良い羊飼いの声
復活節第4主日福音黙想 2010/4/25 トマス・ロシカ師
キリストの復活の日から日が経つにつれて、復活節の日曜の聖書朗読は、イエスが死に勝利したことでイエスと教会に何が起こったのかについて、わたしたちの理解を深めてくれます。復活節第2主日(
4 月
11 日)には、わたしたちはキリストの傷を注意深くながめ、鍵のかかった階上の部屋でテーブルにつき、イエスとの友情の絆を新たにしました。
今年( C 年)の復活節第 3 主日( 4 月 18 日)には、湖畔での心の通い合う情景に目を凝らすことができました。その情景は、わたしたちを否定と絶望の淵から引き上げ、愛するキリストに、友として再び自分を委ねる機会を与えるものでした。
きょうの第
4 主日には、わたしたちは良い羊飼いと出会います。その羊飼いはほんとうに美しく、あるいは気高く、自分の羊の群れを良く知っています。「良い羊飼いの主日」は、また
教会の世界召命祈願の日でもあります。 典礼年のサイクル(
A 年、
B 年、
C 年
) の中でも、第
4 主日は毎年、
「良い羊飼い」についてのヨハネ福音書の一節が読まれます。
旧約聖書では、神ご自身が、その民の「良い羊飼い」として表されています。 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」 ( 詩 23:1 ) 、「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。」 ( 詩 95:7 ) そして、これから来られる救い主もまた、羊飼いのイメージで描かれています。 「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」 ( イザヤ 40:11 ) .
聖書の中で、そして古代の近東では、「羊飼い」とは、王たちが国民に負う義務を強調する政治的な呼称でもありました。この呼称には、他者への全面的な配慮と献身の意味も含まれていました。「羊飼い」や「主人」のイメージは、いずれもその背景に砂漠があります。そこでは、羊を護る者は砂漠を旅する人の保護者でもあり、暖かなもてなしと外敵からの安全を提供します。(羊飼いの)鞭(むち)は野獣 から身を守る 武器であり、杖は支えの道具で、配慮と忠誠のシンボルです。
理想像
この羊飼いの理想像は、イエス・キリストにおいて成就されました。イエスは迷った羊を探しに出かける「良い羊飼い」です。イエスは、人々が「飼い主のない羊のように」見えたので、その人々をあわれに思います。(マタイ 9:36 ) イエスは、弟子たちを「小さな群」と呼びます。(ルカ 12:32 ) ペトロは、イエスを「魂の牧者」と呼び(1ペトロ 2:25 )、ヘブライ人への手紙では、イエスは、「魂の大牧者」と呼ばれています(ヘブライ 13:20 )。
今日の福音の朗読箇所(ヨハネ 10:27-30 )は、イエスの羊飼いとしての役割のうちの二つの重要な特色に光を当てます。第一の特色は、羊と羊飼いが、互いを知っていることに関係があります。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」( 10 : 27 )
羊たちは、この羊飼いのもとで長年共に過ごしてきました。羊飼いは、羊一匹々々の性格を知り、それぞれに愛情あふれる名前をつけました。 そしてそれは、イエスとその弟子たちにも当てはまります。 イエスは弟子たちを、その名前で親しく知っています。イエスは弟子たちを個人的に愛します。その愛は、弟子の一人ひとりを、あたかも自分のために存在するただ一人であるかのように扱います。
今日の福音には、羊飼いの使命の第二の側面も示されます。羊飼いは自分のいのちを、彼の羊に、その羊のために与えます。だれも彼の手から羊を取り去ることはできません。野獣と盗賊とは、イスラエルの羊飼いにとっての悪夢であり、絶えることのない脅威でした。ここに、真の羊飼いと雇われた羊飼いとの違いがあります。真の羊飼いは家族である羊の群の世話をし、雇われ羊飼いは受け取る報酬のためだけに働きます。羊を愛してはおらず、実際には憎んでいることさえしばしばです。
雇われ羊飼いが危険に直面すると、羊たちを置き去りにして逃げ出し、狼や盗賊団のなすが儘にさせますが、真の羊飼いは、群を救おうと勇敢に危険に立ち向かいます。
羊たちは、良い羊飼いにとって単なる「責任」をはるかに超える存在です。羊たちは羊飼いの愛と配慮の対象です。このように、羊たちへの羊飼いの深い愛には利己的なところは全くありません。良い羊飼いは、羊たちを見捨てるぐらいなら、羊たちのために喜んで死にます。一方、雇われ人にとっては、羊は単なる商品で、羊毛と羊肉を採るために見張っているだけのものなのです。
神からの賜物
今日の福音の朗読箇所は、人間の霊の最も深い神秘の一つを示してくれます。信仰とは、呼びかけを聞きそれに従う能力であり、イエスに与えられた賜物であると同時に、イエスに従う者たちへの賜物でもあります。なぜ、ある人たちには信仰に導く言葉が聞こえるのでしょうか。なぜ、ある人たちはイエスの言葉の内に御父を認めることができるのでしょうか。得られる唯一の回答は、「信仰は賜物である。」ということです。わたしたちの神とその御子は、わたしたちを世話し、わたしたちを知り、頑固で、聞く耳を持たず、優柔不断なわたしたちを愛してさえ下さる羊飼いです。わたしたちは、良い羊飼いの声を、本当に喜んで聞いているのでしょうか。
わたしは、以前聞いた良い羊飼いに関する深い教えを思い出さずにいられません。それは 5 年前の
2005 年 4 月 24 日の日曜日、バチカンでの「ペトロの司牧職」すなわち教皇職への就任式のミサで、ベネディクト 16 世が語った教えです。「羊飼いの基本的な資格の一つは、自分が仕える方であるキリストを愛するほどまでも、自分に信頼を置く人々を愛さなければならないことです。」
「『わたしの羊を飼いなさい』とキリストはペトロに言います。そして今、この瞬間に、キリストはこのわたしにも、そう語りかけます。『飼う』とは、愛することです。そして愛するとは、苦しむ覚悟ができているということでもあります。愛するとは、羊たちに真に良いもの、神の真実の食物、御言葉の食物、神の現存という食物を与えることです。そしてそれは、神が、祝福された秘跡(聖体)においてわたしたちに与えるものです。」
外の砂漠・内なる砂漠
教皇は続けます。「教会の教父たちにとって、見失った羊の譬え話、すなわち羊飼いが荒れ野で羊を探す話は、キリストとその教会の神秘のイメージでした。人類 ― わたしたちすべて ― は、荒れ野で道に迷い、行く先も知らない羊です。神の御子は 、そんな惨めな状況に人間を見捨てることなどできません。 彼はすぐさま立って、天の国の栄光を捨て、十字架に至るまで、その羊を探し求めます。彼はその羊を肩に背負い、(同じように)わたしたち人類を背負うのです; 彼はわたしたちすべてを運びます 。― 彼は良い羊飼い、その羊のために自分の命を投げ出す羊飼いです・・・。」
「司牧者は、キリストの聖なる熱意に霊感を受けるはずです。彼にとって、それほど多くの人たちが荒れ野で生きていることに無関心ではいられません。さまざまな荒れ野があります。―貧困、飢餓、自暴自棄、孤独、破れた愛―。 神の暗黒は、もはや人間の尊厳や人生の目標を見失った、空虚な魂の荒れ野です。」
「外面の荒れ野が世界で拡がっています。それは内面の荒れ野が余りにも広大になってしまったからです。そのために、地上の宝は、そこに住む全ての被造物のために、神の楽園を築く役に立たなくなっています。 それどころか、搾取と破壊の力に仕えるようにされてしまいました。
全ての教会とその司牧者たちは、キリストのように、人々をこの荒れ野から救い出し、いのちの場へ、神の御子との交わりへ、ご自分のいのちをわたしたちに、それも溢れる豊かさでお与えになった方へと導くことを始めなければなりません。」
「羊飼いの基本的な性格の一つは、彼が仕えるキリストを愛するほどにまで、自分に頼る人々を愛することに違いありません。
( 『わたしの羊を飼いなさい』とキリストはペトロに言います。そして今、この瞬間にも、キリストはこのわたしにそう語りかけます。『飼う』という言葉には、『愛する』という意味があります。そして愛するとは、苦しむ覚悟が出来ているということでもあります。愛することは、その羊たちにほんとうに良いもの、神の真理の食物、神の御言葉、神の現存の食物を与えることを意味します。そしてそれは神が、祝福された秘跡においてわたしたちに与えるのです。」 この部分重複 )
「愛する皆さん ― わたしはいま、これしか言葉が見つかりません。どうかわたしのために祈ってください。わたしが、もっともっと主を愛せるようにと。わたしのために祈ってください。主の羊の群れを ― 言い換えれば、あなたと聖なる教会を、あなた方一人ひとりとあなたがた全てを、わたしがもっともっと愛せるようにと。 わたしのために祈ってください。わたしが狼を恐れて逃げ出さないようにと。
互いのために祈りましょう。主がわたしたちを支え、わたしたちが互いに支え合うことを学びますように。」
「キリストの内に生きておられる神と出会うときにのみ、わたしたちは『いのち』とは何であるかを知るのです。わたしたちは、進化の過程で偶然生まれた無意味な産物ではありません。わたしたち一人ひとりは、神のお考えの結果なのです。わたしたち一人ひとりが神のご意思の下に生まれ、わたしたち一人ひとりが愛され、わたしたち一人ひとりが必要とされているのです。」
・・・福音に、また、キリストとの出会いに不意打ちされることほど美しいことはありません。
キリストを知り、キリストとの交わりを人々に語ることほど美しいことはありません。
羊飼いの務め ― 人間を漁(すなど)る務めは、報われないものと思われがちです。しかし、それは美しく、すばらしい仕事なのです。何故ならそれは、喜びへの、神の喜びへの真の奉仕だからです。
神は、世界にその喜びをもたらすことを切望しておられるのです。
聖書朗読
使徒 13:14, 43-52 : ( その日 ) パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。13:43 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。13:44 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。13:45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。13:46 そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。13:47 主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」13:48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。13:49 こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。13:50 ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。13:51 それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。13:52 他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
黙示録 7:9, 14b-17: わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って(いた。)(長老の一人が) 14b わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。7:15 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。7:16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。7:17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」
ヨハネ 10:27-30 : (ユダヤ人、イエスを拒絶する)わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」
Voice of the Good Shepherd
Biblical Reflection for 4th Sunday of Easter C, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, APRIL 20, 2010 (
Zenit.org
) .-
As we move away from the day of Christ's resurrection, the Sunday Scripture
readings for the Easter Season help to deepen our understanding of what happened
to Jesus and to the Church through his triumph over death. On the Second Sunday
of Easter, we looked carefully at the wounds of Christ and renewed friendship
with him at table in a locked upper room.
The Third Sunday of Easter this year ( C ) enabled us to peer into the intimate lakeshore scene, leading us through the ruins of denial and despair, and offering us a chance to recommit ourselves to loving Christ as friends.
On this Fourth Sunday of Easter, we encounter the Good Shepherd who is really
the beautiful or noble shepherd who knows his flock intimately. "Good Shepherd
Sunday" is also the World Day of Prayer for Vocations in the Church. In
all three liturgical cycles, the Fourth Sunday of Easter presents a passage
from John's Gospel about the Good Shepherd.
In the Old Testament, God himself is represented as the shepherd of his people.
"The Lord is my shepherd, I shall not want" (
Psalm 23:1
) .
"He is our God and we are his people whom he shepherds" (
Psalm 95:7
) .
The future Messiah is also described with the image of the shepherd: "Like
a shepherd he feeds his flock; in his arms he gathers the lambs, carrying them
in his bosom, and leading the ewes with care" (
Isaiah 40:11
) .
In the Bible and the ancient Near East, "shepherd" was also a political title that stressed the obligation of kings to provide for their subjects. The title connoted total concern for and dedication to others. Shepherd and host are both images set against the background of the desert, where the protector of the sheep is also the protector of the desert traveler, offering hospitality and safety from enemies. The rod is a defensive weapon against wild animals, while the staff is a supportive instrument; they symbolize concern and loyalty.
Ideal
image
This ideal image of the shepherd finds its fulfillment in Jesus Christ. He is
the "Good Shepherd" who goes in search of the lost sheep; he feels
compassion for the people because he sees them "as sheep without a shepherd"
( Matthew
9:36 ) ;
he calls his disciples "the little flock" (
Luke 12:32
) .
Peter calls Jesus "the shepherd of our souls" (
1 Peter 2:25
)
and the Letter to the Hebrews speaks of him as "the great shepherd of the
sheep" ( Hebrews
13:20 ) .
Today's Gospel passage ( John 10:27-30 ) highlights two important characteristics of Jesus' role as shepherd. The first has to do with the reciprocal knowledge that the sheep and shepherd have: "My sheep hear my voice and I know them and they follow me." The sheep remained for many years in the company of the shepherd who knew the character of each one and gave them affectionate names. Thus it is with Jesus and his disciples: He knows his disciples "by name," intimately. He loves them with a personal love that treats each as if they were the only one who existed for him.
There is also a second aspect of the shepherd's vocation in today's Gospel. The shepherd gives his life to his sheep and for his sheep, and no one can take them out of his hand. Wild animals and thieves were a nightmare and constant threat for the shepherds of Israel. Herein lies the difference between the true shepherd who shepherds the family's flock, and the hired hand who works only for the pay he receives, who does not love, and indeed often hates, the sheep. When the mercenary is confronted with danger, he flees and leaves the sheep at the mercy of the wolf or bandits; the true shepherd courageously faces the danger to save the flock.
The sheep are far more than a responsibility to the Good Shepherd: They are the object of the shepherd's love and concern. Thus, the shepherd's devotion to them is completely unselfish; the Good Shepherd is willing to die for the sheep rather than abandon them. To the hired hand, the sheep are merely a commodity, to be watched over only so they can provide wool and mutton.
Gift from God
Today's Gospel passage presents to us one of the deepest mysteries of the human
spirit. Faith, the ability to hear and to follow a call, is a gift to Jesus
and a gift to the followers of Jesus. Why are some capable of hearing that leads
to faith? Why are some capable of recognizing the Father in the words of Jesus?
The only answer presented is that faith is a gift. Our God and his Son are shepherds
that care for us and know us and even love us in our stubbornness, deafness
and diffidence. Do we really rejoice in hearing the voice of the Good Shepherd?
I cannot help but call to mind the profound teaching on the Good Shepherd that was offered to us by Benedict XVI during the Mass of inauguration of his Petrine Ministry five years ago, on Sunday, April 24, 2005, at the Vatican. In his very first homily as the Successor of Peter, Benedict XVI said: "One of the basic characteristics of a shepherd must be to love the people entrusted to him, even as he loves Christ Whom he serves.
'Feed my sheep,' says Christ to Peter, and now, at this moment, He says it to me as well. Feeding means loving, and loving also means being ready to suffer. Loving means giving the sheep what is truly good, the nourishment of God's truth, of God's word, the nourishment of His presence, which He gives us in the Blessed Sacrament."
External and internal deserts
The Holy Father continued: "For the Fathers of the Church, the parable
of the lost sheep, which the shepherd seeks in the desert, was an image of the
mystery of Christ and the Church. The human race -- every one of us -- is the
sheep lost in the desert which no longer knows the way. The Son of God will
not let this happen; he cannot abandon humanity in so wretched a condition.
He leaps to his feet and abandons the glory of heaven, in order to go in search
of the sheep and pursue it, all the way to the Cross. He takes it upon his shoulders
and carries our humanity; he carries us all -- he is the good shepherd who lays
down his life for the sheep. [...]
"The pastor must be inspired by Christ's holy zeal: For him it is not a matter of indifference that so many people are living in the desert. And there are so many kinds of desert. There is the desert of poverty, the desert of hunger and thirst, the desert of abandonment, of loneliness, of destroyed love. There is the desert of God's darkness, the emptiness of souls no longer aware of their dignity or the goal of human life.
The external deserts in the world are growing, because the internal deserts have become so vast. Therefore the earth's treasures no longer serve to build God's garden for all to live in, but they have been made to serve the powers of exploitation and destruction.
The Church as a whole and all her pastors, like Christ, must set out to lead people out of the desert, towards the place of life, toward friendship with the Son of God, towards the One who gives us life, and life in abundance.
"One of the basic characteristics of a shepherd must be to love the people
entrusted to him, even as he loves Christ whom he serves.
( 'Feed my sheep,' says Christ to Peter, and now, at this moment, he says it to me as well. Feeding means loving, and loving also means being ready to suffer. Loving means giving the sheep what is truly good, the nourishment of God's truth, of God's word, the nourishment of his presence, which he gives us in the Blessed Sacrament. )
My dear friends -- at this moment I can only say: pray for me, that I may learn to love the Lord more and more. Pray for me, that I may learn to love his flock more and more -- in other words, you, the holy Church, each one of you and all of you together. Pray for me, that I may not flee for fear of the wolves.
Let us pray for one another, that the Lord will carry us and that we will learn to carry one another.
"Only when we meet the living God in Christ do we know what life is. We
are not some casual and meaningless product of evolution. Each of us is the
result of a thought of God. Each of us is willed, each of us is loved, each
of us is necessary.
There is nothing more beautiful than to be surprised by the Gospel, by the encounter with Christ. There is nothing more beautiful than to know Him and to speak to others of our friendship with Him. The task of the shepherd -- the task of the fisher of men -- can often seem wearisome. But it is beautiful and wonderful, because it is truly a service to joy, to God's joy which longs to break into the world."