キリスト者の生き方の宣言と、至聖への道
年間第 4 主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/1/30 トマス・ロシカ師
教会は、歴史を通して、その巡礼の旅を続けているのですから、暗闇とあいまいさと罪の中にいるわたしたちには、励ましと希望を与えてくれるビジョン、すなわち喜びと希望と勝利が必要です。
聖書におけるそのビジョンは、今日朗読される福音の一節にある偉大なキリストの宣言に示されます。
今日の福音は「山上の説教」( マタイ 5 : 1-12a )と呼ばれており、マタイ福音書の構成の中心となる五つの説教( 5 : 1-7 : 29 )の、最初の部分に当たります。ルカ福音書の、これに応じる箇所は、「平らなところでの説教」(ルカ 6 : 20-49 )です。しかし、マタイの「山上の説教」の内容の一部は、ルカの他の場所に対応箇所が見つかります。
この説教が、題目別に入念に整理されているのは、恐らく、マタイの編集のお蔭ばかりではないでしょう。マタイが持っていた源泉資料には、既に系統立てられたイエスの説教があったようです。その源泉資料の様式は次のようであったのかも知れません。@四つの真福(マタイ 5 : 3-4 、 6 、 11-12 )。A実例を示しての新しい正義に関する部分( 5 : 17 、 20-24 、 27-28 、 33-48 )。B善い行いに関する部分
( 6 : 1-6 、 16-18 )。C三つの警告( 7 : 1-2 、 15-21 、 24-27 )。
ルカ福音書の説教とは違い、マタイのテキストでは、弟子たちだけでなく群衆に向かっても話しかけています。
今日の朗読福音で用いられる「幸いである。」という繰り返しの言葉は、旧約聖書の知恵の書や詩編によく出てきます。マタイによって手を加えられてはいますが、第一、第二、第四、第九の真福は、ルカにその対応箇所があります。(マタイ 5 : 3 =ルカ 6 : 20 、マタイ 5 : 4 =ルカ 6 : 21 、 22 、マタイ 5 : 6 =ルカ 6 : 21a 、マタイ 5 : 11-12 =ルカ 5 : 22-23 ) 残りは、福音記者が付け加えたり、おそらくは自分で作文したりしたものでしょう。
真福八端の意味
真福八端は、キリスト者の生き方の偉大な宣言です。それは神の究極の正義を示し、社会の底辺に生きる人々のためにイエスが行った預言的な奉仕の要点を述べています。病気の人々、足の不自由な人々、貧しい人々、飢えた人々―あまりにも多くの人々が、このガリラヤの丘でイエスの周りに群がります。湖を見渡す丘に展開するこの畏怖すべき聖書の場面で、イエスは、真福八端を宣言することで、聖書的な正義を実践に移します。真の正義とは、自己を、病める人、身体の不自由な人、貧しい人、飢えた人に結びつけることです。イエスの言葉を聴いた群衆は、畏怖の念を抱きました。それはイエスが権威を持って語り、また真理を知ってそれを惜しみなく与える者の力強さを持って語ったからです。イエスは比類なき教師でした。
今日の福音が、すべての形式の典礼で好んで使われる文言の一つであることは確かです。しかし、一体、どれ程の人が、そこで述べられていることの過激さを本当に理解しているでしょうか? あるいは、真福八端が、単なる山上の説教への美しい導入部ではなく、実は、イエスのすべての教えの基本であることを分かっているでしょうか? わたしたちは、真福八端が、連帯・共感・恵みの言葉であるという事実以外に、それをどう理解し、どう説明したらいいか分からずに戸惑うことがよくあります。
イエスのアラム語が、その教えをより深く理解する手助けになるかも知れません。
「幸いである( Blessed )」は、ギリシャ語の新約聖書で使われている「 makarioi 」という言葉の訳です。
さらに、イエスの使ったアラム語とその語彙にまでさかのぼると、その語源は「 yashar. 」という動詞から派生した「 ashray 」であったことが分かります。「 ashray 」には受動的な意味はありません。それは、「正しいゴールに向けて正しい方向に自身を向かわせること。向きを変えること、悔い改めること」、言葉を換えれば、「真直ぐに、あるいは、正しくなること。」を意味します。
イエスの言葉をアラム語で理解するなら、真福八端は次のように訳せるかも知れません。「立ち上がれ、前に進め、行動せよ、そこに留まるな、義に飢え渇く人々よ、平和を望む人たちよ。」
このような言葉の方が、イエスの言葉と教えをより正確に反映します。イエスがわたしたちに次のように語りかけるのが聞こえてきます。立ち上がりなさい、文句を言うのをやめ、あなたの周りにいる家のない人々、貧しい人々、失望している人々、絶望している人々のために何かをしなさい。
「立ち上がれ、前に進め、行動せよ、そこに留まるな。」 イエスは、弟子とわたしたちに言います。
こうして、真福八端は、人間の状況に対する神の究極の正義と連帯を明らかにするのです。
わたしたちは、真福八端を、自分自身の生活と良心を調べる鏡として掲げなければなりません。「わたしは、霊において貧しいだろうか? わたしは謙遜で憐れみ深いだろうか? わたしは心が清いだろうか? わたしは平和をもたらしているだろうか? わたしは『幸い』だろうか―言い換えるなら、幸福だろうか?」 イエスは、わたしたちに自分の持っているものを与えるだけでなく、自分のあるがままを与えて下さいます。イエスは聖なる方で、わたしたちをも聖なる者にして下さいます。
聖性への青写真
真福八端は、至聖への道筋でもあります。聖性は、献身と行動を伴う生き方です。それは受け身の努力ではなく、むしろ、自身と神との関係を深め、それによって、神との関係がこの世におけるすべての行動の指針となるような、途切れることのない選択です。
教皇ヨハネ・パウロ 2 世の生涯は、真福八端を生き抜くものでした。教皇自身が類いまれな証し人でした。教皇は、その献身、英雄的な努力、長い苦しみと死を通して、福音の力強いメッセージを現代のすべての人々に伝えました。教皇のメッセージが人々の心に届いたのは、教皇自身も数多くの証し人に囲まれてきたお陰です。大勢の証し人が教皇を囲み、生涯を通じて教皇の力になっていたのです。およそ 27 年に及んだその在任中に、教皇は、 1338 人を列福し、 482 人を列聖しました。
2005 年 4 月 2 日、教皇は全世界が見守る中で死去し、世界は息をひそめた数日間を過ごしました。 2005 年 4 月 8 日、枢機卿ヨゼフ・ラッツィンガーは、教皇は、「御父の家の窓から」わたしたちを見守り、祝福して下さっていると世界に告げました。
2011 年 5 月 1 日、御父の許に帰ってからわずか 6 年で、教会は、多くの人々が長い間了解してきたことを正式に確認します。単に、教皇を急いで聖人にする( "Santo Subito" )のではなく、むしろ、永遠に聖人にする( "Santo Sempre" )のです。 わたしたちが、「パパ・ヴォイティワ( Wojtyla )」から、どうやって天国の敷居をまたぐのか、扉を開くのか、橋を架けるのか、そして、どうやって現代の人々に福音を宣言するのかを学ぶことが出来ますように。わたしたちが真福八端を実現する者となり、カロル・ヴォイティワ、すなわち教皇ヨハネ・パウロ 2 世が強く抱いていた、ペトロの証人としての忠実さと、パウロの宣言の大胆さを、そのごく一部分なりとも請い求めますように。
神の御言葉
今日は、引き続き、「 教会生活と宣教における神のことば 」の司教会議を受けた ベネディクト 16 世 の使途的勧告「神のみことば ( Verbum Domini )」 について黙想し、第 72 項と第 73 項を読むことにしましょう。
「ミサが、神の御言葉を宣言し、聴き、祝うための特別な場所であることが真実であるなら、同様に、信者たちの心の中でこの出会いの準備がなされなければならないし、また、信者は何にも増してこの出会いを深め、自分のものとしなければならないことも事実です。キリスト者の生活の本質的な特徴はイエス・キリストとの出会いにあります。イエスはわたしたちを自分に従うようにと招きます。そのために司教会議は、キリスト教共同体に欠かせないものとして、司牧ケアの重要性をしばしば検討しました。キリスト教共同体において、神の御言葉に基づく個人的、集団的な(霊的)旅が行われ、それが、わたしたちの霊的生活の基盤としての機能を正しく果たすような司牧ケアです。
会議の司教団と共に、わたしは、新しい季節の開花を心から願います。新しい季節には、神の民の仲間の一人ひとりが聖書への愛を深め、それによって、皆が祈りと信仰に満ちて聖書を読み、時と共にイエスとの個人的な関係を深めることになるのです。」
「教会の歴史を通して、あまたの聖人たちが、キリストへの愛を育てるためには聖書の知識が必要であると語っています。この傾向は特に教父たちに顕著に表れています。
聖ヒエロニムスは、神の御言葉に大きな愛を寄せながらも時おり不思議に思うことがありました。『 聖書を知らないでどのようにして生きることができるでしょうか。聖書を知ることによって、信じる者のいのちであるキリスト自身を知ることを学ぶからです 。』 ヒエロニムスは、聖書が、『 神が日々信者に語りかけるための 』手段であることをよく理解していました。ヒエロニムスが、娘の養育についてローマの婦人ラエタ( Leta )に与えたアドバイスは次のようでした。『娘に、毎日必ず聖書の一節を学ばせなさい。…祈りは読むことを伴い、読むことは祈りを伴うからです。… あなたの娘が宝石や絹の衣服よりも聖書を愛するようになりますように。 』 ヒエロニムスが、司祭ネポティアヌス( Nepotian )に与えた助言も、わたしたちに適用できます。『神からいただいた聖書を何度も読みなさい。そればかりでなく、この聖なる本を決して手放してはなりません。あなたが教えるべきことを、そこから学びなさい。』
聖書の研究にその生涯を捧げ、教会にラテン語訳のウルガタ聖書を残したこの偉大な聖人に倣い、また、その霊的生活の中心であるキリストと出合ったすべての聖人の模範に倣いましょう。神が教会に与えた御言葉を深く理解する努力を新たにしましょう。そうすれば、キリストの第 3 千年期の初めに教皇ヨハネ・パウロ 2 世が提案した『普通のキリスト者の生活の高い水準』を目指すことが可能になり、神の御言葉に良く耳を傾けることによって、いつも豊かな実りを見出すことができるのです。」
訳注:聖ヒエロニムスの挿話については、別添の「 教皇ベネディクト十六世の116回目の一般謁見
演説」(2007/11/14)参照
「これらの線に沿って、司教会議は、神の御言葉が教会生活の中心であることを強調するよう、特別な司牧的配慮を求め、より偉大な『聖書に基づく使徒職』の在り方を提示しました。それは、他の形の司牧活動と比較できるものではなく、聖書がすべての司牧活動に霊感を与える方法なのです。
それは、小教区や教区のあちこちで学びの集いを増やすという意味ではなく、キリスト者の共同体、すなわち小教区や団体やムーブメントなどの普段の活動を検証し、それらが、本当にキリストとの個人的な出会いを育くむことに関心を向けているどうかを見極めることなのです。キリストは御言葉によってご自身をわたしたちに与えて下さいます。『聖書を知らないことはキリストを知らないこと』ですから、日常でも特別な時でも、聖書から司牧活動の霊感を得るように努めるならば、キリストのペルソナを一層深く知るようになるでしょう。キリストは御父を啓示し、神の啓示に満ちた方なのです。
「このような理由で、わたしは、司牧者と信徒の皆さんに、聖書を大切にすることの重要性を認識するように勧めます。それは、司教会議で討論されたある種の司牧的な問題に対処する最良のやり方であり、実行に移す必要があります。それはたとえば、聖書の読み方をゆがめたり、操作したりするセクト(新興宗派など)の拡大に対処する場合などに有効です。信者たちが、教会の信仰に合致し生きた伝統に基づく聖書理解を得る手助けのないところでは、この司牧的空白が、セクトのような現実が根付くのにふさわしい空間になります。聖書への真のアプローチのために、神の民に教えることのできる司祭や信徒をしっかりと用意できるよう、準備もしなければなりません。」
「さらに、司教会議のいくつかの分科会で提起されたことですが、司牧活動によって、小さな共同体(教会内外のグループ?)の成長も促されるのは歓迎すべきことです。小さな共同体とは、たとえば、『いくつかの家族によるグループ、複数の小教区を基盤とするグループ、あるいは、異なる教会運動や新しい仲間とリンクしたグループ』などのことです。それは、信仰形成、祈り、それに教会の信仰に合致した聖書の知識を増進する手助けとなります。」
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聖書朗読
ゼファニア 2 : 3; 3 : 12-13 : 主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた/この地のすべての人々よ/恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に/あるいは、身を守られるであろう。 3 : 12 わたしはお前の中に/苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。 3 : 13 イスラエルの残りの者は/不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い/彼らを脅かす者はない。
1 コリント 1 : 26-31 : 26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
マタイ 5 : 1-12a :山上の説教を始める 1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 5 : 11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
Charter for Christian Living and Recipe for Extreme Holiness
Biblical Reflection for 4th Sunday in Ordinary Time A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, JAN. 25, 2011 ( Zenit.org ) .-
As the Church continues her pilgrim journey throughout history, we need a vision to sustain us and give us hope in the midst of our shadows, ambiguities and sins, our joys and hopes and victories.
That biblical vision is found in the great Christian charter in today's Gospel passage.
Today's Gospel, often called "the Sermon on the Mount" ( Matthew 5 : 1-12a ) , is the first of the five discourses ( 5 : 1-7 : 29 ) that are a central part of the structure of Matthew's Gospel. The Lucan parallel is the "Sermon on the Plain" ( Luke 6 : 20-49 ) , although some of the sayings in Matthew's "Sermon on the Mount" have their parallels in other parts of Luke.
The careful topical arrangement of the sermon is probably not due only to Matthew's editing; he seems to have had a structured discourse of Jesus as one of his sources. The form of that source may have been as follows : four beatitudes ( Matthew 5 : 3-4, 6, 11-12 ) , a section on the new righteousness with illustrations ( 5 : 17, 20-24, 27-28, 33-48 ) , a section on good works, ( 6 : 1-6, 16-18 ) , and three warnings ( 7 : 1-2, 15-21, 24-27 ) .
Unlike Luke's sermon, Matthew's text is addressed not only to the disciples but to the crowds.
The formulation "Blessed are ( is ) " used in today's Gospel passage occurs frequently in the Old Testament in the Wisdom literature and in the psalms. Although modified by Matthew, the first, second, fourth, and ninth beatitudes have Lucan parallels ( Matthew 5 : 3; Luke 6 : 20; Matthew 5 : 4; Luke 6 : 21, 22; Matthew 5 : 6; Luke 6 : 21a; Matthew 5 : 11-12; Luke 5 : 22-23 ) . The others were added by the evangelist and are probably his own composition.
Meaning of the beatitudes
The beatitudes are the great charter for Christian living. They reveal God's ultimate justice and outline Jesus' prophetic outreach to those who live on the fringes of society. So many people -- the sick, the lame, the poor and the hungry -- converge on Jesus on that Galilean hillside. In this awesome biblical scene overlooking the sea, Jesus puts biblical justice into practice by proclaiming the beatitudes. Authentic justice is a bonding of one's self with the sick, the disabled, the poor and the hungry. The crowds that listened to Jesus were awestruck because he spoke with authority, with the force of someone who knew the truth and offered it freely to others. He was a teacher like no other.
While today's Gospel is undoubtedly one of the favorite texts for all types of liturgical celebrations, how many people really grasp the radicality of what is being stated, or realize that the beatitudes are not simply a lovely introduction to the sermon on the mount, but actually the foundation of Jesus' entire teaching? We are often at a loss to understand and explain the meaning of the beatitudes beyond the fact that they are words of solidarity, compassion and blessing. The Aramaic language of Jesus may help us to understand Jesus' teachings in a deeper way. "Blessed" is the translation of the word "makarioi" used in the Greek New Testament. If we look further back to Jesus' Aramaic language and vocabulary, we discover that the original word was "ashray," from the verb "yashar."
"Ashray" does not have this passive quality. Instead, it means "to set yourself on the right way for the right goal; to turn around, repent; to become straight or righteous."
When we understand Jesus' words in the Aramaic, we may translate the beatitudes like this : "Get up, go ahead, do something, move, you who are hungry and thirsty for justice; you who desire peace." This reflects Jesus' words and teachings more accurately. We hear him saying to us : Get up, stop complaining, do something about the homeless, about the poor, about the discouraged and disillusioned people around you.
"Get up, go ahead, do something, move," Jesus says to his disciples and to us.
In this way the beatitudes reveal God's ultimate justice and solidarity with the human condition.
We must hold up the beatitudes as a mirror in which we examine our own lives and consciences. "Am I poor in spirit? Am I humble and merciful? Am I pure of heart? Do I bring peace? Am I 'blessed,' in other words, happy?" Jesus not only gives us what he has, but also what he is. He is holy and makes us holy.
Blueprint for holiness
The beatitudes are also a recipe for extreme holiness. Holiness is a way of life that involves commitment and activity. It is not a passive endeavor but rather a continuous choice to deepen one's relationship with God and to then allow this relationship to guide all of one's actions in the world.
The beatitudes were lived out in the life of Pope John Paul II. He himself was an extraordinary witness who, through his devotion, heroic efforts, long suffering and death, communicated the powerful message of the Gospel to the men and women of our day. A great part of the success of the Pope's message is due to the fact that he has been surrounded by a tremendous cloud of witnesses who stood by him and strengthened him throughout his life. In the nearly 27 years of his pontificate, he gave the Church 1,338 blessed and 482 Saint.
On April 2, 2005, he died a public, global death that stopped the world for several days. On April 8, 2005, Cardinal Joseph Ratzinger told the world that the Holy Father was watching and blessing us "from the window of the Father's House."
On Sunday, May 1, 2011, only six years after his return to the Father's house, the Church will formally confirm what many of us have known for so long : not simply "Santo Subito" ( make him a saint quickly ) , but rather "Santo Sempre" ( make him a saint for all time ) . May we learn from "Papa Wojtyla" how to cross thresholds, open doors, build bridges and proclaim the Gospel to the people of our time. May we become men and women of the beatitudes and beg for a small portion of the fidelity of Peter's witness and the boldness of Paul's proclamation that were so mightily present in Karol Wojtyla -- Pope John Paul II.
Word of God
Today, as we continue our reflection on Benedict XVI's apostolic exhortation "Verbum Domini" that followed the Synod of Bishops on the Word of God in the Life and Mission of the Church, we read paragraphs 72 and 73 :
"If it is true that the liturgy is the privileged place for the proclamation, hearing and celebration of the word of God, it is likewise the case that this encounter must be prepared in the hearts of the faithful and then deepened and assimilated, above all by them. The Christian life is essentially marked by an encounter with Jesus Christ, who calls us to follow him. For this reason, the Synod of Bishops frequently spoke of the importance of pastoral care in the Christian communities as the proper setting where a personal and communal journey based on the word of God can occur and truly serve as the basis for our spiritual life.
With the Synod Fathers I express my heartfelt hope for the flowering of a new season of greater love for sacred Scripture on the part of every member of the People of God, so that their prayerful and faith-filled reading of the Bible will, with time, deepen their personal relationship with Jesus.'
"Throughout the history of the Church, numerous saints have spoken of the need for knowledge of Scripture in order to grow in love for Christ. This is evident particularly in the Fathers of the Church. St. Jerome, in his great love for the word of God, often wondered : 'How could one live without the knowledge of Scripture, by which we come to know Christ himself, who is the life of believers?'
He knew well that the Bible is the means 'by which God speaks daily to believers.' His advice to the Roman matron Leta about raising her daughter was this : 'Be sure that she studies a passage of Scripture each day... Prayer should follow reading, and reading follow prayer... so that in the place of jewellery and silk, she may love the divine books.' Jerome's counsel to the priest Nepotian can also be applied to us : 'Read the divine Scriptures frequently; indeed, the sacred book should never be out of your hands. Learn there what you must teach.'
Let us follow the example of this great saint who devoted his life to the study of the Bible and who gave the Church its Latin translation, the Vulgate, as well as the example of all those saints who made an encounter with Christ the centre of their spiritual lives. Let us renew our efforts to understand deeply the word which God has given to his Church : thus we can aim for that 'high standard of ordinary Christian living' proposed by Pope John Paul II at the beginning of the third Christian millennium, which finds constant nourishment in attentively hearing the word of God.
"Along these lines the Synod called for a particular pastoral commitment to emphasizing the centrality of the word of God in the Church's life, and recommended a greater 'biblical apostolate,' not alongside other forms of pastoral work, but as a means of letting the Bible inspire all pastoral work. This does not mean adding a meeting here or there in parishes or dioceses, but rather of examining the ordinary activities of Christian communities, in parishes, associations and movements, to see if they are truly concerned with fostering a personal encounter with Christ, who gives himself to us in his word.
Since 'ignorance of the Scriptures is ignorance of Christ,' making the Bible the inspiration of every ordinary and extraordinary pastoral outreach will lead to a greater awareness of the person of Christ, who reveals the Father and is the fullness of divine revelation.
"For this reason I encourage pastors and the faithful to recognize the importance of this emphasis on the Bible : it will also be the best way to deal with certain pastoral problems which were discussed at the Synod and have to do, for example, with the proliferation of sects which spread a distorted and manipulative reading of sacred Scripture. Where the faithful are not helped to know the Bible in accordance with the Church's faith and based on her living Tradition, this pastoral vacuum becomes fertile ground for realities like the sects to take root. Provision must also be made for the suitable preparation of priests and lay persons who can instruct the People of God in the genuine approach to Scripture.
"Furthermore, as was brought out during the Synod sessions, it is good that pastoral activity also favor the growth of small communities, 'formed by families or based in parishes or linked to the different ecclesial movements and new communities,' which can help to promote formation, prayer and knowledge of the Bible in accordance with the Church's faith."