「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」
年間第33主日B年聖書黙想 2009/11/15 トマス・ロシカ師
今日読まれた福音の物語は、マルコ福音書の中でも一番難解な 13 章 ( 13:24-32 ) から取られました。この部分はよく、世の終わりを告げる個所と説明されます。
マルコ 13 章はしばしば「小黙示録」と呼ばれます。そこでは、ダニエル書 7-12 や黙示録と同じく、迫害の世に焦点が当てられています。
この章を全体として捉えると、時間を追った記述というよりは、上記のテーマを中心に記述されていることが分かります。
神殿の崩壊を予告するイエスの言葉 ( マルコ 13:2 ) を聞いた4人の弟子たち(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)は、「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」と、ひそかに尋ねます ( マルコ 13:3-4) 。 この質問に対する答えは、死を目前にしたイエスの、世の終わりについての教えでした。その教えには、弟子たちや教会が直面することになる試練を通して信仰と従順を促す、教えと慰めが含まれていました。 (Mark 13:5-13)
その徴(しるし)は、憎むべき荒廃 ( マルコ 13:14; ダニエル 9:27 ) 、すなわち、神殿を汚すローマの権力の存在です。
偽メシアや偽預言者に惑わされて都を守るよりも、エルサレムから逃げるようにと促されました。 ( マルコ 13:14-23) 破壊の後になって初めて神は介入なさいます。 ( マルコ 13:24-27 ) そして それは、キリスト者の第1世代の終焉の前に起こります。 ( マルコ 13:28-31 )
御父だけが、その正確な時、またはキリストの再臨の時をご存知です。 ( Mark 13:32 ) ; それゆえ、「気をつけて、目を覚ましている」必要があるのです。 ( マルコ 13:33-37 ) ルカは、キリストの再臨の時期を、もっと後の「異邦人の時代が完了する時」とします。 ( ルカ 21:24 ) マタイ 24:1 − 25,46 の記述も参照してください。
人の子
今日の福音のイエスの言葉は二つの現実について語ります。そのひとつは、イエスご自身が終末についての旧約聖書の言葉を完遂すること。 もうひとつは、弟子たちがイエスの再来の正確な時を気遣わなくてもよいということです。 13 章 26 節を読むとき、イエスは天上の存在であり、力と栄光を帯びて来られることが分かります。
ダニエル書の人の子( 7-13 )のように、マルコのイエスは(天の雲に乗って)再来し、「地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から」呼び集めます。 ( マルコ 13:27 )
イエスは弟子たちのために輝く未来を描くことはしませんでした。イエスはマルコ福音書の最初の読者たちが生きた、そして実際にわたしたちが生きるであろう「その時代」について語りました。イエスは戦争、地震、飢饉を予告し、それが「産みの苦しみの始まりである。」と語ります。(マルコ 13:8 ) ; 予告された出来事は、痛みに満ちた新しい時代の到来を知らせるしるしであり、それを止めようと立ち塞がる古い時代の力さえも伴ってやって来ます。
イエスが彼の時代の人々に語ったことは、全て、今日の人々にも恐怖を呼び起こすでしょう。
戦争、迫害、大災害、スキャンダル、そして悲惨な人々。 イエスは、これらの苦悩の予告を、希望を語る根拠として用いています。
わたしたちはイエスを見つめるようにと招かれています。わたしは今日の福音 ( マルコ 13 : 29-31 ) の中の言葉から大きな慰めを受け取ります。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
終末の試練
終末の試練は、さまざまな形でやって来ます。
第一は、裏切りです。丁度、イエスが「裏切られ」たように、あるいは試練のために罪人たちの手に「引き渡され」たように、マルコの読者は、「裏切られ」、あるいは最高法院に「引き渡され」、シナゴグで鞭打たれ、総督や王たちの前で証言するように呼ばれます。彼ら(わたしたち)は、自分の敵ばかりではなく、父親や子どもたち、自分の親族に「裏切られ」、あるいは死に「引渡され」るのです。
第二に、偽キリスト、偽預言者が現われ、「人たちを惑わそうとする」のです。これらの偽者たちは、悪魔を追い出すと約束し、「しるしや不思議な業を行って」イエスへの信仰を捨てるように惑わします。
第三に、他と比べて平和で安定した生活をしている人々にも試練や誘惑が訪れます。イエスは 13 章のたとえ話の結びで、この第三の試練に似た話をします。それは、旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には「目を覚まして」いるようにと、言いつけておく話です。
このたとえ話は、マルコの読者たちは「目を覚まして」いることが出来ず、眠ってしまう恐れがあることを示唆しています。 読者たちは、「世間のしがらみ、富への誘惑、更なる欲望」に脅かされます。そういったものは、イエスが、他のどこかで警告しているように、種が成熟する前にそれを枯らしてしまうかも知れません。
マルコの福音は、イエスに従う者はみな試練を受けるだろうと教えます。その人たちが受ける試練は、大きな苦悩であったり、または、力ある誘惑者が人を惑わすために行うしるしや不思議な業であったりします。イエスに従う者たちは、日々繰り返される事柄や普段の生活の中で、また肉の誘惑によって試されます。
私たちが直面する試練の形がどうであれ、マルコは、私たちに、目覚めて祈るようにと命じています。それは、頭と心を分けてしまうと、試練に耐えきれず、偉い主人が戻ってきたときに、主人を迎える準備ができていないので、主人の前で潔白を証明することができないからです。
わたしたちは試練を受けますが恐れる必要はありません。なぜなら、イエスは試練が起こる文脈(状況)を永遠に変えてしまったからです。わが身の試練に耐えることによって、イエスは、ご自身を神への完全な犠牲としてささげました。それによって、エルサレムの神殿の祭儀を過去のものにしたのです。
これからは、正しい人々にふさわしい「捧げもの」とは、神殿で捧げる犠牲ではなく、信者の集まる共同体の中での祈りです。神は、人間の罪を償うのに十分な犠牲として、 イエスという自らの「捧げもの」を受け入れました。 イエスに従う人は、従って、正義の神による怒りの罰から「請け戻され」(贖われ)ています。彼らは、自分が救いに定められていることを確信できるのです。
祈る人たちの共同体
マルコは、神殿の崩壊の結果として、祈る人たちの共同体が、「すべての民の祈りの家」となるだろうと示唆しています。この家が、イエスが建てる新しい神殿です。
誠実な祈りは、この新しい共同体、生きた石で築かれた神殿の「品質の証明」となります。マルコとその読者は、この「誠実な祈り」という概念をどう理解したのでしょうか? どうやって、そのようなやり方で祈りを始めたのでしょうか。そして、日常生活にとって、そのような祈りの結果はどうだったのでしょうか? イエスは、忠実な祈りは応えが得られると約束されました。しかし、その約束には条件があります。祈る人は、心の中に疑いを持ってはなりません。
ゲッセマネの暗闇と苦悩の中で、イエスは、これから受ける苦しみから救われることを熱心に神に求め、神にはそれができると全く確信しています。しかし同時に、イエスは、父である神の意志にご自身を委ねます。イエスの忍耐、ひたむきな姿勢、そして神のビジョンを優先し、ご自身のためのビジョンを軽く見る姿勢は、オリーブ山のふもとの園における偉大な勝利です。マルコにとって、ゲッセマネでの祈りは、「試練にある弟子」がどのように祈るべきかの模範です。
試練を受ける
今日の世界において、わたしたちを揺さぶる地殻変動的な大事件とは何でしょうか? わたしたちはどのように試練にさらされるのでしょうか? 排除、苦難、死と喪失、剥奪と空虚の経験によって、一度は喜びに満ちて受けた生命の言葉を捨て去ることになるのでしょうか?
金銭への執着、仕事や学校での成功、健康、悪習からの脱却、仕事の安全、地位と認知、家族や血縁についての心遣い、関心は、わたしたちの心の中に植え付けられた神の言葉を圧し潰してしまうのでしょうか?
わたしたちは、イエスに従うことを妨げる怒り、悲しみ、欲望のような感情の虜になっているのでしょうか? わたしたちの生活には僅かでも喜びが残されているでしょうか?
マルコ福音書のよい知らせは、わたしたちが試練の時にあっても、自分の意志の強い力に頼ってイエスの誠実さを模倣しなくともよいことです。神の力を欠くサタンの試練に直面しなくともよいのです。
ナザレのイエスは、わたしたちの状況を永遠に変えて下さったのです。マルコはこのよい知らせを、祈りの中で信者に力を与える語句で表現しています。
キリスト者の共同体は、一致した祈りの中で力を与えられます。それは、世の中に作用する恐れ、悲しみ、迫害、偽りの力では狂わすことのできない祈りです。
イエスは、人間の罪を贖い、神から人間を遠ざけようとする力を阻まれます。それゆえ、祈りの中で神に出会うとき、何事も可能になるのです。
より大きな図柄
日常生活の後退、喪失、悲劇に直面しても、救いの歴史をより大きな図柄でとらえる視点を失わないようにしましょう。わたしたちはキリスト者として、日々、「希望と憂鬱の間の対話」に応えるよう招かれています。それはこの時代をよく表してきました。集団の中の心配事は、見通しの利かない危機に際して容易に集団ヒステリーに変わります。
それゆえに、神の言葉の内にしっかりと立ち、その言葉から生命を引き出し、その言葉の中に生きることが大切です。
それによってわたしたちは、預言者ダニエルの言葉「目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」 ( 12:1-3 ) を、日常生活の中で理解するのです。
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Know That He Is Near, at the Gates
Biblical Reflection for 33rd Sunday in Ordinary Time B By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, NOV. 11, 2009 (Zenit.org).- Today's Gospel story is taken from the most difficult chapter of Mark's Gospel (13:24-32) and is often interpreted as announcing the end of the world.
Mark 13 is often called the "little apocalypse." Like Daniel 7-12 and the Book of Revelation, it focuses on a world of persecution.
When we take the chapter as a whole, we will be able to see that we are dealing with the theme of meaning rather than chronology.
Jesus' prediction of the destruction of the temple (Mark 13:2) provoked questions that the four disciples put to him in private regarding the time and the sign when all these things are about to come to an end (Mark 13:3-4). The response to their questions was Jesus' eschatological discourse prior to his imminent death. It contained instruction and consolation exhorting the disciples and the Church to faith and obedience through the trials that would confront them (Mark 13:5-13).
The sign is the presence of the desolating abomination (Mark 13:14; see Daniel 9:27), i.e., of the Roman power profaning the temple.
Flight from Jerusalem is urged rather than defense of the city through misguided messianic hope (Mark 13:14-23). Intervention will occur only after destruction (Mark 13:24-27), which will happen before the end of the first Christian generation (Mark 13:28-31).
No one but the Father knows the precise time, or that of the parousia (Mark 13:32); hence the necessity of constant vigilance (Mark 13:33-37). Luke sets the parousia at a later date, after "the time of the Gentiles" (Luke 21:24). See also the notes on Matthew 24:1-25,46.
Son of Man
Jesus' words in today ' s Gospel deal with two realities: Jesus himself will fulfill the Old Testament Scripture texts about the end and the disciples are not to worry about the precise time of Jesus' second coming. When we read v. 26, we know that Jesus is the heavenly being who will come in power and glory.
Like Daniel's Son of Man, Mark's Jesus will return and gather his elect "from the four winds, from the end of the earth to the end of the sky" (Mark 13:27). When Jesus spoke, he didn ' t paint a glistening future for his disciples. He addressed the very era in which Mark's first readers lived and, indeed, in which we ourselves live. Jesus foretold wars, earthquakes and famines, and identifies these as "the beginning of the birth pangs:" the prophesied events signal the painful advent of the new age, which comes about even as the powers of the old age struggle to prevent it.
Jesus described to the people of his day all the things that would arouse fear in people today: wars, persecution, catastrophes, scandals, and people in misery. Jesus used these predictions of distress as a basis for hope. We are invited to fix our gaze on him! I take great consolation is the words of Jesus in today ' s Gospel: "When you see these things happening, know that he is near, at the gates. Amen, I say to you, this generation will not pass away until all these things have taken place. Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away."
Eschatological testing
Eschatological testing will take a variety of forms. First, there will be betrayals. Just as Jesus was "betrayed" or "handed over" to the hands of sinners for testing, so Mark's readers will be "betrayed" or "given over" to councils, beaten in synagogues, and called to give testimony before governors and kings. They will be "betrayed" or "given over" to death not only by their enemies, but even by their fathers and children, their own kin!
Second, false Christs and false prophets will appear, to "lead many astray." These deceivers will promise deliverance and perform signs and wonders so as to trick people into abandoning their faith in Jesus.
Third, there will be trials or temptations even for those who enjoy relative peace and stability. Jesus speaks about this last sort of trial in his concluding parable in chapter 13, about a man who goes on a journey, having put his servants in charge and commanded his doorkeeper to "watch" or to "keep awake."
The parable suggests that Mark's readers are in danger of failing to "watch," of falling asleep. They are threatened by "the cares of the world, and the lure of wealth, and the desire for other things," which Jesus elsewhere warns may choke out the seed before it matures.
Mark's Gospel teaches us that all who follow Jesus will be put to the test. They will be tested by great affliction or by powerful seducers who do signs and wonders to lead them astray. They will be tested by the ordinary routines of daily existence and by fleshly desires.
Whatever the form of the tests we face, Mark tells us that we must remain vigilant and pray, for if we have divided minds and hearts, we will fail the tests and so be unprepared to greet the master and be vindicated before him when he comes.
We shall be put to the test, but we need not fear, for Jesus has changed forever the context in which testing occurs. Because of his endurance of his own testing, Jesus offered himself as the perfect sacrifice to God, thereby rendering the cult in the Jerusalem temple obsolete.
From now on, the appropriate "offerings" of the righteous will be prayers made in the gathered community of believers, rather than sacrifices made in the temple. God accepted Jesus' self-offering as sufficient to atone for human sin; those who follow Jesus have therefore been "ransomed" from wrathful punishment by the just God. They can be confident that they are destined for salvation.
The community of those who pray
Mark indicates that in the wake of the temple's destruction, the community of those who pray will be the "house of prayer for all nations," the new temple to be raised up by Jesus.
Single-minded prayer is the hallmark of this new community, the temple built of living stones. But how might Mark and his readers have understood this notion of "single-minded prayer"? How did one go about praying in such a manner, and what were the consequences of such prayer for daily life? Jesus promised that faithful prayer will be answered, but his promise is qualified: Those who pray must not doubt in their hearts.
In the darkness and anguish of Gethsemane, Jesus earnestly requests that God save him from the agony that lies ahead, and he is fully convinced that God can do so. But at the same time, Jesus submits himself to the will of God his Father. Jesus ' endurance, his single-mindedness, his deliberate laying aside of his own vision for himself in favor of God's vision for him is what triumphs in the garden at the foot of the Mount of Olives. For Mark, this prayer in Gethsemane is a model of how "disciples on trial" ought to pray.
Put to the test
What are the great cataclysmic events that shake us in our world today? How are we being put to the test daily? Are experiences of rejection, or suffering, death or loss, deprivation and emptiness leading us to give up the Word of life that we once received with joy?
Are our concerns about money, success at work or in school, health, release from addiction, job security, status and recognition, family or relationships choking out the word of God which has been planted in our hearts?
Are we gripped by passions such as anger, grief or lust, which block us from following Jesus? Is there any joy left in our life?
The Good News of Mark's Gospel is that we do not have to replicate Jesus' faithfulness in time of trial by the sheer force of our own will. We do not have to face satanic tests devoid of divine power. Jesus of Nazareth has changed our situation forever. Mark phrases the Good News in terms of the empowering of believers that takes place in prayer.
The Christian community is empowered to engage in single-minded prayer that cannot be derailed by fear, grief, persecution, or deceptive powers at work in the world.
Jesus has atoned for human sin and undermined the very powers that seek to separate humans from God. Therefore all things are possible when we come to God in prayer.
Bigger picture
Let us never lose sight of the bigger picture of salvation history as we face the setbacks, losses and tragedies of daily life. As Christians, we are invited each day to respond to the dialectics of hope and gloom, which often have gripped our age. Collective anxiety can easily become mass hysteria in the mist of any crisis.
That is why it is so important to be firmly established in the Word of God, to draw life from that word and live in that Word.
It is then that we realize the prophet Daniel ' s words (12:1-3)in our daily life: "But the wise shall shine brightly like the splendor of the firmament, and those who lead the many to justice shall be like the stars forever."
朗読:
ダニエル 12:1-3; その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。
ヘブライ 10:11-14, 18 :すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一の生贄を献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。
マルコ 13:24-32 :「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。