「カトリック教会が倫理的教えを語るとき」
(教皇制とはなにか)
増田祐志師 プログラムのタイトルは “夏季神学講習会” 2004年「現代キリスト教倫理」
以下の講義ノートは増田師の特別の許可をいただき掲載するものですが、文章の校閲はいただいておりません。文章上の責任はノート作成者にあります。
キリスト教倫理はあるのかないのか、あるとすればどのような形なのか?についてお話しますが、始めに何故「カトリック教会が倫理的教えを語るとき」と言う題をつけたかについて話します。
語る時とは「どんな時」に語ると言われるのか、またこの場合の「カトリック教会」とは何を指しているのか、普通皆さんはどの様にかんがえられますか。殆どの人はカトリック教会が語るとは教会の教える役職にある人たちが語ると理解しているでしょう。教会の役職にある人とは司教様あるいはバチカンの或る省、カトリック教育省、教理省、等と言ったところから出される文章あるいは教えを意味すると言うイメージを持っていると思います。バチカンの場合は殆ど教理省でしょう、そこでは教会の正統性を擁護する役割を担ったところからカトリック教会の教えについての宣言とかがだされます。カトリック教会が語る最たる場面は教皇が何かを語るときと理解している人が多いと思います。カトリック教とは教皇を頂点としたヒエラルキーであると言う理解はいまだに強くあります。第二バチカン公会議ではその考えとは違うモデルの教会論が実践されているのですがいまだに教皇の発言イコールカトリック教会を代表とするという認識が流布していると思います。カトリック教会が語るときには「誰が語るのか」についてスポットを当てて話をします。
さらに直接的ではないのですが別の面からも見て見ましょう。現代カトリック教会内の倫理神学者や教理神学者の少なくない数が教理省から異端の嫌疑を掛けられて審問される時があります。之は教理省の役割として行われていることです。しかし有名な学者がカトリック教会で教えられなくなる、カトリック神学校で有能な人が教えられなくなることが起こります。教えてはいけないとか教授資格剥奪とか処置を下す書面には通常教皇の署名が為されます。カトリック教会内で誰が倫理を語っても良いのか許可する権限を持っているのはバチカンや教皇ということになります。誰が語ってよいのかどのような内容を語ってよいのかあるいは誰が語ってはいけないのかどのような内容を語っていけないのか管理統制していることを通して間接的にバチカンや教皇が倫理や教えをコントロールしていることになっています。
以上二つの理由から教皇と教皇制と言うものをどの様に理解するのか、この理解の上に教皇の発言とか教皇のサインに基づくバチカンのさまざまな教導職と言うものをどの様に理解すればよいのかについて話します。
知解を求める信仰
中世のアンセルムスと言う神学者の言葉です。信仰は知解を求める。信仰とは何でしょうか。キリスト教の信仰を持っていると言えばイエスキリストを通じて提示された神への信仰を意味します。日本語で信仰と言った場合キリスト教の信仰に限りません。何々教の信仰を持っていると言う言い方をします。あるいは制度としての教団に所属していなくても神仏に対する信仰心があるとか自然に対しての信仰心があると言う言い方をする。
近代に至りシュライエルマッハが信仰を絶対的依存の感情と定義しました。日本語で感情と言うと何か軽薄な感じもありますが、彼の言わんとしているのは其れと違います、人間全体がやむにやまれずにそこに依存せざるをえない「身の委ね」とか言ったものです。イエスキリストにおける絶対依存の感情こそが完全であったので神の子として父を啓示することが出来たのだとします。
信仰を究極的関心と言います。人間が持っている意味とか意義とか究極的な関心を信仰としてとらえています。この二人の考え方では或る意味で信仰を人間の普遍的現象と見ていることです。人間ならば誰でもこのような感情や関心を持っているはずだとします。具体的にどこどこの宗教に所属しているとかこの対象を現実に信じているとかではなくて人間は生を受けた時点からその生の中に組み込まれているといいます。
一方これは信仰ではないというところを考えて見ましょう。信仰 (Faith) は知識 (Knowledge) ではない。信仰と知識は区別されます。「神を知っている」と言うのと「神について知っている」と言うのを区別することが出来ます。いくら知識を積み重ねても対象を知っているとは言えない。神が真であるとか善であるとか義であるとか全知全能であるとか、その子がイエスで、三位一体であるとか積み重ねても神については知っているかもしれませんが神を知っているかどうかは別の話です。そこにパーソナルな出会いが無ければ神を知ることが出来ません。その意味が信仰は知識と区別されると言う意味です。
信仰は信仰箇条( Belief )を通じて表現されます。しかし信仰箇条が信仰ではありません。信仰箇条を唱えている人が信仰を持っているのかどうかは分からない。単に知識としてだけ唱えているのかも知れません。イエスを通じた神との出会いと言う信仰は言語を通じてしか表現できません。 Faith は Belief なしには表現できないと言うことです。ニケア・コンスタンチノープル信条を唱えていても全く違った意味で唱えているかもしれませんので信仰があるかどうかは分かりません。人間としての絶対的委ねの体験を持っているあるいは究極的関心を持っている、其れはイエスキリストを通じた神との出会いパーソナルな出会いによって、覚醒させられるわけです、其れを歴史の中で培われ形成された信仰箇条で表現しているわけです。この Belief は知解された信仰に近いといえます。知解とは理性的理解です。自分が持っている究極的な関心あるいは絶対的依存の感情によって持つ信仰は常に理性的理解を伴うと言うことです。さもなければ信仰は盲目的なものになってしまいます。これはシュライエルマッハの言葉ですから違った表現をしても良いのです。
また理性によってだけ理解されると言うところにも一つの落とし穴があります。
理性は万能ではありません。啓蒙主義合理主義の時代に人間は理性によって限りなく幸せになれると楽観的に信じていましたけれども人類がその後体験したのは二つの世界大戦ですし今でもテロに怯えています。理性は文化的にも時代的にも制限されています。ニケア・コンスタンチノープル信条はもともとパレスチナで発生したイエス運動そしてユダヤ教から決裂したキリスト教信仰がヘレニズム文化ギリシャ哲学を用いて言語化されたものです。限りなくギリシャ的理念や思考パターンが使われていると言うことです。そのようなギリシャ的理念や思考パターンに慣れていない私達東洋の人たちには分からない言葉となるはずなのです。この信条もこれは信仰箇条です。これがキリスト教信仰を表現はしていますし、規範ではあっても、絶対的にどの時代にも通じる永遠普遍的な直接的信仰の表現ではないということです。信仰は常に知解を求める。 21 世紀の日本で生きる私達にとって、信仰は同じ体験であったとしても、理性的理解は異なるはずだからです。
われわれの世界観は昔の世界観とは全く異なります。ニケア信条が作られたころは公会議にも馬車に揺られて何日もかけて長いたびをして司教達は集まった、しかし現代では皆飛行機に乗って集まります。天候異変を神のかかわりで見ていた時代と近代科学で天気予報をする時代とでは世界観が全く違います。私たちの時代には私たちの理解にあった信仰の表現が求められるわけです。いかなる信仰の言明も信仰の知解を求めた結果であるし、其れが理性に基づいて為されている以上限界を持っているわけです。教皇をはじめバチカンのいかなる教導職の発言であろうとも盲目的に受け止めるのではなく常に理性的理解を持って受け止めることが求められる。そのためには今日のテーマである教皇とか教皇制とか教えを語る主体である役職がどういうものであるのか理解する必要がありますし、其れが歴史の産物であると言うことを理解する必要があるということです。このような理解をする時「カトリック教会が倫理を語るとき」その教えの有効性と限界とをきちんと理解し把握することが出来ると思います。
教皇制とは
教皇制とは「ローマの司教によって担われる職務であり、実行される裁治権である」と言うことです。パパと言う呼び方は、キリスト教初期のころは西方教会の司教はみなパパと呼ばれていました。一方東方教会ではアレキサンドリアの総司教に対してだけ用いられた名称です。ローマの司教だけが排他的にパパと呼ばれるようになったのは 1073 年グレゴリウス7世によって限定した以降です。グレゴリウス 7 世の時代は教会がめちゃくちゃになっていた時で大改革を行いました。教会の綱紀粛正を図ると同時に教会に対する国家の介入を拒絶した人です。カノッサの屈辱は有名な事件です。力をもって教会を改革した人です。
教皇はそのほかに「イエス・キリストの代理人」「使徒の頭の後継者(ペトロの代理人)」「普遍教会の最高祭祀」「バチカン市国の元首」「神の僕たちの僕」(大グレゴリウス 1 世 590-604 )があります。この中で注目すべきなのは「キリストの代理人」と言う呼び方です。「ペトロの代理人」これは 4 世紀ぐらいから用いられるようになったものですが、イノケンテュス3世( 12 世紀後半から 13 世紀はじめ)中世の教皇権が絶頂に達した時の教皇のときから教皇が「キリストの代理人」と呼ばれるようになりました。よくマスコミでも教皇のことを「キリストの代理人」と呼んでいますがこれは注意が必要です。第二バチカン公会義の教会憲章( 27 番)の中では教皇だけがキリストの代理人ではありません、すべての教区長司教が「キリストの代理人」と呼ばれています。教皇をローマの司教と言う意味で「キリストの代理人」と呼ぶなら誤りではありません。教皇だけが「キリストの代理人」と言うなら第二バチカン公会議の文章からはずれていると言うことになります。
「ペトロの代理人」と言う呼び方の持つ意味は教皇がペトロの代理人であるということです。ペトロに置き換わっていることではないと言うことです。代理人代表として教皇は全教会の一致を守り兄弟司教の信仰を強めるためペトロの使命を継続する。これは聖書の中に出てきます。ルカ22:32主の晩餐の中で主がペトロに語られる言葉です「私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力つけてやりなさい」ここで言う兄弟とは兄弟司教のことです。教皇は兄弟司教の信仰を強める役割を担っているのだと言うことです。これがペトロの代理人の意味です。
ペトロと教皇の関係はどうか。伝統的カトリック神学のよると教皇制は直接イエスキリストまでさかのぼります。マタイ16:18−19「はっきり言っておく、あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」イエスが弟子たちにこの権能を与えその弟子たちのリーダーがペトロである。しかし現代の多くの聖書学者はこの言葉が実際のイエスまでさかのぼれないと考えています。この聖書箇所の史実性は殆どの聖書学から否定されているのです。また「かぎ」が何を意味しているのかもあいまいです。中世以降盛んに語られるようになった「かぎ」のシンボリズムである権威が他者に対しても実施されるべきであると言う指示はこの聖書の箇所からは見出し得ません。聖書の中にはペトロが他の人たちと相談する場面、あるいはペトロが他の使徒によって派遣される場面さえ出てきます。使徒言行録8:14「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。」
ガラテア2:11「ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、私は面と向かって反対しました。何故なら、ケファは、ヤコブの下からある人々がくるまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けているものたちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。」パウロがペトロを非難した描写さえ出てきます。其れにもかかわらず使徒たちの中でのペトロの優位性に関する教会の伝統的主張にのっとった聖書的イメージは多数存在します。ペトロのイメージはキリストの羊の牧者、殉教者ペトロ、他の長老たちに語る長老、神の子としてのイエスにおける信仰の宣布者、特別な啓示を受けて、悔い改めた罪人、などペトロのイメージが沢山聖書の中には出てきます。
ところがペトロが初代教皇なのでしょうか。そこが問題です。カトリック教会では通常ペトロを初代教皇と見なしていますが、伝統の中にはペトロを初代教皇と認めない人の発言が出てきます。イレネウスやカイサアリアのイレセウスといった古代の教父ではイヌスが初代教皇になっています。これは教皇をペトロの後継者と理解しているからであると考えられます。 2 世紀終わりあるいは 3 世紀初めまではペトロが初代教皇であるとの考えは文献には出てきません。教皇はペトロの後継者の役職です。教皇神学の中でも教皇はペトロの代理人となるのです。しかし 3 世紀ごろになるとペトロが初代教皇と見なされるようになってきます。其れはイエスキリストから弟子団の頭としての地位を与えられていたこと 12 使徒の中で中心的役割を果たしていることが主な理由であったと思われます。確かにイエスによって使徒団の頭として立てられますしペトロの信仰告白の中でもイエスをキリストと弟子団を代表して話します。使徒言行録の始めのほうでは 12 使徒が出てきますが直ぐにペトロ・ヨハネ・ヤコブ以外は名前が出てこなくなります。使徒言行録はパウロのことを書くので 12 使徒のことを書くつもりが無かったのかもしれませんが。それにしてもペトロ・ヨハネ・ヤコブ以外の使徒は歴史から消えてゆきます。イエスキリスト教団の中で彼らは急速にその地位を失っていたと考えられますが、この 3 人の名前は出てきます。其れはペトロが使徒団の中だけではなくイエスキリスト教団の中でもある種の指導的役割を果たしていたと考えられるわけです。
ペトロは 12 使徒の中では復活の最初の証人です。女性たちが始めの証人ではありますが 12 使徒の中ではペトロです。カトリック教会の教えによれば教皇は普遍教会のためにペトロのユニークな奉仕職を継承していることになります。ペトロの奉仕職と言われることがあります。「信仰の証をすること」「地域教会で守るべき慣習や伝えるべき信仰の保証」「信仰の宣言や養護に関し他の指導者にたいする援助や激励」これらが使徒言行録の最初に記された言葉です。しかし同様な使命が他の司教にもあるわけです。
古代教会の有名なキプリアヌス、カルタゴの司教、はすべての司教はペトロとパウロの後継者であると語っています。ローマの司教だけがペトロの後継者と考えるのではなくすべての司教が同様な使命を持つのであるからペトロだけではなくパウロの後継者でもあるといっているのです。このような考え方がある一方で、第二バチカン公会議ではペトロの奉仕職を神によって制定されたものと教会憲章 18 番で書いています。「キリストはこの使徒の後継者すなわち司教達が、自分の教会の中で世の終わりまで牧者であることを望んだ。しかしキリストは、この司教職それ自身が唯一で不可分であるようにと、聖ペトロを他の使徒たちの上に立て、そのペトロ自身のうちに、信仰と交流の一致の永久にして見える源泉および基礎を制定した。聖なる教会会議は、ローマ教皇の聖なる首位権の制定、永久性、権力、理由、ならびに教皇の不謬の教導職に関するこの教理を、堅く信ずべきものとしてすべての信者に再び述べ、されに、同じ課題を発展させつつ、キリストの代理者であり、全教会の見えるかしらであるペトロの後継者と共に生きた神の家をおさめる使徒の後継者、すなわち司教についての教理を、すべての人の前に宣言し公表することをさだめた。」ここで言いたいことは、キリストは聖ペトロを他の人たちの上に立てそのペトロ自身のうちに、信仰と交流の一致の永久にして見える源泉および基礎を制定したのです、つまり、教皇職はキリスト自身によって立てられたのであるとの理解をここに示している。ペトロの奉仕職は聖霊による神によって制定されたので、これは神法によって定められたのだということです。
ローマとの関係:
次にローマの首位性とローマ司教としての教皇の首位性の問題についての疑問を考えましょう。教皇はローマの司教です。そして教皇がペトロの後継者であるならばペトロがローマの最初の司教であったということになりますが、果たしてそうなのでしょうか。これを認めるには二つの困難があります。ペトロがローマに到着する 20 年ほど前に、ローマにはキリスト教の共同体があった。そこには当然指導者がいたということになります。二つ目は 2 世紀の半ば以前にはローマ教会が教会統治形態として唯一の司教によって納められていたかどうかは明らかではない。現在の教会のように一人の司教の下に一つの教会があったかどうか複数の指導者がいたのではないか、あるいは役割分担によってさまざまな統治が行われていたのではないか。一人の司教による統治であったと言う証拠は一つも無い。多くの聖書学者はキリスト教がローマにもたらされたのは 40 年代の初期であったと考えています。ペトロがキリスト教をローマにもたらしたわけではないということです。そのころペトロはまだエルサレムにいました。ローマ書にはペトロの名は出てきません。ペトロのローマ到着は 60 年代初期と考えられています。ローマでペトロが指導的役割を果たした証拠は一切ありません。エルサレム教会でペトロは指導的地位を持っていたのか。ある程度重要な役割を持っていたとは考えられます。重要なエルサレム使徒会議を取り仕切っているのはペトロではなくヤコブです。ペトロがローマで 60 年以降に殉教した資料は沢山あります。ペトロがローマ教会やエルサレム教会で指導的役割を担っていたのか甚だしく疑問であると言わざるをえません。しかしペトロがローマで殉教したことそして最初の弟子であり弟子の頭であったことがペトロをローマの最初の司教だと考える理由になったと思われます。
何故ローマの司教ローマ教会が他の全教会の中で中心的な位置を占めるようになったのか。その第一にはローマが首都であったことが挙げられます。首都であったので人や物の流れが激しくそのため異邦人への宣教の中心拠点として便利であったはずです。二番目にはペトロとパウロが殉教しそこに葬られたことが挙げられる。第三にローマ教会はペトロとパウロを柱と見なし他の教会の世話係りを自任していたことが挙げられます。つまりペトロとパウロの殉教地であったことが大きいと思われます。ペトロの後継者がローマ司教でなければならない本質的理由はどこにもありません。歴史的なさまざまな積み重ねがペトロとローマ司教の関係を分かちがたいものにしていると考えられます。
歴史における教皇制
大レオ( 440 − 461 年)までは教皇はローマ教会の外に対して限られた権威しかもっていませんでした。三位一体が定められたニケア公会議 325 年初めての公会議では当時の教皇は何の影響力も発揮していません。コンスタンチノポリス公会議でも同様に当時の教皇は何の影響力も発揮していません。その後のエフェソ公会議 431 年も同様です。ドナティストの異端に際しても教皇によって斥けられましたがその後で皇帝に訴えています。その後でさらに教会会議を開いています。この出来事は教皇が最終決定者ではなったことを意味しています。このような教皇が大きく転換したのが大レオの時からです。彼は全教会に対する普遍的かつ最高の権威を主張した最初の教皇です。彼は信徒に対してだけではなく他の司教に対しても権威を主張しました。カルケドン公会議はキリスト論で重要で有名な公会議で、イエスキリストは真の神真の人と言う命題を作った公会議です。このときのレオの役割は決定的でした。この時代に教皇権が非常に増大し強くなりました。大レオの教皇選出の方針はおもしろい「すべての人に責任を有する者は、すべての人によって選出されるべきである」と言います。しかしこれは全く守られていません。しかしその後の歴史は教会が世俗国家との関係が近くなりすぎ世俗権力が教皇選出に影響を及ぼすことになります。
これは 1058 年コンクラーベにおける世俗権力の廃止を宣言し其れが現在まで続いているわけです。
グレゴリウス 7 世の改革 1073 年によって教皇への中央集権的教皇制が形成されました。所謂バチカンの官僚組織もその直後に設置されています。教皇権は拡大してゆきます。兄弟司教を力づけ一致の源となる教皇権が歴史を見ると一方で教会分裂の原因にもなっています。全教会の一致を作るために発展してきたのですが歴史の或る時から教会分裂の原因になっているのです。第二バチカン公会議では東方教会と西方教会の分裂および宗教改革における分裂は相手にだけ非があるのではなくカトリック教会にも非があると自らの非に言及しています。 14 世紀 15 世紀は西方教会において最悪の時期です。グレゴリオ 7 世の改革によって中央集権の中で強い権力を持つようになった教皇制の中に堕落した官僚や教皇が増えて行き、その結果アビニオンの捕囚とか大分裂 3 人の教皇が同時に立つと言った状態にまでなってゆくわけです。教皇の権威は失墜します。そこで公会議が教皇権の上に立つのだという公会議至上主義の考え方が登場してきます。
その後ルネッサンスの教皇の時代になります。サンピエトロ寺院建設のために莫大なお金を使ったために免償などを売って宗教改革などを迎えます。近現代において世界とのかかわりで重要な役割を果たす 4 人の教皇が登場します。始めにレオ 13 世です。社会問題に始めて積極的に関わった教皇です。レールムノバヌムという労働者の権利に関する回勅を始めて発表しました。そのことによって世界における教皇職の存在感を強めています。つぎにヨハネ 23 世は第二バチカン公会議を召集しました。彼の死去に際してはかつて無いほどの多くの弔問が寄せられたと言われます。その後のパウロ 6 世そしてヨハネパウロ 2 世も世界においてさまざまなレベルで影響力を行使している教皇です。
教皇の首位権と不可謬性
14 ・ 15 世紀に教皇が 3 人も立つような分裂が起こり、権威が失墜し公会議至上主義が起きてきます。公会議は教皇の上であるという考えです。其れは排斥されますが、その後も国家主義教会と言う考えが出てきます。有名なガリガニズムでフランスの教会のことはフランスが決めると言う考え方です。ローマが何か言ってきても受け入れるかどうかはフランスが決めると言うことです。この国家主義的教会理解を斥けるために教皇の首位権性が強く主張されるようになるわけです。第一バチカン公会議の時代に教会は自らの内に真理があって外の世界は堕落していると敵視してみています。第一バチカン公会議の Pastor Aeternus (永遠の牧者)における教皇の首位権と不可謬性は以下の通りです。
1 内容
序論(教会の設立と基礎)
「地獄の門は日増しに増大する憎しみをもって、出来るなら神によって設立された教会の基礎をくつがえそうとしている。そのため、われわれはカトリック信者の保護と安全と増加のために、公会議の承認を得て、使徒的首位権、永続性、本質に関する真の教理を宣言する必要があると考える。この首位権に教会の力と連帯性がある」 DS 3052( DENZINGER-SCHONMETZER カトリック教会文書資料集)
第一章(聖ペトロにおける使徒座の首位権の制定)つまり、ローマ教皇が他の教会に対して首位権を持っていること。
「教会を通じて、教会の管理者としてペトロに与えられたと主張する」意見は排斥する。 DS 3054
(条文)「したがって、使徒聖ペテロは主キリストによって、すべての使途たちの頭、戦いの教会の目に見える頭と立てられた、また聖ペトロが主イエズスキリストから、直接に真の固有の裁治権の首位を与えられたのではなく、名誉上の首位を与えられた、と言うものは排斥される」 DS 3055
第二章(聖ペトロの首位権はローマ教皇において継承される)
(条文)「したがって、聖ペトロの全教会に対する首位権の永続的後継者をもつことが、主キリスト自身、すなわち神法によって制定されたことを否定するもの、および、ローマ教皇が聖ペトロの首位権の後継者であることを否定するものは排斥される。」 DS 3058
第三章(首位権の本質と権能の説明)
普遍的裁治権「したがって、次のことを教え宣言する。すなわち、主の計画によって、ローマ教会は通常権について、他のすべての教会の首位を占め、ローマ教皇の司教としての裁治権は直接のものである。この裁治権に対してすべての典礼様式の牧者および信徒は、個人としても集団としても、聖職位階に心から服従しなければならない。この服従は、信仰と道徳に関する事柄だけでなく、全世界の教会の規律と統治においても示さなければならない。・・・」 DS 3060
(条文)「ローマ教皇は、権能または指導の任務だけをもち、信仰と道徳に関することだけではなく、全世界の教会の規律と統治に関する事柄について全教会に対して最高の裁治権を持たないと言う者;また、教皇は最高の裁治権を全面的ではなく、重要な役割を果たすに過ぎないと言う者、また、教皇の裁治権は通常、直接に個々の教会およびその全体、個々の牧者と信者およびその全体に及ぶものではない、と言う者は排斥される。」 DS 3064
これは、ローマ教皇の権能の信仰と道徳に及ぶしその裁治権は全世界に及ぶそしてその裁治権は最高度で全面的に及ぶと主張していると言うことです。
第四章(教皇の不可謬教導職について)
前提:教義の定義「さらに、聖書と伝承の中に含まれている、神のことば、および、教会の荘厳な宣言または通常普遍的教導職によって、神から啓示された信ずべきこととして示すすべてのことを、神的カトリック信仰をもって信ずべきである。 DS 3011( Dei Filius )
聖霊の賜物は信仰の遺産を保存し忠実に説明させるために働く:
「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。すべての教父たちと聖なる正統信仰を保った博士たち、この使徒伝承の教えを尊敬し、これにしたがった。これらは、この聖ペトロの座が、あらゆる誤謬の汚れに汚されないことを十分に理解していたからである。」 DS 3070
教皇の不可謬の教導職:
「すなわち、教皇が教皇座から宣言するとき、言い換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒伝承の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定するとき、救い主である神は、自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロの約束した神の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである。」 DS 3074
これが教皇の不可謬性について宣言している文書です。非常にテクニカルな文章です。考察すべき文章はキチットあります。
考察すべきポイント
この定義は四つの条件を含み持っている。
1)教皇が「全キリスト信者の牧者として教師として」公に宣言するのみ。
この意味は教皇が個人的に何か言ったもの私的になにか言ったこともすべてが不可謬ではないと言うことです。
2)教皇が「教皇座から宣言」したときのみ。
3)その教えの内容は「信仰と道徳」のみ。
4)さらに、その内容が「全教会が守るべき」物であるときのみ。
この四つの条件を満たすものは歴史上殆どありません。「マリアの無原罪」と「マリアの被昇天」の二つだけです。それ以外の教皇の教えと言うものは不可謬であるかのように受け取らなくてはならないが不可謬ではないと言うことです。
数年前に枢機卿になられた Avery Dulles という人が次のように言っています。
さらに四つの条件付け加えています。( Avery Dulles “Moderate Infallibilism: An Ecumenical Approach”, in A Church to Believe In (New York Crossroad, 1982)
不可謬の名のもと宣言された教義が有効となるには:
1)聖書と伝統に反していないこと。
2)教会の現在の信仰の同意のうちにあること。つまり、共同体によって受けとられるものであること( reception theory ) .
3)全世界の司教団によって同意されること。
4)普遍教会において司教、枢機卿、神学者たちとの十分な協議を経ていること。
これは大変リーゾナブルな考察であると思われます。このように考えてゆくと次に挙げる問題点が出てくるのです。
問題点
「教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないもの」この表現は、 DS 3011が示すような伝統と矛盾しているように見える。非常に理解困難な表現である。
つまり、 Dulles の言う2)の言わんとしていることは教義が宣言されただけでは機能しないという事です。教会共同体によって受け止められてこそ始めて教義として機能すると言うことです。教皇が不可謬とのもとで言ったとしても教会共同体が其れは一寸と其れを受け入れなければそれは不可謬の教えとはなりえないということです。これは教皇の不可謬を考える時大切のポイントです。伝統的に「信仰者の感覚」 聖霊によって間違えないと言う考え方があります。聖霊の保証によって教会は全体としては間違えないという考え方があります。時代時代によって間違いはあり得ますが、全体としてみた場合には常にただされて行くという考え方があります。したがって教皇とかバチカンが何かを言っただけでは、当然不可謬であるかのように尊敬を持って受け止める必要はありますが、尊敬と同時に自分たちの共同体の中において其れが福音を生きる導きになっているのかどうかある程度は自分たちで共同体として考えなくてはいけないということです。
次に3)4)について世界の司教団によって同意されていること。普遍教会において司教、枢機卿、神学者と協議を経ていることが大切なのだと言うことです。カトリック教会が倫理を語るときと言えば、教皇やバチカンが語るときと考えるのですが、実は「私たちが倫理を語るとき」なのです。教導職が何かを発表する時に、其れを信仰の同意のうちに受け取れるのかどうか、共同体としてまた共同体を構成する一人一人として其れを考える責任があるからです。
さらに教会の歴史を見ればキプリアヌスのようにローマ教皇の言っていることをこちらでは受け入られません、介入しないで下さいといったケースもあります。カルタゴの古代教父キプリアヌスはローマの言ってきたことに対してこれはカルタゴの問題ですからローマは口を出さないで下さいと回答しますが、これはローマをないがしろにしたわけではありません。彼はどの教父よりも教会の一致を強く主張した教父です。教会の一致のためには皆が同じ意見同じ実践をする必要は無いということです。しなくても一致は可能であると言うことです。古代にこのような例があるのです。私達もバチカンとか教皇が何か言う時にその真意を理解し尊敬をもって受け止めつつ、しかし私達の共同体において信仰のうちに其れが同意出来るものなのかどうか常に批判的対応と受容とが求められると思います。これこそが「知解を求める信仰」で、単に誰かに何かを言われていわれた通りにするのではなく常に神によって与えられた理性的精神で理性的理解を伴いつつ自分たちが常に持っている信仰を表明することがとても大切なことではないでしょうか。
教皇制は歴史の中の産物であると言うこと。教皇制も時代の中で変わってくること。この変化は周りの環境世界の変化の影響を受けていること。その流れの中で教皇の不可謬権という考え方も出てきたと言うことです。其れは全部 belief です。其れによって faith が表現されている。しかし belief は faith ではない。 belief を通じてその時代の信仰は表現される。其れが間違っているわけではないが現代において私たちの理解に合うように求めてゆかなくてはいけないということです。
以上