真昼の真摯な教理問答
四旬節第 3 主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/3/27 トマス・ロシカ師
今日の第 1 朗読、出エジプト 17 章 3-7 節 の意味を理解するためには、それに先立つ 16 章の中で何が起こったか思いだす必要があります。
神の小さな羊の群れは、飢えの苦しみに直面してモーセに不平を述べ立てました。主が、奴隷の抑圧に苦しむ民の叫びを聞かれたとき ( 出 エジプト 3:7 )と同じく、 神は、今度は飢える民の叫びを聞かれ、マナと鶉(うずら)で彼らを養われました。こうして、 16 章で飢えは満たされたのですが、今日の朗読個所では、飲み水がないという新しい差し迫った事態が起こります。
17:1 の中で、語り手はこの単純な状況を、民がモーセに不平をぶつけるきっかけとして述べます。多分モーセは、それまでの経験から、自分に対する民の不平を、神に対する直接の非難と受け取ったのでしょう。 ( 17:2 ) 出エジプト記 16:8 の中で彼は同じような言動を見せます。「一体、わたしたちは何者なのか。あなたたちはわたしたちに向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
モーセの反応が、このトラブルにばかり集中しているのに対して、神の反応は、憐みを与えることでした。イスラエルの神は、不平を言うヘブライ人を決して咎めず、ただ、モーセに長老たちを集めさせ、ホレブの岩に連れて行き、エジプトで多くの奇跡を行った杖でその岩を打つように指示します。
神はモーセに「わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。」 ( 6 ) と言われ、そこに神が居ることを再確認します。神は以前、天からのパンであるマナを与え、今度は(地上の岩から)水を民に与えて、ご自分が被造物の主であることを示されます。
マサとメリバの二つの名は、イスラエルの神を試すことの同義語となっています。
「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」(申命記 6:16 )、 「メリバの水のほとりであなたを試した。」 ( 詩編 81:8 )
民が神を試したのは、目に見える形で神が現存することを、彼らが見る必要があることを示唆します。 7b の中で、神を試す民の行為は、彼らが神の現存を信じないからだと説明されます。民は、困難に出会うや否や、たちまち神の現存を疑い始めるのです。
皮肉な出会い
この渇きと水のテーマは、サマリアの女と真昼のイエスとの出会いという、興味深く示唆に富んだ福音物語 ( ヨハネ 4:5-42 ) に引き継がれます。サマリアの女は、ヨハネ福音書の中で、最も注意深く、こまごまと(イエスの)教えを受けた人物です。
今日の物語には、多くの皮肉な場面があり、サマリアの中心部奥深くにあるヤコブの井戸のシーンにそぐわない個所が幾つか見られます。なによりも先ず、この井戸は男女に共通の公共の場ですが、男女が一緒に居ることはできません。この女性はどうして真昼にこの井戸へ来るのでしょうか?おそらく彼女は、恥知らずの行いで村の女性たちに嫌われているようです。彼女はそれまでに 5 人の夫をもち、現在は夫以外の誰かと同棲しているのです。 ( 16-18 ) まるで今日のハリウッド映画巨編を見ているようです。
男性が、付添のいない女性に公共の場で話しかけることは、非常に怪しげな(疑いをもたれる)行為です。ユダヤ人はサマリアの女性を宗教上不潔とみなしていたので、サマリアの女性が触った器から飲むことは禁じられていました。弟子たちは(再び)イエスの行為に大変驚きます。
驚いた女性は、「ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 ( 12 ) と言って、イエスが、自分たちの先祖のヤコブよりも偉いと考えているのかと問いました。この物語は、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」 ( 16 ) というイエスの二番目の命令と共に、急激な場面転換を見せて突然終わります。
サマリアの女性との対話の中で、イエスは彼が実際にその族長ヤコブより偉大であることを明かし、彼イエスこそが新しい契約、新しい教え、そして新しい啓示の幕開けであることを告げます。
イエスがこの女性に「生きた水」を与えようとするとき、彼女は、彼が水を汲むバケツさえ持っていないではないかと答えます。この女性は、よどんだため池の水よりもはるかに望ましい「流れる水」を思い浮かべます。しかし、(その人の内で泉となり、)永遠の命に至る水がわき出ると聞いて、彼女は十分に悟り、「主よ、その水をください。」と言います。それは命の水、すなわち、イエスがもたらす啓示です。イエスは、この女性を全く新たな高みへと導きます。そこには水があり、それは生きた水になります。そこにはパンがあり、それは神の意思である食物です。そこにはヤコブとイエスの姿があり、約束されたメシアであるイエスがいます。賛美の思いは真の賛美に変わります。そしてこのリストは、まだまだ続きます。「霊と真理」 ( 23 ) をもってするイエスの礼拝は、人それぞれの心の中でする内的礼拝とは違います。この霊は神が与える霊、すなわち真理を明かし、ふさわしく神を礼拝できるようにする霊です。 ( 14:16-17 )
自分の人生の真理をイエスに啓示された女性は、水がめを置いたまま町に行き、人々をイエスに会わせようとしました。 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
これはわたしたちにも通じることではありませんか? わたしたちも、時々信仰上のつまづきを経験していますし、時には人々を、(命の水の)水源であるイエスに会わせようと説得してはいませんか?
今日、サマリアの女とは誰のこと?
このサマリアの女の物語を、今日の具体的な状況に当てはめてみたいと思います。今日読まれた心に響く福音の中で、イエスは、文化の違いを超え、平等の立場で、名も知れぬサマリアの女に近づきます。彼女のような女性は、多くの家夫長制社会の中で存在を無視されています。今も、彼女のような女性たちは、家族や家畜のために水を汲みに行くような、最も骨の折れる仕事をしています。わたしたちは、ニュースや写真や映像などで、第三世界から呼びかける彼女らの姿を目にします。これらの女性たちは、家の中で過酷な仕事をさせられています。
ある意味で、今日の福音の中の女性が生きた水を求める気持ちは、心の渇きや空しさを満たしたいと願う気持ちを象徴的に表したものと解釈できます。サマリアの女とイエスの深い会話は、彼女の生活を完全に変えます。最後には、彼女は空っぽで、干上がり、渇ききった自分の水がめを残して、それまで顔を合わせないようにしていた人々を呼びに行きました。彼女は、メシアであるイエスとの解放的出会いを人々と分かち合います。無視され、おそらくは除け者にされていた彼女は、認められ、受け入れられることを渇望しているのです。彼女は、イエスが自分を受け入れたことを覚り、イエスの中に、長いこと求めていた自分の価値と尊厳を見出したのです。
今日、人生の重荷から解放されることを望む、大勢の、さまざまな「サマリアの女」がいます。彼女らは、自分のあるがままの姿(人格・能力)を社会が理解し、受け入れてほしいと強く願っています。わたしたちは特に、人身売買の犠牲者、とりわけ女性や少女に思いを及ぼす必要があります。彼女らは、イエスのような人々に聞いてもらい、代弁してもらい、解放してもらう必要があります。多くの人々は彼女らを、犯罪者、浮浪者、社会から疎外された者と見なします。なぜなら、その人たちは(母国の)貧しい家族を支えるために、海外に職を求め、違法滞在者になってしまうからです。
人々が世界を放浪せざるを得ないことは、母国がどれほどひどい状況にあるかを物語っています。愛する家族のためにどれほどの犠牲を払っていることでしょうか。神が与えた尊厳を取り戻すためには、わたしたちの助けが必要です。
今日のサマリアの女の物語は、わたしたち自身の生活を暗示しています。わたしたちは、しばしば、疎外、罪、絶望の荒野をさまようことがあるからです。とりわけこの四旬節の間は、悔い改めと赦しと完全さをもたらす生きた水を望みます。悔い改めとは、この荒れ野のさなかに生きるわたしたち自身に必要なものを覚ることであり、互いの間の障壁を打ち壊す必要と、わたしたちの渇きを本当に癒してくれる生きた水を見出す必要を覚ることです。
四旬節は、今日の福音のサマリアの女や、世界中のサマリアの女たち、そして懸命にいのちを求めているすべての人々と共にいることをわたしたちに求めます。
2011 年の四旬節メッセージの中で、 ベネディクト16世 はこう書いています。
「サマリアの女に向けた『水を飲ませてください』(ヨハネ 4 : 7 )というイエスの問いかけをわたしたちに示します。このことばは、すべての人に対する神の熱い思いを表すと同時に、「その人の内で泉となり、永遠のいのちに至る水」(ヨハネ 4 : 14 )というたまものへの望みをわたしたちの心の中に呼び覚まそうとしています。この水は、キリスト者を「霊と真理をもって」父に祈ることができる「まことの礼拝をする者」(ヨハネ 4 ・ 23 )に変える聖霊のたまものです。善、真理、美に対するわたしたちの渇きをいやせるのは、この水だけです。聖アウグスチヌスのよく知られたことばにあるように、御子によって与えられるこの水だけが、休むことも、満たされることもないわたしたちの心の砂漠を、『神のうちに憩うまで』潤すことができるのです。」
今週の四旬節を生きる
1. サマリアの女についての「主よ、この水を下さい」と題したビデオを見ましょう。(下記 URL 参照)
http://www.youtube.com/watch?v=WqiklxOVxhE
この四旬節、あなたは、何を求めて渇くのでしょうか?あなたは誰を探し求めるのですか?
2. 今日のサマリアの女の福音朗読に照らされて、 ジャン・バニエ の次の言葉を黙想しましょう。
「わたしたちが砕かれているのは、その傷を通して、神の十全の力がわたしたちの存在を貫き、神においてわたしたちを変容させるためです。孤独は、そこから逃れるべきものではなく神に呼びかけることのできる場所、神がわたしたちを見出し、わたしたちが神を見出すことができる場所です。
そうです。神の力は、傷を通してわたしたちを貫き、わたしたちの中の不毛の地を潤す生きた水の流れのようになることができます。こうして、わたしたちも他の人々の不毛の地を潤し、希望と愛が再生されるのです。」
3. 「教会生活と宣教における神のことば」の司教会議のテーマを受けた使徒的勧告「神のみことば( Verbum Domini )」の中の、「神のみことばとキリスト者の証言」を読みましょう。 (参考;末尾に英文)
4. 今週、社会の片隅に居る人に、真昼に、手を差し伸べましょう。その人がいる場所は、たぶん井戸ではなく、喫茶店、酒場、台所のテーブル、商店街、広場のようなところでしょう。心の傷や苦しみ、疎外感、恐れについて、その人の話に耳を傾けましょう。キリストの憐みの生きた水が、あなたを通して流れ、その人の人生の荒野を潤すに任せましょう。
◇◇◇
聖書朗読
出エジプト 7 : 3-7 17:3 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、わたしたちをエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」 17:4 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、 17:5 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。 17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。 17:7 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主はわたしたちの間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
ローマ 5 : 1-2, 5-8 5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
ヨハネ 4 : 5-15 、 19 b -26 、 39a 、 40-42 4:5 [ そのとき、イエスは ] ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
19b 「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
4:39 さて、その町の多くのサマリア人は、イエスを信じた。
4:40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 4:41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 4:42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
AN INTENSE CATECHISM SESSION AT HIGH NOON
Biblical Reflection for 3rd Sunday of Lent A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, MARCH 22, 2011 ( Zenit.org ) .-
In order to grasp the meaning of today's first reading from Exodus 17:3-7, we must recall what transpires in the preceding chapter.
God's little flock faced the hardship of a lack of food and protested to Moses. Just as the Lord had heard the cry of the people suffering the oppression of slavery ( Exodus 3:7 ) , God now heard their cry of starvation and provided them with nourishment in the form of manna and quail. While their lack of food had been sated in Chapter 16, today's passage confronts them with a new and dire challenge: the lack of drinkable water.
In 17:1, the narrator states this simple fact as a preface to the people's quarrel with Moses. Perhaps taking a cue from the previous experience, Moses interprets their quarrel with him as a direct charge against God ( 17:2 ) . He makes a similar move in Exodus 16:8: "What are we? Your complaining is not against us but against the Lord."
While Moses' response centers on the conflict, God's reaction delivers compassion. The God of Israel never condemns the grumbling Hebrews, but rather simply instructs Moses to gather the elders, take them to a rock at Horeb, and strike it with the staff Moses had used to perform so many other miracles in Egypt. God grants Moses the reassurance of the Divine Presence: "I will be standing there in front of you" ( 6 ) . In giving manna, bread from heaven, earlier, and now water ( from an earthly rock ) , God provides for his people and shows his mastery over creation.
The two names -- Massah and Meribah -- become synonymous with the testing of Israel's God, "You shall not put the Lord to the test, as you tested him at Massah" ( Deuteronomy 6:16; Psalm 81:7 ) .
When the people put God to the test it suggests that they need to see God's presence with them in a tangible fashion. The peoples' action in testing God is interpreted in Verse 7b as their lack of belief that God is with them. As soon as it gets difficult the people's immediate response is to doubt the presence of God.
Ironic encounter
The theme of thirsting and water continues in today's fascinating and evocative Gospel story of the woman of Samaria and her encounter with Jesus at high noon ( John 4:5-42 ) . The Samaritan woman is the most carefully and intensely catechized person in John's Gospel.
Today's story is fraught with many moments of irony and several things are wrong with the whole scene at Jacob's well, deep in the heart of Samaria. First of all, the well is a public space common to both men and women, but they ought not to be there at the same time. Why does this woman come to the well at noon? Likely, it's because the women of her village shun her for her shameless behavior. She has had five husbands and is now living with someone other than her husband ( 16-18 ) . It sounds like a contemporary Hollywood epic!
For a man to speak to an unchaperoned woman in a public place is very suspicious. Jews regarded Samaritan women as ritually impure, and therefore Jews were forbidden to drink from any vessel the women had handled. The disciples are utterly shocked ( once again ) at Jesus' behavior.
The startled woman asked Jesus if he thought he was greater "than our ancestor Jacob, who gave us this well and drank from it with his sons and flocks" ( 12 ) . The comic relief of the story comes to an abrupt end with Jesus' second command, "Go, call your husband."
In the course of the dialogue with the Samaritan woman Jesus reveals that he is indeed greater than the patriarch Jacob in that he, Jesus, inaugurates a new covenant, a new cult, and a new revelation.
When Jesus offers the woman "living water," she replies that he doesn't even have a bucket to draw with. The woman thinks of "flowing water," so much more desirable than stagnant cistern water. But when she hears of the water welling up to eternal life, she understands enough to say, "Sir, give me this water." It is the water of life, i.e., the revelation that Jesus brings. The woman is invited by Jesus to see at a whole new level: there is water and then there is living water; bread and the food which is God's will; Jacob and Jesus; the promised Messiah and Jesus; notions about worship and genuine worship; and the list goes on and on.
Jesus' worship "in Spirit and truth" ( 23 ) is not a reference to an interior worship within one's own spirit. The Spirit is the spirit given by God that reveals truth and enables one to worship God appropriately ( 14:16-17 ) .
The woman, to whom Jesus revealed the truth in her life, left her water jugs behind and went into town to get people to come and see Jesus: "Come, look! Here is a man who told me everything that I've done. Is he not, maybe, the Messiah?" Wouldn't it also make sense for us, who have experienced faith to drop now and then, whatever we are doing in order to persuade others to come to him, the Source?
Who are the Samaritan women today?
Allow me to take the story of the Samaritan woman and apply it to some concrete situations today. In today's provocative Gospel, Jesus transcends cultural barriers to reach out to the unnamed Samaritan woman as an equal. Women like her are marginalized in many patriarchal societies. Women like her still do the most back breaking tasks of fetching water for their families and their animals. We see their images so often on the news, in pictures and images that cry out to us from the Third World. These women are responsible for hard domestic work.
In a way, the woman's request for living water in today's Gospel story can also be symbolically interpreted as an expression of her thirst, dryness and emptiness longing to be filled. The Samaritan's deep conversation with Jesus transforms her life totally. At the end, she leaves her jar -- the emptiness, dryness, thirst -- and went to the people from whom she is hiding. She shares with them her liberating encounter with Jesus the messiah. As a marginalized and perhaps excluded person, she thirsts for inclusion, and acceptance. She found in Jesus acceptance, and her true meaning and dignity for which she has searched so long!
Today, there are many "Samaritan women" in various forms longing to be liberated from life's burden. They thirst for understanding and acceptance of who they are in society. We need only think of victims of human trafficking, especially women and girls, who need people like Jesus to listen to them, speak for them and decriminalize them. Many people look on them as criminals, social outcasts, marginalized because they become illegal migrants in search of good jobs abroad in order to support their poor families. What are the terrible situations at home that compel them to go wandering? What are the sacrifices they are making for their loved ones? We need to help them reclaim their God-given dignity.
Today's story of the woman of Samaria is a metaphor for our own lives -- often lived in deserts of alienation, sinfulness, despair. During the season of Lent in particular, we long for the refreshing waters of repentance, forgiveness and wholeness. To repent is to acknowledge our own need of life in the midst of the desert, our need of breaking down barriers that exist among us, our need of finding the living water that will truly quench our thirst.
Lent invites us to join the woman of Samaria in today's Gospel and the women of Samaria throughout the world and all those so desperately in need of life. May the Lord give us the courage to reach out to them, listen to them, feed them, and share with them the waters of life.
In his Lenten message for 2011, Benedict XVI writes:
"The question that Jesus puts to the Samaritan woman: 'Give me a drink' ( John 4: 7 ) , […] expresses the passion of God for every man and woman, and wishes to awaken in our hearts the desire for the gift of ‘a spring of water within, welling up for eternal life' ( John 4:14 ) :
This is the gift of the Holy Spirit, who transforms Christians into 'true worshipers,' capable of praying to the Father 'in spirit and truth' ( John 4:23 ) . Only this water can extinguish our thirst for goodness, truth and beauty! Only this water, given to us by the Son, can irrigate the deserts of our restless and unsatisfied soul, until it 'finds rest in God,' as per the famous words of St. Augustine."
Living Lent this week
1. View this video of the Woman of Samaria: "Lord, Give Me This Water." For what are you thirsting this Lenten season? Whom do you seek?
2. Reflect on these words by Jean Vanier in light of today's Gospel of the Samaritan woman: "Our brokenness is the wound through which the full power of God can penetrate our being and transfigure us in God. Loneliness is not something from which we must flee but the place from where we can cry out to God, where God will find us and we can find God.
Yes, through our wounds the power of God can penetrate us and become like rivers of living water to irrigate the arid earth within us. Thus we may irrigate the arid earth of others so that hope and love are reborn."
3. Read "The Word of God and Christian Witness" in the postsynodal exhortation "Verbum Domini"
4. Reach out to someone on the fringe this week at high noon, perhaps not at a well, but in a coffee shop, over a drink, at your kitchen table, or in a town shopping mall or public square. Listen to the person's story of hurt, suffering, alienation, or fear. Allow the living water of Christ's compassion to flow through you to irrigate the desert of someone's life.
[ 参考 ] from POST-SYNODAL APOSTOLIC EXHORTATION “VERBUM DOMINI”
The word of God and Christian witness
The immense horizons of the Church 's mission and the complexity of today's situation call for new ways of effectively communicating the word of God. The Holy Spirit, the protagonist of all evangelization, will never fail to guide Christ's Church in this activity. Yet it is important that every form of proclamation keep in mind, first of all, the intrinsic relationship between the communication of God's word and Christian witness. The very credibility of our proclamation depends on this. On the one hand, the word must communicate every-thing that the Lord himself has told us. On the other hand, it is indispensable, through witness, to make this word credible, lest it appear merely as a beautiful philosophy or utopia, rather than a reality that can be lived and itself give life. This reciprocity between word and witness reflects the way in which God himself communicated through the incarnation of his Word. The word of God reaches men and women “through an encounter with witnesses who make it present and alive”.[323] In a particular way, young people need to be introduced to the word of God “through encounter and authentic witness by adults, through the positive influence of friends and the great company of the ecclesial community”.[324]
There is a close relationship between the testimony of Scripture, as the self-attestation of God's word, and the witness given by the lives of believers. One implies and leads to the other. Christian witness communicates the word attested in the Scriptures. For their part, the Scriptures explain the witness which Christians are called to give by their lives. Those who encounter credible witnesses of the Gospel thus come to realize how effective God's word can be in those who receive it.
In this interplay between witness and word we can understand what Pope Paul VI stated in the Apostolic Exhortation Evangelii Nuntiandi. Our responsibility is not limited to suggesting shared values to the world; rather, we need to arrive at an explicit proclamation of the word of God. Only in this way will we be faithful to Christ's mandate: “The Good News proclaimed by the witness of life sooner or later has to be proclaimed by the word of life. There is no true evangelization unless the name, the teaching, the life, the promises, the Kingdom and the mystery of Jesus of Nazareth, the Son of God, are proclaimed”.[325]
The fact that the proclamation of the word of God calls for the testimony of one's life is a datum clearly present in the Christian consciousness from the beginning. Christ himself is the faithful and true witness (cf. Acts 1:5; 3:14), it is he who testifies to the Truth (cf. Jn 18:37). Here I would like to echo the countless testimonials which we had the grace of hearing during the synodal assembly. We were profoundly moved to hear the stories of those who lived their faith and bore outstanding witness to the Gospel even under regimes hostile to Christianity or in situations of persecution.
None of this should cause us fear. Jesus himself said to his disciples: “A servant is not greater than his master. If they persecuted me, they will persecute you” (Jn 15:20). For this reason I would like, with the whole Church, to lift up to God a hymn of praise for the witness of our many faithful brothers and sisters who, even in our day, have given their lives to communicate the truth of God's love revealed to us in the crucified and risen Christ. I also express the whole Church's gratitude for those Christians who have not yielded in the face of obstacles and even persecutions for the sake of the Gospel. We likewise embrace with deep fraternal affection the faithful of all those Christian communities, particularly in Asia and in Africa, who presently risk their life or social segregation because of their faith. Here we encounter the true spirit of the Gospel, which proclaims blessed those who are persecuted on account of the Lord Jesus (cf. Mt 5:11). In so doing, we once more call upon the governments of nations to guarantee everyone freedom of conscience and religion, as well as the ability to express their faith publicly.[326]