最終の 裁きは神の手に

年間第 30 主日 聖書黙想  2010/10/24   トマス・ロシカ師

 

 

先週の福音は、祈りの大切さに焦点が当てられていました。(ルカ 18:1-8 二つ続くたとえ話の二番目は 18 章の 9-15 節で、ファリサイ人の独善的・批判的な態度を咎め、キリストの弟子の基本的な態度は、罪深さを認め、全く神の恵みに依り頼むものでなければならないと教えています。

 

今日の福音のたとえ話は、罪深い女を赦す物語(ルカ 7:36-50 )を思い起こさせます。そこでも、ファリサイ人シモンの批判的な態度と、罪を赦された女の愛の表現の間に同様の対比が示されています。

 

ルカが好むテーマの一つ、「イエスの到来によってもたらされた逆転」は、今日の福音にみごとに描かれています。この、ファリサイ人と徴税人の物語は、特定の人々に向けて語られたものです。すなわち、自分は法を守っていると自負する一方で他人はすべて見下している人々に向けたたとえ話です。ファリサイ人は、いわゆる「正しい人」のグループに属し、祈りは「自分本位」で、すべてが自分自身のため、自分の業績を誇るためです。自分は伝説的な人物と思いこみ、ことに世間の嫌われ者である徴税人と比べれば、自分は光り輝く存在であると思い込んでいます。

 

大きな隔たり

徴税人は、自分に何の取り柄もないことを知っていました。彼は、自分が犯してきた不正を取り消すことは出来ません。不正を働いた相手にお金を返すような償いの行為は、何の助けにもならないのです。人々に大目に見てもらったり、赦してもらったりなどは期待出来ません。彼に分かっているのは、神の前に出て自分のやましさを曝し、罪を認めるしか道がないということだけでした。神が赦して下さるとは思ってもいませんでした。そして彼は、このようにして初めて、自分に向けられたイエスの言葉「わたしがあなたを受け入れたのだから、あなたは善い者である。」の意味を体験出来たのです。

 

たとえ話は、徴税人が遠くに立っていたと語ります。二人の人物を分けるこの大きな隔たりは、空間的、物理的隔たりの問題だけではなく、むしろ社会における二人の地位や二人の態度に見られる大きな隔たりの問題なのです。徴税人が祈るとき、彼は神に向かって大声で叫び、憐れみを願います。最終の裁きは神の手にあるのです。

 

この興味深い物語は、わたしたちの祈り、言葉、行いの姿勢を戒めています。最初にこのたとえ話を聞いた人たちは衝撃をうけました。ユダヤ教の社会で、神殿で義とされずに帰る人がいるとすれば、それは徴税人のはずでした。外国の統治者のために働き、自国民から税を徴収する人間、冷酷で不正な制度に加担し、政治的には裏切り者、宗教的には汚れた者である徴税人は、唾棄すべき人格でした。たとえその徴税人が、憐れみを求める心で祈ったとしても(詩編 51 )、彼の生き方は人々にとって受け入れ難いものでした。

 

訳注:詩編 51 :神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。

 

たとえ話を公平に評価する。

ここに登場するファリサイ人は鼻持ちならない悪者という訳ではなく、徴税人は、思いやりのある普通の人物という訳でもありません。これらの登場人物に対する見方を風刺画的な次元に引き下げてしまっては、このたとえ話を正しく理解したことにはなりません。もし、ファリサイ人が悪者として描かれ、徴税人が英雄として描かれているだけならば、それぞれが自分にふさわしい報いを得た話で終わってしまい、神の恵みに驚嘆することもなく、たとえ話の真の意味も抜け落ちてしまいます。この物語の意味は、ファリサイ人は皆、性格が曲がっていて、不正直で、高慢で、傲慢であり、徴税人は皆、真に貧しく、謙遜で、心の底から誠実な人々であるということではありません。ルカは、自分が「他の人たち」とは違う存在だと考える者は、神から義とされることなく、認められることなく、恩寵を与えられることなく去らねばならないと告げているのです。

 

イエスのたとえ話に使われている論理は「 にもかかわらず」であって、「 だから」ではありません。神殿の二人の人物を、レッテルや先入観なしに、その人の性質や社会的役割という見地から眺めても、このたとえ話は依然として衝撃的であり、警告と祝福の両方の力を持っています。わたしたちが、このたとえ話について説教したり、二人の人物像について説明したりする時には十分注意しなければなりません。仮にも、今日説教を聞いた人々が教会を出るときに、「あのファリサイ人のようでなくてよかった。」と呟いたり、あるいは他の人にそのように話しかけたりするようではいけないのです。逆転の物語を、さらに逆転させてしまうことは起こり得ることす!

 

謙虚な人の祈りは聞き入れられる

今日の第一朗読のシラ書 35:15b-17,20-22b は、今日の福音のたとえ話の中でわたしたちに求められている精神を理解するために、最もふさわしい言葉です。「御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで。主はためらうことなく行動し、悪人どもを我慢なさらない。」 20-22

 

パウロのいのちは、奉納の酒のように注がれる

今日の第二朗読の、テモテへの手紙二 4:6-8,16-18 は、パウロの宣教司牧についての重要な洞察を与えてくれます。ローマの牢獄につながれたパウロは、死が近づいていることを知り、悟りと希望に満ちた自己評価を記します。彼は、神とも自身とも平和を保ち、穏やかに死と向き合いました。自分の全生涯を、惜しむことなく福音のために捧げたと知っているからです。パウロは、殉教による死が差し迫っていることを知っていました。彼はそれを、自分の血が生け贄として注がれる、礼拝の行為と見なしています。 出エジプト 29:38-40 、フィリピ二 2:17 参照 いのちの終わりに際してパウロは、回心の時にキリストご自身が彼について予告したことが、成就したと宣言することが出来たのです。

「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使徒 9:16

 

この 2 週間、わたしは、 10 17 日日曜日の 6 人の新聖人の列聖式の準備と、それへの参加に費やしましたが、その間ローマは、ペトロとパウロの思い出に濃く覆われていました。ペトロとパウロは、いずれも自身の個人的な経験と教会での経験によって、過酷な試練のただ中にあっても、主は決して自分たちを見捨てることはないと証ししました。主はペトロと共にあって、彼をエルサレムの敵の手から救い出しました。また主は、使徒として努力を続けるパウロと共にあってその恵みの力を彼に伝え、彼を、すべての民族のための、恐れを知らない福音の宣言者にしました。(テモテ二  4:17

 

パウロはイエス・キリストをその生涯の模範としました。イエスは、最後の晩餐のとき、すでに、ゴルゴタで起こる出来事を予知していました。イエスは、十字架上での死を受け入れ、それによって暴力の行為を、与える行為、自己犠牲の行為の注ぎへと一変させます。パウロはこれに倣い、目前に迫った殉教に関して、フィリピの信徒への手紙 2 17 に次のように記しています。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、(わたしは喜びます。)」と言っています。最後の晩餐のとき、既に十字架は存在しており、イエスはそれを受け入れ、一変させたのです。

 

変わることなく神と親しく生きる

終わりに臨んで、 2010 10 18 日に発表された、教皇ベネディクト 16 世の神学生たちに向けた書簡を引用します。これはことし 6 月、司祭年の終わりに際して書かれたものですが、この豊かで、親密な教皇のメッセージは、今日の福音の光の中でわたしたち皆に語りかけています。

 

「司祭になりたいと望む者は誰もが、パウロの表現(テモテへの手紙一 6:11 )を使うなら、何よりも先ず「神の人」にならなければいけません。わたしたちにとって、神は抽象的な仮説のようなものではありません。神は「ビッグ・バン(宇宙大爆発)」後の状況から立ち去って行く名も知らぬ人のようなものでもありません。神はイエス・キリストのうちにご自分の本性を示されました。わたしたちはイエス・キリストの顔の中に神の顔を見ます。わたしたちはイエス・キリストの言葉から、神ご自身が語りかけるのを聞きます。それはすなわち、司祭職に向かう道程で、また司祭としての生活の全てを通して、最も大切なのは、イエス・キリストにおいて神とわたしたちとの個人的な関係だということです。」

 

「司祭の役割は、ある組織のリーダーとして会員を養い、数を増やすといったものではありません。司祭は、人々に神を伝える者です。司祭は人々を神のもとへと導き、それによってすべての男性と女性の間の、真の霊的交わりを育てたいと望みます。ですから、愛する皆さん、あなたがたは変わることなく、神と親密に生きることを学ぶことが大切です。主がわたしたちに「絶えず祈りなさい。」と命じるとき、主は、終わりのない祈りの繰り返しを求めているのではなく、神への内なる親密さを決して失わないようにと促していることは明らかです。」

 

「祈ることの意味は、この親密さを深めていくことです。ですから、わたしたちの一日が、祈りで始まり、祈りで終わることが大切です。福音が読まれるとき神の言葉に耳を傾けること、わたしたちの欲望と希望、喜びと苦しみ、過ちと神の恵みに対する感謝を神と共有すること、そして、神をわたしたちの生活手引きとして、いつも眼前に置いていることが大切です。それによって、わたしたちは、ますます自分の過ちに目覚め、改めることを学びます。その一方でわたしたちは、すべての美しいもの、善いものに目が開かれていきます。それらは日頃当然だと思っているものですが、わたしたちは、そのようにして感謝のうちに成長するのです。感謝の心と共に喜びが訪れます。神がわたしたちの近くにおられ、わたしたちが神に仕えることができるという喜びです。」

 

主よ、わたしたちを、なすべきことを行う良き奉仕者にして下さい。決して、他の人たちより優れているとか、上であるとかにこだわることがないようにして下さい。そうではなく、他の人たちのために一層優れた奉仕者になるという責務を自覚できますように。それは、わたしたちが多く与えられ、多く赦され、多くの恵みをいただいているからにほかなりません。神よ、わたしたちが神に仕え、他の人たちの内におられる神を愛する豊かな心を与えて下さい! 代々に至るまで、神に栄光。

 

 

 

聖書朗読

 

シラ 35:15b-17, 20-22a 15b 主は裁く方であり、人を偏り見られることはない。 16 貧しい because we have been given so much, forgiven so mu 主は孤児の願いを無視されず、やもめの訴える苦情を顧みられる。 20 御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。 21 謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、 22 正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで。

(訳注:ロシカ師のシラ書の朗読箇所はシラ: 12-14, 16-18 となっているが。為念)

 

2 テモテ 4:6-8, 16-18 4:6 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 4:7 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 4:8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 4:16 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。 4:17 しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。 4:18 主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 

ルカ 18:9-14 (「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ) 18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 


In the End, Judgment Belongs to God

Biblical Reflection for 30th Sunday in Ordinary Time C, By Father Thomas Rosica, CSB

 

 

ROME, OCT. 19, 2010 Zenit.org .-

Last Sunday's Gospel focused on the necessity of prayer. Luke 18:1-8 The second of two parables in Chapter 18:9-15 condemns the self-righteous, critical attitude of the Pharisee and teaches that the fundamental attitude of the Christian disciple must be the recognition of sinfulness and complete dependence on God's graciousness.

 

Today's Gospel parable recalls Luke's story of the pardoning of the sinful woman 7:36-50 where a similar contrast is presented between the critical attitude of the Pharisee Simon and the love shown by the pardoned sinner.

 

One of Luke's favorite themes, the reversal brought about by the coming of Jesus, is beautifully illustrated in today's Gospel. The story of the Pharisee and the tax collector is directed to a particular kind of people: those who were law-abiding in their own eyes but who looked down on everyone else.

The Pharisee, a member of the group of the so-called righteous, prayed "with himself," and the whole prayer he gives is focused on himself and his good works. He is a legend unto himself, shining in his own eyes, especially as he compares himself to the tax collector, the one who belonged to the despised group in society.

 

The great distance

The tax collector knew that he wasn't any good. He couldn't reverse the cheating he had done.

Acts of penance, like trying to pay back the people he had cheated, wouldn't really help. He couldn't expect people to excuse or forgive him. The only thing he knew was that it was only possible to admit his guilt when he came and brought it before God. That God would forgive him, he didn't dare to hope. And it was only in this way that he was able to experience Jesus' word to him, "You are good because I have accepted you."

 

In the parable we are told that the tax collector stood at a great distance. This great distance separating the two people is not only a matter of geographical or physical distance, but rather of the great distance in their status in society and in their attitudes. When the tax collector prays, he cries out to God, begging him for mercy. In the end, judgment belongs to God.

 

The provocative story warns us of our own behavior in prayer, word and deed. This parable was a shock to its first hearers. If anyone in Judaism would not go home from the temple justified, it would be a tax collector. One who worked for a foreign government collecting taxes from his own people, a participant in a harsh and corrupt system, politically a traitor, religiously unclean, a publican, was a reprehensible character. While his prayer was in the spirit of the Miserere Psalm 51 , his life was offensive.

 

Doing justice to the parable

The Pharisee is not a venomous villain and the publican is not the generous, common man or woman. To reduce these characters to caricatures does not do justice to the parable. If the Pharisee is pictured as a villain and the tax collector a hero, then each gets what he deserves, there is no surprise of grace and the parable is stripped of its real meaning. The meaning of the story is not that all Pharisees are by their nature false, dishonest, proud and arrogant, and that all tax collectors are really poor, humble, truthful people deep down inside. Luke tells us that to set oneself apart from "the rest" is to go home unjustified, unapproved and ungraced by God.

In Jesus' parable, what each person receives is "in spite of," not "because of." When the two men are viewed in terms of character and community expectations, without labels or prejudice, the parable still shocks us, and still carries the power both to offend and bless. We cannot preach about this parable and depict the characters in such a way that people go out the doors of our Churches this day saying to themselves, and perhaps to others, "Thank God I am not like the Pharisee." It is possible that the reversal could be reversed!

 

The prayer of the lowly is heard

The words of today's first reading from Sirach 35:12-14, 16-18 are most fitting to understand the spirit required of us in today's Gospel parable: "The one who serves God willingly is heard; his petition reaches the heavens. The prayer of the lowly pierces the clouds; it does not rest till it reaches its goal, nor will it withdraw till the Most High responds, judges justly and affirms the right, and the Lord will not delay."

 

Paul's life poured out like a libation

Today's Second Letter of Timothy 4:6-8, 16-18 offers us an important insight into St. Paul's ministry. Paul, in prison in Rome, saw death approaching and sketched an evaluation full of recognition and hope. He was at peace with God and with himself and faced death serenely, in the knowledge that he had spent his whole life, sparing no effort, at the service of the Gospel. Paul knew that his death through martyrdom was imminent. He regards it as an act of worship in which his blood will be poured out in sacrifice cf. Exodus 29:38-40; Philippians 2:17 . At the close of his life Paul could testify to the accomplishment of what Christ himself foretold concerning him at the time of his conversion, "I will show him what he will have to suffer for my name" Acts 9:16 .

 

Having spent the past two weeks in Rome preparing for and taking part in the canonization ceremonies of six new saints for the Church on Sunday, Oct. 17, the memory of Peter and Paul hovers mightily over this city. Peter and Paul, each with his own personal and ecclesial experience, testify that the Lord never abandoned them, even amid the harshest trials. The Lord was with Peter to deliver him from the hands of his opponents in Jerusalem; he was with Paul in his constant apostolic endeavors to communicate to him the strength of his grace, to make him a fearless proclaimer of the Gospel for the benefit of the nations 2 Timothy 4:17 .

 

Paul modeled his life on Jesus Christ. During the Last Supper, Jesus had already anticipated the event of Calvary. He accepts the death on the cross and with his acceptance transforms the act of violence into an act of giving, of self-giving poured forth, "Even if I am to be poured out as a libation on the sacrificial offering of your faith." Paul says on the basis of this and in regard to his own imminent martyrdom in Philippians 2:17. At the Last Supper the cross is already present, accepted and transformed by Jesus.

 

To live in constant intimacy with God

In conclusion, I offer you an excerpt of Pope Benedict XVI's letter to seminarians that was published on Oct. 18, 2010. Though written on the occasion of the conclusion of the Year of Priests last June, the rich, personal, Papal message speaks to all of us in light of today's Scripture readings:

 

"Anyone who wishes to become a priest must be first and foremost a 'man of God,' to use the expression of St. Paul 2 Timothy 6:11 . For us God is not some abstract hypothesis; he is not some stranger who left the scene after the "big bang." God has revealed himself in Jesus Christ. In the face of Jesus Christ we see the face of God. In his words we hear God himself speaking to us. It follows that the most important thing in our path towards priesthood and during the whole of our priestly lives is our personal relationship with God in Jesus Christ.

 

"The priest is not the leader of a sort of association whose membership he tries to maintain and expand. He is God's messenger to his people. He wants to lead them to God and in this way to foster authentic communion between all men and women. That is why it is so important, dear friends, that you learn to live in constant intimacy with God. When the Lord tells us to 'pray constantly,' he is obviously not asking us to recite endless prayers, but urging us never to lose our inner closeness to God.

 

"Praying means growing in this intimacy. So it is important that our day should begin and end with prayer; that we listen to God as the Scriptures are read; that we share with him our desires and our hopes, our joys and our troubles, our failures and our thanks for all his blessings, and thus keep him ever before us as the point of reference for our lives. In this way we grow aware of our failings and learn to improve, but we also come to appreciate all the beauty and goodness, which we daily take for granted and so we grow in gratitude. With gratitude comes joy for the fact that God is close to us and that we can serve him."

 

May the Lord make us better servants who do what we ought, never focusing on being better than or above others, but recognizing our obligation to be greater servants to others, precisely because we have been given so much, forgiven so much, and blessed so much. May God grant us generous hearts as we serve Him and love him in others! To him be glory forever and ever.

 

 

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