テーマ:「信徒と司祭の役割」
森一弘司教発題
2004−5−22(土)
聖職者主義がどのような歴史のプロセスの中で生まれて来たかを話します。2000年の歴史のことだから、細かくやっていくと大変なことになるので、今回は、思い切って発想を変えまして、福音書の中における使徒達、後に司教、司祭となる使徒たちと、一般信徒というか、一般の人たちとの違い、そして教会の発展のためにどうお互いが補い合うような形をとってきたのか、ということを明確にして、現在の教会の司祭と信徒のあり方へのヒントを捉えてみようかなと思うのです。
話は非常に簡単です。カトリック教会のアイデンティティの一つの柱にはヒエラルキーがある。これは否定できないだろう。彼らにイエスさまが大きな役割を課したこと、それも聖書から出てきている。でも、問題は、福音宣教という、この福音体験の内容とか、豊かさという観点から考えた時、使徒たちはどの程度まで福音体験の豊かさを提供したのだろうかということです。その点では、一般信徒の方がずっと深い信仰体験をして、教会の土台を作るために大きな貢献を果たしたのではないだろうかということを今日はお話してみたい。
5つのポイント:
1.福音書をていねいに見て、キリストが弟子達にどのように具体的に期待したかを確認する。
2.弟子達には福音体験があったのだろうか、つまり、教会の本当の源泉になる豊かさという福音体験が弟子達にあったのだろうか、あったとすればそれはいつの時点だったのだろうか。
3.福音書で信仰伝承として伝えられてきた福音の豊かさを提供したのは、いったい誰だったのだろうか。
4.特に女性達に注目する
5.結び
一番目の弟子達に対するキリストの期待:(そっとなぞるだけにする)
ペトロ、アンドレア、ヨハネ、ヤコボに対して、これは一方的にキリストが呼びかけている、これは否定できない。しかも目的までしっかりと出している。「あなた方を人間をとる漁師にしよう」、12使徒を任命して、使徒と名づけた時の目的について、明確に書いているのはマルコです。@彼らを自分のそばにおくため、A派遣して宣教させるため、B悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。この3つの理由が書いてある。これはイエズスの後についてくる一般の群集とは明らかに違う。12使徒を選んでそばに置いているわけです。ペトロに対しては、明確に「あなたはペトロである、この巌の上にわたしの教会を建てる」と明確に言っている。解釈はいろいろにありうるかも知れないけれど、ペトロに直接云ったと言う事実は否定できない。さらにペトロには、最後の晩餐の席の前後の中で、「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った、立ち直ったならば、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と役割を明確にしています。これも否定できない。それから、復活の後には、「天の父がわたしを遣わしたように私はあなた達をつかわす」、これは、弟子達がユダヤ人を恐れて、戸を閉じて隠れているところですから、これは明らかに11人の特別な弟子達であることは確か。弟子達といって、広い意味でないことは確かですね。そして息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい、あなた達が赦すなら、赦されるだろう」という。
それから、最後に「私は、天と地との一切の権能を授かっている、だからあなたたちは全世界に行って、すべての人を私の弟子にしなさい。」ただ、この場合に、あなたたちと言うのが、弟子達だけを指しているのか、そこに一緒にいる他の女性達とか、もっと広い意味の弟子達をも指していたのかは、これは曖昧ですね。誕生してくる教会全体に対するキリストの要望かも知れない。
しかし、ヨハネ福音書の21章では、ペトロに明確に、「私の羊を牧しなさい」と云っている。こう見てくると、弟子達は、キリストから特別な役割を期待されていた、これはキリストの明確な意思だったということは非常にはっきりしてきました。これは否定できない。この弟子達が使徒となり、これが後に教会の歴史の発展の中では、後に司教になり、司祭になりという形で歴史的に受け継がれてきたことが、それがカトリック教会の特徴だといったら良いと思いますね。
この事実は受け止めざるを得ないし、これは否定してはいけないことなのだろうと思うのです。これは私たちのアイデンティティなんだろう。それはそれで良いのです。これは、だから構造の問題です。
ところが、問題は、じゃ、こういう使徒たちが、弟子達が福音を本当に理解していたのだろうかという問題が出てくる。つまり、キリストをメシアとして理解していたのかなあというところです。で、もし、理解したとしたならば、いつ、どの時点で、福音を体験したのか、これはきちんと確認する必要があるような気がするわけなのです。
いろんな箇所を調べてみると、理解していなかったのではないかというデーターが出てくる。それは、いくつか、項目ごとに上げてみますと、1番目は、自分達の中で、誰が一番偉いかと言い合っているのです。これはマルコ福音書9章33〜37節、これはエルザレムに向い始める頃のことで、かなり後の時期のことです。しかし、ルカの22章24節では、最後の晩餐の席でも議論している。これは見過ごしてはいけないことで、ご聖体は、もうキリストは制定したのです。制定して、ルカ福音書ですから、「これを記念として行ないなさい」と云った後で、弟子達は誰が自分達の中で一番偉いのか、といっているわけです。(日常に置き換えてみれば、おじいちゃんがいよいよ息を引き取る前に遺言を云った、仲良くしなさいよ、と説得した、その隣の部屋で、息子達が誰が一番偉いのか、誰が一番財産をたくさん取ることができるのかと言い争っているのと同じような状況です。非常にみっともない姿ですね。)それが報告されている。記録されている。これはルカが書いているのです。誰が一番偉いのかというのは発想自身が福音的ではない。最後の晩餐の席まで、弟子達は福音の本質を理解していなかったという疑いがでてきてもしょうがないだろうと思うのですね。
マタイ福音書の20章では、ヤコボとヨハネの母の願い、「来るべき時が来た時には、私の息子を右と左に座らせてください。」という。弟子達はこれで怒ってしまう。自分達を出し抜いたと思って他の9人の弟子たちは、この2人の兄弟に対して腹を立てた。ここもかなり最後の時期です。このような権力争いというか、このような気持ちというのは、弟子達は最後の最後まで抜けきれていない。こういうことからも福音体験をしていたのかなあということはかなり疑問なわけです。
二つ目のポイントは、彼ら自身の自己認識の欠如と裏切りと逃亡です。ヨハネ福音書の13章の37節、これは最後の晩餐の説教に入っているところです。その中でキリストは、今私はあなた達から離れて行くし、あなた方はついてくることは出来ない。別れを伝えたときに、ペトロは、「何故、今ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」という宣言をしている。「あなたのためなら命を捨てます」というこの表現は、(皆さん、びっくりしませんかね。)、キリストがペトロのために死んでくれて、ペトロは救われるのです。それが十字架です。キリストはペトロのために死のうとしている。けれども、ペトロは「あなたのためなら」と、自分が何ほどかの者であるかのような自負心がまだあるのですね。最後の晩餐の時に。これは、明らかにキリストの福音、十字架の死を理解していなかったということを何気なく表すことばですね。
それからマタイ26章のキリストの否定の箇所では、非常にはっきりと、否定している。@みなの前で打ち消して、A誓って否定して、B呪って誓って否定したと書いてあるのです。本気で公にキリストを否定した。自己保身にかられていた。キリストが彼らの命にまでなっているとは云えない心境ですね。さらに、ヨハネでは、マグダラのマリアが復活を体験しているにもかかわらず、自分達はユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて隠れている。ユダヤ人たちがキリストを殺してしまう社会に正面から立ち向かうことが出来ない弱さを持ってしまっている。キリストが十字架の上で亡くなって、復活なされた後でも、彼らは福音体験を持ってはいないということがでてくる。
3番目のポイントです。使徒言行録です。キリストが「聖霊が下るのを待ちなさい」と言いますね。その時に、「主よ、イスラエルのために、国を建て直してくださるのはこの時ですか」と聞いている。救いをイスラエルの復興という現実的なレベルでとらえていることが見えてきます。どの程度理解していたか。
3.そういう弟子達の姿と今度は3番目になるのですが、メシアあるいは救い主としてのキリストの豊かさを引き出した人たちは誰か、どういう人たちか。福音書を思い起こして、福音のエピソードの中で、私の心を支えて、一番好きだというエピソードがありましたら、手をあげてください。とらえられた女性 ― キリストのやさしさ、が感じられる。サマリアの女性のエピソード − キリストのやさしさとか、憐れみとか、キリストが一人ひとりをどんなに大事にするかということを、愛の本質を引き出したというエピソードに人たちは、サマリアの女性とか、カナンの女性とか、姦通の現場をとらえられた女性とか、収税人でしょう。徴税人たち。
ルカの天国泥棒、生涯ずっと悪いことをやって判決を受けて、キリストの横で十字架につけられる泥棒ですね。最後の瞬間に「今日わたしを思い出してください」と言ったときに、キリストは、「今日、あなたは私とともに楽園にいるよ」という、あのエピソード、あれもやはりキリストの深い優しさというものをわれわれに伝えてくれますね。
キリストのやさしさを表に引き出した人たちというのは、弟子達ではなかった。こういうように社会の底辺に生きている人たちや、皆から白い目でみられていた人たちというように見えてくる。例えばルカ7章、罪人の家にキリストがお客に行く、その時にキリストの足を涙で濡らして、髪の毛で拭いてあげる、多く赦されるものは、多く愛するというエピソードがありますね。あれもキリストのある側面を引き出しているでしょう。福音書の中核ともなる、あるいは福音書の魂ともなるような豊かなエピソードを引き出したのは、そういう人たちである。ということが見えてくるのです。
4.女性達の福音体験、これは何故ここに取り上げたかと言うと、弟子達との違いが明確にでてきているからです。ふしぎなのですが、女性達は、キリストが十字架に付けられるまでは、ボツリボツリしか名前が出てきていませんが、その十字架の前あたりまでは、12使徒の名前が出てきて、12人はこうだったとか描かれている。十字架のエピソードの方では、男達の名前は消えて、女性達の名前はしっかりと記されている。ルカでは、十字架につけられたイエズスを、名前が出ていないイエズスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従ってきた女性達はこれらのことを見ていた。マルコとマタイは具体的な名前をあげています。「女性達は遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコボとヨゼフの母マリア、そしてサロメがいた。この女性達はイエズスがガリラヤにおられた時、イエズスに従ってきて世話をした人たちであった。」
おなじようにガリラヤから従ってついてきた男達は、ここにはいない。弟子達の名前は出ていない。ヨハネにおいては名前が出ている。「イエズスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパのマリアとマグダラのマリアが立っていた。」名前が出ている。男がいたのかどうかについては、「愛する弟子がそばに立っていた」とあり、愛する弟子というのは、確かに男性名詞だから、男性には違いないのだが、これは、リップサービスとして出しているのか、あるいはシンボリックな意味でだしたのか、あるいは本当に愛する弟子というのがいたのかどうか、これは曖昧。伝承ではヨハネではなかったかと言われているが、でもね、ヨハネ書では、女性の名前は明確に示されながら、愛する弟子として名前を示していないというのは、非常にシンボリックだというように捉えたい。
十字架の下から逃げていく、ということは、まだ守るものがあって逃げる、わが身が可愛いい。ところが、女性達はずっと従ってきた。ということは何を意味するかと言えば、イエズス以外にもう頼りになるものが他になくなってしまった。イエズスが命になってしまったということであり、この背景には、この当時の女性がおかれていた状況があったかも知れない。つまり、女性が差別されていた状況、大国の侵略が常に繰り返されていましたから、生活することは大変でした。男達は大概が、戦にとられ、そして失業する、生き残った人に仕事がない。そういう中で、女性達が家族をかかえ、食べさせて子供たちを育てていくということは並たいていのことではない。その上、女性は差別されていましたから、非常に苦しい思いをしていた。そういう苦しい希望のない覆われた闇の中で女性達はキリストを見る、キリストの説教を聴く、キリストのなさり方を見る。その中に、自分達をどこかで支えてくれる何かを感じ取るわけですね。暗闇の中で本当の希望としてキリストを捉え始めていたのだろう。それでキリストに自分達の希望を掛け始めていた。
この彼女たちの生きていた世界には、もう彼女達を支えるものはない。だからもう、失うものはない。失うものがない中でキリストにずっとついてきちゃった。だから、彼女達は、十字架の上でキリストがなくなっていくのを見たときは、彼女達は、今までにないさらに深い絶望を体験しただろう。本当に切り裂かれて、折角みいだした希望をまた世界が失ってしまうというような意味では、非常に深い絶望を体験したのだろう。そういう絶望をした彼女達が、他の誰よりもキリストの復活を知らされているのです。
復活のエピソードに関しても、4つの福音書は共通して女性達を登場させています。ルカの場合には、きちっと名前が出ている。マルコの場合には、マグダラのマリア、ヤコボの母マリア、サロメ、3人になっている。マタイの場合は、2人だったと思います。唯一の希望として頼りにしたキリストが十字架の上で亡くなった時に、彼女達のそれ以後の人生というのは、キリストの墓を守るというところですね。思い出の中に生きるということになってしまうということになるわけです。ですから、彼女達がお墓を最初に訪ねるというのはわからないわけではない。ところが、お墓に行ったらば、墓が空っぽであった。だから、彼女達は、さらに仰天するわけですね。キリストのお墓をきちんとして、これから生きていこうと思っていたところが、遺体がない。彼女達は混乱しますね。そういう混乱する彼女達の前に、復活を知らされるわけでしょう。そうすると、キリスト教を作り上げている大きな柱のひとつは、十字架と復活でしょう。
十字架の恐ろしさを非常にはっきりと体験したのは女性達、男性は逃げてしまっていたからね。復活を真っ先に体験した人も女性達が先だった。だからこのキリスト教の本質には女性達の体験、人生が深くかかわっているということが出てきてしまう。ここでも、使徒たちは後であった。
ヨハネは、お墓を訪ねたのは、マリアマグダレナ一人にしている。20章を読んでみると、
マリアマグダレナはペトロに知らせに行くと、ペトロともう一人の弟子が走ってきて墓の中を確認する。「そして、見て、信じた」=墓が空っぽであることを見て、空っぽであることを信じたのでしょうね。
ところが、不思議なことにこの箇所の注解書をいろいろ調べてみると、「復活を信じた」という注解が大半です。ここがおかしい。注解書は、女性達よりも弟子達があたかも先に復活を信じたかのように書いてあるが、伝統的にそのようにずっとそのような解釈をしてきた、これは一つのメンタリティ。ヨハネ福音書の20章9節に、「つまりキリストが死人の中からよみがえられなければならないという聖書が、彼らにはまだわかっていなかったのである。」弟子達は家に帰って行った。さっさと帰ってしまった。(恐怖心)マグダレナは泣いて探している。この違いはどうでしょう。マリアマグダレナとキリストとのつながりの深さがわかる。「泣きながら」という表現が何度も出てきます、天使が何故泣いているのかと聞きますね、マリアマグダレナの飢え渇きが浮き彫りにされてきます。ヨハネ福音書ではサマリアの女性とかニコデモとか一人の人間を通してキリストの神秘を引き出そうとしている。マグダレナは7つの悪霊に取り付かれていた人ですが、聖書には悪霊に取り付かれた人がたびたび出てきます、たとえば火の中に身を投じてしまう、暴れまわる、それで日常生活が出来なくて社会から追放されてしまう。キリストはそのような人々に言葉をかけて解放する、マグダラのマリアはその後キリストにずっと付いて従っていった。彼女の中ではキリストが大きく位置づけられていたのでしょう。それですから彼女は懸命になってキリストを探したのでしょう。そのような彼女に復活されたキリストが語りかけてゆく。「マリア」「ラボニ」と彼女の生活の中で確りと他の誰よりも先に復活が体験されている。ヨハネによると弟子たちはまだユダヤ人を恐れて家に鍵をかけて中に閉じこもっている。女性たちがキリストの復活を体験しているのに弟子たちは未だ怖れている。福音体験が未だ為されていないことが分かります。その様な彼らの中にキリストが現れて「あなたたちに平和」と2度も言う。彼らを安心させて、そこであなたたちを遣わすと言う。このとき弟子たちの福音体験が始めてあったといえると思います。彼等が裏切ったことを咎めなかった。彼ら自信がほんとに弱い人間であることを知った。其れを包み込むキリストを体験することによって初めて分かったのでしょう。これが後に司教司祭となる人たちと福音体験をした人たちとの姿の違いが福音書に出てきています。
しかし問題は使徒が居て多くの福音体験をした人たちが居る。彼らに福音宣教の役割を与えたのは確かであるが、彼らが役割をはたそうと思ったら、福音宣教の中身を福音を体験している人たちに聴きに行かなくてはならなかったのではないのかということです。福音書の流れを見ると、最後の最後まで誰が一番偉いのかと言ったようなことを論争しているところを見ると、山上の説教をいくら聴いてもわかっていなかったと言う証拠ですね。使徒たちが説教を聴いていただけでは足りなかったと言うことでしょう。具体的な人生を生きていて具体的な人生の中でキリストの素晴らしさを体験した人たちから話を聞くことによって福音の豊かさ素晴らしさを汲み取ることが出来る。そのように彼らはしたのではないか、体験した人たちからいろいろ話を聞いて学ぶ必要があるのだと思うのです。聖霊降臨のまえにマリアを中心に集まって祈っていたと書いてありますからそのように思われます。
イエズス様の豊かさを体験した人たちの中にはマリアマグダレナとかマタイがペトロもその仲間であっただろうサマリアの女性もいれば姦通した女性もいればカナンの女性もいます、このような人たちがそれぞれの苦しい人生を歩んで来ているわけです。それらの人たちがキリストに出会ってキリストの素晴らしさを体験してキリストについて行くようになったわけです。其れを語り合うことによって一つの伝承が生まれます。これを信仰伝承と言ってよいと思います。この福音伝承が初代教会の源泉であったのではないでしょうか。信仰伝承の中からこれをまとめようと言って福音書として文字化されたわけです。そのまとめられたものが教会の原動力になっていったと思います。ただ使徒言行録を読んでみるとペトロの説教なんかをみますとキリストが生まれて説教してガリラヤから天国の福音を伝えて多くの人を癒したそのキリストをあなたたちは十字架につけたが父なる神は復活させられた。その歴史的事実を述べ伝えることが中心になったことに気が付きます。
使徒言行録をいくら読んでも天国泥棒のエピソードやサマリアの女性の話や姦通の現場をとらえられた話は出てきません。多分それはユダヤ人たちにあなたたちが殺したイエスがメシアであるとこを明確にしなければならないという理由からそこにアクセントが置かれたのでしょう。これが後にケリグマになり客観化されて伝えられるべき内容を決めてしまった。その辺が後の福音宣教を硬直化させてゆく原因になったと思われます。ペトロの説教などは明らかに其れです。殺されたイエスが救い主であると言わざるを得なかったことは確かでしょうが、福音書の中にある豊かなエピソードは使徒言行録やペトロの説教には殆ど出てこないのです。
歴史がだんだんに進んで4−5世紀になると伝えるべき内容が教義化されてくる。それらの内容を伝えることがあたかも福音宣教であるかのようになったしまたのでしょう。歴史を振り返ってグローバルに物事を見たときに福音の豊かさを体験し生きている人、教会の命の深いところの流れ、深いところでの命の伝承では司祭も司教も信徒も関係ない。皆人間であるというところで共通であると思います。役割は別であると思うけれども、でも一人ひとりが福音に出会って生かされて福音体験をしている。その豊かさを汲み取る必要があるのではないか。ところが教会はプロテスタントとの分裂とか近代社会を理解できなかったためにカトリック教会の正統性を守り伝えるために神学院制度を明確にして純粋培養してしまった。純粋培養した人たちが語り始めた。実生活から遊離した、しかしある福音はあったでしょうが、福音の豊かさとは違ったものになっていた。日本の現状を考えてみても生きた福音体験を互いに育てあい分かち合ってそこから確信を得なければいけないと思うのです。純粋培養された福音はある一つの側面であると思います。魅力ある豊かさは生きた人たちが証するものでなくてはならない。神学院の中にはもっと一般の人たちの接してその中で学んでゆくようなところがあっても良いのではないかと思うのです。もっと一般信徒の信仰の生き様を自分も含めて司祭たちはもっともっと学ばなくてはいけないと思うのです。神学校に入って終身独身で過ごす人は素晴らしいと叙階式で讃えられ頑張ってくださいと励まされる。独身を守ることは確かに素晴らしいことかもしれませんが、例えばドメスティックバイオレンスで虐待を受けながら毎日祈りながら夫に仕えている人は独身より素晴らしいことですよね。そこに福音体験があるのだと思う。福音の素晴らしさはこのようなところから引き出されてこなければいけないと思う。
或る時期から教会は聖人を英雄的な徳の実行者ととらえてしまった。すごい犠牲をしたり宣教地に行ったりひどい状況の中で人を許したりといったイメージになってきましたが、日常の生き様の中に英雄性とかいったものはあるのではないかと思います。現代は其れを育てていかなくてはならない時期になっているのではないかと思います。
教義と言うよりも生身の人間の福音体験がとても大切だと思うのです。人間抜きに福音を語ってはいけないのではないかと思います。今回の「学び合い」は生きるということをテーマにしています。職場の中で家族の中でお金を得るために一人ひとりが生きる中で福音がどの様に体験されているのかが問われているのです。今お話したところが狙いになっていると思います。
最後に一言終身助祭のことについてお話しておきます。司祭の減少を補うためのものではありません。1990年代に終身助祭の霊性についてという指針が出されました。その中に歴史的背景という項目があります。その中には第二バチカン公会議の文章よりも踏み込んだ文章があります。
「教会はこの世に生きなければならない」という表現です。
教会はこの世に生きなければいけないということを強調している。「教会が存在しているこの世は、人間の集まりであり、そして全人類の歴史の舞台であり、全人類の歴史の努力と敗北と勝利の後を伝えている。それがこの世界である。この世界は、また神がお創りになった世界であり、この世界には、創造主の愛の存在があって支えられている。しかし、罪の束縛の下に置かれている世界である。しかもそこで、この世界のなかで、キリストは十字架につけられ、復活し、悪が敗北した世界、その中で教会は生きなければならない、で、この世界を完成していくように教会には役割を与えられている。だから、第二バチカン公会議は、この世の体験のある人を聖職者の地位にあげて、教会のエネルギーとして生かしていきたい。それが終身助祭を導入した理由です。」
この世界から離れたところに、聖成とか救いがあるのではなくて、神がお創りになった世界が破壊され、この破壊されたこの世界の秩序を建て直そうとしてキリストがおいでになって、この世界の中でキリストは十字架につけられ、復活された。この世界を変えるのだ。この世界を離れた教会はありえない。だから、そのために教会はこの世界を変えなければならないのだけれど、それではどうしたら良いのか、そのためには、ひとつ、終身助祭が役に立つのではないのか。
教会のメンバーであり、役務者である助祭は、現実を重視しなければならない。つまり、時の文化、渇望、諸問題を承知しなければならない。実際に助祭はこうした状況のなかで、キリストの生きたしるしとなるように、そしてこの世界を完成しなければならないという教会の使命に参与するのだ。
「現実の中に福音を生きる」という流れを育てなければならない、いわゆる、教義を伝えればそれで福音宣教がなされるという時代ではないということで、そのためには、一般信徒の方々の実際に生きた福音体験、生き様がとっても大事になってくるし、それを司祭達にもっともっと伝えないと、司祭達の活動は、硬直した、枯れたものになってしまう。司祭達の豊かさは信者さんたちの豊かさによってFollowされなければ、ほんまものにはなってこない。
感じたことと、現実に自分はどんな光を得たか、現実にはこれから前向きに司祭と信徒達が一緒になって教会を豊かにしていくにはどうしたら良いかというところまで話し合っていただきたい。第一回NICEでは、もうこの辺を感じていて、司祭と信徒と修道者とかが、一緒に分かち合う、一緒に研修会をする、一緒に黙想会をする、一緒になになにをするということを大分強調していた。これも頭において話し合っていただきたいですね。
自分のことを振り返ってみますと、一番後に自分の心の壁が壊されて、開いていくような道筋を作ってくれたのは、普通の人との出会いでした。それは、信徒も含めてのことです。このように考えていただければいいのです。
司祭として教会に送られますね。日曜日或はWeekdayに信徒の共同体がありますね。日曜日にミサを一緒に捧げる。僕の心の中に、信徒の皆さんの生き様が響いてくるのですね。例えば、あのおばあちゃんは孫が急性白血病になってしまって、すごく苦しんでいる。必至になって祈っているおばあちゃんがいるよ。片方では、幼児洗礼で、離婚、再婚を繰り返して、またつきあっている女性がいて、この人が先読みをやっていて、この人については、古い信者さんが、「どうしてあんな人が教会で朗読をやっているの」とか、責められている、責められていることを知っていながら、僕はミサをあげるわけでしょう。
片方では、子供が学校に行けなくなってしまって苦しんでいる母親が一生懸命に祈ろうとしている。共同体の中にいろんな人間の生きている姿があるわけで、それを感じながら、ミサを捧げ、説教をするわけです。僕自身の人間としての歩みもあるわけです。僕自身は、こういう全体がキリストをどこかでとらえている、キリストを仰ぎながら、自分の人生を支えようとしている。ひとり一人は個人的な人生ですし、個人的な福音体験だけれども、共通するのは、キリストによって生かされた仲間である、という意識の下に共同体が作り上げられてきて、それを僕は感じているわけですね。そんな時に、この共同体がつくるいのち、伝え合っている信仰伝承といった言葉の方がいいかも知れない。これの深さとたくましさ、それをすごく感じるのです。
だから、神学的にはキリストの高さ、広さ、深さなどということがありますけれども、この共同体が作り上げている、キリスト体験の広さ、深さ、たくましさ、豊かさが、この私を支えているのだ、その中の私はひとりなのだという意識が、ある時期から非常に強くなった。そんな時の自分の役割、司祭としての役割は何だろうかなと振り返り始めたときに、これは、この共同体、信仰伝承を作り上げているこういう人々の要になる役割が、司祭の役割だろうと考えはじめてから、自分の気持ちは落ち着き始めた。
司祭は、そういう意味では、キリストに生かされている、或はキリストによって生かされたいと願う人たちの要を仰せつかっているのだろうというのがひとつあります。そして同時に、その人たちの、生かされているその人たちをさらに生かしていく、アニメーターの役がもうひとつあるのだろうと思うのです。
「キリストによって生かされている」というアニメーターとしての役割を果たしていくために、ある時期から心掛けなければならないと思うようになったことは、説教ですが、「人のこころを見ながら語る」というようなところに転換するのです。若い時は、福音書を聖書学的に注解したりして、客観的な何か、真理を伝えようとしていたのですが、ある時期から、この中にいるだれか、生きる人間の心をとらえながら、その人に響くような投げかけを努力するようになったのです。
司祭は
一人ひとりの人間としての現実に目をむけながら、そしてそれに共感しながら、この福音を伝えていく役割があって、その中に教義というものも位置付けられてくる、教義は否定したくないのですが、生身の人間の生き様を見つめながら、ということがひとつ求められてくるのではないかと考えています。
「小教区教会の中で分かち合いが出来ないのは、当然で、あまり分かち合いをやろうやろうというならば、暴力になってしまう気がするので、自然体が一番いいようにおもうのです。あまり無理しない方が良い」そこで、自分がここにやってきた時に、口にはださないだろうが、切実な人生をもっていて、一生懸命にそこでキリストをみつめて、キリストによって光を汲み取ろうとしている、精いっぱい叫びと祈りをあげているのだという、柔らかな感性が必要なのだろうと思うのです。それが教会共同体から失われてしまうと、「裁き」、裁く共同体、裁きの目が入ってしまう。或は教義とか、何かの枠組みの中に無理やり突っ込んでしまう、あるいは「べき論」の中にはいっていくと、もうついてこられない人達が弾き飛ばされてしまって、それは福音体験から追い出してしまうことになるので、例え、分かち合いなどということが出来なくても、ひとり一人が人間としてキリストを一生懸命求めつづけているという、一人ひとりの切実な生き方に対する柔らかな感性を育てあうことが、教会共同体に行き易い雰囲気を作っていくのではないかと思うのですね。
そして、最後に司祭は、アニメーターであり、なになにであると同時に、もうひとつの役割があると思うのです。つまり、この共同体全体が、考えてみれば、キリストに生かされている共同体である、それはどういうことかと言えば、天の御父が人々を救うために御一人子をお送りになったというそれの証人でもあるわけですね。共同体全体がキリストの証人であると同時に、その中心にいる司祭の役割も、神がこれほどまでに人を愛してくださっているということを証していく共同体であるわけですから、それが、教会の秘跡性になっているということですから、要になるとか、アニメーターになるとか、人間の暖かな感性を育てるというようなことは人間レベルのことですが、秘跡的なレベルで云えば、神がこれほどまでに愛してくださったという、愛を体験した信仰を証していく共同体としての司祭の秘跡的な役割があり、信徒全体もその役割があるのではないかと思うのです。共同体全体が硬直したものではなく柔らかで柔軟で生きたものになって行くことが大事で、其れを育てる一番大事な感性は「人間一人ひとりに対する暖かなまなざし」ではないかと思います。自分でも自分が未だ発展途上なのか堕落してゆく途上にあるのか分かりませんし、いろいろ形は崩れてゆくでしょうね。