできた堆積物から集められたものでした。この塩は、自然条件にさらされると分解して塩気を失うこともありました。そのような塩は、キリストの弟子であることの意味を語る「たとえ」として大変適しています。弟子であることは、その気持ちを新鮮に保つよう気をつけていないと、活力を失う恐れがあり、また実際に失ってしまうのです。

 

弟子たちを「地の塩」と呼ぶとき、イエスは、上記のような塩の様々な性質にそれとなく触れているのです。弟子たちは、味のないものに味をつけること、腐りそうなものを腐らせずに保つこと、互いの約束と忠実さを表明することのできる人たちです。イエスの弟子たちは上手な語り手です。 「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」(コロサイの信徒への手紙  4:6 ) わたしたちが地(土竈)の塩になるということは、(竈の)内に火を燃やし、わたしたちの周囲にも火を燃やし、その火を明るく燃やし続けるということです。もしもわたしたちが、イエスの弟子としてそのようにするなら、わたしたちもまた「世の光」となるでしょう。ここにおいてわたしたちは、塩と光の二つのイメージが見事に結びつくのを見るのです。イエスは、ご自分が賢明で想像力に富んだ教師であり、周りの人たちに、味と、活力と、いのちと、光を与える存在であることを示します。

 

色彩と光

イエスは自分に従う人たちに対して、地の塩となることに加え、世の光となるよう呼びかけます。ガリラヤの山腹でのあの印象深い説教の中で、イエスは、ご自分の光を従ってくる人々に与えられます。「あなたがたは世の光である。」 イエスは世の光です。イエスはわたしたちに、同様に世の光となるようにと呼びかけます。

 

1970 年代の後半、夏の学部研究の期間に、美術史のコースで、パリやサンスの町からさほど遠くないセーヌ・エ・マルヌ県のモレ・シュル・ロワンという、まるで絵のような中世の町に行ったことがあります。この美しい小さな町は、マネ、モネ、ルノアール、セザンヌ、シスレー、ドガといったフランス絵画の巨匠たちにとって霊感の源泉となっていました。マネやモネの絵の息をのむような美しさに心を動かされない人がいるでしょうか。わたしたちの目に映る風景が、そして実に周りの世界さえもが、光によってはっきりと描き出されたり変化したりすることに賛嘆の念を禁じ得ないからです。

 

この忘れられない夏期講義とモレ・シュル・ロワン訪問は、若い大学生だったわたしにとって、印象派の絵画との最初の出会いとなりました。初老の、いかにもフランス美術史の研究者らしい先生が、モリエールの言葉で、町を流れる川の岸辺に座るわたしたちに講義をしている様子が今も目に浮かびます。「印象派は、色彩と光がすべてであることを覚えていて下さい。その画面は、光によって色を引き出し、色にいのちを与えています。」

 

光には、闇を追い払い、それの及ぶところすべてを暖め、形を際立たせるという性質があります。そして、これらのすべてを一瞬のうちに行います。キリスト者が世の光となるということは、高いところから来る光をあらゆる所に広めることです。それは、悪と罪から来る、またしばしば無知、偏見、自己本位に起因する闇と戦うことを意味します。印象派の絵画を見るようにしてイエスの顔をよく見れば見るほど、わたしたちはさらに多くの光を見、それによってさらに変えられていきます。

 

あなたの光は曙のように輝き出る

今日の第一朗読のイザヤの預言( 58:7-10 )は、うわべだけの崇拝は神に受け入れられないことを思い出させてくれます。それは内面の誠実さを伴っていなければなりません。イザヤは、主が、わたしたちに期待する断食の性格を教えています。イザヤは聴衆に、「軛を負わすこと、指をさす(拳を固めて糾弾する)こと、呪いの言葉をはくことをあなたの中から取り去るなら」、と呼びかけ、それを、「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、裸の人に会えば衣を着せかけ」ることによって実行するよう促しています。そのようにするならば、「あなたの光は、闇の中で輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。」と。

 

時には、手を開く(寛大さ)よりもむしろ拳を固めて(他者を裁いて)しまうのには多くの理由があるようです。それは心の傷と絶望、疲れと無関心、恐れと誤解、自己本位と傲慢などです。理由はどうあれ拳を上げるということは、いずれの場合でも自分の仲間から離れること、要するに他者を仲間と認めないことを意味します。一方で寛大さは、他者に対して自分の仲間、友人、兄弟、姉妹、同じ天の父の子供として向き合い、真福八端を生きる民となるようにという共通の呼びかけを分かち合うことを意味します。

 

イエスの弟子たちは、その行いで世の中に善い影響を及ぼさなければなりません。弟子たちには、山の上に築かれた町のように隠れ場がありません。善い行いが出来なければ、塩気のなくなった塩のように、あるいは光を覆い隠されたランプのように役に立たなくなります。イエスがわたしたちを「光」になるように招くのは、この世にイエスを現存させるために招いているのです。塩と光の存在は隠すことが出来ず、その不在はすぐに感知されるのと同様に、善い人の親切な行為は無視することができません。寛大な人たちの善い行いは、人々が、御父の創造物の中に垣間見る聖性の故に神を褒め称えるようにと、光を放つのです。

 

カテケージスの聖書的次元

今日の豊かな福音の教えに照らして、「神のみことば Verbum Domini )」 についてのわたしたちの黙想を続けましょう。「 教会生活と宣教における神のことば 」の司教会議のテーマを受けた使徒的勧告、第 74 項を考察します。

「第 74 項: 教会の司牧の仕事の重要な側面はカテケージス(教理教育)です。それが賢く用いられれば、神の御言葉の確かさの再発見に役立ちます。カテケージスはいつでも、様々な形、様々なレベルで、神の民の旅路に同行しなければなりません。エマオへの道でイエスと出会った弟子についてのルカの記述(ルカ 24:13-35 参照)は、ある意味で、「聖書の説明」を中心に据えたカテケージスの模範を示しています。聖書の説明は、キリストただ一人が与えられるものです(ルカ 24:27-28 参照)。なぜならイエスは、ご自分のペルソナにおいてそれらが実現(成就)したことを示されたからです。

あらゆる失敗に打ち勝つ希望はこうして再び生まれ、これらの弟子たちを、復活した主に確信と信頼を置く証し人にしました。」

 

要理教育の一般的指針 1971 年聖職者省発表)には、聖書に霊感を受けたカテケージスのための貴重なガイドラインが書かれており、わたしはためらうことなくこれを参照するよう勧めます。ここで、わたしが何よりも強調したいのは、カテケージスは、『聖書と福音のテキストそのものに繰り返し触れることを通して、聖書の思考様式、霊性、見解に沿って心に浸透させるべきであること、それはまた、カテケージスが、教会の思いと心で聖書を読むために、実に豊かで効果的なことを銘記すること』でもあります。同様に、教会の二千年におよぶ省察と生活から霊感を引き出すためにも、カテケージスは豊かで効果的な手段なのです。それゆえ、聖書の登場人物、出来事、有名な言葉を学ぶことが大切です。そのためには、特にキリストの神秘を表すいくつかの文章を賢く記憶することが有効です。教理教育の仕事をしていると必ず、いつも信仰と教会の伝統に沿って聖書に接するようになります。それによって丁度、『二人、または三人がキリストの名によって集まるところにはどこでも、キリストが現存される。』(マタイ 18:20 参照)ように、聖書の言葉を生き生きと感じられるようになるのです。カテケージスは、救いの歴史と教会の信仰の内容を生き生きとしたやり方で伝えるべきです。そして、すべての信者が、この救いの歴史が自分の生活の一部であることを悟れるようにするべきです。」

 

「ここで、聖書とカトリック教会のカテキズムの関係を強調しておくことは大切なことです。『 要理教育の一般的指針』 に明記されているように、『聖書は、実際に‘聖霊の霊感の下に書かれた神の御言葉'であり、一方、カトリック教会のカテキズムは、教会の生きた伝統を現代に伝える大切なもので、信仰教育の確かな規範ですから、(聖書もカテキズムも)それぞれのやり方で、それぞれの特別な権威に従って今日の教会のカテケージスを豊かに育てるよう召されているのです。』」

 

 

 


 

聖書朗読:

 

イザヤ 58 : 7-10: 7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。 8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。  9 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら 510 飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。

 

1コリント2: 1-5 :   1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、 “ 霊 ” と力の証明によるものでした。 5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

 

マタイ5: 13-16 13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 

 


How to Be Salt and Light in the World Today

Biblical Reflection for the 5th Sunday in Ordinary Time A, By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, JAN. 25, 2011 Zenit.org .-

Jesus of Nazareth was a master teacher and a great storyteller. I can easily picture him teaching and preaching to his young friends as they sat on the shores of the Sea of Galilee, on hillsides, in deserted places or in the temple precincts in Jerusalem. He incorporated everything around him in his teaching and preaching and he models for us a tremendous artistry of the human condition and of God's created world.

 

These qualities of Jesus are clearly evident in today's Gospel -- the continuation of the Sermon on the Mount in Matthew's Gospel 5:13-16 . In order to explain the rich meaning of today's Gospel passage, I would like to draw from two personal experiences that brought them to life for me -- one from my years of study in the Holy Land and the second from an earlier experience studying art history in France.

 

Understanding salt of the earth

In the ancient biblical world, salt was a precious commodity. It gave flavor and zest to food; it served as an important preservative; salt also made people thirst for something more. Jesus wanted his disciples to give flavor and zest to the world through his teaching; to preserve the truth as he proclaimed it to the world; to make the world thirst for more.

 

During my studies at the Ecole Biblique in Jerusalem, I recall vividly the rather perilous journey Jerusalem to Nablus biblical Shechem to visit Jacob's well. Along the winding road, I remember our Palestinian taxi driver, Ali, pointing out to us the clay ovens next to many Palestinian houses. Ali told us how many of the locals still prefer these ovens to their own electric or propane gas stoves. These types of ovens have been around since ancient times -- in fact, in the biblical times, each village had its communal oven. We stopped to visit several families who ran their "bakeries" on the side of the road, and tasted the warm pita breads freshly baked in the clay ovens.

 

In the ancient Aramaic and Hebrew languages spoken by Jesus, one word meant both "clay-oven" and "earth."

Instead of using wood to fuel the fire, the young people of the village would gather camel or donkey dung, mix it with salt, form it into patties and let it dry in the hot Middle Eastern sun. To this day in many parts of the world, these dung patties are still used as fuel for the fire. A slab of salt was placed at the base of the oven and the salted dung patty was laid upon it. Salt has catalytic properties which cause the dung to burn. After a certain time, the salt slab loses its catalytic ability and it becomes useless. I saw these patties with my very eyes, strewn out to dry on several rooftops and walls along the road to Nablus. I learned that day what Jesus was referring to when he says: "It salt is no longer good for anything, but is thrown out and trampled under foot" 5:13 .

 

In the ancient biblical world, salt was one of the most important necessities of life. Salt was used to preserve as well as to season food. In addition to its use with food, salt was strewn on sacrifices– both cereal offerings and burnt offerings. It was used for making covenants and representing commitment: "You shall not omit from your grain offerings the salt of the covenant with your God; with all your offerings you shall offer salt" Leviticus 2:13 .

 

The Old Testament also speaks of "covenant of salt": "All the holy offerings that the Israelites present to the LORD I have given to you, together with your sons and daughters, as a perpetual due; it is a covenant of salt forever before the LORD for you and your descendants as well Numbers 18:19 .

"Covenant of salt" means a permanent relationship; eating salt with someone meant to be bound in loyalty. This is what the evangelist Mark refers to when he writes: "Have salt in yourselves, and be at peace with one another Mark 9:50 . Salt was also used to rub a newborn child, either for medicinal or other purposes, such as the desire to save the child from demonic forces.

 

When salt loses its flavor

The concern that "salt has lost its flavor" is difficult for us to understand today, especially because of the purity of the salt we use. In the time of Jesus, salt was not purified in the way that we know but was collected from deposits left by the Dead Sea as it dried. This salt was exposed to the elements and could break apart and lose its flavor. Such salt is a very appropriate metaphor for discipleship, which can and does lose its vigor over time if care is not taken to keep it alive.

 

When Jesus calls his disciples "salt of the earth," he is alluding to many of the dimensions of salt described above. Disciples are those who can season what is tasteless, preserve what could deteriorate and express mutual covenant and loyalty. Disciples of Jesus are those who speak well: "Let your speech always be gracious, seasoned with salt, so that you may know how you ought to answer everyone Col. 4:6 . To be salt for the earth-oven is to have that fire within- to set things on fire around us, to keep the light burning brightly. If we do this as his disciples, we, too, will also be "light of the world." Here we see how the two images of salt and light are masterfully joined together. Jesus reveals himself to be a clever and imaginative teacher, one who gave flavor, zest, life and light to those around him.

 

Color and light

In addition to being salt for the earth, Jesus called his followers to be the light of the world. In the memorable sermon on the Galilean hillside, Jesus transfers his light to those who follow him: "You are the light of the world." Jesus is the light of the world. Jesus calls us to be that same light.

 

During my summer undergraduate studies in France in the late 1970s, I remember an art history course that took us to the very picturesque medieval town of Moret-sur-Loing in the Départment of Seine-et-Marne, not far from the cities of Paris and Sens. This beautiful little town was a source of inspiration for the great French artists Manet, Monet, Renoir, Cézanne, Sisley and Dégas. Who is not moved by the breathtaking beauty of a Monet or Manet painting, as we admire how light can capture and change the way we look at the scenery and indeed the world around us?

 

Those memorable summer lectures and my visit to Moret-sur-Loing as a young university student would be my introduction to impressionist paintings. I can still recall the elderly, very French art historian lecturing to us in Molière's language as we sat along the banks of the river flowing through the town: "Remember that impressionism is all about color and light. Its external appearance uses light to bring out the color, to give it life."

 

Light has the characteristic of dispelling darkness, of warming all it reaches, of exalting forms. All this is done with the greatest speed. Being the light of the world means for Christians, spreading everywhere the light that comes from on high. It means fighting darkness due to evil and sin and often caused by ignorance, prejudice and selfishness. The more we look on the face of Jesus, like an impressionist painting, the more light we see and the more we are transfigured by it.

 

Your light shall break forth like the dawn

Today's first reading from the prophet Isaiah 58:7-10 reminds us that merely external worship does not avail with God; it must be joined to internal sincerity. Isaiah tells us the kind of fast that the Lord expects from us. He encourages his listeners to 'do away with the yoke, the clenched fist, the wicked word', and to do it by 'sharing your bread with the hungry and clothing the man you see to be naked'. When you do these things, then “light shall rise in the darkness and your gloom be like the noonday.”

 

There may be many reasons why, at times, we choose the way of the clenched fist rather than the open hand: hurt and disappointment, tiredness and indifference, fear and misunderstanding, selfishness and disdain. Whatever the reasons, the clenched fist always involves turning from our own kin and denying, in effect, that others are of the same kin. The open hand, however, means turning towards others as our kin, fellow human beings, brothers and sisters, children of the same heavenly Father sharing a common call to become the people of the Beatitudes.

 

By their deeds the disciples are to influence the world for good. They can no more escape notice than a city set on a mountain. If they fail in good works, they are as useless as flavorless salt or as a lamp whose light is concealed. By inviting us to be “light,” Jesus invites us to make him present in the world. Just as the presence of salt and light cannot be hidden and their absence will be noticed, the kindness of the good person cannot be denied. The good works of the open-handed shine forth so that people might praise the Father for the holiness they glimpse in His creatures.

 

Biblical dimension of catechesis

Continuing our reflection on Verbum Domini in light of today's rich Gospel teaching, let us consider Number 74 of the Post Synodal Exhortation that reflected on the theme "The Word of God in the Life and Mission of the Church":

"74. An important aspect of the Church's pastoral work which, if used wisely, can help in rediscovering the centrality of God's word is catechesis, which in its various forms and levels must constantly accompany the journey of the People of God. Luke's description cf. Lk 24:13-35 of the disciples who meet Jesus on the road to Emmaus represents, in some sense, the model of a catechesis centred on "the explanation of the Scriptures", an explanation which Christ alone can give cf. Lk 24:27-28 , as he shows that they are fulfilled in his person. The hope which triumphs over every failure was thus reborn, and made those disciples convinced and credible witnesses of the Risen Lord.

 

"The General Catechetical Directory contains valuable guidelines for a biblically inspired catechesis and I readily encourage that these be consulted. Here I wish first and foremost to stress that catechesis "must be permeated by the mindset, the spirit and the outlook of the Bible and the Gospels through assiduous contact with the texts themselves; yet it also means remembering that catechesis will be all the richer and more effective for reading the texts with the mind and the heart of the Church", and for drawing inspiration from the two millennia of the Church's reflection and life. A knowledge of biblical personages, events and well-known sayings should thus be encouraged; this can also be promoted by the judicious memorization of some passages which are particularly expressive of the Christian mysteries. Catechetical work always entails approaching Scripture in faith and in the Church's Tradition, so that its words can be perceived as living, just as Christ is alive today wherever two or three are gathered in his name cf. Mt 18:20 . Catechesis should communicate in a lively way the history of salvation and the content of the Church's faith, and so enable every member of the faithful to realize that this history is also a part of his or her own life.

 

"Here it is important to stress the relationship between sacred Scripture and the Catechism of the Catholic Church, as it is set forth in the General Catechetical Directory: "Sacred Scripture, in fact, as ‘the word of God written under the inspiration of the Holy Spirit', and the Catechism of the Catholic Church, as a significant contemporary expression of the living Tradition of the Church and a sure norm for teaching the faith, are called, each in its own way and according to its specific authority, to nourish catechesis in the Church today."

home pagae