神の子羊、アグネス(アニュス)デイとその殉教

年間第 2 主日 ( A 年) 聖書黙想  2011/1/16   トマス・ロシカ師

 

今日の福音の朗読箇所(ヨハネ 1:29-43 )には、洗礼者ヨハネが再び登場します。それは、わたしたちをもう一度待降節に立ち戻らせ、洗礼者とイエスが示した証しに注目させて、自分の生活についてわたしたちに何らかの決心を促しているように思われます。

 

福音記者ヨハネの語るイエスの洗礼の話は、他の 3 人の福音記者のそれとは大きく異なります。その違いの理由は歴史的状況によります。ヨハネの福音書のテキストは、イエスと洗礼者ヨハネが親戚関係にあるという伝承(ルカ1)にはまったく触れていません。第 4 福音書では、ヨハネが授ける洗礼は罪の許しには結びつかず、それは啓示的な目的、すなわちイエスをイスラエルに知らしめることが目的です。ヨハネにとって、単なる出来事を時系列で記すだけでは不十分なのです。大切なのは、出来事がイエスに対する個人的な信仰表明を呼び覚ますことです。

 

福音記者ヨハネは、洗礼者ヨハネがイエスより優るという考え方を強く打ち消そうと気を配ります。ヨハネは洗礼という出来事については語らず、その代わりに、洗礼の意味を洗礼者ヨハネの証しで表します。そして、福音記者ヨハネは、洗礼者に自分の存在意義を宣言させます。「この方(イエス)がイスラエルに現れるために、わたしは、(水で洗礼を授けに)来た。」

 

イエスを認識する

洗礼者ヨハネは、いかにしてイエスを認識するに至るのでしょうか。彼は、洗礼を授けるために自分を遣わした方の促しを預言者たちの言葉に結びつけ、また、イエスとの出会いを悔い改めと懐疑に結びつけました。ヨハネは、言葉と行いに特別な霊が働いている人に出会ったときには、その人が聖霊と火によって洗礼を授ける人であると認めなければならないと認識していました。洗礼者ヨハネでさえも、霊がとどまる人がナザレのイエスであると認識するまでには時間がかかり、何回かの出会いが必要でした。ヨハネは自然に疑いも持たずに認識したのではありません。なじんだ環境の中に隠されていたものを、少しずつ認識できるようになったのです。

 

4 福音書の筆者は、イエスと洗礼者ヨハネの関係について、真のキリスト者としての見方を持っていたので、イエスが、実際にイザヤの「僕の歌」で予告されていた「神の僕」であると論証することに全力を注いでいます。今日の第一朗読(イザヤ 49-3 5-6 )は、イザヤの四つの「苦しむ僕の歌」の第二の歌です。

 

天からの声がこの洗礼者に、霊が降(くだ)る人が「選ばれた人」で、聖霊によって洗礼を授ける人であると教えます。今日の福音の最後の文章は、洗礼者ヨハネの「証し」を聞いたわたしたちは皆この「確信」を体験するべきだと述べています。わたしたち一人一人が霊に導かれてこう言うべきです。「わたしは、それを見た。・・・この方こそ神の子(神に選ばれた人)である。」( 34 節) わたしたちの心に、静かに、しかししっかりと根ざし、わたしたちが「世の光」( lumen gentium )となれるようにしてくれるのは、この確信なのです。

 

神の子羊

今日の福音の 29 節には、「洗礼者ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。』」 と書かれています。「神の子羊」という表現には多くの意味が込められており、ミサに与るたびに祈るこの言葉の言外の意味を十分に把握している方がよいでしょう。「神の子羊」という呼び名の背景にあるのは、世界の悪を滅ぼし勝利を預言する子羊(黙示録 5:7;17:14 )であり、また、その血がイスラエルを救った 過ぎ越しの子羊(出エジプト 12 )、そして / あるいは償いの献げ物として、屠り場に引かれる子羊のように連れて行かれる苦しむ僕(イザヤ 53:7,10 )であるのかも知れません。

 

新約聖書の羊と子羊は、キリストだけでなく、彼に従う者たちの象徴にもなっています。この場合、イエスは羊飼いであり、従う者たちはその羊の群れです。イエスは、失われた羊が見つかるまで捜し求めます。その間「安全な」羊は皆そこに残されたままです。

 

キリストは、神の愛を啓示する生け贄として、子羊に象徴されることがよくあります。キリスト者にとって、キリストはイザヤ書に描かれている「子羊」です。「苦役を課せられて、かがみ込み / 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように / 毛を切る者の前に物を言わない子羊のように彼は口を開かなかった。」 (イザヤ 53:7

 

ペトロは、主の羊の群れを任されたときに、自分の羊と子羊に食べ物を与えるように命じられます。

イエスは、弟子たちを、武器もお金も力も持たずに世界に送り出します。まるで「おおかみの群れの中に羊を送り出す」ようなものです。イエスキリストの福音を信じ、暴力で自己防衛せずに死ぬ人たちは、キリストに倣う者です。殉教は、「屠り場に引かれる子羊のように」なることです。子羊は暴力に晒されますが苦しむことはありません。子羊はいつも無垢の象徴です。子羊はいつも、生け贄として好んで捧げられる動物でした。洗礼者ヨハネは、イエスを「神の子羊」と呼びます。それはイエスがメシアであるという意味でした。メシアは、その生と死において神の真の本性を啓示する者です。

 

殉教者の本当の意味

洗礼によってわたしたちは、証し人となる恵みをいただきます。そしてあるときには、自分自身のいのちまでも投げ出すという究極の証しへと導かれることもありえます。それは、わたしたちが、イエスキリストと結ばれ、イエスキリストのしるしを受けているからです。殉教者(ギリシャ語:証し人)とは、キリスト教の信仰のために、自由意思と忍耐によって、迫害者の手による死を受け入れる人のことです。

殉教者は、言葉や行いで信仰を否定するよりはむしろ死を選びます。殉教者は、キリストの模範に倣い辛抱強く死を受け入れ、迫害者に抵抗することはありません。真の殉教者は、聖なる理由のために死にます。偽りの殉教者は、もっとも罪深い理由のために死にます。殉教の時代は過去のものではありません。それは今日でも起きています。事実、前世紀は信じがたいほどキリスト者の殉教の世紀でした。

 

初期のキリスト者たちは、キリスト教を支えるそのような出来事の真実を証しする人たちであり、いつ何時、死と、信仰の否定との間で選択を迫られか分からない状況に置かれていました。多くの人々は、キリストを否定することを拒絶し、実際に死を受け入れました。

 

殉教は、権力や利益を求めず、キリストのために命を捧げる真正なキリスト教の証し人であることを証明するものです。彼らは、武器に依らず人々への愛に満ちた力を世界に示します。そしてその力は、キリストに従う人々に、彼らの存在を完全に与えつくす程に与えられます。このように、キリスト者たちは、キリスト教の夜明けから今日に至るまで、福音の故に迫害を受けてきたのです。そのことを、イエスはあらかじめ宣言しています。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」(ヨハネ 15:20

 

神の子羊アグネス

来週 1 21 日に、教会は、ローマの聖アグネスを記念します。聖アグネスは、信仰のために死んだときわずか 13 歳の少女でした。彼女は ディオクレティアヌス によるキリスト教迫害の犠牲者の一人でした。ローマの有名なナヴォナ広場にある聖アグネスの教会は、彼女が殉教した場所に位置しています。若いアグネスは、完全な寛容さと堅固な心で応え、自分の存在を、真理の輝きによって完全に浄化し、雄弁で魅力的な生き方の模範にしました。彼女の模範は、何世紀にもわたり、その足跡に従うようにと、多くの信者を励まし続けてきました。

 

聖アグネスは、金持ちのローマ市民との結婚を拒絶したために殉教しました。彼女は、イエス・キリスト以外の誰とも結婚しないと宣言しました。「長い間、わたしは、天上の見えない配偶者と婚約しています。わたしの心はその人のものです。そして、わたしは死ぬまでその人に忠実です。」と彼女は言いました。彼女の生涯、その英雄的行為、そしてその死は、わたしたちに純粋さと神聖さに向かう霊感を与えます。その名前は、ギリシャ語で純粋を意味し、ラテン語では子羊を意味します。

 

聖人であるアグネスは、キリストに倣いました。殉教者としてキリストのように死に、おとめとして、恐怖のただ中でさえも生き生きとした信仰と希望と愛を保ち続けました。今日、アグネスを思い起こすことによって、人々がそれぞれの生活の特別な環境の中にあっても、キリストに倣うことが可能であるという確証を持ち続けることができます。アグネスは自らの洗礼を真剣に受け取りました。彼女は、キリストの新しいいのちを分かち合うために、キリストの死への水に浸かり洗礼を受けたのです。願わくは、洗礼が、わたしたちにとっても同じものでありますように。

 

神の御言葉と聖霊

さあ、「 教会生活と宣教における神のことば 」の司教会議を受けた Benedict XVI の勧告「神のみことば Verbum Domini )」 について、その 15 項「聖霊との御言葉の関係」を考えることで、黙想を続けましょう。

 

「神がこの世に示された最終の決定的な御言葉について黙想した後に、神の御言葉との関係において聖霊の使命を語る必要があります。実際のところ、聖霊( Paraclete )の働きを離れては、キリストの啓示を正しく理解することは出来ません。このことは、神の自己譲渡( self-communication )は、常に、 リヨンのエイレナイオス が「神の二つの手」と表現した御子と聖霊との関係を伴うという事実のためです。聖書自体、救いの歴史の中での、とりわけイエスの生活の中での聖霊の存在について語っています。イエスは聖霊の力によって処女マリアの内に宿り cf. マタイ 1:18; ルカ 1:35 、公的使命の始まりに、ヨルダン川のほとりで、聖霊が鳩の姿で自分の上に降りるのを見 cf. マタイ 3:16 、この同じ霊においてイエスは行動し、語り、喜びます cf. ルカ 10:21 )。 そしてこの霊においてイエスはご自分を捧げます cf. ヘブライ 9:14

 

聖ヨハネの説明によれば、イエスは、彼の使命が終わりに近づいたとき、ご自分の命を与えることと、ご自分に属する人々に霊を送ることとを、明白に関係づけます。 cf. ヨハネ 16:7

受難の傷跡をその身体に負っていた復活のイエスは、そこで聖霊を注ぎだし 、( cf. ヨハネ 20:22 ) 弟子たちにご自身の使命を分かち与えます。( cf. ヨハネ 20:21 )  聖霊は弟子たちに全てのものごとを教え、キリストの語ったことをことごとく彼らに思い出させることになっていました。 cf. ヨハネ 14:26 なぜならば、真理の霊 cf. ヨハネ 15:26 は、弟子たちを完全な真理へと導くことになるからです。

最後にわたしたちは使徒言行録の中で、その霊が、五旬祭の日にマリアと共に集まって祈っていた 12 人の上に降り、 cf. 2:1-4 )  このよい知らせ( the Good News )を全ての民に述べ伝える使命を担うように告げたことを読みます。

 

このようにして神の御言葉は、聖霊の働きのお蔭で人間の言葉で表現されます。御子と聖霊の使命(複数)は分かつことができず、単一の救いの摂理を形づくります。処女マリアの胎内で受肉する御言葉の中に働く同じ霊が、イエスの宣教活動を通して彼を導く霊でもあり、また、イエスの弟子たちに約束されている霊でもあります。預言者たちを通して語るその同じ霊は、教会が神の御言葉を宣言し、使徒たちが説教する働きを支え、励まします。そして最後に、聖書の記者たちに霊感を与えるのも実にこの霊なのです。

 

 

◇◇◇

 

 

聖書朗読

 

イザヤ 49:3, 5-6 : わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。 49:5 主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は

  49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 

1 コリント 1:1-3 :  神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、 1:2 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。 1:3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 

ヨハネ 1:29-34 :  神の小羊 1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、 “ 霊 ” が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『 “ 霊 ” が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 

 


Recognizing Agnus Dei, Agna Dei and Martyrdom

Biblical Reflection for the 2nd Sunday in Ordinary Time A, By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, JAN. 11, 2011 Zenit.org .-

In today's Gospel passage John 1:29-34 ,

the figure of John the Baptist appears once again almost as if to send us back to Advent to look carefully at the evidence of the Baptizer and of Jesus, and to make some decisions about our own lives.

 

The evangelist John's account of the Baptism of Jesus is very different from the other three evangelists, and the historical situation explains why. John's gospel text shows no knowledge of the tradition Luke 1 about the kinship of Jesus and John the Baptist. In the Fourth Gospel, John's baptism is not connected with forgiveness of sins; its purpose is revelatory, that Jesus may be made known to Israel. For John, a simple chronicle of events is never enough; the important thing is that events excite a personal testimony about Jesus.

 

The evangelist John is very intent on counteracting a movement that regarded John the Baptist as superior to Jesus. He does not narrate the baptism event; instead, he puts the meaning of the baptism into John the Baptist's testimony. He has the Baptizer publicly profess his raison d'être: "The reason why I came...was that he [Jesus] might be made known."

 

Recognizing Jesus

How did John the Baptist finally come to recognize Jesus? He combined the stirrings of the one who sent him to baptize with his knowledge of what the prophets had said and his encounters with penitents and skeptics. John realized that when he met someone whose speech and action showed that a special Spirit was at work, that's the one he should recognize as the one who would baptize with the Holy Spirit and with fire. Even for the Baptist, it took time and several sightings before he would recognize that the one the Spirit was resting on was Jesus of Nazareth. His recognition did not co m e spontaneously, nor was it self-evident. It came gradually because it was imbedded in such familiar surroundings.

 

Having established the true Christian view of the relationship between Jesus and the Baptizer, the writer of the Fourth Gospel concentrates on demonstrating that Jesus is, indeed the Servant of God as foretold in Isaiah's Servant Songs. Today's first reading Isaiah 49:3, 5-6 is the second of Isaiah's four "Suffering Servant Songs."

 

The voice from heaven instructs the Baptizer that the one on whom the Spirit descends is the Chosen One; he is the one who baptizes with the Holy Spirit. The last sentence of today's Gospel expresses the very conviction that we should all experience after hearing John the Baptist's "evidence." Each of us should be inspired to say, "I have seen for myself...'This is God's chosen One!' v 34 " It is that conviction, rooted quietly yet firmly in our hearts, that will enable us to be ‘lumen gentium:' a light to the nations.

 

The Lamb of God

In verse 29 of today's Gospel we read that when John the Baptist saw Jesus coming toward him, he said, "Behold, the Lamb of God, who takes away the sin of the world." The expression "lamb of God" is loaded with meaning and it is good to be aware of the full implications of that word that we pray each time we celebrate mass. The background for the title ‘lamb of God" may be the victorious apocalyptic lamb who would destroy evil in the world Revelations 5-7; 17:14 ; the paschal lamb, whose blood saved Israel Exodus 12 ; and/or the suffering servant led like a lamb to the slaughter as a sin-offering Isaiah 53:7, 10

 

Sheep and lambs are symbolic in the New Testament not only of Christ but also of his followers; in these cases Jesus becomes the shepherd and they become his flock. Jesus searches for the lost sheep until he has found it, leaving all the "safe" sheep to look after themselves in the meanwhile.

 

Christ, as the victim who reveals God's love for us, is often symbolized by a lamb. For Christians, he is the "lamb" described in the Book of Isaiah: "harshly dealt with, he bore it humbly; he never opened his mouth: like a lamb that is led to the slaughterhouse, like a sheep that is dumb before its shearers, he never opened his mouth."

 

When Peter is entrusted with the flock of the Lord, Peter, he is told to "feed" his sheep and lambs. Jesus sends his followers out into the world with no weapons, no money, no power-"like sheep among wolves." People who die for believing in the Gospel of Jesus Christ, for not defending themselves by partaking in violence, imitate Christ. To be martyred is to be "like a lamb that is led to the slaughterhouse." Lambs suffer violence; they do not inflict it. They are universal symbols of innocence. Lambs have always been favorite animals for sacrifice. When John the Baptist refers to Jesus as "the lamb of God", he means that Jesus was the Messiah, the one who in his life and death would reveal the true nature of God.

 

Real Meaning of Martyr

Baptism gives us the grace of giving witness, and sometimes that might lead to the ultimate witness of laying down our very lives because we are associated with and marked by Jesus Christ. A martyr [Greek: a witness] is a person who, for the Christian faith, freely and patiently suffers death at the hands of a persecutor. Martyrs choose to die rather than deny their faith by word or deed. They suffer patiently after the example of Christ, they do not resist their persecutors. True martyrs die for holy causes. False martyrs die for the most unholy of causes. The era of martyrdom is not something of the past. It is still taking place today. In fact, the last century was one of incredible Christian martyrdom.

 

The early Christians, who bore witness to the truth of those facts upon which Christianity rests, were liable at any time to be given a choice between death and denial of their testimony. Many of them, refusing to deny Christ, actually suffered death.

 

Martyrdom gives credibility to authentic Christian witnesses who do not seek power or gain, but give their own lives for Christ. They show to the world the power, weaponless and full of love for men, that is given to those who follow Christ to the point of the total donation of their existence. Thus Christians, from the dawn of Christianity until our own time, have undergone persecution on account of the Gospel, as Jesus proclaimed beforehand: If they persecuted me, they will also persecute you John 15:20 ."

 

Agna Dei

This coming week, on Jan. 21, the Church remembers St. Agnes of Rome, a 13-year-old girl when she died for her faith. She was one of the victims of Diocletian's persecution of Christians. The Church of St. Agnes in the famous Piazza Navona in Rome is located on the spot of her martyrdom. The young Agnes responded with total generosity and an undivided heart and made her existence an eloquent and fascinating example of a life totally transfigured by the splendor of truth. Her example has encouraged many believers over the centuries to follow in her footsteps.

 

St. Agnes was martyred for refusing to marry a rich Roman citizen. She declared that she would never accept any spouse except Jesus Christ. "For a long time I have been engaged to a celestial and invisible spouse; my heart belongs to him and I will be faithful to him until my death," she said. Her life, her heroism and her death inspire us to purity and holiness. Her name means pure in Greek and lamb in Latin

 

As a saint, Agnes is a person who imitated Christ. As a martyr she died like Christ; as a virgin, she kept her faith, hope, and love alive even in the midst of horror. That she is remembered today is continuing proof that imitating Christ is possible, in the specific circumstances of every person's own unique life. Agnes took her baptism seriously. She was baptized into the death of Christ so that she might share his new life. May it be the same for us as well.

 

The Word of God and the Holy Spirit

Let us continue our reflections on "Verbum Domini," Benedict XVI's postsynodal exhortation on the synod on "The Word of God in the Life and Mission of the World" by considering the Word's relationship to the Holy Spirit 15 .

 

"After reflecting on God's final and definitive word to the world, we need now to mention the mission of the Holy Spirit in relation to the divine word. In fact there can be no authentic understanding of Christian revelation apart from the activity of the Paraclete. This is due to the fact that God's self-communication always involves the relationship of the Son and the Holy Spirit, whom Irenaeus of Lyons refers to as "the two hands of the Father". Sacred Scripture itself speaks of the presence of the Holy Spirit in salvation history and particularly in the life of Jesus: he was conceived of the Virgin Mary by the power of the Holy Spirit cf. Matthew 1:18; Luke 1:35 ; at the beginning of his public mission, on the banks of the Jordan, he sees the Holy Spirit descend on him in the form of a dove cf. Mt 3:16 ; in this same Spirit Jesus acts, speaks and rejoices cf. Luke 10:21 ; and in the Spirit he offers himself up cf. Hebrews 9:14 .

 

As his mission draws to an end, according to the account of Saint John, Jesus himself clearly relates the giving of his life to the sending of the Spirit upon those who belong to him cf. John 16:7 .

The Risen Jesus, bearing in his flesh the signs of the passion, then pours out the Spirit cf. John 20:22 , making his disciples sharers in his own mission cf. John 20:21 . The Holy Spirit was to teach the disciples all things and bring to their remembrance all that Christ had said cf. John 14:26 , since he, the Spirit of Truth cf. John 15:26 will guide the disciples into all the truth cf. John 16:13 . Finally, in the Acts of the Apostles, we read that the Spirit descended on the Twelve gathered in prayer with Mary on the day of Pentecost cf. 2:1-4 , and impelled them to take up the mission of proclaiming to all peoples the Good News.

 

The word of God is thus expressed in human words thanks to the working of the Holy Spirit. The missions of the Son and the Holy Spirit are inseparable and constitute a single economy of salvation.

The same Spirit who acts in the incarnation of the Word in the womb of the Virgin Mary is the Spirit who guides Jesus throughout his mission and is promised to the disciples. The same Spirit who spoke through the prophets sustains and inspires the Church in her task of proclaiming the word of God and in the preaching of the Apostles; finally, it is this Spirit who inspires the authors of sacred Scripture."

 

 

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