「学び合い」二期二年目第一回

テーマ:

「新約聖書の中に、信徒、司祭、修道者の召命の根拠と意味を探る」

発題者:ニコラス師

 

今日のテーマは広くて狭い感じがします。

私は神学生のころかなり昔になりますが、教会論を学びました。そのころは当時の教会制度を聖書でどのように説明するかと聖書箇所をあちこち探していました。先生たちは大変苦労されたと思います。そして第二バチカン公会議が開かれて、神学研究もエクメニカルな発想になってきまして、私達も謙遜になりました。私達には分からないことが沢山あるのです。

 

分かっていることの一つは今の教会の制度は新約聖書には見出すことは出来な と言うことです。今の教会制度は新約聖書と 2000年の歴史の結果生まれたものです。この制度の中には歴史的発展が沢山あります。今では制度の一つ一つは歴史学的研究のテーマになっています。イエスの最後の晩餐から今日に一跳びで来たわけではありません。歴史の中にはプラスもマイナスもあります。進歩もあれば進歩から外れているものもあります。それらを分析することによっていろいろなニュアンスを汲み取り反省も出来るのです。

 

日本語にも訳されましたが新しい公教要理の中にも言葉使いとして気にかかるところがあるます。秘蹟はイエズスが制定したと言った表現がありますが、その言葉を文字通りには現在の神学では受け止められません。秘蹟を含めて教会制度はその根がイエズスからくる、七つの秘蹟もその根はイエズスにあることは確かですが、イエズスが直接教会制度を作り秘蹟の制度を決めたとは聖書学的にも神学的にも言えない時代になりました。

 

新約聖書の時代は流動的でした。彼らの関心はイエス 記念し、イエスの生き方を模範にする、イエスのいき方を忘れないで忠実に生きることにありました。また記念するだけではなく、次の世代にどのように伝えてゆくのかに関心がありました。そのような関心のなかで、新約聖書では制度としての教会の形成の進み方は非常に遅かったのです。マルコ福音書でもイエスの復活の後 4-50年たってから書かれました。その中には教会の苦しみ悩み喜びが書かれています。生きた体験の中で書かれていますから、4福音書はみな異なっています。自分たちの体験を評価しながら書かれているのです。

 

現在大変評判になっている映画 [PASSION]を見た若い司祭が「この映画には福音が見えない」と感想を話してくれました。私は未だこの映画を見ていません。ともかくこの映画ではギブソンの解釈にもとづくイエスの受難の話です。イエスをある見方から書いた本はこれまでにも沢山あります。しかし、新約聖書は流動的で生きているのかで経験したことを、反省し、思い出し、記念しながら書かれているのです。教会制度を考える時その聖書から光とかインスピレーションをえたわけで、聖書から方向や方針を見出したのです。聖書の外から動かされたりしたようなところは制度の中でも少し怪しくなるでしょう。ともかく教会の制度に関して聖書を指導書としたことははっきりしていますが、聖書の中には教会の制度の形は未だ見えないのです。

 

初代教会を発展段階的に見る時は初期には制度の教会としては見えてはきません。制度は共同体の必要性から出発します。一方では、イエズスの体験、思い出が伝統を形成するものとして発展してゆきますが、も一方では、共同体の必要性から制度が動き出すのです。イエスが神の国を建設するために制度の計画をされて、このようにやるようにと言われたわけではありません。人々のニードに応えながら神の国を伝えてゆくために初代教会は制度的な歩みを始めたのだと思われます。

 

共同体の ードとは何か。三つのテーマが少しずつ明らかにされてゆきました。初めは別々に現れてきます。一つはリーダーシップの問題です。共同体が聖霊に導かれてキリストとの出会いを喜びとして、ある人は熱心になり過ぎ、ある人はやり過ぎてしまうようになるとどうしてもリーダーシップが必要になります。初めの段階では共同体のまとめ方は異なっていました。パウロの共同体ではかなり流動的でした。エピスコポスと言う呼び方があります。今の司教のことになりますが、この名称は意識的に宗教的用語を避けて社会的用語を使っています。現在の「司教」という呼び方は宗教的になってしまっていますが、当時は「監督する人」と言う意味だけでした。共同体があれば誰かがまとめてゆかなくてはならないのです。

 

何を監督するかと言えば、教会の一番関心のある「イエズスに忠実であるかどうか」と言う点での監督です。「イエスの考えに忠実であるか」「イエスの生き方に忠実であるか」教会は純粋なイエスの弟子の教会であるために「監督」する必要性が生じてきたのです。また一つの世代から次の世代にキリストのメッセージを伝えてゆく必要が起こったのです。

 

もう一方では信者のニードが起きてきました。病気の時どうするのか、集まりの時どうするのか、イエスの命じられたパンを割く式をどのように執り行うのか、と言った現実の問題に答える必要が生じてきたのです。「主の晩餐の記念」「パンを割く式」は新約聖書にも見ることが出来ますが、現在のミサの形式は 15世紀までは 細かい点まで定まりません でした。形としては教父時代では司教たちが自発的にいろいろな祈りを作っていました。アナホラと呼ばれる祈りは 20以上あります。司祭たちも自分のインスピレーションで祈っていたわけです。ミサの形も少しずつできてきたのです。 最近まであったミサの 形が出来上がるまでにはトリエント公会議、1 6世紀まで待たなければならないのです。

 

第二バチカン公会議でミサの形式が改められた時にルフェーブル司教などが伝統が壊されると主張しました。とんでもないことです。 生きた伝統の中の ミサは変わってきているのです。ドミニコ会は第二バチカン公会議までは自分たち修道会独自のミサの形式を持って行われていたのです。

病人に対す病者の秘蹟も初めに秘蹟とは言われないなかでニードとして始まったのです。それが秘蹟と認められ定め れるようになってゆくのです。またゆるしの秘蹟も同じようにニードから発展してゆきます。教会を離れていた人、信仰を棄てた人、大きな罪を犯してしまった人、が後悔に戻りたい時にどのようにするのか、その現実のニードに応えるところから始まりました。個別告白の形式が始まるのは 7−8世紀からです。それも初めは多様な形式がありました。このように伝統を生きたものとしてみるならば、受け継いだ組織をそのまま組織にこだわっているのではなく伝統を生かしてゆく必要があるのです。ヨーロッパでも特に地中海地方では(公会議以降)大きく変化してきました。アジアでも教会が生きているなら変わってゆくはずです。

 

教会の制度、システム、生き方はこのように変わってきたのですが、次のテーマ「司祭」は一番難しい問題かもしれません。ともかく教会の発展の中から「司祭」は現れてきます。新約聖書の中には「司祭」と言う言葉はありません。プレスビター、プレスビテレスと言う言葉は新約聖書の中にありますが「長老」と言う意味で司教に協力して教会の監督指導するものがいました。ヘブライ書にイエスだけが大祭司といわれています。信者はみなイエズスの司祭職に与るとされています。 3世紀になってからいわゆる司祭の意識が高まってきます。パウロでは神の民全体が司祭の民とされています。そこでは言葉使いが異なっています。旧約聖書の中にあるような礼拝の役割を持っている司祭は新約聖書にはないのです。イエスは信徒でした。イエスの周りの人たちは「福音を伝える」「福音を生かす」「イエスを記念する」ことにその役割を置いていたのです。

 

3世紀のキプリアヌスの影響で旧約聖書のイメージを再度教会に取り入れることによって司祭の生き方を、ミサは「いけにえ」として「いけにえをささげる」奉仕者と言った考え方が新約時代にも取り入れ始められました。そこには歴史的な変化があります。意義のあるEVOLUTIONが見られるのです。どのような変化がおきたのか5つにまとめることが出来ます。

 

1)初代教会の最大の関心事は信仰に生きるということでした。信仰が第一のポイントで、信仰を生きるための第一の役割は使徒にありました。これはユニークな役割でした。司教は使徒の後継者であると言われます。良い表現だと 思います が同じではありません。使徒たちは直接の証人であった。イエスと共に食べ歩き生活したと言うユニークな体験の持ち主でした。すでに使徒たちの時代にまとめられた文章は一つの基準となっています。

 

聖書を広い意味で見るとき、そこでの役割は使徒と預言者です。預言書はそのカリスマ恵みがあれば司祭でなくともどなたでも預言者と認められる。それでは預言者とはなにかと言えば、「神の言葉を深く悟って、その心で周りを見て語る人たち」のことです。預言者の言葉上の意味は「代わりに」「神さまの代わりに話す」と言うことです。共同体の霊的な指導をする人たちの役割は彼らが果たしましたが、初めはこの概念はあいまいで、パウロもコリントの教会で困ったわけです。自分で勝手に預言者のつもりの人がいたりして識別や監督の必要が起こりました。

 

信仰生活の中で一番中心的なのは洗礼とユーカリスティア「キリストを記念するもの」でした。それが信仰のアイデンティティの柱でした。そこに信仰生活の中心があります。すべてはそこから出てきます。歴史の中での秘蹟を人の生涯をモデルにたとえて説明したことがありますがこれは良くないのです。幼児洗礼の説明として洗礼を子供の比喩でとらえ堅信を成人と説明されましたが、成人洗礼の多い日本ではピンときません。堅信と洗礼と大人と子供は関係がありません。聖霊の賜物の差です。そこからすべてが生まれてくる。洗礼とユーカリスティアが中心です。他の秘蹟もそこから出てきます。他の秘蹟もそこから出てそこに戻ります。叙階の秘蹟か結婚の秘蹟かの選択ではありません。叙階の秘蹟はすべての秘蹟に奉仕する大切な役割のことです。結婚は人生をその中で生きるのであって段階として理解するのではなく意味として理解しなくてはなりません。

 

一番大切なのはキリストによって生きることです。豊かに生きるためにどうのようにすれば良いかであり、教会の信仰生活がどのように進められてゆくのかが大切なのです。段階的発展プロセスはゆっくりと進んできたのです。今日では信徒の使徒職とか信徒の役割とかについて話すときにすべての源として洗礼と堅信に戻ってきます。これは一つの秘蹟であると考えてよいと思います。 ウオ ルターカスパー枢機卿は論文(神学ダイジェスト 88年)で言っていますが「指導の役割は司祭にあるけれどもこれは教会全体に与えられているのである。役割は分かれていても賜物は教会全体のもんです」これは洗礼とユーカリスティアにおいてまとまると言ってよいと思います。

 

2)二番目のポイントはリーダーシップです。これは教会のニードに応えて、キリストイエズスの指導を受けて忠実でありながら共同体を指導してゆくことだと思います。パウロの教会でも司教、司祭、助祭と言う三つの役割がありました。現在とは少し違っては ますが役割はすでに発生していました。ペトロの共同体は少し違っていました。ペトロの役割が中心であったからです。そしてヨハネの共同体はリーダーシップがはっきりしていなかった。ヨハネ自体は長老であったようです。愛に生きるとか聖霊に生かされるとか言うことはあったのですが、かなり早い時期からこの共同体はめちゃくちゃになってしまいました。その辺のことはヨハネの手紙をよくと分かります。異端者も出てきてばらばらになってゆきます。この共同体には素晴らしいものは見られますが現実はもっと厳しいのです。カリスマを強調するグループはそうなりがちです。その点では現代でも同じことが言えるでしょう。このような状況の中でヨハネ共同体はもっと大きなペトロとかパウロの教会のシステムを受け入れたのです。ヨハネ福音書の後で追加された部分である 21章にそのいきさつがよく書かれています。その中でペトロはイエスから「わたしを愛するか」と3回問われています。

 

現在の聖書理解ではヨハネ共同体はペトロをリーダーとして受け入れましたが、ペトロ共同体はリーダーシップの中心は愛であることを肯定しなければならないと言った読み方になっています。ここに古代教会の緊張状態とそれを解決する姿を読み取ることが出来ます。 2世紀にはすでにリーダーシップのパターンが決まっていたようです。エピスポコスは使徒の後継ぎの役割を果たすようになっています。そこには司祭の役割はだいぶ違いがありますが、監督の役割が一本化されたような感じがします。いずれにしてもそこには信徒と聖職者の 分離の 発展は見られません。つまり区別がされていません。コンスタンチヌス時代に入らないと発展が見られないのです。リーダーシップは必要です。

 

3)リーダーシップだけではなくさまざまな奉仕が必要でした。教え、礼拝、世話、これらの用紙の役割は新約聖書では流動的で自由でした。カリスマによってニーズに応える、恵みがだれにあるのかそれを見出して、大切な役割なら派遣することが自由に行われていました。新約聖書のカリスマのリストを見ていると面白いことが分かります。Tコリント 12章ではカリスマの種類が、知恵の言葉、信仰、癒し、奇跡、預言、識別、異語が挙げられていますし、それに最期のほうでは、使徒、預言者、先生、癒し、奇跡、奉仕、リーダーシップの順序で書かれています。管理するもの(リーダーシップ)リーダーシップは下のほうです。ローマ書12章では預言、助祭、先生、励ます、ほどこし、指導、愛の行いがあげられ、エフェソでは使徒、預言者、福音者、牧者、先生などいろいろなリストがあります。

 

リストの順序は違っています。しかし大切な点はニーズに応えてゆくことそれも共同体として応えてゆくことです。司祭の役割で大切なのはその恵みがどこにあるのかという点です。司祭の欠点は恵みを見る前にシステムを見てしまうところにあります。システムから見て誰が助祭かだれが聖体奉仕者かと考える、初代協会ではシステムがなかったからもっと自由に見ていた。恵みをだれが持っているのか人の話を聞いて人を慰める恵みはだれにあるのか。信者の中に沢山あるとおもいます。しかし現実には認められていないのです。悩みを聞いて慰める恵みは現代では大きな恵みです。そこには男女の関係はない。聖霊が決めることです。この辺のところが初代教会から学ぶ大切のポイントであると思います。

 

4)リーダーの役割を持っている人を司祭として理解したのです。使徒行録を読むと分かりますが、初めはそうではなかったがかなり早い時期から、共同体の役割が礼拝の中で表現される時に共同体のリーダーはユーかリスティアのリーダーにもなったのです。

 

ご聖体は生きるより先ではない。先ず、生きることです。それをご聖体の中で表現する。表現することによってその意味が深められ励まされ力になるのが典礼です。典礼が先ではない。生活が先にあります。これは大切なところです。

 

教会の一番大切な行いは「愛する」ことです。福音を正直に読めば理解できるでしょう。教会の一番大切なシンボリックな典礼はミサです。それはその通りで問題ではありません。信仰から出る最高な行いは愛です。天国では信仰も典礼もありません。神殿もない、残るのは愛です。愛は最高の恵みで最高の表現で最高な教会の行いです。キリシタン時代 250年ミサはなかった。しかしキリシタン信徒は聖人であったでしょう。ミサがあれば彼らはもっと励まされ心も整えられ共同体ももっとまとまることが出来たかもしれませんが、生きることが先です。

 

ヘブライ書で新しい司祭としてイエズスをとらえているのは「すべてを捧げて自分が生贄となった」ところにあります。表現としては「神の愛に燃え尽きてしまった」と理解してよいと思います。歴史のなかで生活と典礼は一致している。生活の中にあった奉仕とか役割がユーカリスティアのなかにもありました。ある学者は使徒行録を見るとリーダーは女性であったと言います。議論の対象となっているところです。家でユーかリスティアを祝った時だれがリーダーであったのか。 3世紀からキプリアヌスの影響によってリーダーは司祭としてミサは生贄として再理解されてそれを強調しました。そこから聖職者のグループが出てきました。司教が共同体と監督するだけではなくて生贄を捧げて共同体をまとめて指導や秘蹟の管理などをするグループが出てきたわけです。4世紀からその傾向はますます強くなっていつの間にか信者が二つのグループに分けられてしまった。聖職者と信徒、聖職者でないものライチーに分けられたのです。古い教会法ではライチーの項目は聖職者参照となっていいて項目には何もかかれて居なかった。教会の歴史でかなり早い時期からこのような構造になっていました。中世期のさまざまな問題は次の「学び合い」のテーマになっていますので省略します。しかしこのような状況は新約聖書からすでに始まりかけていると言うことは着目してよいとおもいますがこの現象は新約聖書には未だ見えては居ません。

 

5)新約聖書に見られる現象として信仰生活は特別な生活ではなくて普通の生活が大部分でした。仕事とか家庭とかで信仰を深めてゆくのが通常でしたが、その中に特別な生き方を選ぶ人もいました。結婚しないで教会の奉仕と福音への奉仕するグループもありました。寡婦のグループもありました。再婚しないで人々の必要に奉仕する人たちが出てきました。修道生活はこの伝統の中から出てきたと思われます。しかし修道生活などは新約聖書には全然見えません。東方教会には今でも修道者は居ません。アトスの山のようなところにはモンクは居ます。 1990年の アジアの FABCの集まりで「Spirituality」のグループ に参加しました。 あるインドの司教が こう 言いました「すべての信者が聖化 Divinizationされてゆくのであって修道者はわれわれのところには居ない。すべての信者がイエスのように御父と一致する歩みをしているので、聖性の専門家が居るはずはない。」自分を初め参加者は彼の発言を感心して聞いていました。

 

新約聖書でリーダーシップに関してどのような問題を感じていたのかと言えば、リーダーシップの必要性に関しては疑いが無いようです。ヨハネの共同体は少し遅くなりましたがそれをとりいれました。共同体が元気であればあるほどリーダーシップは必要になります。元気が無ければ言われるとおりにするけれども、元気があればアイディアもイニシティブもあるのでリーダーシップが必要になります。リーダーシップと言っても普通のリーダーシップと違うはずです。新約聖書にはヒントが一杯あります。イエスに従う、イエスの思いやりを持つ、人のために自分を忘れる、名誉肩書きほめられることから自由である。「肩書きはもうやめましょう、そして「神父様」と言う呼び方も考え直そう。と言う話に綱がって行く。新約聖書のリーダーシップでは役割があればあるほど僕のようになってゆくのです。教会の歴史のなかで世俗化の過程でいろいろなタイトルが入ってしまったのでしょう。日本のほうが聖職者に関する呼び方は未だ地味なほうです。ヨーロッパでは「 your holiness, your eminency, your excellency, etc」あたかも神様かのような呼び方があって新約聖書から見るとおかしいことです。イエスははっきりと述べておられます「あなた方の間ではそのようではない」と。教会の中から聖霊の権威をリーダーシップを生かすことがリーダーシップの中心なのです。他者を支配するよりも奉仕する。ヨハネの最後の晩餐ではご聖体の話は出てきません。その代わりにイエスが弟子の足を洗います。最期に互いにこのようにしあうことを求めておられるのです。十字架をになって自分自身を捧げる心がリーダーの心です。最終的な基準は愛である。これが福音のポイントです。

 

教会の共同体にはシンボリックなニードも出てきます。シンボルなしにはアイデンティティは養うことが出来ない。儀式、祈り、ジェスチャーとか呼び方、言葉使い、などがあります。シンボルは矢張りイエスの生き方から出てきます。イエスの生き方からハパンとぶどう酒を分かち合う、イエスの生き方から十字架が出てくる。それらのシンボルがいつも生活と繋がっているように見えます。

 

監督の役割を与えられた にも同じようなシンボリックな役割があるのです。特に教会の一致のため。教会のキリスト化のため。これらを理解するためにカスパー枢機卿の言葉が参考になります。この役割は教会全体に与えられていると言うことです。シンポルはある人たちに適応されます。ミサも司祭が捧げるのではなくて共同体全体が司祭とともに捧げるのだと、カスパーさんも指摘しています。教父たちも古い時代から聖変化の源を三つ挙げています。キリストの言葉としての司祭の言葉、共同体の祈り、司祭と共同体を支える聖霊の力です。これを始めて学んだ時これは素晴らしい理解だと思いました。いつも共同体が積極的に関わっている。司祭と共にだからではなく、歌うからではなく、心からキリストと共に自分を捧げるからです。

 

秘蹟と生活の関係は初代教会でははっきりしていました。シンボリックな役割はシンボルです。シンボルがすべてであることは無いでしょう。シンボルと事実 の関係をはっきりする 必要 がある

 

大切なのは先ほど申し上げましたとおりカリスマです。共同体には経営的必要性があります。奉仕の整理、技術的サポートとか会計などがそうですが、この部分では監督が苦労するところです。司教と司祭ですが管理にはいつも一人ではないというところが大切です。司祭同士または司祭と信徒などです。技術面では技術を現実に持っている人たちです。共同体の歩みも監督と技術はそれぞれです。シンボリックな役割とカリスマ的役割があります。カリスマを発見して強めて励ましてシステムのなかで生かすことに弱いのですが大切です。アジアでも信徒の奉仕職をもっと広くする必要があります。聖体奉仕者とみ言葉の奉仕者しかありません。初代教会では広かったのです。貧しい人のため、助祭はそのために生まれたのです。信仰の奉仕、先生などは聖職者ではないのです。

これはカリスマのあるひと技術のある人たちのものでしょう。この点をもっと広く考える必要があるのではないかと思われます。そこのすぐ修道者を入れる必要はありません。修道者は歴史的な必要に応えるために生まれたものです。修道者 の殆どは は信徒の一部です。聖職者の一部ではありません。

 

すべてを監督するのが司教の役割です。教会全体の中には権威とかリーダーシップに対する抵抗は無いと思います。問題はそのあり方やり方でしょう。パウロ六世もヨハネパウロU世もそのことを認めています。プロテスタントとの対話の妨げになっているのは教皇のシステムではなくて有方であるといっています。教会全体がそこまで認めているならわれわれは何かしなくてはならないでしょう。小教区のレベルでも 同じ点について 新しい対話を始めなくてはならないと思います。

 

司祭に叙階されたからと言って全部を一人で握ることには根拠がありません。 人を 生かす人は抵抗を受けません。かえって一生懸命一緒に働くのです。信徒と司祭の間でもどのようなリーダーシップを取るかが問題なのです。聖霊に基づくリーダーシップであることは新約聖書も現代でも一致しています。聖霊は自由です。教会が聖霊に応えないならば聖霊は教会の外で働かれる。この実例は世界中に見られます。 NPO,NGOなどで心の良い人たちが一生懸命働いています。大変素晴らしいことです。これらは聖霊が動いていると言うことだと思います。

 

生き方全体が生贄です。私達全員が呼ばれています。信徒 Layとは専門家でないことを意味します。「わたしはこの分野ではLayです。」などといった言い回しが英語にはある。しかし「聖書的にはLAOSで神の民のことである」とカスパーさんも指摘しています。神の民として選ばれた人の意味です。ミッションのため、奉仕のため、人を励ますため、証するため、に選ばれている。洗礼でそれを受け取ってユーかリスティアのなかで生かされ養われてゆくイメージに戻る必要があります。

 

新約聖書の中にはなかった司祭、信徒、修道者みながひ つになって互いに奉仕し合う、助け合う、愛し合う、その中で神の国が実現されてゆく。イエズスの祭司職は完全に新しいものであったと言われます。その司祭職に信者はみな与る。役割は別に説明されます。権力ではなくて奉仕です。新約聖書には希望が持てる泉のようなものがあります。そこに戻りながら歴史を消化してゆけばよいと思います。 

 

                             以上 

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