神のより広い視野で、歴史を眺める
年間第 33 主日 聖書黙想 2010/11/14 トマス・ロシカ師
教会の典礼年の終わりが近づくにつれ、日曜日の聖書朗読は、終末の ( apocalyptic ) イメージに満ちてきます。そのイメージは、強烈で、率直で、現実的、そして実際的で、それは、わたしたちに当然の如く恐れを抱かせます。終末論的な文献は、キリスト教伝統の千年周期の中によく登場してきました。重大な歴史的危機が、終末論的な考えのきっかけとなるのは、よくあることです。
しかし、「啓示 ( apocalypse ) 」という言葉は、必ずしも、特別な種類の文献との関わりに限られて使われているわけではありません。聖パウロは、自分は、福音を人間からではなく「啓示によって」受け、(ガラテアの信徒への手紙 1:12 ) また、他のキリスト教の指導者たちに会うために「啓示により」エルサレムに上ったと主張しています。(ガラテアの信徒への手紙 2:2 )
しかし、終末論的な ( apocalyptic ) 種類の文献は、一つの啓示、あるいは一連の啓示を、天使という手段を使って扱うのが普通です。それは、歴史的出来事を超えて、超自然の世界を明らかにします。
焦点は終末論にあてられます。終末とは、わたしたちが、今、体験しているようなこの世の終わりと、そして新しい世界の始まりのことです。この新しい世界への移行は、普通、宇宙の変容を表す、知的能力の範囲内の、そして自然な表現で述べられます。そこには、失敗した人たちと失敗した制度や組織、それに神の聖人たちの弁護が伴っています。
啓示( apocalypses )の中には、他の世界に昇天するというのもありますが、ヨハネの黙示録とルカ 21 章(マルコ 13 ;マタイ 24:1-38 )にあるイエスが啓示を与える話は、どちらも、歴史の背後で、また歴史を超えて続いていることを描くことで、歴史的な出来事に参加しています。
続いていることが、実際に起きていること、すなわち神の目的のより大きな文脈の中に据えられる歴史に混ぜ込まれ、全体が、象徴としるしと神秘的な形態の語り口で縁取りされた歴史的な記述方法で書かれた非凡な文面になっています。この文献が、わたしたちには奇妙に見えるのと同じほどに、それは、神の民の信仰と希望の執拗さを劇的に証ししているのです。
文脈
エルサレムの崩壊は、今日の福音朗読(ルカ 21:5-19 )に出てくるイエスの終末論的な説教を進展させた歴史的な出来事です。
たとえばマルコは、ローマ人によるエルサレムの神殿の冒涜を、その時代の終焉と「人の子」の到来を告げる啓示的な象徴(ダニエル 9:27;12:11 )として描きました。
しかしルカは、啓示的な場面設定を取り除き、「異邦人の時代」と呼ぶ期間を設けることで、「人の子」の到来のしるしとエルサレムの歴史的崩壊を分けています。
訳注:ルカ 21:24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
ルカ福音に出てくるイエスの終末論的な物語 ( 21:5-36 ) は、マルコ 13 章に霊感を与えられているのですが、ルカは、そこに出てくるイエスの言葉に、重要な変更を加えています。
訳注:マルコ 13:1 ‐ 13 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
ルカは、初めに期待していたような時代の終わりへの信仰を保っていますが、福音全体を通して、イエスの日常を追っていくことの大切さに焦点を当てることで、またマルコ 13 章の「終末の徴(しるし)」のいくつかの意味を再解釈することで、初期のキリスト教共同体が、時の終わりの「キリストの再臨」 ( parousia ) の遅れを感じていることと、折り合いをつけています。
終末の徴(しるし)
終末の徴は、既にその通りに実現していたのですが、弟子たちの迫害(ルカ 21:12-19 )とエルサレムの滅亡 ( 20-24 ) を扱うことで、ルカは、それ(終末の徴)に言及しています。
ルカ福音では、イエスは、神殿の境内と、神殿からさほど遠くないオリーブ山とで語ります。
今日の福音のイエスの物語では、その聴衆は、「民衆(すべての人々)」です。イエスは、「弟子たちがやって来て、ひそかに言った。」(マタイ 24:3 )のに答えているのでも、最初の 4 人の弟子、「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。」(マルコ 13:3 )のに答えているのでもないのです。
訳注:ルカ 20:1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、…
マタ 24:3 「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。
「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」…
マル 13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アン
デレが、ひそかに尋ねた。…
今日の福音では、終末の徴は、三段重ねになっています。偽メシアと偽の時や場所を告げる者たち( 8 )の出現、戦争、暴動、国際紛争 ( 9-10 ) 、そして、宇宙規模の恐ろしい現象を伴う自然災害( 11 )の三段です。
神の目的の終局への到達の影響は、イスラエルだけに留まらず、すべての民族に、さらにすべての民族に留まらず、全宇宙に及びます。神の創造物の中に、神の御旨の実現の影響が及ばないほどに遠く離れた地域などないのです。
忠実な証し人となるとき
しかし、弟子たちは、神の神秘を突き止めて、時と場所を確認したと主張する人々に脅され、惑わされて、これらの出来事にあまり気を取られてはならないのです。
肝に銘じておくべきことは、終末の前に証しをする時が ( 12-19 ) 来ることになっているということです。
「時 ( kairos 適切な時間 ) が近づいた」と主張する者たちは、時 ( chronos こよみの時間 ) の推定は、人が神の時 ( kairos 適切な時間 ) の成就を知ることにはつながらないのだということを分からない( 21:8 )のです。さあ、今こそ全世界に向かって忠実な証し人となる時です。 ( 21:13 )
弟子たちは、その証し故に、会堂の前に引きずり出され、総督や王の前に引っ張って行かれるのです。(どちらも、使徒言行録で成就され現実となりました。)
弟子たちを待ち構える、憎しみ、親戚や友人による裏切り、そして死
現代の黙示録によくある愚かな傲慢は、そこにはまったく見られません。この傲慢は、信じれば、迫害や苦難の状態を超えるまでに高められると有頂天になる教義から生まれるものです。
弟子たちは、苦しみを免除される者ではありません。危機と嵐の霧ですべてがかすむ中で、イエスの弟子たちは、今も昔も、伝えるべき適切な「言葉と知恵」 ( 15 節 ) を授けられるのです。ルカ福音によれば、聖霊のもっとも大切な働きは、言葉に霊感を与えることだということを心にとどめておきましょう。
建物を賞賛する以上に
今日の福音の場面は、イエスの司牧生活の後半のことで、弟子たちは、イエスと共に、エルサレムの至聖なる場所に立ち、ユダヤの文化と宗教の中心でありヘロデによるユダヤ人の宥和政策の傑作であるエルサレムの荘厳な神殿を見つめています。
それが、魂を揺り動かす光景であったことは明らかです。しかし、この神殿の丘に物見遊山で来たこの集団は、突然真剣になります。建物の賞賛で始まったことが、弟子であることで、イエスの名をいただく者たちが負わなければならないものを預言的に垣間見ることになっていきます。
それは、公の迫害と、家族や友達の輪の中でもっとも近しい人たちによる裏切りをもたらすことになるのです。今や、長年約束され続けたメシアである預言者は、三回再建された神殿に来て、しかるべき地位を占めます。その存在そのものが神の訪れなのです。
イエスは、弟子たちに起きる捕らわれ、迫害、引き渡し、裏切りを含む大地を揺るがすような大災害について語ります。そして、イエスの名の下に来て、当時も、そして現代においても、窮地に陥った人々を惑わす多くの人たちのことについても話します。イエスが、わたしたちの世界を未だにうろつき回っている恐ろしい力をよく知っていたことは明らかです。その恐怖は、それが宇宙規模であろうと個人的であろうと、イエスが、自分自身のその髪の毛の数さえもご存じであるという確信によって打ち負かすことができます。
イエスは、その確信を信頼できるものにするために十字架に上りました。わたしたちが「命(魂)をかち取る」ために必要なのは、禁欲的な決心ではなく、弱さにあるときには十分に足りる恵みを与えるというイエスの約束への忠実なる信頼です。
イエスがもたらした神の支配を拒絶するなら、神の裁きがもたらされます。神の恵み深い支配の下で耐えるなら、「あなたがたは命 ( 魂 ) をかち取る」ことになります。イエスが、命 ( 魂 ) は与えられるものではなく、「かち取る」ものだと話していることを思い起こしましょう。
魂(命)は、そのような内なる能力です。その中で、しっかりと根を下ろし、成熟し、耐えるという一生涯のプロセスのうちに神と人間はつながるのです。耐える、それは苦難に直面して、しりごみすることのない忍耐のことです。
名前の中にあるもの
啓示的な文学にわたしたちが衝撃を受けるとしても、それには当然、ふさわしい理由があります。ことによると、わたしたちは、自分の独りよがりの信仰や信念、生き方や振る舞い方から離れて、穏やかな気持ちになることが必要なのかも知れません。そして、時は短く、主は真に夜盗のようにおいでになること、わたしたちは、明日でなく今日、根本的に行動を改めなければならないと悟らなければならないのです。
今日の福音のイエスの言葉のテーマは、イエスの「名前」(イエスの使命とペルソナと等しい)が、混乱の原因となるということです。しかし、わたしたちは、多くの時、勇気がないままに、いかなる形態の争いも戦いも避けてしまいます。
他者の「感情を損なう」とか、キリスト者あるいはカトリック信者というレッテルを貼られることを恐れて、わたしたちは、カトリックのキリスト教信者であるという身元を隠すことがあります。ことによると、そのために闘う価値が、死ぬ価値さえもある何かが、この世にはあるかも知れないのだということ悟ることを、わたしたちはやめてしまってはいないでしょうか。「御名」に連なる人々は、迫害に耐えることになっているということを、わたしたちは忘れているのではないですか。
教訓
今日の第2朗読のパウロのテサロニケの信徒への手紙二(テサロニケの信徒への手紙二 3:7-12 )にも、わたしたちへの大切なメッセージがあります。聖パウロは、テサロニケの信徒に、その共同体に特有の問題について忠告しています。それは、激しい終末論的な憶測から発して、すなわち、働かずに、その代わりに、騒々しいお節介焼きになってしまう者がいる ( 6-15 節 ) という問題です。
この共同体には、恐らく、その人たちが、キリストの再臨は差し迫っていると考えているか、あるいは主の新しい時代は、既にここにあると考えているために、見たところ、生活のために働くことをやめてしまったように思えるメンバーが居ました。
彼らは、未来に対する恐れと無力さにつぶされるままに心を奪われていました。そして。現在の争いと苦難からのすぐさまの解放を待ち望んでいました。実際、彼らは降参して、終末論を言い訳に使い、社会を変革することをやめていました。それは、彼らが、自分たちの信仰深く勇気ある証しによって生きているはずの社会です。
わたしたちは、典礼年の終わりに近づき、今日の福音朗読で、究極のものごとを突きつけられているのですから、自分が、日常生活を通して、証しをするように呼ばれているということを決して忘れないようにしましょう。
つらく長引く苦悩のただ中にあって、ありきたりの歴史の地平線の上に、災害からの救いが何も見えないときに、神の意志の啓示があればというだけでなく、現在の悲惨さの終焉と来るべき時代の始まりのビジョンがあれば、信仰は、天国の方にその顔の向きを変えるのです。
そのような考えだけが、現代の嵐のさなかにあって、慰めと喜びと希望をもたらすことができるのです。
◇◇◇
聖書朗読
マラキ 3:19-20a; (略)
2 テサロニケ 3:7-12; 3:7 [ 皆さん、あなたがたは、 ] わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。 3:8 また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。 3:9 援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。 3:10 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。 3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。 3:12 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
ルカ 21:5-19 : 21:5 [そのとき、]ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。 21:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
21:7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 21:9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 21:10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 21:11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 21:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 21:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 21:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 21:17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
Viewing History in the Larger Context of God
Biblical Reflection for 33rd Sunday in Ordinary Time C By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, NOV. 9, 2010 ( Zenit.org ) .- As we come to the end of the Church's liturgical year, our Sunday Scripture readings are filled with apocalyptic images that may well terrify us with their intensity, honesty, realism and practicality. Apocalyptic writing was popular in Christian circles for a millennium. Major historical crises most often triggered apocalyptic thinking.
Not all uses of the word "apocalypse," however, have to do with a special kind of literature. St. Paul insisted that he received his gospel not from human sources but "by revelation" ( Galatians 1:12 ) and that he went to Jerusalem to meet with other Christian leaders "by revelation" ( Galatians 2:2 ) .
But as a kind of literature, apocalyptic deals with a revelation, or series of revelations, usually by means of an angel, which discloses the supernatural world beyond the world of historical events.
The focus is on eschatology, the end of the world as we now experience it and the beginning of a new world. Usually the transition is described in terms of transformations cosmic in scope and nature, along with judgment of failed persons and institutions and the vindication of God's saints.
Although some apocalypses involve ascensions into another world, both the Apocalypse to John and the apocalyptic discourse of Jesus in Luke 21 ( Mark 13; Matthew 24:1-38 ) join historical events with descriptions of what is going on behind and beyond history.
What is going on is mixed with what is really going on, history being set in the larger context of God's purpose, the whole being an extraordinary writing with historical descriptions laced with symbols, signs, and mysterious figures of speech. As strange as this literature may seem to us, it is a dramatic witness to the tenacity of faith and hope among the people of God.
Context
The destruction of Jerusalem is the historical event that prompted Jesus' apocalyptic speech in today's Gospel passage ( Luke 21:5-19 ) . Mark, for example, described the desecration of the Jerusalem temple by the Romans ( Mark 13:14 ) as the apocalyptic symbol ( see Daniel 9:27; 12:11 ) accompanying the end of the age and the coming of the Son of Man.
Luke ( Luke 21:20-24 ) , however, removes the apocalyptic setting and separates the historical destruction of Jerusalem from the signs of the coming of the Son of Man by a period that he refers to as "the times of the Gentiles" ( Luke 21:24 ) .
Jesus' eschatological discourse in Luke ( 21:5-36 ) is inspired by Mark 13, but Luke has made some significant alterations to the words of Jesus found there.
Luke maintains the belief in the early expectation of the end of the age but, by focusing attention throughout the gospel on the importance of the day-to-day following of Jesus and by reinterpreting the meaning of some of the signs of the end from Mark 13, he has come to terms with what seemed to the early Christian community to be a delay of the parousia -- the second coming of Christ at the end of time.
Signs of the end
In dealing with the persecution of the disciples ( Luke 21:12-19 ) and the destruction of Jerusalem ( 20-24 ) Luke is pointing to eschatological signs that have already been fulfilled.
In Luke's text, Jesus speaks in the temple and not away from the temple on the Mount of Olives.
The audience for Jesus' discourse in today's Gospel is "all the people" and not the disciples in private ( Matthew 24:3 ) or the original four disciples ( Mark 13:3 ) .
In today's Gospel ( Luke 21:5-19 ) , the signs of the end are threefold: the appearance of false messiahs and false calculators of time and place ( 8 ) ; wars, tumults, and international conflicts ( 9-10 ) ; and natural disasters with cosmic terror ( 11 ) .The coming to conclusion of God's purpose will affect not just Israel but all nations, not just the nations but also the entire cosmos. There is no area of God's creation so remote as to be unaffected by God's fulfillment of the divine intention.
A time for bearing faithful witness
However, disciples are not to be so preoccupied with these events as to be terrified or led astray by those who claim to have probed the divine mysteries and ascertained the time and place. The important thing to keep in mind is that before the end there is to be a time of witnessing ( 12-19 ) .
Those claiming "The time ( kairos=opportune time ) is at hand ( 8 ) fail to understand
that calculations of time ( chronos=calendar time ) do not lead one to know the fulfillment of God's time ( kairos ) . The present moment is a time for bearing testimony ( 13 ) . Now is the time to bear a faithful witness to the entire world.
Because of their witness, disciples will be bought before the synagogues and before governors and kings ( both realities were fulfilled in the Acts of the Apostles ) .
Hatred, betrayal by relatives and friends, and death await them.
There is nothing here of the arrogance of folly we often see and hear in modern apocalyptists, an arrogance born of a doctrine of a rapture in which believers are lifted above the conditions of persecution and hardship.
Disciples are not exempt from suffering. In the mist of the crises and storms the disciples of Jesus, then and now, will be given "a mouth and wisdom" ( 15 ) for the appropriate message to be delivered. Keep in mind that in Luke, one of the most important functions of the Holy Spirit is to inspire speech.
More than architectural admiration
Today's Gospel scene came at a moment late in Jesus' ministry, and the disciples stood with him on Jerusalem's holiest ground and stared at the majestic temple of Jerusalem, the centre of Jewish culture and religion, Herod's masterpiece of appeasement of the Jews. It was clearly a sight to stir the soul! And yet this group outing to the Temple Mount suddenly turned serious. What began with architectural admiration became a prophetic glimpse of what discipleship would cost those who would bear his name.
It would bring public persecution and betrayal by those closest in the circle of family and friends. Now the long-promised Messiah-prophet had come and taken his place in a temple rebuilt for the third time. His very presence was the visitation of God. Jesus spoke about the earth-shattering catastrophes includeing the seizure, persecution, deliverance and betrayal of the disciples. He also spoke about the many who will come in his name to bring quick fixes to the great dilemmas of his and our time.
Jesus is clearly no stranger to the horrific forces still on the prowl in our world. Their terror, whether cosmic or personal, is overcome by the assurance that he knows his own, even the number of the hairs on their heads.
He went to the cross to make that assurance trustworthy. It is not stoic determination that gets us "gain of soul," but faithful reliance on his promise of grace sufficient in weakness, a grace that works in everything for the gain of the soul.
To reject the divine reign Jesus brought would be to bring down the judgment of God. To endure under his gracious reign would be "to gain your souls." Remember that Jesus spoke of the soul not as fixed but "gained."
The soul is that inward capacity in which the divine and human connect in a lifelong process of anchoring and maturing and enduring--enduring that will not flinch in the face of suffering.
What's in a name?
If apocalyptic literature shocks us, it may well be for good reasons. Maybe we need to be lulled out of our complacent faith and beliefs, our way of living and acting, and realize that time is short, that the Lord truly does come like a thief in the night, that we must radically change our ways today, not tomorrow.
The theme of Jesus' words in today's Gospel
is that his "name" ( which is the equivalent of his mission and his person ) will be the cause of disruption. And yet we often remain so uncourageous, shunning any form of conflict and struggle.
We hide our Catholic Christian identity for fear of "offending" others or of being labeled Christian or Catholic. Have we ever stopped to realize that maybe some things in this world are truly worth fighting for, and even dying for? Have we forgotten that those associated with "the Name" will endure persecution?
A lesson
There is also an important message for us in today's second reading from Paul's second letter to the Thessalonians ( 2 Thessalonians 3:7-12 ) . St. Paul admonishes the Thessalonians about a specific problem in their community that has grown out of the intense eschatological speculation, namely, not to work but to become instead disorderly busybodies ( 6-15 ) .
Some members of the community, probably because they regarded the parousia as imminent or the new age of the Lord to be already here had apparently ceased to work for a living.
They allowed themselves to be overcome with fear and paralysis about the future, and longed for imminent deliverance from the present struggles and suffering. They effectively gave up and used the parousia as an excuse to cease transforming the society in which they lived by their faithful and courageous witness. They busied themselves with all the wrong things!
As we near the end of the liturgical year and are confronted with ultimate things in today's Scripture readings, let us never forget that we are called to give witness through our daily living.
Amid painful and prolonged suffering, when there can be seen on the horizon of predictable history no relief from disaster, faith turns its face toward heaven not only for a revelation of God's will but also for a vision of the end of the present misery and the beginning of the age to come.
That thought alone is a cause of consolation, joy and hope in the midst of the storms of our times.