ぜひ、あなたの家に泊まりたい

年間第 31 主日 聖書黙想  2010/10/31   トマス・ロシカ師

 

 

今日の福音の物語は、わたしの心に深く刻まれて消えることがありません。わたしは、小学校低学年の頃の歌を未だに思い出します。その歌は、「ザアカイというエリコ生まれの人が居た…」という歌詞で始まります。後年、聖地での大学院生活の間にわたしは度々エリコを訪れました。それは、じめじめとした寒い冬の日、エルサレムを離れてエリコの温和な気候を味わうためであったり、あるいは、その町の青空市場で、評判のナツメヤシ、マンゴー、レモンなどの果物を味わうためであったりでした。旧約聖書でエリコが「棕櫚(しゅろ)の町」と呼ばれているのはもっともなことです。エリコはまさに砂漠のオアシスです。

 

土地の人たちは、今でも、わたしたち外国人にラハブの家の正確な位置を教えてくれます。ラハブは旧約聖書に出てくる悪名高い娼婦で、マタイ福音書のイエスの系図にその名が挙げられています。ラハブの「家」は、わたしが最後にエリコを訪れたときは経理事務所になっていました。 (訳注 ヨシュア記 2:1-7 参照)

 

地元の人たちはまた、旧約聖書に出てくる大きな戦いでヨシュアが崩したとされる城壁の遺跡も喜んで教えてくれます。本当はそのような戦いは無かったかも知れないのに…。中でも最大の見ものは、通りかかったイエスを一目見ようとザアカイが登ったと言う 39 本程のいちじく桑の木と、後に聖人になったこの町の徴税人の頭の家です!

 

小さな彫像

今日の福音は、新約聖書の中のイエスが好んだ食卓のシーン(家に招かれる話)です。ルカが描くザアカイの姿は、はつらつとしていて、抗しがたいほど魅力的です。エリコの有名な徴税人の物語(ルカ 19:1-10 )はルカ福音書にしか出てきません。ここには、彼が徴税人の頭で、金持ちであったと記されています。ザアカイは金持ちなのに、ルカ 18 18-23 に出てくる、自分の持ち物を捨ててイエスに従うことがのできない金持ちとは対照的な人物です。ザアカイは、ルカによれば、富に対して適切に対処できる人物の模範的な例です。すなわち彼は、財産の半分を貧しい人々に施すと約束した結果、救いを受けます。

 

福音記者ルカの生々とした描写は、ザアカイを「背の低い男」と呼ぶことで一層魅力的になります。

ザアカイの小ささは、ただ背丈が低いと言うよりは、もっとずっと痛烈でみじめな小ささです。それは、自分に対する他人の態度から思い描く、みじめな自分のイメージから生まれるものです。わたしたちは、生活の中のこのような場面でこそ、もっとも傷つきやすくなっているのではないでしょうか。

 

ザアカイは、誰もが軽蔑する人たちの仲間でしたが、今日の物語では、本当は正直で謙遜な人物として描かれています。彼は真理を探し求め、それを見つけるためならば、イエスの姿を一目見ようといちじく桑の木に登るようなことさえもためらわないのです。ザアカイは、聖書に何度も繰り返し現れるそのような人物を代表しています。それは、何らかの理由で社会の片隅から眺めでいるだけ、でいつまでもそこから出られない人物です。わたしたちがそんな人物に出会うのは社会の片隅です。彼は、他人から拒絶され、世間の動きに参加したいと切望しても、決して参加できずにいるのです。

 

 

戸外のパレード

ザアカイは、なぜイエスを一目見ようと懸命になったのでしょうか。ことによると、イエスが自分とは全く違う人物だと思ったからかも知れません。イエスは褒め称えられています。求められています。そして何よりも多くの人々が彼を受け入れ、彼に従っています。もし、わたしたちが本当に自分に正直であるならば、自分の中に孤独感や疎外感があり、また事実として、あるいは想像の中で、他者に受容されず、愛されていないと思いがあって、他の誰かが表面的にでも自分を受け入れてくれるよう願っていることを認めるでしょう。

 

木に登ったザアカイのように、わたしたちは、しばしば孤独や、嫉妬、ねたみ、自己憐憫、怠惰に捉われて、身動きが出来なくなってはいないでしょうか。そのようなときに、突然予想もしないことが起こります。パレードが家の前で止まり、わたしたちはびっくりするような言葉で招かれるのです。「あなたがここにいてくれて本当にうれしい。」とか、「お茶を飲みに行きませんか。大変な一日だったでしょう。」とか、「こちらに来て仲間に入って下さい。一人で居るのはよくないです。」とか、「いつ、わたしを招待してくれますか? あなたと夕食を共にしたいのです。」とか…。そのような言葉はいくらでも挙げられます。招きは、最も親密なもてなしの行為につながります。

 

賓客

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ 19:5

「ザアカイ」…、皆から嫌われている人に向ってイエスは名前で呼びかけます。「今日」…、そう、まさにこの瞬間こそが彼の救いの瞬間でした。「ぜひあなたの家に泊まりたい。」…、なぜ「ぜひ」なのでしょうか? それは、憐れみ豊かな御父が、イエスに、「失われたものを捜して救う」ことを望まれたからなのです。 (ルカ 19:10

 

それまでの生き方を改めるというザアカイの決心は悔い改めの証拠であり、その回心は、彼がアブラハムの真の子孫であり、旧約聖書にある神の契約の真の相続人であることを示します。ルカが、ザアカイを、ユダヤ人の父祖アブラハムの子孫として描いている背景には、救いの計画の中心にイスラエルがあるという、ルカの認識があります。

 

ザアカイがもてなし(好意)を求められたとき、彼もそうですが、彼と同じように人から避けられたり、拒絶されたりすることに慣れている人たちは、だれもが驚いて目を回してしまいます。エリコの城壁は本当に崩れ落ちたのです。多分ザアカイにとって、留保も条件もなしに受け入れられたのは初めてのことかも知れません。そしてそれは、大きな喜びにつながっても、恥にはなりません。それは全くルカ流の祝福です! イエスが彼の家に行ったことで、呟いていた人たちはもう一度ショックを受けます。そして、さらに大きなショックが待っています。イエスが、ザアカイのような悪名高い罪人と共に食卓についたからです。イエスは、上流階級の人々と食卓についている間に、ザアカイが、自ら造り出した疎外、欺瞞、不正の灰にまみれた墓から立ち上がるのをご覧になっていました。

 

救いの訪れ

イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。」と公に宣言します。それはあたかも、エリコの徴税人の頭に向け、また彼を通してわたしたちに向け、こう言っているかのようです。「ザアカイ、あなたの木のそんな高いところにまで登って、わたしから隠れてはいけない。自分だけの罪悪感に全エネルギーを集中して浪費してはいけない。わたしはあなたと語り合って、あなたがどこに自分を閉じこめているのかを見出したい。あなたの言訳や口実は脇に置いて、この迷路から抜け出す道をいっしょに捜そうではないか。見てごらん、この木は芽吹いている。わたしは、あなたを救うために来たのだ。」

 

この物語の教訓 

わたしは長年の間に、この古い物語からいくつかの教訓を見出してきました。そのうちの一つは、神の愛に向き合うとき、わたしたちは、自分が失われた空虚な存在であることを先ず認める必要があり、その後に、自分が神に見出された地点から全てを始めなければならないという教訓です。先ず自分を覆い隠す仮面を選んで身につけなければ、その仮面をはぎ取って化粧を落とし、自分の本当の顔を見るプロセスは始められないのです。キリストが復活した都エルサレムへの旅を始めるためには、わたしたちの中で、心、感情、知性、関わり、そして自尊心の「死」を体験する必要があります。そして時には、自分自身を憐れむことをやめ、防御の鎧を脱ぎ捨て、隠れていた木から飛び降り、持ち物の半分を貧しい人々に分け与え、だまし取った金を返さなければならないこともあるでしょう。なんと批判されても構いません。救いが、わたしたちの社会、共同体、家庭、そしてわたしたちの心に訪れたなら、もはや、この貴重な賜物を奪い取ることなど誰にもできないのです。

 

変容

神の僕、教皇ヨハネ・パウロ 2 世は、 2002 年の聖木曜日の ために、司祭たちに宛てた 書簡 Nos. 5-6 の中で、今日の喜ばしい福音の ザアカイの 物語について次のような言葉を述べています。

 

「ザアカイに起こったことはすべてが驚きです。もしあの時、キリストが彼を見上げて、あの「サプライズ」 予期せぬ出来事 )を 行わなかったとしたら、ザアカイは、エリコの街を通り過ぎる主を黙って見送る傍観者に留まっていたことでしょう。イエスはそこを通り過ぎ、彼の生活に立ち入ることはなかったでしょう。ザアカイは気づいてはいませんが、彼に普段とは違う行動を取らせたあの「好奇心」は、先立って彼に与えられていた(イエスの)憐みの結果だったのです。それが彼の心を捉え、心の奥底で彼を変えようとしていたのです。」

 

「ルカの言葉の響きは素晴らしいものです。すべてが、とても親しみ深くで、とても巧みで、とても愛情深いのです! 人間味にあふれているのは、本文ばかりではありません。神の憐みをはっきりと啓示するイエスの声の中には、強調と緊急のニュアンスが込められています。イエスは、『ぜひあなたの家に泊まりたい。』と言います。それをいっそう文字通りに訳せば、『あなたの家に泊まる必要がある。』となります( 5 節)。御父がイエスのために描いた神秘のロードマップに沿って、イエスは道中、ザアカイに出会います。イエスは、この出会いが最初から計画されていたかのように、ザアカイの近くで立ち止まります。人々の悪意をこめた呟きにもかかわらず、この罪人の家は今や、啓示の場所、憐れみの奇跡の舞台になろうとしています。実際ザアカイが、利己主義を捨て、不正な詐欺の道から自分の心を解き放たなかったならば、そのことは起きなかったでしょう。しかし憐れみは、既に、無償のあふれ出る賜物としてザアカイのもとに届いていました。憐れみは、彼に先立っていたのです。」

 

「これが、ザアカイに起こったことです。今や『息子』として扱われていることに気づいた彼は、息子のように考え、振る舞い始めます。そして彼は、兄弟姉妹を再発見していく過程でそれを表します。キリストの愛情に満ちた眼差しのもとで、ザアカイの心は隣人への愛に熱中します。彼の孤立感が、他者の苦しみに対する気遣いよりも自分が豊かになることに向かわせていたのですが、その彼が、分かち合いへと態度を変えたのです。それは彼の、誠実な富の「分割」に表されています。『わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。』  他者をだまして得た不正な金は、 4 倍にして弁償されます。

  『だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』( 8 節) そして、この時点でようやく神の愛はその目的を達成し、救いが成就しました。『今日、救いがこの家を訪れた。』」( 9 節)

 

 

 

◇◇◇

 

 

聖書朗読

 

知恵の書 11 : 22-12 : 2 (主よ、) 22 御前では、全宇宙は秤をわずかの傾ける塵、/朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。 23 全能のゆえに、あなたは全ての人を憐れみ、/回心させようとよして、人々の罪を見過ごされる。 24 あなたは存在するものすべてを愛し、/お造りになったものを何一つ嫌われない。/憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。/ 25 あなたがお望みにならないのに存続し、/あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。/ 26 命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、/あなたはすべてをいとをしまれる。/ 12:1 あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。/ 2 主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、/罪のきっかけを思いださせて人を諭される。/悪を捨ててあなたを信じるようになるために。

 

2テサロニケ 1 : 11-:2 : 2 1:11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。 1:12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。新共同訳 サブ 2:1 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。 2:2 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。

 

ルカ 19 : 1-10 19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

 

 


I Need to Stay at Your House

Biblical Reflection for 31st Sunday in Ordinary Time C, Father Thomas Rosica, CSB             

          

TORONTO, OCT. 26, 2010 Zenit.org .- Today's Gospel story remains forever engraved in my memory. I still remember a song from my early grade school years that began with, "There was a man from Jericho named Zacchaeus." Years later, I would visit Jericho on many occasions during my graduate studies in the Holy Land -- to get away from Jerusalem on some damp, cold wintry day in order to enjoy Jericho's mild climate, or to savor the dates, mangos, lemons and other fruits for which the city's outdoor markets are famous. Jericho is rightly called the City of Palms in the Old Testament. It is truly an oasis in the desert!

 

The locals still point out to us foreigners the exact location of Rahab's house. She was the infamous prostitute of the Old Testament who made it into Matthew's genealogy of Jesus. Her "house" had become an accounting office on one of my last visits to Jericho.

 

The locals also take delight in pointing out the ruins of the walls that Joshua brought down in one of the Old Testament's mighty battles that may have never taken place! Best of all are the 39 or so sycamore trees that Zacchaeus climbed in order to catch a glimpse of Jesus who was passing by, and the house of the town's chief tax collector-turned-saint!

 

Small stature

Today's Gospel is one of Jesus' beloved meals scenes in the New Testament. Luke's portrait of Zacchaeus is vivid and irresistibly charming! The story of Jericho's famous tax collector Luke 19:1-10 is unique to Luke's gospel. We are told that he was the chief tax collector and very wealthy at that. While a rich man, Zacchaeus provides a contrast to the rich man of Luke 18:18-23 who cannot detach himself from his material possessions to become a follower of Jesus. Zacchaeus, according to Luke, exemplifies the proper attitude toward wealth: He promises to give half of his possessions to the poor, and consequently is the recipient of salvation.

 

The evangelist's graphic description is enhanced in also calling him a "little man." His is a kind of smallness that is far more devastating and corroding than being short. His smallness emerges from his terrible self-image resulting from others' attitudes toward him. Are we not most vulnerable at these moments in our lives?

 

Though a member of a group that was widely despised, Zacchaeus appears in today's story as a fundamentally honest and humble man who seeks the truth and is open to finding it where he can, even if it means climbing a sycamore tree in a crowd, just to catch a glimpse of Jesus.

He represents that figure who turns up again and again in the scriptures -- the outsider, the person who for one reason or another looks in from the edge, but must always stay there. It is on the edge that we meet him, shut out by others, desperately anxious to be part of the proceedings, all the while failing.

 

The parade at our front door

Why would Zacchaeus be so intent on catching a glimpse of Jesus? Perhaps because Jesus is all that he is not! Jesus is admired, sought out, and above all accepted by a large following. If we are terribly honest with ourselves, we would admit that at some point in our own loneliness or alienation, in our real or imagined non-acceptance or un-love, we long to identify with someone else's seeming acceptance.

 

Do we not often strain our necks, like Zacchaeus in his tree, imprisoned in our loneliness, envy, jealousy, self-pity, laziness? And then suddenly, the unexpected happens. The parade stops at our front door, and we get an invitation with astonishing words: "I'm really glad to see that you are here," or "Let's go out for a coffee, you've had a hard day," or "Come and join us, it's not good to be alone," or "When are you going to invite me over? I'd really like to have supper with you." And the list goes on and on. An invitation leads to the most intimate favor of hospitality.

 

Houseguest

"Zacchaeus, make haste and come down; for I must stay at your house today" Luke 19:5 . "Zacchaeus": Jesus called by name a man despised by all. "Today": Yes, this very moment was the moment of his salvation. "I must stay": Why "I must"? Because the Father, rich in mercy, wants Jesus "to seek and to save the lost" Luke 19:10 .

 

Zacchaeus' repentance is attested by his determination to amend his former ways, and shows himself to be a true descendant of Abraham, the true heir to the promises of God in the Old Testament. Underlying Luke's depiction of Zacchaeus as a descendant of Abraham, the father of the Jews, is his recognition of the central place occupied by Israel in the plan of salvation.

 

When the favor is asked of Zacchaeus, and all those like him who are accustomed to being shunned and rejected, Zacchaeus and his types are dizzy with excitement. The walls of Jericho truly come tumbling down! Perhaps for the first time, Zacchaeus is accepted without reservation or condition. And that is cause for great rejoicing, not shame. In true Lukan fashion, there is a celebration! Once again, those murmuring are shocked that Jesus would go to the house -- and even more shocked, to the table -- of a sinner so famous as Zacchaeus. As Jesus sat at the table among such high-society, he watched Zacchaeus rise up out of the ashes and the tomb of alienation, self-deception, dishonesty, which he himself had constructed.

 

Salvation arrives

Jesus declares publicly, "Today salvation has come to this house."

It's almost as if Jesus said to the chief tax collector of Jericho, and through him, to each of us, "Zacchaeus, don't climb too high in that tree of yours ... and hide from me. Don't waste all your energy concentrating on your guilt as you see it. I need to talk with you and find out where you have boxed yourself in. Together we'll find a way past all of your excuses and out of the maze. Look, the tree is sprouting. I've come to save you!"

 

Morals of the story

Over the years, I have found several morals in this ancient story. One of them tells us that when it comes to the love of God, we must first declare that we are lost and empty, and then begin the process whereby we are found. We must name and own the masks we wear before we can ever begin to remove them and the makeup, and see our true face. We have to experience the death at work in us, our hearts, emotions, intellects, relationships and self esteem, in order to begin the journey up to Jerusalem, the City of the Resurrection. And sometime, we may have to stop feeling sorry for ourselves, let down our defenses, jump down from the trees in which we were hiding, give half of our belongings to the poor, and pay back those we have cheated. Who cares what the critics are saying? When salvation has come into our societies, our communities, our homes and our hearts, no one can ever rob us of that precious gift any longer.

 

Transformation

In his Letter to Priests written for Holy Thursday 2002 Nos. 5-6 , the Servant of God Pope John Paul II wrote these words about today's delightful Gospel story:

 

"Everything that happens to him Zacchaeus is amazing. If there had not been, at a certain point, the 'surprise' of Christ looking up at him, perhaps he would have remained a silent spectator of the Lord moving through the streets of Jericho. Jesus would have passed by, not into, his life. Zacchaeus had no idea that the curiosity which had prompted him to do such an unusual thing was already the fruit of a mercy which had preceded him, attracted him and was about to change him in the depths of his heart. [...]

 

"Luke's account is remarkable for the tone of the language: Everything is so personal, so tactful, so affectionate! Not only is the text filled with humanity; it suggests insistence, an urgency to which Jesus gives voice as the one offering the definitive revelation of God's mercy. He says: 'I must stay at your house,' or to translate even more literally: 'I need to stay at your house' v 5 . Following the mysterious road map which the Father has laid out for him, Jesus runs into Zacchaeus along the way. He pauses near him as if the meeting had been planned from the beginning. Despite all the murmuring of human malice, the home of this sinner is about to become a place of revelation, the scene of a miracle of mercy. True, this will not happen if Zacchaeus does not free his heart from the ligatures of egoism and from his unjust and fraudulent ways. But mercy has already come to him as a gratuitous and overflowing gift. Mercy has preceded him! [...]

"This is what happens in the case of Zacchaeus. Aware that he is now being treated as a 'son,' he begins to think and act like a son, and this he shows in the way he rediscovers his brothers and sisters. Beneath the loving gaze of Christ, the heart of Zacchaeus warms to love of neighbor. From a feeling of isolation, which had led him to enrich himself without caring about what others had to suffer, he moves to an attitude of sharing. This is expressed in a genuine 'division' of his wealth: 'half of my goods to the poor.' The injustice done to others by his fraudulent behavior is atoned for by a fourfold restitution: "If I have defrauded any one of anything, I restore it fourfold" v 8 . And it is only at this point that the love of God achieves its purpose, and salvation is accomplished: 'Today salvation has come to this house' v 9 .

 

 

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