復活のいのち、神の国のいのち
年間第 32 主日 聖書黙想 2010/11/7 トマス・ロシカ師
復活に関するキリスト者の信仰は、そもそもの初めから、無理解と反対に直面してきました。キリスト者の信仰の中で、この身体の復活ほど、多くの反対に出会ったものはありません。復活の問題は、キリスト者にとってだけ大切なのではありません。それは、生と死について考えるすべての人々にとってもきわめて重大な問題です。
探求精神の無さ
ユダヤ教が一枚岩であったことは決してありませんでした。ですから「ユダヤ人はこう信じていた」と言うのは、間違った事実を伝えることになり、誤解を生じさせます。今日の福音(ルカ 20:27-38 )には、サドカイ派の名前が出てきます。これは、ユダヤ教の中のいくつかのグループ、あるいは派閥の一つです。サドカイ派は祭司階級で、彼らの多くは貴族で、金持ちで、神学的には保守的でした。彼らにとっての聖典は、モーセ五書でのみで成り立っていました。モーセ五書( Pentateuch )に入っていないものは、どれも正統的な教えではありませんでした。そして、モーセ五書には復活の教義は書かれていなかったのです。
エルサレムにおけるこれらの宗教的指導者たち、あるいはその代表者らは、イエスをローマ人の手で有罪にして、人々の信頼を損なわせようと企てていました。彼らのやり方は、イエスを議論に巻き込んで困惑させ、イエスの教えが特殊な思想の一つだと決めつけようとするものです。あるいは、単に聴衆を分裂させることが目的なのかも知れません。彼らには(真理を)問いかける精神も無ければ、何かを学びたいという欲求もありません。彼らの古典的な質問の一つ、「仮に〜だとしたら?」という問いを投げかけて、イエスに食い下がるだけです。その質問は、彼らにとってはとうの昔に答えが出ている問題です。「 死者の復活はない 。」(ルカ 27 節、使徒言行録 23 : 8 )
復活の信仰
ファリサイ派や、イエスと同時代の人たちの多くは、復活があればよいと思っていました。彼らは、預言者とその言葉を聖典に取り入れていましたが、モーセ以来の口述の伝承もまた信じていました。
復活信仰の基になったのは口述伝承の方です。この問題については、ファリサイ派とサドカイ派の間で激しい論争になっていました。この現実を、パウロは、ユダヤの最高法院での裁判の間に、自分から注意をそらせるために利用しました。(使徒 23:6-10 )
訳注:使徒 23:6-10 :パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。
サドカイ派の人たちは、復活を信じていませんでした。今日の福音に出てくる彼らの質問は、申命記 25 章 5-10 節に記録されているレビレート婚の律法に基づいており、亡くなった兄弟に対する男性の義務に詳しく触れています。ファリサイ派は復活という考えを嘲っています。イエスは、復活に対するファリサイ派の硬直した考えを退け( 35-36 節)、サドカイ派が信奉する律法を引用して、死者の復活を論じています。
訳注:申命記 25:5-10 :(家名の存続)兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。もし、その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである。「わたしの義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、わたしのために兄弟の義務を果たそうとしません。」町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が、「わたしは彼女をめとりたくない」と言い張るならば、義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて、「自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる」と言うべきである。彼はイスラエルの間で、「靴を脱がされた者の家」と呼ばれるであろう。
イエスの答えは、二つの部分に分かれています。最初の部分( 34-36 節)では、この世と次の世のいのちの違いを示して、質問の不適切さを端的に指摘します。この世では、死という現実があるために、婚姻と生命の永遠性が最も重要なものになります。しかし、次の世では死ぬことはありません。復活にあずかる者たちは天使に等しい者であり、神の子だからです。
イエスは、答えの後半部分( 37-20 節)で、サドカイ派の聖書であるモーセ五書を引用しています。
イエスは、出エジプト記の 3 章 6 節を用いて答えます。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。もしその先を続けるなら、「アブラハム、イサク、ヤコブは生きており、死んではいない。」とイエスは言うでしょう。
サドカイ派に対するイエスの答えの二つの部分は、死者の復活の信仰に関して、その理由(この世のいのちの状態は、次の世での状態を決める根拠にはならないこと)と、典拠としての聖書(出エジプト 3 : 6 )による論法で成り立っています。この信仰に関しては、イエスはファリサイ派と一致しました。ここでの論争は、イエスの復活に関する論争であり、一般的な復活の教義に関する論争ではないはずです。
知り合うことと、真に知ること
イエスの時代、ファリサイ派とサドカイ派の人たちは、外面的にはイエスをよく知っていました。彼らは、イエスの教えを学び、イエスについて細かなことまでよく知っていましたが、イエスの本当の姿は知りませんでした。これらのグループや派閥の人たちは、イエスを知っているのですが、表面的です。彼らはイエスについて様々なことを知っていますが、イエスを本当には知りません。
他方、 12 人の使徒たちは、少なくともイエスの本質を理解しており、イエスが何者であるかに気付き始めていました。「知る」ということについての、この異なる性質は、今日でも見られます。イエスについて詳しく知っているけれど、イエスを真に知り、愛することは決してない学識ある人々が居ます。そのような人たちの多くは、神学を勉強してさえいるのです。一方、イエスについての詳しい知識は無くても、その真実と美しさを十二分に知っている無学な人々も大勢いるのです。
賜物と神秘
結婚は、その自然な結果として子供の出産を伴います。結婚は、人類の継承と、新たな存在の創造を保証します。人間は死ぬ運命にあり、後継者を残す必要があるのです。神の僕、教皇ヨハネ・パウ
ロ 2 世は、何度も繰り返してこう語りかけます。「人類の未来は、家族を通してもたらされます。」
神に捧げた独身制と貞潔とは、近づきつつある復活の時と、神の国のしるしです。何故なら、復活と神の国にあっては、めとることも嫁ぐこともないからです。教会における独身制と貞潔は、福音に示された新しい秩序に気付かせます。独身制と貞潔は、死者の復活に関係します。それは永遠、不滅、いのちを示すしるしです。
独身生活は、次の世を表すしるしです。ラテン典礼を捧げるわたしたち司祭は、イエス・キリストに従う者としての全存在を賭けて、独身生活を生き抜こうと努めています。福音を伝え、主の足下にひれ伏して黙想し、神の国の到来を宣言し、いけにえの聖体を捧げること、これが独身を貫く司祭の役割です。これこそが、「天の国のために」自発的な独身制と貞潔の生活を定めたキリストが意図したことです。すなわち、霊的にばかりでなく、肉体的にも実際的にもキリストの似姿になることです。自発的な独身制と、自由に選びとった貞潔とは、神の国への奉仕に格別ふさわしい状態です。司祭はイエスのように、司牧と奉仕に、霊的にも人間的にも完全に専心できます。わたしたちが独身制と貞潔を守るのは、より平和的に、より自由に、したいことをするためではなく、神の国へのキリストの献身に似る者となるためです。
独身の理由
さて今日の福音を、叙階された司祭、奉献生活を送る修道者としての自分に当てはめてみましょう。今日、世間の人はこのように問いかけます。「 教会は、どうして、不自然で、不必要で、過酷にさえ見える習慣を守り続けるのですか?」「結婚生活は、霊的に危険なのですか?」「司祭は、完璧な霊的能力を持っているのですか? それが、司祭が結婚するべきでない理由なのですか?」
創世記には、神は創造されたものを見て極めて良しとされ、それらを祝福されたとあります。しかし、創造の教義には、神がこの世を良いと肯定されたこと以上のものが含まれています。聖書の初めから終わりまで何度も繰り返される偶像崇拝の戒めは、「神」と「この世」を分ける差がその根拠になっています。神以下のものを、神に変えてはなりません。創造の教義には、全宇宙に対する偉大な「肯定」と偉大な「否定」の両方が含まれています。(世俗からの)離脱とは、神以下の何ものも自分の生き方の基準にしたり、生活の中心に置いたりしないということです。この世にあるすべてのものは、性や親しい交わりを含めて、良いものですが、それらは一時的で不完全なものです。
旧約聖書の聖書物語では、神が、ある真理をその民に鮮明に覚らせ、目に見えるものにしようとするとき、しばしば一人の預言者を選び、彼に、その真理を行動で示し、具体的に表現するよう命じます。例えば、ホセアには、道に踏み迷い罪深いイスラエルを神の貞節に立ち戻らせるために(聖化するために)、淫行の女ゴメルと結婚するよう命じました。このように、性も、家族も、この世の係わりも、究極ではないという真理は、言葉で宣言することができ、また宣言されるべきです。しかし人々は、自分がそれを生身で実感しなければ信じることが出来ないのです。
訳注:ホセア 1:2-4 :(ホセアの妻と子)主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名付けよ。間もなく、わたしはイエフの王家に/イズレエルにおける流血の罰を下し/イスラエルの家におけるその支配を絶つ。
神が、ある人たちを、独身生活を送るように選ぶ理由はこれだと、わたしは本当に信じています。
わたしたちの使命は、愛の超絶的な形、すなわちわたしたちが天国で愛するやり方を示すことです。神と共にいる生活の中でわたしたちは、それと比べれば、この世の最も熱烈な交わりさえも色あせ、無価値になるような(神との)交わりを(肉体的にも霊的にも)体験するのです。独身制はこの真理を、手っ取り早いもの、目に見えるもの、分かりやすいもの、新奇なものに傾く世の中に対して、露骨なほど現実的に示しています。独身制の実際的な意味は、言葉で上手に表現できるかも知れませんが、最終的には終末論の文脈の中でしか意味をなしません。それは、究極的には、未だ到来していない世界のことなのです。
司祭として(まもなく 25 年)、修道者として(まもなく 30 年)、長くなればなるほどに、わたしは、司祭職にとって絶対に欠かせない資質は、表面的な名声でも、巧みな管理術でも、聖職者としての知識でも、爽やかな弁舌でも、若々しい明敏さでも、はたまた人当たりの良さでも無い、という確信を深めています。それはもっともっと謎に満ちていて、深くて、神秘的でもあるのです。それは、わたしたちが未だに十分把握できず、見ることも理解することもできないものに対する憧憬です。それは深遠な心の問題、福者ジョン・ヘンリー・ニューマンの言葉を借りれば、真の "cor ad cor loquitur" (心に話しかける心)です。結論として、それは、イエス・キリストを知り、愛すること、全てにおいてイエス・キリストの捕らわれ人になること、真の「イエス・キリストの復活の証し人」になることです。復活したキリストとの出会いこそが、キリスト者の復活への希望のしるしです。わたしたちは、キリストのように、キリストのうちに、キリストを通して復活します。このような理由でわたしたちは、この死者の月である 11 月に、心から喜ぶことができるのです。
今週の祈り
わたしたちの主であるキリストご自身とわたしたちの父である神よ
あなたはわたしたちを愛し、その恵みを通して永遠の励ましと善い希望を与えて下さいます。
どうか、すべての善い行いと善い言葉のために、わたしたちの心を励まし、強めてください。
わたしたちの主は誠実です。主は、わたしたちを強め、わたしたちを悪から守ってくださいます。
どうか、主が、わたしたちの心を神の愛へと、キリストの忍耐へと導いてくださいますように。( 2 テサロニケ 2:16-3:5 )
訳注: 2 テサロニケ 2:16-3:5 わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。 3:5 どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。
主よ、あなたの栄光が現れるとき、わたしは喜びに満ち溢れます。瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください。しかし、わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることができるでしょう。(詩編 17:1 、 5-6,8 、 15 )
聖書朗読:
2マカバイ 7:1-2, 9-14 : 〔その日、〕 7 : 1 七人の兄弟が母親と共に補らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。 2 彼らの一人が皆に代わって言った。「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」
9 〔二番目の者も〕息を引き取る間際に言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消しし去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」
10 彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、 11 毅然として言った。「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」 12 そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。
13 やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。 14 死ぬ間際に彼は言った。「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」
2 テサロニケ 2:16-3:5 : 2:16 [皆さん、]わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、 2:17 どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。 3:1 終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、 3:2 また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。 3:3 しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。 3:4 そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。 3:5 どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。
ルカ 20:27-38 : (復活についての問答) 20:27 [そのとき、]復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
< 20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 20:30 次男、 20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 20:32 最後にその女も死にました。 20:33 >
すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
Life in the Resurrection and the Kingdom of God
Biblical Reflection for 32nd Sunday in Ordinary Time C, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, NOV. 2, 2010 ( Zenit.org ) .-
Christian faith in the resurrection has met with incomprehension and opposition from the very beginning. On no point does the Christian faith encounter more opposition than on the resurrection of the body. The question of the resurrection is vital not only to the Christian faith but to all people who reflect on life and death.
No spirit of inquiry
Judaism has never been monolithic, and to say "the Jews believed" is to be misinformed and to misinform. In today's Gospel ( Luke 20:27-38 ) we encounter the Sadducees, one of several groups or parties within Judaism. Sadducees were of the priestly class, many of them aristocratic, wealthy, and theologically conservative. Scripture for them consisted of only the five books of Moses. No teaching was authoritative if it was not found in the Pentateuch, and they found no doctrine of the resurrection in the books of Moses.
These Jerusalem religious leaders or their representatives attempt to incriminate Jesus with the Romans and to discredit him with the people. Their air is to argue, to embarrass, to force Jesus into one particular school of thought, or perhaps just to divide the audience. There is among them no spirit of inquiry or desire to learn. They are simply baiting Jesus with one of their classic "what if" questions, a question on which their minds had been settled long ago: There is no resurrection of the dead ( v. 27; Acts 23:8 ) .
Belief in the resurrection
The Pharisees and many of the Lord's contemporaries hoped for the resurrection. They not only included the prophets and the writings in their Scripture but also believed in the authority of the oral tradition from Moses. The basis for belief in the resurrection was found in that oral tradition.
The subject was heatedly debated between the two parties of Pharisees and Sadducees, a fact that Paul made use of to draw attention away from himself during his trial before the Jewish Council ( Acts 23:6-10 )
The Sadducees did not believe in the resurrection. Their question in today's Gospel, based on the law of levirate marriage recorded in Deuteronomy 25:5-10, details the duty of a man toward a deceased brother. The Pharisees ridicule the idea of the resurrection. Jesus rejects their naïve understanding of the resurrection ( vv. 35-36 ) and then argues on behalf of the resurrection of the dead on the basis of the written law ( vv. 37-38 ) that the Sadducees accept.
Jesus' answer is twofold. The first part ( vv. 34-36 ) simply points out the inappropriateness of the question, given the difference between life in this age and the age to come. In this age, the fact of death makes marriage and perpetuation of life essential. However, in the age to come there is no death, but those who attain to the resurrection are equal to the angels, they are children of God.
In the second part of his answer, Jesus draws on the Sadducees' own Bible, the book of Moses ( vv. 37-40 ) . Jesus answers them with Exodus 3:6: God is a God of the living and not of the dead. If follows then, says Jesus, that Abraham, Isaac and Jacob are living, not dead.
The two parts of Jesus' answer to the Sadducees constitute an argument from reason ( condition of this life do not constitute proof of conditions in the next ) and Scripture ( Exodus 3:6 ) for the belief in the resurrection of the dead. In this belief Jesus was in agreement with the Pharisees. The argumentation has to do with the resurrection of Jesus, not with a doctrine of resurrection in general.
Acquaintance and true knowledge
In Jesus time, The Pharisees and the Sadducees were externally acquainted with Jesus, they learned his teaching and knew many details about him but they did not know him in his truth. The members of these groups or parties know him, but superficially; they know various things about him, but they do not really know him.
On the other hand, the Twelve Apostles have at least understood in substance and begun to discover who Jesus is. This different manner of knowing still exists today: There are learned people who know many details about Jesus and never get to really know and love him. Many such people have even studied theology! There are also many simple, unlearned people who have no knowledge of these details but have known him in the fullness of his truth and beauty.
Gift and mystery
Marriage has as its natural end the procreation of children, it assures the continuance of the human race and the creation of new beings, since human beings are destined to die and need to leave successors. How many times did the Servant of God, Pope John Paul II tell us, "The future of humanity passes through the family."
Consecrated celibacy and chastity are signs of the resurrection and of the Kingdom of God which is drawing near, for in the resurrection and the kingdom there will be neither marrying nor giving in marriage. Celibacy and chastity in the Church draw attention to the new order of the Gospel. They relate to the resurrection of the dead; they are signs of eternity, of incorruptibility, of life.
The celibate state is a sign of the world to come, which we priests of the Latin Rite strive to live with our whole existence as a follower of Jesus Christ, in the ministry of the Gospel, in contemplative prayer at the feet of the Master, in proclaiming the coming kingdom of God, and in offering the sacrifice of the Eucharist, which sums up our entire priesthood. This was what Christ intended when founding the state of voluntary celibacy and chastity "for the sake of the kingdom of Heaven": establishing a resemblance to Christ, which is not only spiritual but physical and practical too. Voluntary celibacy and freely chosen chastity are a state particularly suited to the service of the kingdom. Like Jesus, the priest can commit himself entirely -- spiritually and humanly -- to the ministry and service. We are not celibate and chaste so as to be more peaceful and free to do what we wish, but to resemble Christ in his commitment to the kingdom.
The reason for celibacy
Let me apply today's Gospel to my life as an ordained priest and consecrated religious. The world asks today: "Why does the Church continue to defend a practice that seems so unnatural and unnecessary and even cruel?" "Is married life is spiritually suspect?" "Are priests spiritual athletes above reproach? Is that the reason why we priests shouldn't be married?"
Genesis tells us that God saw great goodness in what he created and took delight in it. But there is more to the doctrine of creation than an affirmation of the goodness of the world. This distinction between God and the world is the ground for the anti-idolatry principle that is reiterated from the beginning to the end of the Bible: Do not turn something less than God into God. The doctrine of creation involves both a great "yes" and a great "no" to the universe. Detachment is the refusal to make anything less than God the organizing principle or center of one's life. Everything in this world -- including sex and intimate friendship -- is good, but impermanently and imperfectly so.
In the biblical stories of the Old Testament, when God wanted to make a certain truth vividly known and visible to his people, he often chose a prophet and commanded him to act out that truth, to embody it concretely. For example, God told Hosea to marry the unfaithful Gomer in order to sacramentalize God's fidelity to wavering and sinful Israel. Thus, the truth of the non-ultimacy of sex, family and worldly relationship can and should be proclaimed through words, but it will be believed only when people can see it in flesh and blood.
I really believe that this is why God chooses certain people to be celibate. Our mission is to witness to a transcendent form of love, the way that we will love in heaven. In our life with God, we will experience a communion ( bodily and spiritual ) compared to which even the most intense forms of earthly communion pale into insignificance. Celibates make this truth blatantly real for a world that is bent on the immediate, the visible, the tangible, and the now. Though we might be able to articulate practical reasons for it, celibacy only finally makes sense in the eschatological context. It is ultimately a matter for the world yet to come!
The longer I am a priest ( soon to be 25 years ) , and a consecrated religious ( soon to be 30 years ) , I am more and more convinced that the compelling quality of the priesthood is not a matter of superficial celebrity, masterful administration, clerical savvy, brilliant oratory, youthful agility or diplomatic charm. It is something much more mysterious, deeper, and even mystical. It is a fascination for something we cannot yet fully grasp, see or understand. It is a profound matter of the heart, a real "cor ad cor loquitur" [heart speaking to heart], in the words of Blessed John Henry Newman. It is, in the final analysis, a matter of knowing and loving Jesus Christ, being totally seized by him, becoming a true "witness to his Resurrection." Encounters with the Risen Christ characterize the Christian hope of resurrection. We shall rise like Christ, with him, and through him. That is indeed cause for rejoicing in these dying November days.
A prayer for us this week
May our Lord Jesus Christ himself and God our Father, who has loved us and given us everlasting encouragement and good hope through his grace, encourage our hearts and strengthen them in every good deed and word. Our Lord is faithful; he will strengthen us and guard us from the evil one. May he direct our hearts to the love of God and to the endurance of Christ ( Thessalonians 2:16-3:5 )
Lord, when your glory appears, my joy will be full. Keep me as the apple of your eye, hide me in the shadow of your wings. But I in justice shall behold your face; on waking I shall be content in your presence. ( Psalm 17:1, 5-6, 8, 15 )