ナザレのイエスにおいて、イザヤの光は人間の真実を明かす
年間第3主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/1/23 トマス・ロシカ師
今日の第一朗読のイザヤの預言(イザヤ 8:23-9:3 )と福音朗読の箇所(マタイ 4:12-23 )はどちらも、クリスマスの記憶を生き生きと留めます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 / 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」 (マタイ 4:16 )
ヘンデルのメサイア を聴き、降誕の合唱部分でイザヤの預言が心を打つ美しい調べに乗せて歌われる度に、私は感動を抑えることができません。「驚くべき指導者、力ある神 / 永遠の父、平和の君」(イザヤ 9:5 )と呼ばれることになる一人のみどり子の誕生が告知されるとき、合唱は最高潮を迎えます。イザヤの預言は、毎年、クリスマス・イブの深夜ミサの第一朗読で読まれ、わたしたちはその宣言を聞くことになります。
力強い慰めの言葉が、闇と苦悩の中にいる人々、ゼブルンとナフタリの地のガリラヤの地域に住む人々に向けられます。その地は、ガリラヤ湖と地中海の間に位置しています。今日の福音で、ゼブルンの地とナフタリの地に光が上るというイザヤの預言(イザヤ 8:22-9:1 )は、イエスがカファルナウムに住んだことで成就されます。イエスの司牧活動の多くは、ガリラヤとガリラヤ湖周辺で行われたのですから、その辺り全域の歴史や地理をいくらかでも理解することは大切なことです。わたしたちは、イエスが自分のものとされた土地について、旧約聖書に書かれている歴史をある程度知っておくべきでしょう。
深い闇の地
9 章の直前に、イザヤ書は、ユダと北の王国に降りかかろうとしている闇と苦悩の恐ろしい絵図を描き出しています。民の受けるこの過酷な運命と闇は何なのでしょうか。そして、なぜそのようなことになるのでしょうか。
アハズ王とその民が、神の御言葉をはっきりと拒んだ後(イザヤ 7:10-12 ; 8:6a 参照)、主は、ご自分のもどかしさと怒りを示すために、その御顔をヤコブの家から隠すと宣言されます( 8:17 )。神の罰による苦痛と混乱の時代に、民は、残念ながらいともたやすく霊媒や魔術師に頼ってしまいます( 8:19 )。
しかし、イザヤは、命ある者のために死者に意見を求めることはばかげていると気づいています。 8 章 16-22 節では、民に降りかかるであろう過酷な運命を読み取ることができます。
「(今、苦悩の中にある)人々には逃れるすべがない。」( 8 : 22 )
訳注:イザヤ 8:16 〜 22 : (主を待ち望む) 8:16 わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう。 8:17 わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが/なおわたしは、彼に望みをかける。 8:18 見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。 8:19 人々は必ずあなたたちに言う。「ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか」と。 8:20 そして、教えと証しの書についてはなおのこと、「このような言葉にまじないの力はない」と言うであろう。 8:21 この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。 8:22 地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。 8:23 今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。
それどころか、そこには身体的な欠乏だけでなく霊的な欠乏をも表す飢えと渇きと嘆きがあります。
民の心は暗黒に覆われ、その精神はひどく混乱しています。民は憤り、罪深い王と、自分たちを見捨てた神を呪います。彼らは希望を失い、何の慰めもなく生きます。彼らがその顔を天に向けようとも、地を見渡そうとも、その目には、苦難と闇しか見えません。そして、彼らは、暗黒へと追い込まれていきます。(出エジプト 10:22; 申命記 28:29 参照)
そのような闇は、心と魂を貫き、いのちの連続性を断ってしまいます。しかし闇と苦悩は、イザヤの最後の言葉ではありませんでした。まさにこの地に、大いなる光が輝いたのです。聖書に繰り返されるテーマは、神は予期せぬ状況の中、予期せぬ場所で、予期せぬ時に、予期せぬやり方で行動なさるという事実です。
イザヤの希望
イザヤ書の 9 章は、 8 章とまったく対照的です。その冒頭の 9 章 1 節が、 8 章 22 節の闇からの変わり目になっています。闇と憂うつが光と喜びに代わるとき、預言者イザヤは、希望と慰めのメッセージを宣言します。大いなる光が、この深い闇に決然と入り込んできます。その光は、民を、混乱と空虚から、抑圧者の暴力と圧政から引き離します。 9 章 1-7 節のメッセージは、この苦悩する民に向けられたものです。
この地に留まってきた闇と憂うつは、心と魂を貫き、いのちの連続性を断ってしまいます。しかし闇と苦悩は、イザヤの最後の言葉ではありませんでした。闇と憂うつが、光と喜びに代わるとき、預言者イザヤは、希望と慰めのメッセージを宣言します。死の陰の地に住む者の上に光が輝いた!
諸民族の上に輝いたこの大いなる光が最初にもたらすのは、抑圧者の没落です。抑圧者、すなわちアッシリアは、かつてのミディアン人(士師記 6 、 7 )に劣らぬほど決定的に打ち負かされるのです。
そのような決定的な敗北の後に、ようやく武装解除が行われ、平和が訪れます。アッシリアによる抑圧を象徴するもの―「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を(あなたはミディアンの日のように)折って下さった」( 9:3 )のです。軍服は火に投げ込まれ、焼き尽くされます( 9:4 )。戦争のための装備の破壊は、平和の時代の到来を告げます。それは 2 章 4 節に象徴的に描写されています。「彼らは、剣を打ち直して鋤とし / 槍を打ち直して鎌とする。 / 国は国に向かって剣を上げず / もはや戦うことを学ばない。」
訳注:イザヤ 9:3 〜 4 :「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」
ガリラヤ湖畔でのイエスの司牧活動
イエスがカファルナウムに移り住んだことをイザヤの預言に符合させるために、マタイは、その町が「ゼブルンとナフタリの地方にある」(マタイ 4:13 )と言っています。カファルナウムは、ナフタリの区域内にあり、マタイは、預言に出てきた海―地中海を、ガリラヤ湖と理解しているからです。イエスは、ガリラヤ湖沿岸、そしてガリラヤ湖上を移動しながら、ゼブルンとナフタリの全域で、戦争、侵略、占領、暴力による荒廃を経験してきた多くの民の暮らしに光を当てました。
マルコとマタイによる福音では、イエスと弟子たちとの、あの最初の出会いについて、ほんの僅かしか触れていません。(マルコ 1:16-20 ;マタイ 4:18-22 ) イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いていて、シモンとその兄弟アンデレと出会います。彼らは、岸から網を打っています。たぶん、ガリラヤ湖に湧き出る暖かい泉の辺りを泳ぎ回る魚を獲ろうとしていたのでしょう。イエスは、二人を招きます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」 すると、二人はすぐに網を捨てて従ったと書かれています。
イエスはそこから少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとヨハネを見かけます。彼らは、舟の中に座って網の手入れをしていました。ことによると、湖で一晩中仕事をした後で疲れていたのかも知れません。イエスは、同じように二人も呼びます。この二人もすぐに、父親と他の仲間を残してイエスに従います。イエスにとっても、呼ばれた人たちにとっても、湖は回心の場所であり、その瞬間でした。イエスが、人々を、自分の預言的な使命と、貧しい人や病んでいる人たちへの奉仕に招く場所は、湖のほとりなのです。真正で預言的な司牧の使命は、不和、痛み、苦しみ、戦い、暴力を経験し尽したこのような地域に入り、常に人々に手を差し伸べ、従うよう招くことにあります。
洗礼者ヨハネの言葉を実現する
イエスは、彼の最初の説教(マタイ 4:17 )を、洗礼者ヨハネ言葉(マタイ 3:2 )で始めています。しかし、その意味は違っています。イエスの司牧の中では、神の国は既に来ている(マタイ 12:28 )のです。
最初に招かれた弟子たち( 4:18-22 )は、イエスの仕事への参加を約束され、さらに、家族とそれまでの生き方を捨てるよう命じられます。 4 人のうち、シモン、ヤコブ、ヨハネの 3 人は、弟子たちのうちでも際だってイエスと親しい関係にあります(マタイ 17:1 ; 26:37 )。
マタイ 4 章の 20 節と 22 節、そしてマルコ( 1:16-20 )は、ルカの記述( 5:1-11 )とは違っています。マタイとマルコにおいて弟子たちの行動を動機づけているのは、イエスの招きだけで、それがイエスの神秘的な力を強調する要素になっています。イエスに呼ばれた人たちの暮らしは、どれもが、その前と後では一変します。ある人々にとっては、回心は時間がかかり、ゆっくりしたプロセスをたどることが多いのです。またある人々にとって、回心は、予期せぬ時に全てを包括して訪れる、稲妻のような経験です。
「わたしについてきなさい」というイエスの呼びかけは、想像を超える恵みでしたが、そこには、弟子たちが理想的な人物であったと思わせる風がまったくありません。彼らは非常に人間的な人たちでした。時にはけんかをしたり、弱かったり、しばしばイエスの言動に戸惑ったりしました。弟子たちは、イエスとその教えを理解しているときでも、イエスを拒否し、失望させることがありました。福音書に出てくる弟子たちは、同情的に描かれています。それは、夢に到達しようとあがいている人たちや、時に偉大なるものへの召命を忘れてしまう人たちに居場所を与えるためです。それはわたしたちのような者のことです!
どんな新しい生き方でも言えることですが、イエスに従うことは危険を冒すことです。わたしたち一人一人が、イエスが教えたように教え、イエスのように大胆で情け深い癒し人になるように呼ばれているのです。
旧約聖書と新約聖書の関係
今日は、引き続き、「 教会生活と宣教における神のことば 」の司教会議を受けた ベネディクト 16 世 の使途的勧告「神のみことば ( Verbum Domini )」 について黙想し、旧約聖書と新約聖書の間の関係 ( Nos. 40-41 ) を考えましょう。
「 40 項 (中略) さらに、新約聖書それ自体が、旧約聖書との整合性(首尾一貫性)を示しており、キリストの生と死と復活の神秘において、ユダヤ人の聖書が完全に成就したことを宣言しています。
しかし聖書の実現という概念は、複雑なものであると言わざるを得ません。実現という概念には、三つの側面があります。すなわち、旧約聖書の啓示との連続性という基本的な側面、(その反対の)非連続性という側面、そして、実現と超越という側面です。キリストの神秘は、旧約聖書の生け贄の儀式が持つ意味との連続性を持っています。しかしそれは、(旧約とは)非常に異なったやり方で行われ、数多くの預言との整合性を保ちつつ、それまでは不可能であった「完成」へと到達しました。旧約聖書は、それ自体が制度的側面と預言的側面の間の緊張に満ちています。キリストの過越の神秘は、予想もつかない進行ではありましたが、聖書の預言と前兆に完全に符合しています。しかし一方で、旧約聖書の制度に関しては、非連続性の側面をはっきりと示しています。」
「 41 項: これらを考慮すると、キリスト者にとっての、旧約聖書が持つ独自の重要性が見えてきます。
しかし、同時に、キリスト的な解釈の新しさも明らかになってきます。使徒の時代から、そして教会の生きた伝統の中で、教会は類型学(予型論的解釈)を用いて、二つの聖書の神のご計画を一致させることに力点を置いてきました。このやり方は決して恣意的なものではなく、聖典に記された出来事の本質を示すことです。このようにして、このやり方は、聖書全体に関わり合いを持たせています。類型学は、「旧約における神の業のうちに、時が満ちて受肉した(神の)御子のペルソナで成し遂げたことの原型をはっきりと認め」ます。そしてキリスト者は、旧約聖書を、十字架につけられ復活したキリストの視点から読みます。予型論的解釈は、新約聖書の視点から旧約聖書の無尽蔵の内容を明らかにしますが、その一方でわたしたちは、旧約聖書が、啓示に関してそれ自体固有の価値を有していることを忘れてはなりません。それについては、主ご自身が再確認しています(マルコ 12:29-31 参照)。従って、新約聖書は、旧約聖書に照らして読む必要があります。初期のキリスト教の教理指導は、旧約聖書をいつも用いていました( 1 コリ 5:6-8 ; 1 コリ 10:1-11 )。このような理由から、司教会議の司祭たちは、ユダヤ的な聖書理解が、キリスト者の聖書理解と学習に役立つことが証明されたと述べたのです。」
「 聖アウグスティヌスがいみじくも述べたように、『新約聖書は、旧約聖書の中に隠され、旧約聖書は、新約聖書で明らかにされる』のです。したがって、司牧の場面でも、学問的な場面でも、大聖グレゴリオ1世の言葉に従い、二つの聖書の間の密接な関係を明らかにすることは重要です。『旧約聖書が約束したことを、新約聖書は目に見えるようにした。旧約聖書が隠されたやり方で宣言したことを、新約聖書は公然と現在形で宣言した。従って、旧約聖書は新約聖書の預言であり、旧約聖書の最良の注釈は新約聖書である。』」
今週の黙想のための質問
今週、これらの豊かな聖書の文章に照らし、少し時間を取って自分自身に問うてみて下さい。
あなた自身の回心の時はどのようなものでしたか?
あなたの人生の中で、どのような経験や人物があなたの信仰を深める助けになりましたか?
あなたの回心の助けになった人は誰でしたか?
回心の時以降、あなたは具体的にどんな行動を取りましたか?
あなたは、どのようにして他の人たちを回心に招きましたか?
今日、わたしたちはイエスの弟子として、教え、癒すイエスの使命をどのように果たすことができますか?
聖書朗読
イザヤ 8:23-9:3-1 : 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。 9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。 9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
1 コリント 1:10-13, 17 : 一致の勧め 1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 1:11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。 1:17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
マタイ 4:12-23 : ガリラヤで伝道を始める 4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。 4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。 4:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、 4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」 4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
(四人の漁師を弟子にする) 4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。 4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
(おびただしい病人をいやす) 4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
* * *
In Jesus of Nazareth, Isaiah's Light Dawned on Humanity
Biblical Reflection for the Third Sunday in Ordinary Time A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, JAN. 18, 2011 ( Zenit.org ) .-
Both today's first reading from the Prophet Isaiah ( Is 8:23-9:3 ) and the Gospel passage ( Matthew 4:12-23 ) keep alive the memory of Christmas for us. "The people who walked in darkness have seen a great light; those who lived in a land of deep darkness– on them a light has shined."
The choral section from the Nativity cycle of Handel's Messiah never ceases to move me each time I listen to Isaiah's prophecy set to hauntingly beautiful music. The words reach their crescendo in the announcement of the birth of a child who will be called: "Wonderful, Counselor, the Mighty God, the Everlasting Father, the Prince of Peace" ( Isaiah 9:6 ) . Isaiah's prophecy forms the first reading that we hear proclaimed each year at the Midnight Mass on Christmas Eve.
The powerful words of consolation were addressed to those who were in darkness and anguish, those who lived in the Galilean areas of Zebulun and Naphtali, lands located between the Sea of Galilee and the Mediterranean Sea. In today's Gospel, Isaiah's prophecy of the light rising upon Zebulun and Naphtali ( Isaiah 8:22-9:1 ) is fulfilled in Jesus' residence at Capernaum. Since so much of Jesus' ministry takes place in Galilee, and around the Sea of Galilee, it is important for us to have some historical and geographical understanding of the whole region. We must know something about the Old Testament history of the land that Jesus made his own.
Land of deep darkness
Immediately preceding Chapter 9, Isaiah's testimony has built up a frightening picture of the darkness and distress about to descend upon both Judah and the northern kingdom. What is this terrible fate and darkness of the people and why?
After King Ahaz and his people have clearly rejected the Word of God ( cf. Isaiah 7:10-12; 8:6a ) the Lord declares that he will hide his face from the house of Jacob ( 8:17 ) as an indication of his dismay and anger. In a time of anguish and panic due to the wrath of God, people have taken recourse only too easily to mediums and wizards ( 8:19 ) . But Isaiah observes that it is ridiculous to consult the dead on behalf of the living. In Chapter 8:16-22 we read of the terrible fate that could overtake the people: "There is no dawn for this people" ( 8:20 ) .
Instead, there is hunger, thirst and misery showing itself in physical as well as spiritual deprivation. People's hearts are darkened and their spirits are greatly disturbed. They get enraged and curse their sinful king and the God whom they have forsaken. They live without hope and any consolation. Whether they turn their faces upward or cast their eyes down to the earth, they will see only distress and darkness while they themselves will be thrust into thick darkness ( cf. Exodus 10:22; Deuteronomy 28:29 ) .
Such darkness penetrates right into the heart and soul and renders the continuation of human life impossible. But that darkness and distress were not Isaiah's last words. Precisely upon this land has shone a great light. A recurring theme in the scriptures is the fact that God acts in the unexpected context, in the unexpected place, in the unexpected time, in the unexpected way.
Isaiah's hope
Chapter 9 of Isaiah's book stands in total contrast to Chapter 8. The opening line of 9:1 forms a transition from the darkness of 8:22. The prophet proclaims a message of hope and consolation as darkness and gloom give way to light and joy. The great light comes decisively into this profound darkness. It tears people away from their confusion and emptiness, from the violence and tyranny of the oppressor. The message of 9:1-7 is directed to those people who were in anguish.
The darkness and gloom that had settled over the land penetrates right into the heart and soul and renders the continuation of human life impossible. But this darkness and distress were not Isaiah's last words. The prophet proclaims a message of hope and consolation as darkness and gloom give way to light and joy. On the inhabitants of a country in the shadow dark as death, light has blazed forth!
The first result of this great light over the peoples will be the fall of the oppressor -- Assyria -- who must be defeated no less decisively than Midian had been ( Judges 6 ) . Only after such a decisive defeat can disarmament take place and peace reign. The symbols of the Assyrian oppression: the yoke of their burden, the bar across their shoulders, the rod of their oppressor, shall be broken ( 9:4 ) . The garments of war shall feed the flames ( 9:5 ) . The destruction of war-like equipment heralds an age of peace, which is symbolically described in 2:4: "They shall beat their swords into plowshares, and their spears into pruning hooks; nation shall not lift up sword against nation, neither shall they learn war any more."
Jesus' ministry along the Sea of Galilee
In order to accommodate Jesus' move to Capernaum to Isaiah's prophecy, Matthew speaks of that town as being "in the region of Zebulun and Naphtali" ( Matthew 4:13 ) , whereas it was only in the territory of the latter, and he understands the sea of the prophecy, the Mediterranean, as the sea of Galilee. As Jesus moved along the shore of Sea of Galilee, and on the Sea itself, he shed light onto the lives of many people who had experienced the ravages of war, invasion, occupation and violence in the whole area of Zebulon and Naphthali.
In the gospels of Mark and Matthew, that first encounter with disciples is told very briefly ( Mark 1:16-20; Matthew 4:18-22 ) . Walking along the shore, Jesus meets Simon and his brother Andrew. They are casting their nets from the shore, probably hoping to catch some of the fish hovering about the warm springs that empty into the sea. He summons them: "Come follow me and I will make you fishers of men." Immediately, we are told, they leave their nets and follow him.
A little further along, he sees James and John, Zebedees' sons. They are sitting in their boats, mending the nets. Wearied, perhaps, after a nightlong bout with the sea. Jesus calls them in the same way; they leave their father and the rest of the crew and follow him. For Jesus and for those whom he called, the Sea was a place and a moment of conversion. It is along the sea that Jesus calls others to join him in his prophetic ministry and outreach to the poor and the sick. Pastoral ministry that is authentic and prophetic enters those areas acquainted with strife, pain, anguish, war and violence, and always reaches out and invites others to follow.
Fulfilling the words of John the Baptist
At the beginning of his preaching ( 4:17 ) , Jesus takes up the words of John the Baptist ( Matthew 3:2 ) , although with a different meaning; in his ministry the kingdom of heaven has already begun to be present ( Matthew 12:28 ) . The call of the first disciples ( 4:18-22 ) promises them a share in Jesus' work and entails abandonment of family and former way of life. Three of the four, Simon, James, and John, are distinguished among the disciples by a closer relation with Jesus ( Matthew 17:1; 26:37 ) .
In Verse 20, and in Matthew 4:22, as in Mark ( 1:16-20 ) , and unlike the Lucan account ( 5:1-11 ) , the disciples' response is motivated only by Jesus' invitation, an element that emphasizes his mysterious power. There is always a before and after in the lives of those who are called by Jesus. For some, the conversion of heart is often a gradual process that takes time. For others, the conversion is an unexpected and all-encompassing lightning bolt experience.
Even though the call to follow Jesus was a privilege beyond imagination, there is no attempt to pretend the disciples were ideal people. They were very real people -- contentious, weak at times, often baffled by Jesus. Even when they understood Jesus and his teaching, the disciples were capable of rejecting and failing him. The Gospel portrayal of the disciples is compassionate because it makes a place for people who struggle to reach their dreams, for people who at times forget their call to greatness. People like us!
Following Jesus is a risk, as every new way of life is. Each of us is called to teach as Jesus taught and to heal boldly and compassionately as he did.
Relationship between Old and New
Today let us continue our reflections on "Verbum Domini," Benedict XVI's postsynodal exhortation on "The Word of God in the Life and Mission of the World," and consider the relationship between the Old and the New Testaments ( Nos. 40-41 ) .
"40. [...] Moreover, the New Testament itself claims to be consistent with the Old and proclaims that in the mystery of the life, death and resurrection of Christ the sacred Scriptures of the Jewish people have found their perfect fulfillment.
It must be observed, however, that the concept of the fulfillment of the Scriptures is a complex one, since it has three dimensions: a basic aspect of continuity with the Old Testament revelation, an aspect of discontinuity and an aspect of fulfillment and transcendence. The mystery of Christ stands in continuity of intent with the sacrificial cult of the Old Testament, but it came to pass in a very different way, corresponding to a number of prophetic statements and thus reaching a perfection never previously obtained. The Old Testament is itself replete with tensions between its institutional and its prophetic aspects. The paschal mystery of Christ is in complete conformity -- albeit in a way that could not have been anticipated -- with the prophecies and the foreshadowings of the Scriptures; yet it presents clear aspects of discontinuity with regard to the institutions of the Old Testament.
"41. These considerations show the unique importance of the Old Testament for Christians, while at the same time bringing out the newness of Christological interpretation. From apostolic times and in her living Tradition, the Church has stressed the unity of God's plan in the two Testaments through the use of typology; this procedure is in no way arbitrary, but is intrinsic to the events related in the sacred text and thus involves the whole of Scripture. Typology "discerns in God's works of the Old Covenant prefigurations of what he accomplished in the fullness of time in the person of his incarnate Son". Christians, then, read the Old Testament in the light of Christ crucified and risen. While typological interpretation manifests the inexhaustible content of the Old Testament from the standpoint of the New, we must not forget that the Old Testament retains its own inherent value as revelation, as our Lord himself reaffirmed ( cf. Mark 12:29-31 ) Consequently, 'the New Testament has to be read in the light of the Old. Early Christian catechesis made constant use of the Old Testament ( cf. 1 Corinthians 5:6-8; 1 Corinthians 10:1-11 ) .'. For this reason the Synod Fathers stated that 'the Jewish understanding of the Bible can prove helpful to Christians for their own understanding and study of the Scriptures.
"'The New Testament is hidden in the Old and the Old is made manifest in the New,' as St. Augustine perceptively noted. It is important, therefore, that in both pastoral and academic settings the close relationship between the two Testaments be clearly brought out, in keeping with the dictum of Saint Gregory the Great that 'what the Old Testament promised, the New Testament made visible; what the former announces in a hidden way, the latter openly proclaims as present. Therefore the Old Testament is a prophecy of the New Testament; and the best commentary on the Old Testament is the New Testament.'"
"'The New Testament is hidden in the Old and the Old is made manifest in the New,' as St. Augustine perceptively noted. It is important, therefore, that in both pastoral and academic settings the close relationship between the two Testaments be clearly brought out, in keeping with the dictum of Saint Gregory the Great that 'what the Old Testament promised, the New Testament made visible; what the former announces in a hidden way, the latter openly proclaims as present. Therefore the Old Testament is a prophecy of the New Testament; and the best commentary on the Old Testament is the New Testament.'"
Questions for our reflection this week
This week, in light of these rich biblical texts, take a few moments and ask yourself:
What have been your own moments of conversion?
What experiences or people in your life have been instrumental in deepening your faith?
Who have been the instrumental people in you conversion?
What concrete actions have you taken after a moment of conversion?
How have you invited other people into conversion?
In what ways can we, as disciples of Jesus, share in his mission of teaching and healing today?