神とイエスに聞き従う
四旬節第 2 主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/3/20 トマス・ロシカ師
アブラハムは、ある使命を持った人物であり、彼を究極の宣教者であると認めるのは当然のことでしょう。アブラハムは、三つの世界的宗教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の信者たちから崇められています。彼は、イスラエル民族の始祖です。アブラハムの名は、旧約聖書と新約聖書に、合わせて 308 回も出てきます。アブラハムの生涯は世界の歴史の行方を変えました。
今日の第一朗読、創世記 12:1-4a で神がアブラハムにかける言葉は、次のような命令で始まります。「あなたは、生まれ故郷 / 父の家を離れて / わたしが示す地に行きなさい。」 神はアブラハムに、国という大きな存在との繋がりを絶つよう命じ、次に、広く一族との繋がりを絶つよう、そして最後には、近親、すなわち父の家との繋がりさえ絶つよう命じます。
神は、アブラハムに対し、古代世界におけるすべての関係の中で一番大切な家族の絆さえも超越する忠実と献身を求めます。しかし、この命令には力強い約束が添えられています。神は、アブラハムに、「わたしが示す地」を約束します。次に神は、アブラハムの子孫を、子々孫々に至るまでという意味を込めて、大いなる国民にすると約束します。三番目に神は、アブラハムを「祝福する」と約束します。祝福には、多産、長寿、成功、安寧、名声をもたらす意味が含まれています。
孤立することなく
わたしたちは今日の第一朗読から、そして、まさにアブラハムの物語全体から、神に選ばれた民族は決して孤立した存在ではいられないということを学びます。彼らは、単に自分を守るだけでなく、より広い使命に呼ばれているのです。彼らが、神の関心を独り占めしようと望むことは決して許されません。神は、すべての創造物、すべての人間との関わりを持ち続けるのです。アブラハムは生涯の中でそのような神の恵みを現し、甥のロトを助け、ソドムとゴモラの町のために勇敢に神にとりなし(創世記 18:22-33 )、アビメレク王と契約を結ぶ(創世記 21:22-33 )などして、他の民族(複数)を助けます。
また、今日の物語の背景も忘れてはなりません。この祝福の中で、神はアブラハムに「あなたの名を高める」と約束しています。面白いことには、創世記 11:1-9 に出てくる塔の建設者たちは、有名になろうという目的で( 4 節)塔を建てました。彼らの、独りよがりで天を畏れぬ計画は、混乱と離散という結末を招きました。しかし、神は今回、「あなた(アブラハム)によって祝福に入る」( 12:3 節)ようにと、賜物としてアブラムの名を高めることを約束します。(こうして)アブラハムの友は祝福され、アブラハムの敵は呪われることになります。
人々の信仰の父であるアブラハムの、素晴らしく象徴的な物語に耳を傾けるとき、わたしたちは、自らが福音の使命を負っているかどうか、自身に問わなければなりません。アブラハムは、神の声に、神の命令に、神の促しに注意深く耳を傾けました。わたしたちは、神と、神の子イエス・キリストの言葉に耳を傾ける方法を知っているでしょうか? 信仰とは、御言葉を聞いて真剣に神を受け入れ、そのうえで、約束の地に向かってウルを離れることを意味します。わたしたちが知り得るもっとも偉大な冒険的行為は、生活の中で神の呼びかけに「はい」と答えた瞬間に始まります。神は、アブラハムに求めた以上のことをわたしたちに求めたりはしません。神が求めるのは、神に耳を傾け、御言葉を信じ、それを行うことです。たとえ、わたしたちの信仰は弱くとも、わたしたちには、神は強いという確信があります。たとえいま、行く道が見えないとしても、すべてを見通す神が道筋を示し、わたしたちをロトから導き出して約束地へ送ってくれます。その道程を始めるために、わたしたちは神の御言葉に耳を傾け、信頼し、それに従わなければなりません。
栄光
今年の四旬節メッセージで、ベネディクト 16 世は、今日の福音のご変容の物語をあざやかに要約しています。「 主の変容の福音では、復活の先取りと人間の神化を告げるキリストの栄光が示されます。」
「キリスト教共同体はイエスの導きに気づきます。あたかも使徒ペトロ、ヤコブ、ヨハネのように、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。これに聞け」(マタイ 17:5 )という神の恵みのたまものを、御子に結ばれた子どもとして、キリストのうちに新たに受けるために「高い山に登」(マタイ 17 ・ 1 )るのです。それは、神の存在に浸るために、日常の喧噪から離れるようにとの招きです。わたしたちは心の奥底で善と悪を識別しますが(ヘブライ 4:12 参照)、主はわたしたちの心の奥底を貫くことばを、日々伝えようとしておられます。そして、わたしたちの主に従う決意を強めてくださるのです。」
人は、ご変容の物語の背後にあるものを思いめぐらすことしかできません。それは、福音の中で最も神秘的で荘厳な幻影です。(マルコ 9:2-8 、マタイ 17:1-8 、ルカ 9:28-36 ) ペトロとヤコブとヨハネは、山の上で、目の眩むような体験をしました。彼らの目の前で、よく知っているイエス、一緒に歩いたイエスが、変容したのです。イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。イエスの横には、強力な解放者としてイスラエルを奴隷の状態から救い出したモーセと、イスラエルの最も偉大な預言者であるエリヤが、栄光に覆われて立っていました。
二人は、イエスと、エルサレムで起こることになっている彼の死と復活について語り合っていました。弟子たちはすっかり混乱してしまいました。ペトロはふさわしい言葉を探しました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 しかし、突然、光り輝く雲の中から、雷のような声、神の声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、これに聞け」
マタイの細部描写
この荘厳な福音物語で、マタイが強調するいるいくつかの個所を詳しく見てみましょう。マタイの変容の記述( 17:1-9 )は、イエスが神の御子であることを確認し、時代の終わりにイエスが父の栄光に輝いて来られる( 16:27 )という予告の実現を指し示します。ある人は、「変容は、復活の様子(姿)をイエスの宣教時代にさかのぼって示したものだ。」と説明しますが、そうではなさそうです。なぜなら、この個所の記述には、復活の様子を語る場合に共通する多くの要素が欠けているからです。タボル山の頂上でのイエスについて語るマタイの記述は、旧約聖書や、正典にないユダヤ教の黙示文学からモチーフを借りて、天上のものや聖なるもの、たとえば、輝く光、白い衣、影を落とす雲などの様子を表現しています。
キリストの顔
3人の弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、ゲッセマネでも、イエスによって他の弟子たちから引き離されています( 26:37 )。(変容の)高い山は、タボル山かヘルモン山であるとされていますが、多分、この福音記者マタイも、その原典となった福音書の記者マルコ(マルコ 9:2 )も、特定の山を想定してはいなかったと思われます。「山」が持つ意味は、地理的というよりもむしろ神学的なものであり、ことによるとその目的は、シナイ山でのモーセ(出エジプト 24:12-18 )に対する啓示や、同じ場所でのエリヤ(列王記 19:8-18 、ホレブ=シナイ)への啓示を思い出させることにあるのかも知れません。
マタイは、太陽のように輝くイエスの顔を描写しており、これは、ダニエル書 10 : 6 を思い出させます。「光のように白く」なったイエスの服は、ダニエル書 7 : 9 を思い起こさせます。そこでは、神の衣は「雪のように白く」輝いて見えます。(他の天上の存在の白く輝く衣服は、黙示録 4:4;7:9;19:14 にも出てきます。)
第 4 節には、三つの仮小屋(幕屋)が出てきます。仮小屋とは、イスラエル人が仮庵祭の期間に暮らす小屋のことです(ヨハネ 7:2 参照)。仮小屋によって、イスラエル人の先祖がエジプトから約束の地へ旅する間(レビ記 23:39-42 )の住まいを思い出すよう意図されているのです。マタイの記述が、山の上で弟子たちを覆う雲に及ぶとき、それは、旧約聖書の、臨在の幕屋を覆う雲を思い出させ、民のただ中にある主の現存を示します(出エジプト 40:34-35 )。この雲は、また奉納のときにエルサレムの神殿にも満ちました。(列王記上 8:10 )
天からの声
山の上で聞こえた神の声は、イエスの洗礼の時の宣言 ( 3:17 ) に、「彼に聞け」という命令を付け加えて、繰り返されます。それは申命記 18:15 にある言葉です。そこでは、イスラエルの人たちが、彼らのために神によって立てられた、モーセのような預言者に聞き従うよう命令を受けます。
訳注:申 18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。
「イエスに聞け」という命令は普遍的なものですが、恐らくこの文脈の中では、とりわけイエスの受難と復活の予告 ( 16:21 ) 、およびイエスの再来の予告 ( 16:27, 28 ) の前触れの意味を持っています。
天からの声のくだりで最も意義深い点は、旧約聖書が普通そうであるように、ここでも「みことば」が「目に映るもの」に優先することです。確かに、視覚的イメージを通してまざまざと天上の神秘体験をすることはあり得ますが、神のみことばを通して伝えられる神の意思に重きを置くのが大変健全な態度です。マタイだけが、変容を記述するのに「見たこと」(ビジョン) ( 9 ) という言葉を用います。タボル山頂で変容するイエスを見たことは、それによって、使徒と弟子たちが、神から権威を与えられたイエスの教えに従順に従うようになってこそ、始めて意味と価値を持つのです。
栄光と苦悩
ペトロ、ヤコブとヨハネはタボル山での栄光の時にイエスと共にいます。彼らは、ゲッセマネの園で主人が運命と戦っているときに、イエスと共に再び登場します。イエスの天上の栄光を目撃する者は、イエスの地上での苦悩をも目撃しなければなりません。もしもイエスに従う者がイエスの将来の栄光を分かち合いたいと望むならば、イエスの苦悩を共に苦しむ用意がなければなりません。
この驚くべき変容の福音物語は、わたしたちが生活の中でどのように神の言葉に耳を傾けているかを問いかけています。
あなたはみことばを聞いてどのように行動しますか? あなたはどのように自身のタボル山を経験しますか? そのような経験は、どのようにして生活上の陰と闇に光を注ぐのでしょうか? このような山上の経験がなければ、わたしたちの生活はどうなるのでしょうか? 力と勇気と展望を得るために、わたしたちは幾たび、このような希少であっても意義深い経験に立ち向かうことでしょうか。
変容の驚くべき出来事とその記憶は、もう一つの山上であるエルサレムにおいて、イエスの使徒と弟子たちにとっての恵み、慰め、平和の源泉となります。そこで彼らは、輝いていた顔が血塗られて唾をかけられ、光のように白かった服が、兵士らの賭けによって引き裂かれ分配されるのを目撃することになります。イエスの顔は十字架上では光り輝きませんでした。わたしたちは、こう自問するでしょう。「 なぜ、神は、すべての栄光をタボル山の上に隠してしまったのだろう。そこでは、だれも見ることができないのではないか ? どうして神は、その栄光を十字架のために取って置かれなかったのか?」
神の栄光を見るためには、わたしたちはゴルゴタとタボルの どちらの山も体験しなければなりません 。
変容を、キリストの現存を記念する祝祭と見做しましょう。キリストの現存はわたしたちの内にある全てを引き受け、わたしたちの内にある妨害物さえも変容させてくれます。
神は、わたしたちの内にある、頑なで、疑い深く、不安な領域を貫きます。それは全く自分ではどうしようもない領域です。神は霊のいのちでそれらを貫き、それらの領域に働きかけて、ご自分の顔と慰めと平和を与えます。
四旬節を生きる
1. ご変容についての、次のビデオをご覧ください。
(下記の URL でロシカ師のこの日の説教ビデオが見られます。)
http://www.youtube.com/watch?v=luKRKA34zsY&feature=player_embedded
あなたの生涯における、タボルとゴルゴタの瞬間とは何ですか。
2. 今日の朗読に照らして、「教会生活と宣教における神のことば」の司教会議のテーマを受けた使徒的勧告「神のみことば( Verbum Domini )」についての黙想を続けましょう。
「 … これらの文脈から、シノドス(司教会議)は、神のみことばを教会生活の中心に置くことを 強調するよう、特別な司牧的配慮を求め、より優れた「聖書伝道」を、他の司牧活動の片隅 に置くのでなく、聖書が全ての司牧活動に霊感を与えるような方法で行うよう勧告した。これ は、小教区や司教区の各所で集会を増やすという意味ではなく、普段、小教区やさまざま な組織・活動の場において、信徒が、みことばの内にご自身をお与えになるキリストとの、親 密な出会いを育むことを意味している。
「 聖書 を知らないことはキリストを知らないこと。」と言われるように、平常時でも特別な時でも、 聖書を全ての司牧活動のインスピレーションにすることは、御父の啓示であり啓示の成就で もあるキリストのペルソナについての、大いなる認識に至る道である。」
「それゆえ、わたしは、聖職者と信徒に対して、聖書を大切にすることの重要性を認識する ように勧める。それはまた、司教会議で話し合われたいくつかの司牧上の問題に対処する 最良の方法である。例えば、聖書の内容の曲解や改ざんを広めるセクトの拡散に対処する 方法でもある。信徒が、教会の信仰と生きた伝統に沿って聖書を知る(読む)ことが出来な ければ、司牧上の真空地帯が生じ、そのようなセクトにとっては、実際に根を張るための絶 好の場所になる。
司祭や一般信徒が、正しい聖書へのアプローチで神の民を導くことが出来るよう、適切な 準備をするための備えも必要である。」
「さらに、司教会議の中で提起されたように、司牧活動が、『家族によって形成されるか、小 教区内に基盤を置くか、或いは、多様な教会活動や新しい共同体とリンクするような』小さ な共同体の成長の助けとなるのも良いことである。それらは、教会の信仰に沿った聖書の 祈りと知識の形成を助けることが出来る。」 ( No.73 )
3. 中部イスラエルのタボル山頂上に黙想の家を持つ "Mondo X" という 信徒共同体のために祈りましょう。この素晴らしい、イタリア人による癒しの共同体は、 1967 年にフランシスコ会司祭 Eligio が創立したもので、人生の様々な悲劇から立ち直ろうとしている人たちを迎え入れる家です。
イエスが変容されたその場所にある共同体を何度か訪問して、わたしは、変容するキリストの現存が、どのように人々のいのちを取戻し、癒し、修復し、さらには、孤独、挫折、苦悩、不信に追いやられた人々に、いかに多くの希望を与えているかを目の当たりにしてきました。
4. 日本を襲った破壊の余波の中にある人々のために祈りましょう。津波と地震の中で悲劇的な死を遂げたキリスト者とカトリック信者のために、家族、知人を失って悲しむ人々のために、さらには、助かってもすべての物を失った人々のために祈りましょう。主の変容の力が、苦しみ、嘆き、悲しむ人々に慰めをもたらしますように。
◇◇◇
聖書朗読:
創世記 12:1-4a : (アブラムの召命と移住) 12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。
2テモテ T :8b-10 : (愛する者よ)神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 1:9 神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、 1:10 今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。
マタイ 17:1-9 : (そのとき)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
Obedient Listening to God and to Jesus
Biblical Reflection for 2nd Sunday of Lent A, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, MARCH 15, 2011 ( Zenit.org ) .-
Abraham was a man with a mission and we could rightly consider him to be the quintessential missionary. He is revered by the followers of three world religions: Christianity, Judaism, and Islam. He is the founder of the nation of Israel. He is mentioned by name 308 times in the Old and New Testaments. He is a man whose life changed the course of world history.
In today's first reading from Genesis 12:1-4a, God's word to Abram begins with a command, "Go from your country and your kindred and our father's house." God commands Abram to cut his ties to his larger nation, his ties to his larger kinship group, and finally even his ties to his immediate family or father's household.
God calls Abram to a loyalty and commitment that transcends even his family ties, the most important of all relationships in the ancient world. But this command comes with a powerful promise. God promises Abram a "land that I will show you." Second, God promises to make of Abram's offspring a great nation with the implication of a long line of descendants. Third, God promises to "bless" Abram. Blessing involves fertility, life, success, well-being and a good name.
Never alone
We learn from today's first reading, and indeed from the whole story of Abraham, that God's chosen people never exist in isolation. They are called to a wider mission than just self-preservation. They are never allowed to claim an exclusive hold on God's concern.
God remains committed to all creation and all humanity. Abraham embodies such blessing and help to other nations within his own lifetime through his assistance to his nephew Lot and his bold intercession on behalf of the cities of Sodom and Gomorrah ( Genesis 18:22-33 ) and his covenant with King Abimelech ( Genesis 21:22-34 ) .
Nor can we forget the backdrop of today's story. Part of this blessing is that God promises Abram to "make your name great." Interestingly, the tower builders in Genesis 11:1-9 had built their tower with the purpose of making a name for themselves [4]. Their self-centered and heaven-storming strategy led only to confusion and scattering. But God now promises to give Abram a great name as a gift with the purpose that "you will be a blessing" [3]. Abraham's friends will be blessed, and his enemies will be cursed.
As we listen to the marvelous archetypal story of Abraham, our father in faith, we must ask ourselves if we are men and women of mission. Abraham listened attentively to God's voice, God's commands and God's promptings. Do we know how to listen to God and his Son, Jesus Christ? Faith means taking God seriously, at his Word and then leaving Ur for the Promised Land. The greatest adventure we will ever know begins the moment you say yes to God's call on our life. God asks of us nothing more than he asked of Abraham: that we listen to Him, believe His Word and act upon it. Even though our faith may be weak, we have the certainty that God is strong. Even though we might now see the path ahead, the all-seeing God has charted our course and will lead us out of Ur into the Promised Land. In order for the process to begin, we must listen, trust and obey the Word of God.
The glory
In his Lenten message for this year, Benedict XVI summarizes beautifully today's Gospel story of the Transfiguration: "The Gospel of the Transfiguration of the Lord puts before our eyes the glory of Christ, which anticipates the resurrection and announces the divinization of man.
"The Christian community becomes aware that Jesus leads it, like the Apostles Peter, James and John 'up a high mountain by themselves' ( Matthew 17:1 ) , to receive once again in Christ, as sons and daughters in the Son, the gift of the Grace of God: 'This is my Son, the Beloved; he enjoys my favor. Listen to him.' It is the invitation to take a distance from the noisiness of everyday life in order to immerse oneself in God's presence. He desires to hand down to us, each day, a Word that penetrates the depths of our spirit, where we discern good from evil ( cf. Hebrews 4:12], reinforcing our will to follow the Lord."
One can only speculate on what lies behind the story of the Transfiguration, one of the Gospel's most mysterious and awesome visions ( Mark 9:2-8; Matthew 17:1-8; Luke 9:28-36 ) . Peter, James and John had an overwhelming experience on the mountain. Before their eyes, the Jesus they had known and walked with became transfigured. His countenance was radiant; his garments streaming with white light. At his side, enveloped in glory, stood Moses, the mighty liberator, who had led Israel out of slavery, and Elijah, the greatest of Israel's prophets.
They were conversing with Jesus about his death and resurrection that would take place in Jerusalem. The disciples were totally confused, awestruck. Peter fumbled for the right words: "Master, it is good for us to be here; let us erect three tabernacles, for you and for Elijah and Moses." But suddenly out of a translucent cloud came a voice like thunder, the voice of God: "This is my beloved son, listen to him."
Matthew's details
Let us look closely at several of Matthew's emphases in this majestic Gospel story. Matthew's account of the transfiguration ( 17:1-9 ) confirms that Jesus is the Son of God, and points to fulfillment of the prediction that he will come in his Father's glory at the end of the age ( 16:27 ) . It has been explained by some as a resurrection appearance retrojected ( read back ) into the time of Jesus' ministry, but that is not probable since the account lacks many of the usual elements of the resurrection-appearance narratives. Matthew's account of Jesus atop Mount Tabor draws upon motifs from the Old Testament and non-canonical Jewish apocalyptic literature that express the presence of the heavenly and the divine, e.g., brilliant light, white garments and the overshadowing cloud.
Christ's face
The three disciples, Peter, James and John are also taken apart from the others by Jesus in Gethsemane ( 26:37 ) . The high mountain has been identified with Tabor or Hermon, but probably no specific mountain was intended by the evangelist or by his Marcan source ( Matthew 9:2 ) . Its meaning is theological rather than geographical, possibly recalling the revelation to Moses on Mount Sinai ( Exodus 24:12-18 ) and to Elijah at the same place ( 1 Kings 19:8-18; Horeb = Sinai ) .
Matthew describes the face of Jesus that shone like the sun, reminiscent of Daniel 10:6. Jesus' clothes "white as light" recalls Daniel 7:9 where the clothing of God appears "snow bright" ( The bright white garments of other heavenly beings, are also mentioned in Rev 4:4; 7:9; 19:14].
In Verse Four we hear of the three tents -- the booths in which the Israelites lived during the feast of Tabernacles ( cf. John 7:2 ) . The tents were meant to recall their ancestors' dwelling in booths during the journey from Egypt to the Promised Land ( Leviticus 23:39-42 ) .
When Matthew speaks of the cloud that cast a shadow over apostles on the mountain, it recalls the cloud that covered the meeting tent in the Old Testament, indicating the Lord's presence in the midst of his people ( Exodus 40:34-35 ) . The cloud also came to rest upon the temple in Jerusalem at the time of its dedication ( 1 Kings 8:10 ) .
Voice from heaven
The voice of God heard atop the mountain repeats the baptismal proclamation about Jesus ( 3:17 ) , with the addition of the command "listen to him." The latter is a reference to Deuteronomy 18:15 in which the Israelites are commanded to listen to the prophet like Moses whom God will raise up for them. The command to listen to Jesus is general, but in this context it probably applies particularly to the preceding predictions of his passion and resurrection ( 16:21 ) and of his coming ( 16:27, 28 ) .
Most significant about the statement of the heavenly voice is that here as in the Old Testament generally, "Word" is given priority over "vision." Mystical experience of heavenly realities in the form of visual images certainly has its place, but a very healthy emphasis is placed upon God's will as communicated through God's Word. Matthew alone uses the word "vision" ( 9 ) to describe the transfiguration. Seeing Jesus transfigured high atop Mount Tabor has meaning and value only if it leads the apostles and disciples to listen obediently to his divinely authorized teaching.
Glory and agony
Peter, James and John are with Jesus in this moment of glory on Tabor. They resurface with Jesus in the Garden of Gethsemane as their master struggles with his fate. Those who witness his heavenly glory must also witness his earthly agony. If the followers of Jesus wish to share his future glory, they must be prepared to participate in his suffering.
The awesome Gospel story of the Transfiguration challenges us to ask how we listen to the Word of God in our lives.
How do we act upon the Word we have heard? How have some of our own mountain top experiences. How have such experiences shed light on the shadows and darkness of life? What would our lives be without some of these peak experiences? How often do we turn to those few but significant experiences for strength, courage and perspective?
The awesome event and memory of the Transfiguration would serve as a reservoir of grace, consolation and peace for the apostles and disciples of Jesus when in Jerusalem on another hilltop, they would witness that shining face bloodied and spat upon, those dazzling clothes torn into souvenir rags by soldiers who cast dice for them. Jesus' face did not shine radiantly on the cross. Perhaps we ask ourselves: Why did God hide all the glory on Mount Tabor, where no one could see? Why didn't God save it for the cross?
We must experience both mountains -- Golgotha and Tabor -- in order to see the glory of God. Let us look upon the Transfiguration as the celebration of the presence of Christ that takes charge of everything in us and transfigures even that which disturbs us about ourselves.
God penetrates those hardened, incredulous, even disquieting regions within us, about which we really do not know what to do. God penetrates them with the life of the Spirit and acts upon those regions and gives them his own face, his consolation and his peace.
Living Lent
1. View this video on the Transfiguration. What are the moments of Tabor and Golgotha in your own life?
2. In light of today's readings, continue reading "Verbum Domini," Benedict XVI's postsynodal exhortation on "The Word of God in the Life and Mission of the Church," and reflect on how we can let the Bible inspire our pastoral activities.
"Along these lines the Synod called for a particular pastoral commitment to emphasizing the centrality of the word of God in the Church's life, and recommended a greater 'biblical apostolate,' not alongside other forms of pastoral work, but as a means of letting the Bible inspire all pastoral work. This does not mean adding a meeting here or there in parishes or dioceses, but rather of examining the ordinary activities of Christian communities, in parishes, associations and movements, to see if they are truly concerned with fostering a personal encounter with Christ, who gives himself to us in his word.
Since 'ignorance of the Scriptures is ignorance of Christ,' making the Bible the inspiration of every ordinary and extraordinary pastoral outreach will lead to a greater awareness of the person of Christ, who reveals the Father and is the fullness of divine revelation.
"For this reason I encourage pastors and the faithful to recognize the importance of this emphasis on the Bible: it will also be the best way to deal with certain pastoral problems which were discussed at the Synod and have to do, for example, with the proliferation of sects which spread a distorted and manipulative reading of sacred Scripture. Where the faithful are not helped to know the Bible in accordance with the Church's faith and based on her living Tradition, this pastoral vacuum becomes fertile ground for realities like the sects to take root.
Provision must also be made for the suitable preparation of priests and laypersons who can instruct the People of God in the genuine approach to Scripture.
"Furthermore, as was brought out during the Synod sessions, it is good that pastoral activity also favor the growth of small communities, 'formed by families or based in parishes or linked to the different ecclesial movements and new communities,' which can help to promote formation, prayer and knowledge of the Bible in accordance with the Church's faith" ( No. 73 ) .
3. Pray for the "Mondo X" Community of laypersons who now staff the retreat house atop Mount Tabor in central Israel. This wonderful Italian healing community, founded by Franciscan Father Eligio in 1967, has provided a welcoming home for men on the road to recovery from many tragedies in their lives. Having visited the community several times in the very place where Jesus was transfigured, I have witnessed how the transforming presence of Christ has brought people back to life, healed and restored them, and given much hope to those who are lonely, broken, suffering and without faith.
4. Pray especially for the people of Japan in the aftermath of the devastation that has hit their country. Pray for Christians and Catholics who have perished tragically in the tsunami and earthquake, for those who mourn their loss, and for those survivors who have lost everything they owned. May the Lord's transfiguring power bring consolation and peace to those who suffer, who weep and those who mourn.