ペトロの名誉回復、そしてわたしたちの名誉回復
復活節第3主日福音黙想 2010/4/18 トマス・ロシカ師
今日、朗読される劇的な福音物語(ヨハネ 21:1-19 )は、ガリラヤ湖が背景となっています。イエスの司牧生活は、その多くが、ティベリアス湖(ヨハネ 6:1 )ともゲネサレト ( ルカ 5:1 ) とも呼ばれるガリラヤ湖の北西岸で行われました。この「海」は、本当は小さな竪琴の形をした長さ 12-13 マイル、幅 7-8 マイルの淡水湖です。新約聖書と初代教会では、魚と漁が重要な役割を果たしました。漁はやがて教会の宣教任務の重要な象徴となっていきます。それは、イエスが、最初の弟子を「人間をとる漁師」(マタイ 4:19 、マルコ 1:17 、ルカ 5:10 )になるようにと招かれたからです。キリスト教の起源には、何か生臭く、怪しいところがあります!
2 楽章からなる「朝食交響曲」
21 章は、第4福音書のエピローグで、 2 楽章からなる復活後の「朝食交響曲」です。第1楽章( 1-4 節)は、「ティベリウス湖畔」での弟子たちへの復活したイエスのご出現を描写しています。それは、魚と漁を扱っています。ペトロが漁に出ようと決めたとき、そこには、ある程度、あきらめとか暗い感情がありました。それは、ペトロとその他の弟子たちが、イエスの死後味わったにちがいない憂うつと落胆をほのめかしています。
イエスのご出現は、「それがイエスだとは分からなかった」というおなじみの雰囲気のうちに、神秘に包まれています。この雰囲気を、福音記者はよく用いています。弟子たちは、湖に出て行き、「しかし、その夜は何もとれなかった」( 3 節)のです。これは、不漁の生々しい描写です。弟子たちは、正しいと考えたことをしましたが、失敗を味わいました。これは、弟子たちが、弟子として学ぶべき中心的な教えの一つを学ぶようと準備されたものです。その教えとは、イエスを離れては、弟子たちは何もできない ( 15:5 ) ということです。この転換点は、朝早くにやってきました。それは、ことによると、夜明けを象徴的に用いて、霊の光が見え始めたことを表しているのかも知れません。イエスは、再び、単純に、そこに立っていたと描写されています。そこにイエスがどのように現れたのかという描写はありません。 ( 4 節、 20:14 、 19 、 26 )
イエスは、イニシアチブをとって、弟子たちに、「子たちよ、何か食べる物があるか」 ( 5 節 ) と呼びかけます。弟子たちは、何もとれなかったことを認め、イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」( 6 節)と命じます。弟子たちは、この意見を、見物人の根拠のない提案だと理解することも容易にできたのです。しかし、弟子たちは、「そこに行ってやってみなさい。そうすれば何か見つけられるかも知れない。」とは言いませんでした。イエスは、提案したのではありません。イエスは、弟子たちに網を打つように命じた場所で、現実に弟子たちが魚を見つけるという約束を与えたのです。
弟子たちは陸に上がり、そこに炭火がおこしてあり、その上に魚がのせてあり、パンもあることに気づきます( 9 節)。そこには、イエスがどこで魚とパンを手に入れたのかは書かれていません。イエスご自身のご出現のように、食物の現れ方も神秘的です。福音書の中で、炭火が登場しているのは、この他には、ルカによる受難物語の中にある、ペトロがイエスを否定するあの刺激的な場面しかありません(ルカ 22:55 )。この場面は、否定と裏切りの火を登場させています。一方、ヨハネ福音の方は、回心と再委託の火を与えてくれます。
ここに出てくる食事は、初期のキリスト者にとっては、聖体の意味があったのかも知れません。ヨハネ 21 章 13 節は、最後の晩餐でのイエスの言葉が用いられているヨハネ 6 章 11 節を思い起こさせるからです。多くの人々が、魚の数、 153 匹についてこれまでも尋ねてきたし、また尋ね続けています。かなり以前、聖ヘロニモが、ギリシャの動物学者が、その湖に 153 種の魚の目録を作ったと主張したこともありました。その数は、使徒たちの普遍的使命と関連する特別な象徴ということになっています。
次の場面は、弟子たちのだれも、「あなたはどなたですか。」 ( 12 節 ) と問いただそうとはしないという畏れ多い場面です。その人には、何か違うところがありました。しかし、弟子たちはイエスであると分かりました。今や、この物語の焦点となっている人は主イエスです。朝食の後で、イエスは、ペトロに話しかけます。この物語を通して、ペトロは、シモン・ペトロ( 2-3 節、 7b 、 11 節)、あるいは単にペトロ ( 7 節 a ) と呼ばれています。これは、イエスが、かつて彼に与えた名前です( 1:42 、マルコ 3:16 、ルカ 6:14 参照)。今や、イエスは、彼に、以前の名前、「ヨハネの子シモン」( 15 節)で呼びかけます。それは、あたかも彼はもはや(あるいは未だ)弟子ではないかのようでした。
ペトロの名誉回復と新しい役割
この「交響曲」( 15-23 節)の第 2 楽章には、イエスとペトロの激しい対話が描かれています。
これは、聖書において、もっとも個人的で、また感動的な委託の場面の一つです。それは、羊と羊飼いに関わる委託でした。ペトロは、確かに、弟子の道を歩む中で、失敗を知りました。「岩」と呼ばれた弟子が、ルカ 22:62 では、自分の主を否定した後、後悔にすすり泣きました。ペトロは回心し、再びイエスに身をゆだねる機会を与えられたのです。
イエスは、ペトロに質問してから、命令を与えます。イエスは、それを三度繰り返します。イエスの質問は、生きる上での究極の質問です。「ヨハネの子シモン。これら以上にわたしを愛しているか」( 15 節)これは、網や舟など漁業の用具のことを聞いているのでしょうか。「これら」ということばで、イエスは、たぶん「他の弟子たち」のことを言うつもりなのでしょう。他の福音書によると、ペトロは、たとえ他の弟子たちがつまずいても、自分はつまずかないと豪語していました(マタイ 26:33 、マルコ 14:29 、ルカ 22:33 、ヨハネ 13:37 )。ヨハネは、この豪語を記録していませんが、岸に泳いだり、自分で網を引き上げたりするペトロの行動が、同じ姿勢を表しています。ですから、イエスの質問は、見せかけの愛情の結果よりもさらに深いところまで至ります。イエスは、すべての罪の根源、すなわち自負にまで到達します。
*訳注: *マタイ 26:33 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」
*マルコ 14:29 「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」
*ルカ 22:33 「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」
*ヨハネ 13:37「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」)
この訳の陰に、「愛する」に対して、ギリシャ語には真の愛 ( agapao ) と愛 ( phileo ) という二つの動詞があるということがひそんでいます。一つの様式があります。イエスはペトロに、 2 回、自分を真の愛 ( agapao ) で愛しているかを尋ね、その都度、ペトロは、はい愛します ( phileo ) と答えます。そして 3 回目にイエスは、切り替えて、ペトロの言葉 ( phileo ) を使います。裁判から十字架刑の間に、ペトロがイエスを三度否定したことは、三回「愛します」と宣言したことで、今、取り消されます。
焼けつくような苦痛を与える三回目の質問に答えて、ペトロは、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」 ( 17 節 ) と言います。愛の告白をするごとに、その後、イエスは、同じような命令を、違う言葉を用いて与えます。一回目は「わたしの小羊( arnia )を飼いなさい ( boske =餌を与える ) 」( 15 節 ) で、次は、「わたしの羊 ( probate ) の世話をしなさい ( poimaine ) 」( 16 節 ) です。三回目の命令では、前の2回の命令にあった言葉が用いられ、「わたしの羊 ( probat ) を飼いなさい ( boske ) 」 ( 17 節 ) と命じられます。こうして、三つの命令は結びあわされます。
ペトロが司牧者となる資格
何故、イエスは、羊飼いの長として、司牧の任務を授けようとしているペトロに、これらの質問を尋ねたのでしょうか。どうして他の弟子には尋ねなかったのでしょうか。イエスが、ペトロの司牧職に対する適性に関わることで、既にペトロに尋ねていたと想像がつく質問は他にないでしょうか。たとえば、「ヨハネの子シモン、あなたがこれから担う責任の大きさに気づいているか。」とか、「あなたは、自分の弱さと、過去の実績を悟っているか。」とか、「ヨハネの子シモン、理解できているか。」とか、「あなたのまわりで、何人の人たちが助けを必要としているか気づいているか。」とか、「あなたが受ける要求のすべてに応えることができるか。」といった質問です。
熟達と能率が、「プロの」聖職者の素質の一覧表のトップに置かれているように思われる今日、わたしたちは、これらの質問を、時代の言葉に変え、また頭の回転の速さとか、学術的資格、心理学的均衡、財務管理、広報活動での成功、雄弁さ、外交的手腕に関わる言葉に変えてもよいのではないでしょうか。
そのような質問は、今日、司牧職をいかに効果的に果たしているかという程度の違いをつけるには、重要かも知れません。しかし、イエスは、これらのすべてを、たった一つの、基本的な質問にまとめました。その質問は、愛と友情のニュアンスの違いを示すために、ギリシャ語の二つの異なる動詞を用いて繰り返されます。そして、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。あなたは本当にわたしの友人か。」ということを言っているのです。この質問は、人の心に、直接届きます。
ペトロの司牧職とイエス・キリストの名におけるすべての司牧職につくための鍵となる資格は、主への愛で、その特徴は、謙遜と信頼と従順です。ペトロは、既に、イエスへの深い愛を持っていましたが、未だ身勝手で、自分を前面に押し出していました。そのような高慢な心の持ち方は、共同体に災害を招くことになるでしょう。それは、イスラエルの歴史を、まっすぐに、まさにイエスを十字架にかけた敵対者たちまでたどれば、既に明らかなことです。そして、今日までの教会の歴史を見ても明らかなことです。
ペトロ自身は、学ぶべき教えを身につけました。そのことは、彼の第1の手紙から明らかです。ペトロは、共同体の年長者に話しかけるときには、「長老のみなさん」と呼びかけ、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」 ( I ペトロ 5:1-4 ) と、彼らを励まします。これが、謙遜のうちに大牧者のことを考え行使される権威です。真の羊飼いのしるしはそんなものです。
羊の群れに対する究極の責任
ひとたび、その愛が成熟すると、ペトロは、復活した主が自らの心の中を調べることを受け入れます。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」 ( ヨハネ 21:17 ) ペトロは、自分がイエスに赦されることができて、初めて、その羊の群れに対する新しい責任を受け入れることになります。ペトロについて言えば、イエスの真の本性とそのあわれみへの洞察が、新しい要求と責任をもたらしました。本当にペトロはわたしたちにとっての模範です。ペトロは、教会の中で、リーダーシップをとるときに、いつも自分の失敗を思い出さなければならないからです。思い出すことで、彼は不適格になるより、むしろ憐れみ深く、同情のできるリーダーになれるのです。
他の人々に手を差し伸べるときに、自分自身の失敗をどう扱っているでしょう。神は、わたしたちの生涯のこの瞬間に、どんな親しい交わりに、わたしたちを呼んでいらっしゃるのでしょうか。わたしたちは、自らのイエスへの信仰の宣言に従って、何を自分の責任であると理解しているのでしょうか。ペトロは、学ぶべき教えを、よく身につけました。そして、残りの生涯を、殉教でその命を与えるほど、バチカンの丘で、十字架に逆さにかけられて死ぬほどまで、イエスに倣いました。わたしたちは、自らのイエスへの信仰ためにそれほど極端に走る覚悟ができているでしょうか。イエスを「これら」以上に愛しているでしょうか。
聖書朗読:
使徒 5:27-32,
40b-41: (その日使徒たちに)大祭司が尋問した。5:28
「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」5:29
ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。5:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。5:31
神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。5:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」(議員たちは)5:40
使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。5:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行(った。)、
黙示 5:11-14:5:11: わたし(ヨハネ)は見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。5:12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」5:13 また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。」5:14 四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。
ヨハネ 21:1-19 or 21:1-14: (イエス、七人の弟子に現れる)21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。(イエスとペトロ)21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
Peter's Rehabilitation and Ours
Biblical Reflection for 3rd Sunday of Easter By Father Thomas Rosica, CSB
VATICAN CITY, APRIL 13, 2010 ( Zenit.org ) .- Today's dramatic Gospel story ( John 21:1-19 ) is set against the backdrop of the Sea of Galilee. Much of Jesus' ministry took placae along the northwest shore of the Sea of Galilee, also known as the Sea of Tiberias ( John 6:1 ) and the Lake of Gennesaret ( Luke 5:1 ) . This "sea" is really a fresh-water lake in the shape of a small harp that is 12-13 miles in length and 7-8 miles wide. Fish and fishing played an important role in the New Testament and in the early Church. Fishing eventually became an important symbol of the church's missionary task, since Jesus had invited his earliest disciples to "fish for people" ( Matthew 4:19; Mark 1:17; Luke 5:10 ) . There is something "fishy" about the origins of Christianity!
The
"breakfast symphony" in two movements
Chapter 21 is an epilogue to the Fourth Gospel, a post-resurrectional "breakfast
symphony" in two movements. The first movement (
vv.1-14 )
describes
the appearance of the Risen Jesus to his disciples "by the Sea of Tiberias."
It is concerned with fish and fishing. When Peter decides to go fishing, there
is a certain feeling of resignation and bleakness about it, alluding to the
depression and discouragement he and the other disciples must have experienced
after Jesus' death. Peter is simply taking up his old profession."
Jesus'
appearance is shrouded in mystery, in the familiar atmosphere of "not knowing
who he was" that we see so often from the Gospel writers. The disciples
have been out at sea and "that night they catch nothing" (
v 3 )
, a graphic
portrayal of barrenness. They have done what they thought was the right thing
but experienced failure. This prepares them to learn one of the central lessons
of discipleship -- apart from Jesus they can do nothing (
15:5 )
. The turning
point comes early in the morning, perhaps symbolizing the dawning of spiritual
light. Jesus is described again as simply standing there, without a description
of his arrival on the spot (
v 4; 20:14,
19, 26 ) .
Jesus
takes the initiative and calls out to the disciples: "Friends, haven't
you any fish?" (
v. 5 )
. The disciples
admit they have failed at fishing and Jesus tells them, "Throw your net
on the right side of the boat and you will find some" (
v. 6 )
. They could
have easily understood this remark as the idle suggestion of a bystander. But
he does not say, "Try over there and you might find some!" He doesn't
offer a suggestion; he gives a promise that in fact they will find fish where
he directs them to cast.
When the disciples come ashore, they notice is a charcoal fire with bread and fish already prepared ( v. 9 ) . There is no indication of where Jesus got the bread and fish; the appearance of the food is as mysterious as his own. The only other charcoal fire mentioned in the Gospels is the provocative scene from Luke's Passion Narrative when Peter disowns Jesus ( Luke 22:55 ) . That scene presents the fire of denial and betrayal. John's Gospel offers the fire of repentance and recommitment.
The meal referred to may have had Eucharistic significance for early Christians since John 21:13 recalls John 6:11 which uses the vocabulary of Jesus' action at the Last Supper. Many people have asked and continue to ask about the number of fish -- 153. Long ago, St. Jerome had claimed that Greek zoologists catalogued 153 species of fish in the lake!
The number is meant to have special symbolism in relation to the apostles' universal mission.
The next scene is one of great awe, with none of the disciples daring to ask
Jesus, "Who are you?" (
v. 12 )
. There was
something different about him, yet they were able to recognize him. Now it is
the Lord Jesus who is the focus of the story. After breakfast Jesus speaks to
Peter. Throughout this story Peter has been referred to as Simon Peter (
vv. 2-3, 7b,
11 )
or simply as Peter (
v. 7a )
, the name
Jesus had given him (
1:42; cf.
Mark 3:16; Luke 6:14 )
.
Now Jesus calls him by his former name, Simon son of John ( v. 15 ) , as if he were no longer ( or not yet! ) a disciple.
Peter's
rehabilitation and new role
The second movement of the "symphony" (
vv. 15-23
)
presents a poignant dialogue between Jesus and Peter. It is one of the most
personal and moving commissionings in the Bible, concerned with sheep and shepherding.
Peter certainly knew failure along the road of discipleship. The disciple who
was called "rock" wept with regret in Luke 22:62 after denying his
Lord. Peter is given an opportunity to repent and recommit himself to Jesus.
Jesus questions Peter and then gives a command, and he does so three times. His question is the ultimate question in life: do you truly love me more than these? ( v. 15 ) . Does it refer to the net, the boats, the material things of their fishing profession? By "these" Jesus probably means "these other disciples. " According to the other Gospels, Peter had boasted that though all the others fall away, he would not ( Matthew 26:33; Mark 14:29; Luke 22:33; John 13:37 ) . John does not record this boast, but Peter's actions in swimming to shore and hauling up the net by himself reveal the same attitude. Jesus' question, therefore, goes even deeper than the issue of false attachments. He gets at the root of all sin, namely, pride.
Behind this translation there are two verbs for love, truly love ( agapao ) and love ( phileo ) . There is a pattern, with Jesus asking Peter twice whether he loves him ( agapao ) and each time Peter responding that, yes, he does love him ( phileo ) . Then the third time Jesus switches to using Peter's word. Peter's three-fold denial of Jesus during the trial and crucifixion is now canceled out by the three-fold declaration of love.
In response to the searing, painful third question, Peter says, Lord, you know all things; you know that I love you ( v. 17 ) . After each profession of love Jesus gives a similar command, using different words. First he is to feed ( boske ) lambs ( arnia, v. 15 ) ; then he is to shepherd ( poimaine ) sheep ( probata, v. 16 ) . The third command includes a word from both of the previous commands ( v. 17, boske/probata ) , thereby tying the three commands together.
Peter's
qualifications for ministry
Why does Jesus ask Peter, on whom he is going to confer the pastoral office
as chief shepherd, these questions and not others? Wouldn't there be other questions
which we can imagine his having asked him concerning his suitability for ministry?
For example, "Simon, son of John, are you aware of the great responsibilities
that you are undertaking?" "Do you realize your weakness and track
record?" "Simon, son of John, do you understand?" "Are you
aware of how many people about you are in need of help?" "Are you
able to respond to all the demands made of you?"
In our day where proficiency and efficiency seem to be at the top of the list of "professional" ministerial aptitudes, we might translate those questions into the language of age and agility, academic qualifications, psychological balance, previous leadership experience, financial management, success in public relations, eloquence, diplomacy, etc.
Such questions may be important to varying degrees for effective ministry today. But Jesus sums them all up in a single, basic question, repeated with two different verbs in Greek to indicate the different nuances of love and friendship which are being referred to: "Simon, son of John, do you love me? Are you really my friend?" This question goes directly to a person's heart.
In our day where proficiency and efficiency seem to be at the top of the list of "professional" ministerial aptitudes, we might translate those questions into the language of age and agility, academic qualifications, psychological balance, previous leadership experience, financial management, success in public relations, eloquence, diplomacy, etc.
The key qualification for the Petrine ministry, and for all ministry in the name of Jesus Christ, is a love for the Lord that is characterized by humility, dependence and obedience. Peter already had a devotion to Jesus, but he was still full of self-will and was thrusting himself to the front. Such a proud attitude of heart would spell disaster for the community, as had already been evident in Israel's history right up to the opponents who had just had Jesus crucified and has been just as evident in the history of the church to our own day!
Peter himself learned his lesson, as is clear from his first letter. When he addresses the elders of the communities he does so as a "fellow elder" and encourages them to "be shepherds of God's flock that is under your care, serving as overseers ... not lording it over those entrusted to you, but being examples to the flock. And when the Chief Shepherd appears, you will receive the crown of glory that will never fade away" ( I Pet 5:1-4 ) . This is authority exercised in humility and conscious of the Chief Shepherd. Such are marks of an authentic shepherd.
Ultimate
responsibility for the flock
Once Peter's love has matured, he allows the Risen Lord to look into his own
heart: "Lord, you know everything; you know that I love you" (
John 21:17
) .
Only when Peter allowed himself to be forgiven by Jesus, would he receive his
new responsibility for the flock. For Peter, insight into Jesus' true identity
and his compassion brought new demands and responsibilities. Peter is truly
a model for us, as he must always remember his own failures as he undertakes
leadership within the church. Rather than incapacitating him, his remembrance
enables him to be a merciful and compassionate leader.
How do we deal with memories of our own failures as we reach out to others? Into what kind of intimacy is God calling us at this moment in our life? With whom is God calling us to be intimate? What do we understand to be our responsibilities following upon our own declaration of faith in Jesus? Peter learned his lesson well; he would imitate Jesus the rest of his life even to the point of giving that life as a martyr, dying upside down on a cross on the Vatican hill. Are we prepared to go to that extreme for our faith in Jesus? Do we love Jesus more than "these?"
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