「先生、目がみえるようになりたいのです。」

年間第30主日B年聖書黙想 2009/10/25 トマス・ロシカ師 

 

 

マルコ福音書のいやしの物語、ベトサイダで盲人をいやす物語 (8:22-26) と、 エリコの町の道端に座っていた盲人のバルティマイをいやす物語 (10:46-52) は、初代教会でも間違いなく人気の高い物語であったでしょうし、また現代の教会にとっても大変に深い意味を持つ物語です。

 

わたしは眼科医の父親の下で育ちましたので、これらの奇跡の物語が大好きでした。わたしたちは、日常的に、視力障害、眼病、乱視、白内障、正常視力 (twenty-twenty vision) というような話をしていました。また、わたしの父は、目の見えない人たちを支援する慈善団体の会員で、父やその医者仲間が、目の見えない人々のために盛大なクリスマス・パーティーを主催し、わたしも子供ながら、進んでいっしょに働いたことをよく覚えています。

訳補:分数視力(fractional visual acuity): 欧米で用いられている方式で、分子に検査距離、分母は視標の番号をとり表す方法で、よく使われる20フィートでの検査距離では20/20(小数視力1.0)や20/40( 小数視力0.5)のように表される。 )

 

エリコへの道

 

B 年の年間第 30 主日、今日の福音朗読では、 マルコが、盲人の物乞いであるバルティマイとイエスの出会いの物語 (10:46-52) を語っています。イエスは、北のガリラヤ地方から荒れ地の谷間をくだり、長くつらい旅をしてきました。イエスは、エルサレムに行く途中で、荒れた土地のオアシスからユダヤの丘陵地帯に向かうきつい登りにさしかかっていました。

 

イエスがエリコを通りかかったときに、バルティマイは群衆の騒ぎを聞きつけ、生涯にまたとない好機が訪れたと覚りました。

バルティマイは、この機会を逃すまいと考えました。そして、道端から、 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました。イエスの弟子の中には、この汚い、不作法な物乞いが主を困らせることに当惑し、彼を黙らせようとする者もいました。

 

その人たちは、何に当惑したのでしょうか。バルティマイは、ただ自分を取り巻く文化に関わろうと試みたにすぎません。そして、自分もイエスを見る権利があることを人々に告げただけでした。かりに、群衆の中のだれかが、イエスのいやしの力の噂を聞いていたなら、この哀れな物乞いを憐れんで、いやしてもらえるようにと、彼をイエスのところに連れて行ったのではないでしょうか。

 

バルティマイは退けられなかったはずです そしてイエスも同様にしたでしょう。物乞いの叫びが耳に届いたので、イエスは弟子たちの制止を払いのけ、その盲人を呼び寄せました。バルティマイは上着を脱ぎ捨て、彼の訴えに「何をしてほしいのか」と答える、暖かい声に近づいていきます。

 

「先生、目が見えるようになりたいのです。」  そして、バルティマイには見えたのです。単に目で見えただけではありません。もっと大切なのは、心で見えたことです。バルティマイは、多くのものが見えませんでしたが、イエスが何者であるかは、はっきりと見えていました。

「イエスは何者なのか」を見ることは、信仰の目標であり、弟子に至る道筋です。この物語の終わりに、バルティマイは、視力を取り戻し、なお道を進まれるイエスに従いました。

マルコ福音書では、まさに次の節でエルサレム入城が語られているのですから、わたしたちは、バルティマイが十字架に向かうイエスに従ったことを信じることができます。

 

盲目のたとえ:

 

社会から見捨てられた人たちへの共感は、イエスの司牧の特徴でした。そして、福音書のいやしの物語は、決して、身体的な苦痛を帳消しにするということに留まるものではありません。「かつて盲目だったが、今は見える」人たちの物語では、見ることと信じることとの結びつきが非常に強いので、イエスの行ったこれらの奇跡は、見えない目のうろこを落とす( cf. 使徒 9:18 )ことよりも、信仰の成長について語っていると考えられます。

 

イエスの弟子たちは、その視野(ものの見方)に問題がありました。わたしたちは、自分たちの苦しみの意味を理解できないことを表現するときに、盲目のたとえをよく使います。

「木を見て森を見ない」という言葉で、自分たちの盲目性を表現しますが、これは単純すぎる言い方です。やっかいなのは、伝統的に身についた盲目(性)で、「わたしたちには、もはや学ぶべきものは何もない」と、常に決めてかかる態度です。多くの場合、盲目(性)の原因となるのは傲慢です。わたしたちにとって、日々、目を開かれる奇跡が必要です。

 

現代では、教会、社会、文化のどの場所に、真のいやし、回復、改革が必要なのでしょうか?

どこが盲点なのでしょうか? 近視や遠視のために大きな問題が起きているのはどこでしょうか?

わたしたちは幾度となく、対話よりも独り言を選び、自分に反対する人たち、同意しない人たちから学ぶことがあることを信じようとしません。

いつも、自分をとりまく文化に関わろうとせず、狭くて、頑固で、怒りっぽい生き方を選んでいます。

そして、 いつも自分の見方でしか物事を見ることが出来ないか、あるいは常識的な見方しかできません。

 

イエスを見たい、会いたいと望むバルティマイを退けようとした人たちの行動。 わたしたちは、どれほど同じようなことをしていることでしょうか? わたしたちは、自分の中の嘲笑、冷笑の声に逆らって、友人や仲間や愛する人たちを、あの現存する主に導くことが出来るでしょうか。キリストのいない生涯の行く末が分かっているなら、できないはずはないのです。

 

いやし、回復、そして視力:

 

人工妊娠中絶は、胎児と、その子に生涯の聖域を準備する責任のある家族ばかりではなく、社会や文化にも大きな傷を与えます。社会の原動力、擁護者となるべき、まさにそういう人々によって負わされる傷です。 2008 7 17 にシドニーで行われた「 2008 年ワールド・ユース・デイ」の開会式におけるベネディクト 16 世の言葉と中絶反対のビジョンを思い出すことは重要なことです。

 

「・・・こうして、わたしたちは、社会のどの場所に、貧しい人、老齢の人、移民と声なき人々がいるのかをよく考えるように導かれます。なぜ、家庭内暴力があのように多くの母親と子供たちを苦しめているのでしょうか? なぜ、あのように素晴らしい聖なる人間の空間である子宮が、言語に絶する暴力の場となってしまったのでしょうか?」

 

ローマ・カトリック教会は、人間の不可侵性、神聖さ、尊厳に関しての教えを述べています。それこそが「正常な視力」であり、もし中絶反対を主張するのなら、わたしたちはその「正常視力」を得るために日々努力しなければならないのです。

 

中絶に反対し、安楽死に反対していることは、貧困、暴力、不正に苦しむ人たちに無関心でいる言い訳にはなりません。わたしたちは、狭い視野で見るのではなく、全体像を見るように努めるべきです。

 

わたしたちが中絶反対(プロライフ)であると言うなら、それは、生命それ自体を妨害するものに対しては何であれ反対することを意味します。例えば、どのような形態をとろうと、殺人、大量虐殺、人工妊娠中絶、そして故意の自死のようなものに反対することを意味します。

 

人間の尊厳を侵すことについては、それが何であれ、わたしたちは断固として反対の立場をとります。それは、たとえば、身体や心に負わされる損傷や苦痛であったり、意思自体を支配しようとする試みであったり、何であれ人間の尊厳を侮辱することであったり、また、人間以下の生活条件、独断的な投獄 、国外追放、奴隷制度、売春、婦女子売買であったり、あるいは、人々が自由で責任ある人格としてではなく、儲けの道具として扱われる恥ずべき労働条件であったりします。

これらのすべて、そしてそれ以上のものが、人間の生命を破壊し、人間社会を毒するのです。

 

ボストン大司教でカプチン会のシーン・オマリー枢機卿は、最近このように書いています。

「人々の心を変え、受胎の最初の瞬間から、自然死の最後の瞬間まで、すべての人間が各々持っている尊厳を人々が理解するのを助けるわたしたちの能力は、教会における愛と一致を高める能力と直接関連しています。なぜなら、わたしたちが互いに分裂し、争うとき、わたしたちの真理の宣言は妨げられるからです。」

 

中絶反対(プロライフ)であることは、わたしたちの洗礼の最も深い表現の一つです。わたしたちは、光の子(息子、娘)として立ち上がり、謙遜と慈愛を身に帯び、確信に満ちあふれ、そして、きっぱりと、信念を持ち、断固として権力に語りかけましょう。そして、決して喜びと希望を失うことのないように。

 

中絶反対(プロライフ)であるということは、政党や特定の主義主張のために活動することではありません。それは、左翼、右翼、中道に関わりなくすべての人に課せられる責務です!

もし、わたしたちが中絶反対(プロライフ)であるなら、自分を取り巻く文化への関心を呼び覚まさなければなりません。文化を罵ってはいけません。わたしたちは他者を、イエスが見るように見なければなりません。他者を生涯愛さなければなりません。たとえ、それがわたしたちと対立する人々であるとしても。

 

わたしたちから主を見えないようにし、わたしたちに有効な活動ができないようにするものに気づくとき、絶えず主に、いやして下さいと願いましょう! 「主よ、どうぞ見えるようにして下さい!」 そして、視力が回復したときには、立ち上がり、神の御国への道を喜んで主に従って歩んで行きましょう。

 

 

視力を求める祈り

教父オリゲネス (AD185-253) の祈り

 

主イエスよ、わたしたちの目に触れて下さい。

盲目の人たちの目に触れたように。

そうすれば、わたしたちは、目に見えるものの中で、

目に見えないものも、見えるようになります。

主よ、わたしたちの目を開き、わたしたちが今ある現実でなく、

来るべき祝福を見つめることができますように。

主よ、わたしたちの心の目を開き、わたしたちが霊で神を見つめられますように。

主であるイエス・キリストを通して。

未来永遠に、力と栄光は主のもの。アーメン

 

訳補:オリゲネス (Origenes Adamantius 182 年?− 251 ) は、古代キリスト教最大の神学者。いわゆるギリシア教父とよばれる神学者群の一人で、アレクサンドリア学派といわれるグループの代表的存在。『諸原理について』( De Principiis )など膨大な著作を著したが、死後異端の疑惑をかけられたため、多くの著作が処分された。キリスト教の教義学を初めて確立し、その後の西欧思想史に大きな影響を与えたと評される。

 

 

 

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Master, I Want to See!  

Biblical Reflection for 30th Sunday in Ordinary Time B

By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, OCT. 21, 2009 (Zenit.org).- Mark's healing stories of the blind man of Bethsaida (8:22-26) and the healing of Bartimaeus, the blind man on the road to Jericho (10:46-52) were undoubtedly popular stories in the early Church and they remain very significant stories for the contemporary Church.

 

These miracles have always fascinated me because I grew up with my father who was an eye doctor. How frequently we spoke about sight impairments, eye diseases, stigmatisms, cataracts and 20/20 vision!

My father was also a member of a charitable society that assisted the blind, and I remember vividly volunteering as a child with my father and his doctor colleagues who hosted memorable Christmas parties for blind people.

 

Road to Jericho

Mark tells the story of Jesus' encounter with Bartimaeus, a blind man and a beggar (10:46-52) in the Gospel for the 30th Sunday in Ordinary Time (Year B).

Jesus had made the long, arduous journey down the desert valley from Galilee in the north. He was on his way to Jerusalem, a daunting climb from an oasis on the desert floor to the hills of Judea.

 

As Jesus passed through Jericho, Bartimaeus heard the din of the crowd and knew that the chance of a lifetime was within his grasp.

Bartimaeus was not about to miss this opportunity! From the roadside, he began to cry out, "Jesus, Son of David, have mercy on me!" Some people in Jesus' entourage were embarrassed to have this dirty, rude beggar bother the master and they attempted to silence him.

 

What were they embarrassed about? Bartimaeus was simply trying to engage the culture around him and let the people know that he, too, had a right to see Jesus.

If individuals in the crowd had heard the rumors about Jesus' healing powers, wouldn't they be kind to this poor beggar and bring him to Jesus for healing?

Bartimaeus would not be denied -- and neither would Jesus. As the shouts of the beggar reached his ears, Jesus brushed aside the restraints of his disciples and called to the blind man. Bartimaeus threw off his cloak and drew near to that welcoming voice, which responded to his pleas, "What do you want me to do for you?"

 

"Lord, that I may see." And Bartimaeus did see, not just with his eyes but more importantly, with his heart. Though Bartimaeus was blind to many things, he clearly saw who Jesus is. Seeing "who Jesus is" is the goal of faith, and it leads to discipleship. At the end of the story, Bartimaeus regained his sight and followed Jesus on the way.

Given that the very next verse in Mark narrates the entry into Jerusalem, we can be certain that Bartimaeus followed Jesus on the way to the cross.

 

Blindness metaphor

Compassion for the outcast was a hallmark of Jesus' ministry and healing stories in the Gospels never seem to be simply a reversal of physical misfortune. In the stories of those who "once were blind, but now they see," the connections between seeing and believing are so strong that these miracles worked by Jesus are more about growing in faith than letting the scales of blindness fall away.

 

Disciples of Jesus have vision problems. How often do we use the metaphor of blindness to describe our inability to grasp the meaning of the suffering we endure?

We sometimes describe our blindness as an inability to see the forest for the trees, but that is a rather simplistic analysis. More worrisome is the inherited blindness which so often assumes that there are no lessons left to learn. Arrogance is very often the root of our blindness. We need the miracle of restored sight each day.

 

What corners of the church, of society and of our culture need serious healing, restoration and reformation in our time?

Where are our blind spots?

Where are the big problems with near-sightedness and far-sightedness?

How often do we prefer monologue to dialogue, refusing to believe that we might learn from those who oppose us and disagree with us;

refusing to engage the culture around us and preferring a narrow, obstinate and angry way of existing? How often do we say that there are no other ways to look at an issue than our way ... or the highway!

 

How often do we behave like those who tried to prevent Bartimaeus from seeing and meeting the Lord? Against the cries of the scoffers and cynics in our midst, do we dare to bring our friends, colleagues and loved ones into the very presence of the Lord?

How can we not, when we know the result of a lifetime without Christ?

 

Healing, restoration and sight

Abortion is the most serious wound inflicted not only on individuals and their families who should provide the sanctuary for life, but inflicted as well on society and its culture,

by the very people who ought to be society's promoters and defenders. It is important to recall Benedict XVI's words and pro-life vision at the opening ceremony of World Youth Day 2008 in Sydney, on July 17, 2008:

"And so we are led to reflect on what place the poor and the elderly, immigrants and the voiceless, have in our societies. How can it be that domestic violence torments so many mothers and children? How can it be that the most wondrous and sacred human space -- the womb -- has become a place of unutterable violence?"

 

The Roman Catholic Church offers a teaching on the inviolability, the sacredness and the dignity of the human person: a 20/20 vision for which we must strive each day if we claim to be pro-life.

 

Opposition to abortion and euthanasia does not excuse indifference to those who suffer from poverty, violence and injustice. We must strive to see the whole picture, not with tunnel vision.

 

To say that we are pro-life means that we are against whatever is opposed to life itself, such as any type of murder, genocide, abortion, euthanasia or wilful self-destruction.

 

We stand firmly against whatever violates the dignity of the human person such as mutilation, torments inflicted on body or mind, attempts to coerce the will itself, whatever insults human dignity such as subhuman living conditions, arbitrary imprisonment, deportation, slavery, prostitution, the selling of women and children, and disgraceful working conditions where people are treated as instruments of gain rather than as free and responsible persons.

All of these things and more destroy human life and poison human society.

 

Capuchin Cardinal Sean O'Malley, archbishop of Boston, recently wrote: "Our ability to change people's hearts and help them to grasp the dignity of each and every life, from the first moment of conception to the last moment of natural death, is directly related to our ability to increase love and unity in the Church, for our proclamation of the Truth is hindered when we are divided and fighting with each other."

 

Being pro-life is one of the deepest expressions of our baptism: We stand up as sons and daughters of the light, clothed in humility and charity, filled with conviction, speaking the truth to power with firmness, conviction and determination, and never losing joy and hope.

 

Being pro-life is not an activity for a political party or a particular side of the spectrum. It is an obligation for everyone: left, right and center!

  If we are pro-life, we must engage the culture around us, and not curse it. We must see others as Jesus does, and we must love them to life, even those who are opposed to us.

 

As we recognize the things that blind us from the Lord and paralyze us from effective action, let us never cease begging the Lord to heal us! "Lord, that I may see!" And when our vision is restored, let us get up to follow him joyfully along the way to the Kingdom.

 

A Prayer for Sight

Origen (185-253)

 

May the Lord Jesus touch our eyes,

As he did those of the blind.

Then we shall begin to see in visible things

Those which are invisible.

May He open our eyes to gaze not on present realities,

But on the blessings to come.

May he open the eyes of our heart to contemplate God in Spirit,

Through Jesus Christ the Lord,

To whom belong power and glory through all eternity. Amen.

 

 

朗読:

 

エレミヤ 31:7-9; 主はこう言われる。ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。「主よ、あなたの民をお救いください/イスラエルの残りの者を。」見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し/地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も/身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き/流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となり/エフライムはわたしの長子となる。

 

ヘブライ 5:1-6; 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。

 

マルコ 10:46-52:一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 

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