わたしたちが、深く、そして直接、光を見つめるとき
四旬節第 4 主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/4/3 トマス・ロシカ師
今日のすばらしい福音物語(ヨハネ 9:1-41 )は、イエスの顔を見て、盲目という鱗が目から落ち、そのイエスのいやしの力を体験し、イエスが本当は誰なのか、すなわちこの世に来られた主であり救い主であるということを認めるという話です。
ヨハネ福音の一番最初から、起源の問題は物語全体に染み渡っています。イエスはどこから来たのか。このナザレの息子はどんなラビの集団で学んだのか。イエスは、このすべてをどこで手に入れたのか。イエスは、どこで、神の法を破れるようになったのか。そのような疑問が、ヨハネ福音の盲人のいやしの刺激的な福音物語に立ちこめています。
安息日に生まれつき目の見えない人をいやすという、非常に象徴的な物語は独特です。旧約聖書における盲目からのいやしは、トビト記 ( 7:7;11:7-13;14;1-2 ) にしか出てきません。しかも、トビトは、生まれつきの盲目ではありません。第4福音の6番目のしるしであるこの物語は、「わたしは世の光である。」(ヨハネ 8:12;9:5 )という格言を例証するために導入されています。イエスに関する論争のくだりは、イエス(光)を、ユダヤ人(盲目、ヨハネ 9:39-41 )と対照して引き立たせています。シロアムの池との関連で、水というテーマが、再び導入されています。皮肉にも、イエスはユダヤ人によって裁かれていますが、ユダヤ人は、生きた世の光によって裁かれています。(ヨハネ 3:19-21 )
論争
目の見えない人のいやしの物語には、正確に二つの節が取られています。一方、いやしをめぐる論争には 39 節が使われています。この物語の残りの部分を占めているのは論争なのです。イエスの起源に関するそのような疑問には、盲人であった人が答えています。「あの方が、わたしを見えるようにしてくれました。あの方はどこから来たのだと思いますか。」目の見えない人は、闇から光へと進んでいきます。盲人は、イエスを人と見なします。それから、預言者と見なし、最後に、その方は神のみ子であると認めます。ファリサイ派の人々は、最初は、目の見えない人のいやしを受け入れているように見えるのですが、そのうち、疑い始め、とうとうイエスが神のもとからこられたことを否定します。
目の見えない人の単純さは、賢い人たちを困惑させます。そして、賢い人たちは、最後には、見ることを拒絶する羽目に陥ります。自分自身を盲人にしてしまったのです。しかし、ファリサイ派の人々に共感することは、そう難しいことではありません。彼らは、わたしたちの多くが、そうするように教え込まれてきたことをしようとしただけなのです。特別な事態の事象を観察し、分析し、説明し、そして釈明します。それは、ごくありふれたことのように思えませんか。わたしたちの多くが、日々、そのように過ごしてはいませんか。
ただ一つのこと
前に盲人であった人は、自分の救いを説明するための、正確な宗教的フレーズをよく知りませんでした。彼は、伝統的な意味で、敬虔ではありませんでしたし、その上、長老たちに敬意を表することもありませんでした。彼が確実に知っていることは、昔、彼は闇の中に座っていた、そして、今は、世界中が太陽の光を一杯に浴びているということでした。そして、彼は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と認めました。あたかも、彼がたまたま知っているもっとも取るに足らないかのようなことは、だれが、自分のいのちを救ったのかということなのです。
今や、目が見えるようになった人は、特別ことを知って出発したではなく、感謝から出発しています。イエスは、彼にいのちを与えてくれた人、彼を救ってくれた人、彼を盲目から解き放ってくれた人、彼に勇気と希望を与えてくれた人です。イエスは、ただ一人の人なのです。イエスこそ、その人なのです。目の見えない人だけが、「イエスがその人だ」と認めたわけではないとわたしたちは知っています。目の見えない人の霊的子孫は、歴史の中に無数に出てきます。うまく行けば、わたしたちも、その巡り合わせのうちの一人になれるかも知れません。
苦しみの問題
苦しみと死の問題を解き明かそうとする試みが、人が味わう当初の痛みや苦痛以上にさらに大きな苦しみをもたらしてしまうということがよくあります。「なぜわたしなのか。」「なぜ苦しみがなければならないのか。」「わたしが目が見えない、あるいは耳が聞こえない、あるいは口が利けない、あるいは貧しい、また他の人と同じようでないのは、一体、誰の責任なのか。」「苦しみには、何か意味があるのだろうか。」「どんな価値があるのか。」「これは誰のせいなのか。」「なぜ、こんな不正が存在するのか。」「なぜ、わたしが、これほどまで罰せられるのか。」 わたしたちは、自分が堪え忍ぶ苦しみの意味を理解できないことを説明するのに、よく、この盲人のたとえを使います。
かりに、今日の福音物語を、皮肉な喜劇、それ以上の何ものでもないとして読むとしたら、会堂の外で、イエスとその人が語り合う最後の場面の寂しさに気づかないことでしょう。この人の信仰告白は、彼に、そしてわたしたち皆に、厳しい結果をもたらします。彼は、会堂から追放されたのです。彼は、ユダヤ教の律法から、その家族から、その家族や友人たちと共に過ごす金曜日の夜の安息日から、律法の確信から排除されたのです。そのすべては、彼が、深く、そして直接、光を見つめたからです。なおかつ、彼がねばり強く見つめたから、未知の形のいやしと視力が彼にもたらされたのです。
わたしたちの盲目性
多くの人々は、今日、救いの源泉、わたしたちに希望をもたらす方、わたしたちの喜びの所以を認めることさえも気が進まないようです。わたしたちは、他の人たちが何を言うかと恐れ、その方の名前を言うことを恐れます。あるいは、わたしたちが、このように臆するのは、ことによると、イエスが、ただ一人の方、イエスこそその人であると確信が持てないからではないでしょうか。
わたしたちは、時に、「木を見て森を見ない」という言葉で、自分たちの盲目性を表現しますが、これは単純すぎる言い方です。やっかいなのは、伝統的に身についた盲目(性)で、「わたしたちには、もはや学ぶべきものは何もない」と、常に決めてかかる態度です。多くの場合、盲目(性)の原因となるのは傲慢です。わたしたちにとって、日々、目を開かれる奇跡が必要です。
イエスを見たい、会いたいと望むバルティマイを退けようとした人たちの行動。 わたしたちは、どれほど同じようなことをしていることでしょうか? わたしたちは、自分の中の嘲笑、冷笑の声に逆らって、友人や仲間や愛する人たちを、あの現存する主に導くことが出来るでしょうか。キリストのいない生涯の行く末が分かっているなら、できないはずはないのです。
ベネディクト6世は、今年の四旬節メッセージで、今日の福音について書いています。
「生まれつきの盲人」についての主日の典礼は、世の光としてのキリストを明らかにします。この福音は、わたしたち一人ひとりに、「あなたは人の子を信じるか」(ヨハネ 9 ・ 35 )という問いを投げかけます。生まれつき盲人であった人は「主よ、信じます」(同 9 ・ 38 )と喜びをもって宣言し、すべての信者に伝えます。このいやしの奇跡は、キリストがわたしたちに視力を与えることだけでなく、わたしたちの内面的な視野を広げることも望んでいることを表しています。こうして、わたしたちの信仰は深められ、イエスを唯一の救い主として認識するようになります。キリストは人生の闇のすべてを照らし,人が「光の子」として生きるよう導いているのです。
四旬節の福音に登場するスターたち
今日の福音の盲人のいやしの物語は、マルコ福音書のいやしの物語、ベトサイダで盲人をいやす物語 ( 8:22-26 ) と、 エリコの町の道端に座っていた盲人のバルティマイをいやす物語 ( 10:46-52 ) と共に、初代教会でも間違いなく人気の高い物語であったでしょうし、また現代の教会にとっても大変に深い意味を持つ物語です。わたしは、小児の目と読むことに関する障害を専門にする眼科医の父親の下で育ちましたので、これらの奇跡の物語が大好きでした。わたしたちは、夕食の食卓で、日常的に、視力障害、眼病、乱視、白内障、正常視力 ( 20/20 twenty-twenty vision ) というような話をしていました。
訳注: 20/20 twenty-twenty vision : 分数視力( fractional visual acuity ) は 欧米で用いられている 方式で、分子に検査距離、分母は視標の番号をとり表す方法で、よく使われる 20 フィートでの検査 距離では 20/20 (小数視力 1.0 )、 20/40 (小数視力 0.5 )のように表される。
また、わたしの父は、目の見えない人たちを支援する慈善団体の会員で、父やその医者仲間が、目の見えない人々のために盛大なクリスマス・パーティーを主催し、わたしも子供ながら、進んでいっしょに働いたことをよく覚えています。わたしは、それらの集まりの特徴だった分かりやすい喜びを決して忘れないことでしょう。わたしの父は、比較的若くして、60歳代後半で、糖尿病の合併症で亡くなりましたが、その合併症の一つで、盲目にもなりました。それは、最後の数年間、父とわたしたち家族にとって、大きな重荷となりました。
1997 年に父が亡くなる少し前に、わたしたちは、長い観光旅行し、父は、自分の葬儀ミサについて、わたしと話しました。父は、わたしに、「ミサのとき、どの福音を使うつもりなのか。」と尋ねました。わたしが、マルコ福音のエリコに行く途中で盲人バルティマイをいやす物語はどうかと言うと、「その話が、一体、わたしと何の関係があるのか。」と父は聞きました。わたしたち二人は、一瞬黙ってから、それがおかしてく、二人で大笑いました。わたしは、父の葬儀ミサで、説教で、その話をしました。
わたしが天国に近づいたなら、わたしは、これらの四旬節の福音に登場するスターたちとの長く、あわただしくない会話に期待することでしょう。そのスターたちとは、サマリヤの女(ヨハネ 4 )、目の見えない人(ヨハネ 9 )、ラザロ(ヨハネ 11 )のことです。この人たちは、とても幸運で、祝福された人々で、イエスの個人的な介入、慰めの接触(タッチ)、愛のこもった眼差し、共感を示す言葉を通して、再び新しくされました。わたしは、この4人の一人一人に、尋ねたいことがあります。「その人はどこから来たのか。彼の顔を見たとき、あなたは何を体験したのか。彼があなたに話しかけたとき、あなたはどう感じたのか。あなたはどうやって、彼がその人だと分かったのか。」
今日、世界と教会に存在する闇と影に異議を申し立てさせて貰いましょう。そして、決して、それらに、だんだんと満足するようになることのないようにしましょう。重要なただ一つの願いを、決して見失わないようにしましょう。その願いとは「イエスを見る」ことで、それは、密かにちらっと見るだけではなく、わたしたちの和解、わたしたちの希望、わたしたちの光、わたしたちの平和である方を、長く、愛をこめて、黙想しつつ見つめることなのです。
今週の「四旬節を生きる」
次の「生まれつき目の見えない人」のビデオを見て下さい。今日、あなたは、どのような盲目に苦しんでいますか。
(訳注:下記の URL でロシカ師のこの日の説教ビデオが見られます。 http://www.youtube.com/watch?v=h7Td5suUbGw )
マーク・トウェインという名でも知られるアメリカの作家 Samuel Langhorne Clemens ( 1835-1910 ) の次の言葉を黙想してください。「親切は、耳の聞こえない人に聞こえ、目の見えない人に見えるメッセージです。」
アメリカの作家であり、政治活動家でもあったヘレン・ケラー( 1880-1968 )の言葉を、ゆっくりと読んで下さい。ヘレン・ケラーは、学士の学位をとった初の耳と目が不自由な人でした。ヘレンは、ほとんど完全に言語を失うことで余儀なくされた孤独を克服し、人と話すことができるようになって、自分を花開かせました。ヘレンは、こう言いました。「愛が、人を盲目にするかどうか、わたしには分かりません。しかし、その愛は、人が見るのを助けることができます。わたしはそれを、何千回と味わってきましたし、また他の人も味わってきたことでしょう。」
現代にあって、教会、社会、わたしたちの文化のどの片隅が、深刻に、いやしと回復と改革を必要としているでしょうか。どこが、わたしたちの盲点でしょうか。近視眼、遠視眼による大きな問題はどこにあるでしょうか。わたしたちは、幾度、対話より独白を好み、わたしたちと対立し、わたしたちと意見が合わない人たちから学ぶことが出来るかも知れないと信じることを拒否したことでしょうか。そして、わたしたちの周りにある文化に参加することを拒否して、狭く、がんこで、険悪な存在の仕方の方を好んだことでしょうか。貪欲と利己心のために、わたしは、その人たちを正当に扱うことを見落としてはいないでしょうか。その人たちに対するときに、わたしは、そっけなかったり、失礼ではないでしょうか。わたしが、適切に期待できる以上に、もっと多くを、人々に要求してはないでしょうか。わたしが、職業上互いに影響しあっている人々を、わたしは、使われるべき人々、あるいは物と見なしていないでしょうか。
「教会生活と宣教における神のことば」の世界代表司教会議のテーマを受けた使徒的勧告「神のみことば( Verbum Domini )」の中の「神のみことばと苦難についての宣言」を読みましょう:「司教会議の作業の間に、司祭たちも、それが身体的にであろうと、心理的にであろうと、あるいは、霊的にであろうとも、苦しんでいる人々に神のみことばを宣言することの必要性を熟考しました。人のいのちに関わる究極の問題を、鋭く感じることができるのは痛みの時です。」
「かりに人の言葉が、悪と苦しみの神秘の前に沈黙してしまうとしても、そして、わたしたちの社会が、効率と幸福の一定の基準に符合したときのみ、いのちに価値を与えるように思えるとしても、神の愛は、神秘に包まれて、そのような瞬間でさえも「抱かれる」のだということを、神のみことばが、わたしたちに気づかせてくれます。神のみことばとの出会いから生まれた信仰は、人間のいのちは、それが、病気や痛みで弱っているときでさえも、完全に生き抜くに値するということを、わたしたちが悟る手助けとなります。」
「神は、わたしたちを、幸福になるように、そして永遠なものとして創造なさいました。ところが、 罪の結果として、病気と死が、この世に入りました(知恵の書 2:23-24 )。しかし、いのちの御 父は、ずば抜けて優秀な人類の医師で、御父は、苦しんでいる人間の上に愛を込めてか がみ込むのをやめることはありません。わたしたちは、イエスご自身のうちの神のわたしたち の苦しみへの接近の極致を観想します。「みことばは人となる。その人は、わたしたちのた めに苦しみ、死んだ。その受難と死によって、その人は、わたしたちの弱さを受け止め、そし て、それを全く一変させた。」
「イエス」は、いつも、苦しむ人々の近くに居ます。それは、聖霊の働きのおかげで、時間延長されています。それは、教会の宣教使命の中で、みことばと秘跡の中で、善意の人々の中で、共同体による兄弟愛で始められた慈善事業の先駆けの中で時間延長されています。そして、こうして、神の真の顔と神の愛が知られるようになるのです。」
「司教会議は、光り輝く証し人たちの故に神に感謝しました。隠れた多くのキリスト者たち、司祭、修道者、一般の信徒たちが光り輝く証し人であり、彼らは、身体と魂の真の医師であるキリストに、手を、目を、心を貸してきたし、また貸し続けています。司教会議は、皆が、弱い人々の世話を続け、その人たちに、みことばと聖体拝領で、主イエスのいのちを与える現存をもたらすようにと勧告します。苦しむ人々は、聖書を読み、自分たちの状況、それ自体が、世界の救いのために苦しむキリストの贖いの特別なやり方を分かち合うことが出来るようにしてくれるものなのだということが分かるように手助けされるべきです。」
教父オリゲネス ( 185-253 ) の「視力を求める祈り」を祈りましょう。彼は、古代キリスト教のアフリカの学者であり神学者で、初代教会の最も際立った著作家の一人です。
主イエスよ、わたしたちの目に触れて下さい。
盲目の人たちの目に触れたように。
そうすれば、わたしたちは、目に見えるものの中で、
目に見えないものも、見えるようになります。
主よ、わたしたちの目を開き、わたしたちが今ある現実でなく、
来るべき祝福を見つめることができますように。
主よ、わたしたちの心の目を開き、わたしたちが霊で神を見つめられますように。
主であるイエス・キリストを通して。
未来永遠に、力と栄光は主のもの。アーメン
訳注:トマス・ロシカ師は、 2009/10/25 年間第 30 主日 B 年聖書黙想(マルコ 10:46-52 ):「先
生、目がみえるようになりたいのです。」の末尾で教父オリゲネス ( AD185-253 ) の「視力を求め
る祈り」を引用している。 「学び合いの会」の下記サイトを参照されたい。
http ://www.geocities.jp/amsf_stm/30shujitsu.htm
聖書朗読
サムエル記上 16 : 1b 、 6-7 、 10-13a 01 [その日、主はサムエルに言われた。] 「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
06 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
07 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」 11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」 12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」 13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。
エフェソ 5 : 8-14 08 [皆さん、] あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 09 ・・光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。・・・ 10 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。 11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 12 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。 13 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 14 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。/死者の中から立ち上がれ。/そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
ヨハネ 9 : 1 、 6-9 、 13-17 、 34-38 01 [そのとき、] イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
06 イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 07 そして、「シロアム・・『遣わされた者』という意味・・の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 08 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 09 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。 35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
38 彼 [は、] 「主よ、信じます」と言って、ひざまず[ いた。 ]
When We Gaze Deeply and Directly Into the Light
Biblical Reflection for 4th Sunday of Lent A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, MARCH 29, 2011 ( Zenit.org ) .- Today's marvelous Gospel story ( John 9:1-41 ) is about seeing the face of Jesus, allowing the scales of blindness to fall from our eyes, experiencing his healing powers, and acknowledging Jesus for whom he really is: the Lord and Savior who has come into the world.
From the very beginning of John's Gospel, the question of origins pervades the story. Where is Jesus from? Who sent him? What rabbinical school did this son of Nazareth attend? Where did he get all of this? Where did he learn to break God's law? Such questions permeate the provocative Gospel story of the healing of the blind man in John's Gospel.
Today's highly symbolic story of the Sabbath healing of the man born blind is unique because the only Old Testament cure from blindness is found in Tobit ( 7:7; 11:7-13; 14:1-2 ) , but Tobit was not born blind. The story, the sixth sign of the Fourth Gospel, is introduced to illustrate the saying, "I am the light of the world" ( John 8:12; 9:5 ) . The narrative of conflict about Jesus contrasts Jesus ( light ) with the Jews ( blindness, John 9:39-41 ) . The theme of water is reintroduced in the reference to the pool of Siloam. Ironically, Jesus is being judged by the Jews, yet the Jews are judged by the Light of the world in the flesh! ( John 3:19-21 )
The controversy
The story of the blind man's healing takes exactly two verses; the controversy surrounding the cure, 39 verses. It is the controversy that is the rest of the story! In response to such questions about Jesus' origins, the formerly blind man replies, "He restored my sight. Where do you think he's from?" The blind man progresses from darkness to light: he regards Jesus as a man, then a prophet, and finally confesses that he is the Son of God. The Pharisees first appear to accept the blind man's healing but then begin to doubt and finally deny Jesus' heavenly origins.
The blind man's simplicity confounds the wise. They end up refusing to see -- rendering themselves blind. Yet it is not difficult to sympathize with the Pharisees. They were only attempting what many of us have been trained to do: observe, analyze, describe and explain the phenomena of a particular situation. Does it not sound too familiar? Isn't this how many of us spend our time each day?
One thing
The formerly blind man did not know all the correct religious phrases with which to interpret his salvation. He was not pious in the traditional sense or even respectful of his elders. What he knew for sure was that once upon a time he sat in darkness, and now the whole world was drenched in sunlight. And he acknowledged that: "One thing I do know is that I was blind and now I see." As if the most insignificant thing he happens to know is who saved his life!
The man who has now recovered his sight does not start with special knowledge, but with acknowledgment. Jesus is the one who gives him life, who saves him, who removes his blindness, who gives him hope and courage. Jesus -- he's the one! He's it! We know that the blind man is not the only one to admit "Jesus is it!" The blind man's spiritual descendents are legion throughout history! Hopefully we are part of that lot!
Question of suffering
Attempts to solve the question of suffering and death have often brought about greater suffering than the initial pain and anguish that one experiences. "Why me?" "Why must suffering exist?" "Whose fault is it that I am blind, deaf, dumb, poor, and not like someone else?" "Can suffering have any meaning?" "Of what value?" "Who causes this?" "Why does such an evil exist?" "Why am I being punished so?" Often we use the metaphor of blindness to describe our inability to grasp the meaning of the suffering we endure.
If we read today's Gospel story as an ironic comedy and nothing more, we miss the loneliness of its final scene in which Jesus and the man converse outside the synagogue. The man's profession of faith has a terrible consequence for him and for all of us. He is cast out of the synagogue. He is cut off from the Torah, from his family, from the Friday evening Sabbaths with his family and friends, from the certitude of the Law -- all because he gazed deeply and directly into the Light. And yet, it was his persistent gaze that brought him a strange form of healing and sight.
Our blindness
Many people are very reluctant today to even acknowledge the source of our salvation, the bringer of our hope, the cause of our joy. We are afraid to name him for fear of what others will say. Or is this reluctance perhaps because we aren't convinced that Jesus is the one, that he's it?
We sometimes describe our blindness as an inability to see the forest for the trees, but that is a rather simplistic analysis. More worrisome is the inherited blindness that so often assumes that there are no lessons left to learn. Arrogance is very often the root of our blindness. We need the miracle of restored sight each day.
How often do we behave like those who tried to prevent Bartimaeus ( Mark 10:46-52 ) from seeing and meeting the Lord? Against the cries of the scoffers and cynics in our midst, do we dare to bring our friends, colleagues and loved ones into the very presence of the Lord? How can we not, when we know the result of a lifetime without Christ?
In his Lenten message for this year, Benedict XVI writes about today's Gospel: "The Gospel confronts each one of us with the question: 'Do you believe in the Son of man?' 'Lord, I believe!' ( John 9:35; 38 ) , the man born blind joyfully exclaims, giving voice to all believers. The miracle of this healing is a sign that Christ wants not only to give us sight, but also open our interior vision, so that our faith may become ever deeper and we may recognize him as our only Savior. He illuminates all that is dark in life and leads men and women to live as 'children of the light.'"
Lenten Gospel Stars
Today's Gospel story of the healing of the blind man, along with Mark's healing stories of the blind man of Bethsaida ( 8:22-26 ) and the healing of Bartimaeus, the blind man on the road to Jericho ( 10:46-52 ) , were undoubtedly very popular stories in the early Church and they remain very significant stories for the contemporary Church. These miracles have always fascinated me because I grew up with my father who was an eye doctor who specialized in eye and reading problems for young children. How frequently we spoke about sight impairments, eye diseases, stigmatisms, cataracts and 20/20 vision at the dinner table at home!
My father was also a member of a numerous charitable societies and clubs that assisted the blind. I remember vividly volunteering as a child with my father and his doctor colleagues who hosted memorable Christmas parties for blind people. I shall never forget the obvious joy that marked those gatherings. My father died as a relatively young man -- in his late 60s -- from complications of diabetes, that included blindness. It was a terrible burden for him and for us in those final years.
Shortly before his death in 1997, we had a long visit and he spoke with me about his funeral mass. He asked me: "What Gospel will you use for the mass?" When I suggested Mark's story of the healing of the blind Bartimaeus on the road to Jericho, my father asked: "What on earth has that story to do with me?" We both paused and had a good laugh over it! I preached on that passage at his funeral mass.
If I ever get near heaven, I look forward to a long, unrushed conversation with the stars of the Gospels of these Lenten Gospels: the woman of Samaria ( John 4 ) , the blind man ( John 9 ) , and Lazarus ( John 11 ) . They were very fortunate and blessed people to have been made new again through Jesus' personal intervention, his consoling touch, his loving gaze, and his compassionate words. I would like to ask each of them four questions: "Where did this guy come from? What did you experience when you looked him in the face? What did you feel when he spoke to you? How did you know that he was it?"
Today let us beg to differ with the darkness and the shadows that exist in the world and in the Church, and never grow satisfied with them. Let us never lose sight of the one request that matters: "to see Jesus" -- not just catching furtive glimpses, but rather long, loving meditative gaze upon the one who is our reconciliation, our hope, our light, and our peace.
Living Lent this week
View this video of The Man Born Blind . From what kind of blindness are you suffering today?
Reflect on these words by the American writer Samuel Langhorne Clemens also known as Mark Twain ( 1835-1910 ) : "Kindness is a message that the deaf can hear and the blind can see."
Read slowly the words by American author and political activist Helen Keller ( 1880-
1968 ) , the first deaf and blind person to earn a bachelor of arts degree. Helen
broke through the isolation imposed by a near complete lack of language, allowing
the girl to blossom as she learned to communicate. "Whether love makes one blind,
I don't know," she said. "But that love can help one see, I and others have
experienced that a thousand times."
What corners of the church, of society and of our culture need serious healing, restoration and reformation in our time? Where are our blind spots? Where are the big problems with near-sightedness and far-sightedness? How often do we prefer monologue to dialogue, refusing to believe that we might learn from those who oppose us and disagree with us; refusing to engage the culture around us and preferring a narrow, obstinate and angry way of existing? Does greed or self interest blind me to treating them fairly? Am I curt or impolite in dealing them? Do I demand more of people than I should reasonably expect? Do I see the people I interact with professionally as people, or as objects to be used?
Read "The proclamation of the word of God and the suffering" in the postsynodal exhortation " Verbum Domini ": "During the work of the Synod, the Fathers also considered the need to proclaim God's word to all those who are suffering, whether physically, psychologically or spiritually. It is in times of pain that the ultimate questions about the meaning of one's life make themselves acutely felt.
"If human words seem to fall silent before the mystery of evil and suffering, and
if our society appears to value life only when it corresponds to certain standards
of efficiency and well-being, the word of God makes us see that even these moments are mysteriously 'embraced' by God's love. Faith born of an encounter with God's word helps us to realize that human life deserves to be lived fully, even when weakened by illness and pain.
"God created us for happiness and for life, whereas sickness and death came into the world as a result of sin ( cf. Wis 2:23-24 ) . Yet the Father of life is mankind's physician par excellence, and he does not cease to bend lovingly over suffering humanity. We contemplate the culmination of God's closeness to our sufferings in Jesus himself, 'the Word incarnate. He suffered and died for us. By his passion and death he took our weakness upon himself and totally transformed it.'
"Jesus' closeness to those who suffer is constant: it is prolonged in time thanks to the working of the Holy Spirit in the mission of the Church, in the word and in the sacraments, in men and women of good will, and in charitable initiatives undertaken with fraternal love by communities, thus making known God's true face and his love.
"The Synod thanked God for the luminous witness, often hidden, of all the many Christians -- priests, religious and lay faithful -- who have lent and continue to lend their hands, eyes and hearts to Christ, the true physician of body and soul. It exhorts all to continue to care for the infirm and to bring them the life-giving presence of the Lord Jesus in the word and in the Eucharist. Those who suffer should be helped to read the Scriptures and to realize that their condition itself enables them to share in a special way in Christ's redemptive suffering for the salvation of the world ( cf. 2 Cor 4:8-11,14 ) " ( No. 106 ) .
Pray the "Prayer for Sight" of Origen ( 185-253 ) , an early Christian African scholar
and theologian, and one of the most distinguished writers of the early Church.
May the Lord Jesus touch our eyes,
as he did those of the blind.
Then we shall begin to see in visible things
those which are invisible.
May He open our eyes to gaze not on present realities,
but on the blessings to come.
May he open the eyes of our heart to contemplate God in Spirit,
through Jesus Christ the Lord,
to whom belong power and glory through all eternity. Amen.
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