神はお選びになった人々を立てられる

年間第 29 主日 聖書黙想  2010/10/17   トマス・ロシカ師

 

ルカは、福音書の 最初 から、祈りの人としてイエスを描写します。祈りは、わたしたちがイエスに従うための一つの方法になります。 ルカの物語は、エルサレムの神殿におけるユダヤ教の祈りの場面で始まります。そこでザカリアは、自分の祈りが聞き入れられたことを告げられます(ルカ 1:13 )。

 

イエスの幼年時代の物語は、ザカリア、マリア、シメオン、アンナ、天使、そして羊飼いの祈りによって美しく織りなされています。イエスの生涯の重要な多くの出来事は、その前後に見られる祈りに結びつけることが出来ます。イエスの洗礼のとき 3:21 、十二人の弟子を選ぶ前 6:12 、変容の時、最後の晩餐の時、そして十字架上の死に向う時さえも、そこには祈りがあります。

それらの祈りの時、イエスは、神の力に完全に身をゆだねて、神が全人類と交わす偉大な対話の物語を生き抜きます。

 

ルカは、イエスがしばしば夜を徹して祈ったことを語り 6:12 )、古い文献のいくつかは、逮捕される夜のイエスの祈りを記しています。

「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」 22:44 .

 

ルカは、キリスト者の生活の中での祈りの大切さにこだわります。祈りはわたしたちの信仰のしるしですから、絶えず祈らねばなりません。祈りは、自分の思い通りにするために神に圧力をかけるようなものではありません。正しい祈りは、神の霊の働きにわたしたちの心を開かせ、神が望むものに従わせ、イエスとイエスを遣わした御父に従順な、本当の弟子にしてくれます。

 

祈りについての二つのたとえ話

今日の福音では、ルカが(イエスの、エルサレムに向う)旅をしめくくる場面で語った、祈りについての二つのたとえ話のうちの、初めの一つが朗読されます。この二つのたとえ話は、明らかに別々の、違った文脈の中にあったものです。

最初のたとえ話 18:1-8 は、弟子たちが信仰を失わないために、絶えず祈ることの大切さ 8 を教えます。二番目のたとえ話 18:9-14 は、ファリサイ人の独善的で批判的な態度を咎め、キリストの弟子の基本的姿勢は、罪深さを認め、神の恵みに完全に依存することにあるのだと教えます。

 

2-5 節と 10-13 節のたとえ話は、ルカ福音書だけにあるものです。ルカは二つのたとえ話を並べました。なぜならこの二つが共に祈りについて語っているからです。さらによく読むと、両方のたとえ話は明らかに神の正しさについて語っています。すなわち、神の支え( upholding )、義化( justifying )、赦し( exonerating )、容認 confirming について語っているのです。

 

 

今日の福音朗読にある第一のたとえ話 18:1-8 によれば、神は、ご自分が選ばれた人々のために、速やかに裁きを行いますが、第二の物語では、神は、選ばれた聖なる者だと自負する人ではなく、自分は罪びとだと告白する人を、正しいとされます。この、背中合わせのように対照的な物語の配置(選ばれた者の擁護 / 罪びとの擁護)は、ルカ福音書の前の部分にも見られる構成手法を思い起こさせます。

ルカは、7章の、イエスと「町の(罪深い)女」の物語( 7 37-50 )から、いきなり 8 章の、イエスとその宣教に加わった女性たちに関する報告 8:1-3 へと話を移します。 10 章でも、ルカは再び二つの物語を並べました。一つは「行って、同じようにしなさい。」と、はっきり命じる物語(良いサマリア人)、二番目は、「静かに座って主に耳を傾けなさい。」と言う、ベタニアでの物語(マルタとマリア)です。

 

裁判官とやもめ

イエスは、裁判官とやもめのたとえ話(やもめは当時のユダヤ文化の中で権力の犠牲となるみじめさの象徴)を示して、弟子たちに「神は速やかに裁いてくださる。」 18:8 と保証します。この話は「真夜中の友達」のたとえ話 11:5-8 によく似ています。不正な管理人のたとえ語( 12 45-47 )のように、今日の教えには、あまり感心しない性格の人物が登場しています。このたとえ話は、些細な事柄から、より大きな内容に発展します。もしも冷酷な裁判官がやもめの断固とした圧力に負けてしまうとすれば、神は遥かそれ以上に、信仰深い人々の祈りに耳を傾けて下さることでしょう。

 

ルカ 18 章の二つのたとえ話は、(神の)長い沈黙に対して、繰り返し、たゆまず、嘆願を投げかけ続ける祈りを教えます。祈りとは、願うこと、求めること、戸を叩いて待つこと、そして限りない信頼と忍耐とを意味します。祈る人はしばしば願いが聞かれないことに不満と怒りを覚えます。しかし、キリスト者の共同体の生活は、毎日の祈りを通してのみ可能なのです。祈りについて驚くことは、その最初の効果がわたしたちの中に現れることです。祈りの言葉を実践に移し替え、その祈りの正しさを本当に確かめる機会を求めることによって、わたしたち自身の心と精神( minds and hearts )が形成されて行くのです。

 

聖性と祈りの新しい模範6人

歴史を通して、教会が最低の状態に陥る時代にはいつも、神は、教会を真の使命に立ち戻らせるために多くの聖人を世に現します。それはあたかも、このような暗黒時代にあってこそ、キリストの光が一層明るく輝くかのようです。わたしたちはいま、このような時代の一つを生きています。そして主はこの世界に今も聖性と祈りの模範を現してくださいます。

この日曜日、ベネディクト 16 世は 6 人の新しい聖人を聖ペトロ広場で列聖します。繰り返したゆまず祈ることの大切さを語るこの日の福音物語は、これらの素晴らしい人々によく当てはまります。

 

新しい聖人たちは:

福者 メアリー・マッキロップ、 1842-1909 、オーストラリアの最初の聖人であり、聖心の聖ヨセフ修道女会の創設者。

 

福者 スタニスラウ・ソルティス・カジミエチェク 1433-1489 、ポーランド生まれの ラテラノ司教座聖堂参事会員。 説教師、聴罪師として著名。

 

スペインの福者 ユアナ・ヨセファ・シピトリア・バリオラ 1912 年帰天、イエズス孝女会の創設者。

 

イタリアの福者 ジュリア・サルツァーノ 1846 1929 聖心のカテキスタ修道女会創立者。

 

福者 カミッラ・バッティスタ・ヴァラーノ 1458 1524 、イタリアの聖クララ会修道女。

 

福者 アンドレ・ベッセッテ カナダの聖十字修道会。 1845 8 9 日、 モントリオール郊外の貧しいフランス系カナダ人の家庭に 生まれ、 1937 にモントリオールで死去。

 

これらの聖なる男女は、神の言葉に忠実に生き、絶えず祈り、典礼に熱心に与り、聖体と秘跡から力を受け取り、人々に対しては、思いやりに満ちた愛、優しい援助の手、苦しみに耐える力、貧しい人への献身的な奉仕を通して、その信仰を実践しました。

 

彼らは、自分の日常生活の中に神の御旨が行われることを受け入れました。主は、彼らの迷い、力、人間的な弱さを使って、教会を一つに結ぶ働きをなさいました。イエスのために彼らがしたことは全て、きわめて積極的で、希望と勇気に満ち、率直でした。彼らの積極的な信仰と、あくまでもイエスに従う姿勢は、どの時代においても召命を受けた者の模範になるものです。

 

「少なくとも、彼はどのように祈るかをよく知ることだろう」

ここで、しばらくブラザー・アンドレの生涯について話させて下さい。修道会が、この若い聖職志願者の最初の誓願を許可しない方針だと知ったとき、彼は、モントリオールの司教を探し出し、「わたしのただ一つの望みはこの謙遜な業で神に仕えることです」と訴えて、聖十字架修道会の上長への執り成しを願いました。

 

司教は彼の願いに深く心を動かされました。修道会の上長は態度を和らげて、アルフレッド(彼の本名)に 聖十字架修道会 の修道士としての誓願を許可しました。 1874 2 2 日、上長から彼 の修道名として「アンドレ」が与えられました。ブラザー・アンドレを 在俗修道士 として受け入れたとき、修練長はこう書いています。「もしこの若者が働くことができなくなっても、少なくとも、どのように祈るかをよく知ることだろう。」

                                                                                       

ブラザー・アンドレが司祭叙階ではなく、在俗修道士となる召命を受けたことは、彼が祈りに忠実であり、その祈りを貧しい人のための活動の実践へと発展させたことの優れた証しです。彼は、子供のように、また年若い信者のように、熱意と根気と喜びのうちに祈る方法を知ったので、人々に対しても、神の御旨に心を開きながら、確信と忍耐を以て祈るように促すことができたのです。

 

彼は人々に、癒しへの道を歩むためには、信仰と謙虚さに身をゆだね、ゆるしの秘跡を受け、教会の秘跡に立ち戻ることが必要だと説きました。病人に対しては、医者の手当てを受けるようよう励ましました。彼は苦しみをキリストの苦難と共に味わうことに価値を見出しました。彼はまた、心から他人の悲しみを共有しながら、喜びに満ちた性格と優れたユーモアを失いませんでした。時には、訪れた人たちが悲しみを語るのを聞きながら、共に涙を流すこともありました。彼が奇跡の働き手として知られるようになっても、ブラザー・アンドレは「わたしは無価値な人間です―神の御手の道具、聖ヨセフに仕える卑しい道具に過ぎません。」と言い続けました。

 

大人になっても、ブラザー・アンドレは背が低く、 5 フィート(約 1.54 メートル)しかありませんでした。

しかし彼は、祈りと信仰と霊性の巨人でした。彼の影は今も力強くモントリオールとカナダの上を覆っています。彼は、信仰と愛によって達成できるものをわたしたちに示します。謙虚な雑役夫 (訳注:それが彼の仕事だった) の言葉です。「画家が最も美しい絵を描くときには、最も小さな絵筆を使うのです。」

 

ブラザー・アンドレは、生涯を通して神の御旨を探し、求め、確かめ続けたので、何百万人もの人々のために、自分の心と、教会の扉を開くことができました。この世の生活では、彼はモントリオールの雑役夫でしたが、いまでは、天上の特別な門番の一人です。彼は、すべての人を主その方として迎えることの大切さを教えてくれます。

 

教皇ヨハネ・パウロ 2 世は、以前彼についてこう述べました。「わたしたちは福者 アンドレ・ベッセッテ に敬意を表します。彼は、祈りの人、貧しい人の友、本当に驚くべき人です・・・(中略)いつの時代にも聖霊はそのような謙遜な福音の証し人を世に現し、その人たちはものごとを逆さまにひっくり返すのです。」

 

出エジプト記 17:8-13 の中のアロンとフルのように、わたしたちが祈りに疲れたときに、新たな聖人の メアリー , スタニスラウ , ユアナ・ヨセファ , ジュリア , カミッラ、 そして アンドレ が、わたしたちの手と腕とを支えてくれますように。そして、わたしたちがイエスの友となり、この世で福音の誠実な証し人になれるよう、助けてくれますように。

 

◇◇◇

 

聖書朗読

 

出エジプト 17:8-13 : (アマレクとの戦い) 17:8 アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、 17:9 モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」 17:10 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。 17:11 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。 17:12 モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。 17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。

 

2 テモテ 3:14-4:2 : (最後の勧め) 3:14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。 3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

 

ルカ 18:1-8 : (「やもめと裁判官」のたとえ) 18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

  18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 

God Will Vindicate His Chosen Ones

Biblical Reflection for 29th Sunday in Ordinary Time C, By Father Rosica, CSB

 

TORONTO, OCT. 12, 2010 Zenit.org .-

Luke depicts Jesus at prayer right from the beginning of the Gospel. Prayer becomes one of the ways by which we follow Jesus. Luke's story of Jesus begins in the context of Jewish prayer in the Temple at Jerusalem, when Zechariah is told that his prayer has been heard 1:13 .

 

The texts of the Infancy Narrative are beautifully woven together around the prayers of Zechariah, Mary, Simeon, Anna, angels and shepherds. So many of the major moments of Jesus' life are linked with prayer occurring either before or after the events: at his baptism 3:21 ; before the choosing of the Twelve 6:12 ; at the Transfiguration, the Last Supper, and even unto death on the cross. In each prayerful moment, Jesus lives out the story of God's great dialogue with the human family by remaining totally open to the power of God.

 

Luke tells us that Jesus sometimes prayed all night 6:12 , and some ancient texts say of his praying on the night of his arrest: "And being in an agony he prayed more earnestly; and his sweat became like great drops of blood falling down upon the ground" 22:44 .

 

Luke insists on the importance of prayer for the Christian life. We must pray unceasingly, for prayer is a sign of our faith in God. Prayer is not something that we use to put pressure on God to get our own way. Authentic prayer opens us up to the action of God's Spirit, bringing us in line with God's desires, and making us into true disciples, obedient to Jesus and to the Father who has sent him.

 

Two parables on prayer

In today's Gospel, we find the first of two parables on prayer that conclude the Lukan travel narrative. It is most likely that the two parables existed separately and in other contexts. The first 18:1-8 teaches the disciples the need of persistent prayer so that they not fall victims to apostasy v. 8 .

The second 18:9-14 condemns the self-righteous, critical attitude of the Pharisee and teaches that the fundamental attitude of the Christian disciple must be the recognition of sinfulness and complete dependence on God's graciousness.

 

Verses 2-5 and 10-13 are the parables proper. Luke has joined the two parables because they both deal with the subject of prayer. Yet on closer reading, it is evident that both parables are about God's vindication, i.e., God's upholding, justifying, exonerating and confirming.

 

According to the first parable, which is today's Gospel 18:1-8 , God will soon vindicate his chosen ones, but in the second parable, it is not those who think of themselves as chosen or holy who are vindicated but those who confess they are sinners. This placing of seemingly contrasting stories back to back vindication of holy ones/vindication of sinners recalls a previous structure in Luke.

In Chapter 7, Luke moved directly from a story about Jesus and "a woman of the city" to a report in Chapter 8 about Jesus and women who participated in his ministry 8:1-3 . Again in Chapter 10, Luke joined two stories, one that said in effect "Go and do likewise" the Good Samaritan and the second story set in Bethany, "Sit quietly and listen to the Master" Martha and Mary .

The judge and the widow

By means of the parable of the judge and the widow an image of helplessness in that culture, easily victimized by the powerful , Jesus assures his followers that God "will vindicate them quickly" 18:8 . This parable is very similar to the parable of the friend at midnight 11:5-8 . As in the parable of the steward caught cheating, today's lesson involves a person not of commendable character. The movement of the parable is from the lesser to the greater: If a cruel judge will give way to the unrelenting pressure of the widow, how much more will God listen to the prayers of his holy ones?

 

Both parables in Luke 18 present prayer as continual and persistent, hurling its petitions against long periods of silence. Prayer means asking, seeking, knocking and waiting, boundless trust and patience. Those who pray sometimes become frustrated and angry that their supplications are not heard. Yet life in the Christian community is possible only through a life of prayer. The surprising thing about prayer is that its first effect is in us. Our own minds and hearts are shaped by prayer as we seek opportunities to translate that prayer into practice, the true test of its authenticity.

 

Six new exemplary models of holiness and prayer

At the times throughout history when the Church hits its low points, God raises up tremendous saints to bring the Church back to its real mission. It's almost as if in those times of darkness the light of Christ shines ever more brightly. We are living through one of those times, and the Lord continues to raise up exemplary models of holiness and prayer for the world.

This Sunday, Benedict XVI will canonize six new saints in St. Peter's Square. The Gospel story of the day, which recounts the necessity of continual and persistent prayer, summarizes very well each of these remarkable individuals.

 

The new saints are: Blessed Mary MacKillop, 1842-1909, Australia's first saint and founder of the Sisters of St. Joseph of the Sacred Heart.

 

Blessed Stanislaw Soltys Kazimierczyk, a Polish-born member of the Canons Regular of the Lateran, who lived 1433-1489. He was famous as a preacher and confessor.

 

Blessed Juana Josefa Cipitria Barriola of Spain, who died in 1912 and was the founder of the Daughters of Jesus.

 

Blessed Giulia Salzano, the Italian founder of the Catechetical Sisters of the Sacred Heart of Jesus, who died in 1929.

 

Blessed Camilla Battista Varano, an Italian Poor Clare, who lived from 1458 to 1524.

 

Blessed André Bessette, Canadian Holy Cross Brother who was born into a poor, French Canadian family outside of Montreal on Aug. 9, 1845, and died in 1937 in Montreal.

 

Each of these holy women and men based their lives on God's Word, prayed unceasingly,

immersed themselves in the liturgy of the Church, drew strength from the Eucharist and the sacraments, and put their devotion into practice through compassionate loving, gentle and shepherding, patient suffering, and generous service of the poor.

 

They allowed God's will to be done in their lives on a daily basis. The Lord worked through their doubts, strengths and human weaknesses to unite the Church. Their action on Jesus' behalf was all very positive, hopeful, courageous, and straightforward. Their active faith in him and their decisive following of him are the unchanging quintessence of the Church's vocation.

 

"At least he will know how to pray very well."

Allow me to pause for a moment on the life of Brother André. When the young postulant learned that his religious community was thinking of not allowing him to make his first profession, he sought out the bishop of Montreal and begged him to intercede with the Holy Cross superiors, saying, "My only ambition is to serve God in the most humble tasks."

 

The bishop was deeply moved by his plea. The superiors relented and admitted Alfred to vows as a consecrated brother of Holy Cross. On Feb. 2, 1874, Bessette's religious name, André, was conferred on him by his superiors. The novice master, upon accepting Brother André as a lay brother, wrote: "If this young man becomes incapable of working, at least he will know how to pray very well."

 

Brother André's vocation as a religious lay brother, and not an ordained priest, is a remarkable witness of fidelity to prayer and putting that prayer into action with the poor. Because he learned how to pray with fervor, persistence and joy as a child and young religious, Brother André was able to urge people to pray with confidence and perseverance, while remaining open to God's will.

 

He admonished people to begin their path to healing through commitments to faith and humility, through confession and a return to the sacraments. He encouraged the sick to seek a doctor's care. He saw value in suffering that is joined to the sufferings of Christ. He allowed himself to be fully present to the sadness of others but always retained a joyful nature and good humor. At times, he wept along with his visitors as they recounted their sorrows. As he became known as a miracle worker, Brother André insisted, "I am nothing ... only a tool in the hands of Providence, a lowly instrument at the service of St. Joseph."

 

As an adult, Brother André stood just five feet tall. But he was a giant of prayer, faith and spirituality, whose shadow still hovers mightily over Montreal and Canada. He shows us what can be achieved through faith and love. In the humble porter's own words, "It is with the smallest brushes that the artists paint the most beautiful pictures."

 

Because Brother André never ceased seeking, knocking and discerning God's will in his life, he was able to open the doors to his own heart and to the church for millions of people. In life he was Montreal's porter and now he is one of heaven's special gatekeepers. He teaches us the importance of greeting each person as the Lord himself.

 

Pope John Paul II once said of him, "We venerate in Blessed Brother André Bessette a man of prayer and a friend of the poor, a truly astonishing man. [...] In each age the Holy Spirit raises up such humble witnesses of the Gospel, who turn things topsy-turvy."

 

Like Aaron and Hur in the Book of Exodus, may Sts. Mary, Stanislaw, Juana Josefa, Giulia, Camilla and André support our hands and arms when we grow tired in prayer Exodus 17:8-13 , and help us to become friends of Jesus and faithful witnesses of the Gospel in our own day.

 

 

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